セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

偽書のススメ6:さらば富士王朝。延暦噴火だ緊急避難せよ坂上田村麿。

f:id:sekihotu:20190216233727p:plain
富士王朝とウガヤ王朝は夏至レイラインで結ばれる。
www.sekihotu.com

2019,3,3

まさに日本の天地がひっくり返った瞬間である。

前記事の続き。何度も危機を乗り越えてきた富士王朝であったが、とうとう有名な火山期の始まり『延暦大噴火』を迎える。

平安時代・桓武天皇の代(800年)。富士王朝の大宮司や諸神官一行・349名は伊勢神宮を参拝し、その足で新都『平安京』を見物していたという。
一方で富士王朝留守番役は応仁天皇26世孫・太田真長と武内宿彌30世孫・羽田宗治。暴風が続くため富士七廟の御神霊や御宝物を宝庫に納匿していたという。その最中、いきなり富士山が大噴火したという。
まず桓武天皇は平安京にいる富士王朝神宮一方300余名を保護し、征夷大将軍・坂上田村麿を現地入りさせた。
一部には富士王朝一行を留まらせて、その隙に富士王朝を鎮圧したという説もある。…いや、そんな余裕はなかったのであろう。富士王朝側も京都側も為す術もなく右往左往していたような状態だ。大自然の脅威を前に謀略など無意味だろう。歴史上これ程の大天災を利用した侵攻など聞いたことがない。何よりも歴代天皇は自然災害を『祟り』の様に恐れていたわけで、現代人とは感覚がちがう。富士王朝への強制介入があったとしても当面の様子を見なければ動けなかったろう。例えば雲仙普賢岳噴火の動画をYouTubeで見てほしい。一瞬にして火砕流が人里に襲いかかるのである。弱体化した王朝とはいえ、そんな状況下で侵攻できるだろうか?。
この時、阿祖山太神宮はじめ七廟の多くが、焼失あるいは埋没したようだ。その後もセノ湖(うみ)が三分化され魚類は死滅した。村は溶岩に押し出され、樹海と没す。それでも噴火は断続的に続き最終的には数百年に亘る大災害であった。
刻々と挙げられる被害報告は、まさに現代の地震津波ニュース。当時の緊迫感が感じ取れた。おそらく災害は今も昔も変わらないだろう、こんなliveな古文書は初めてだ…。

f:id:sekihotu:20190303131518p:plain
宮下文書によると、サルタヒコ子孫が与える影響は大きい

坂上田村麿の正体。道祖神サルタヒコ子孫。

それを避難誘導させたのが征夷大将軍・坂上田村麿である。一説には彼は渡来系とも言われているがサルタヒコの子孫だ。宮下文書曰くサルタヒコはニニギ外寇親征の役では先頭に立ち、高天原から四方諸州に道路を整備した『道祖神』といわれる。
翌801年、坂上田村麿により京都視察をしていた大宮司はじめ富士王朝一行は福地山行満寺の出張地、東相模国高座に移住させられた。
そして七廟一社・寒川大明神からクニサツチ・オオヤマツミ・カモサワヒメ・コノハナサクヤ・応神天皇らを分離遷座させた、これが今の相模一宮・寒川神社である。寒川比古=オオヤマツミ。寒川比女=カモサワヒメ(ナキサワメ・別雷命ともいう)。寒川二柱の子神がコノハナサクヤとなる。
寒川大明神を分離させ富士王朝跡地に残されている神社が、現在の福地八幡宮(山梨県富士吉田)のようだ。


※因みに現在の福地八幡宮にも寒川彦(オオヤマツミ)は祀られている。
※因みに寒川神社本殿裏『神嶽山神苑』に謎のお社『御祖神社』があり、察するにクニサツチのお社か?。最近まで禁足地であったが御祈祷を受ければ入園できるようだ。

姿を消した富士王朝。

西暦1083年まで噴火被害は続く。次第に富士山麓北東の富士王朝への参拝者の足も遠のき、西南にある『本宮浅間大社』(現静岡県・富士宮市)が盛況する。60代醍醐天皇はいよいよ富士王朝鎮圧に動き出す。延喜七丁卯年(907年)富士王朝の阿祖山太神宮は『先現(せんげん)明神』すなわち『浅間(せんげん)明神』と改称される。こうして現代の富士山周辺にはこの浅間神社だらけになってしまったのだ。

この後富士王朝は源頼朝、南朝、武田信玄、徳川家康と関係するのだが全国的な影響力は失墜していく。気のせいか…崇拝者であるはずの源頼朝や徳川家康はむしろ富士王朝を隠匿するような素振りをみせる。むしろ延命させるためには公に出ず、富士王朝は自ら存在を消していったのではないか。




f:id:sekihotu:20190303142207j:plain
坂上田村麿は一部機能を相模一宮・寒川神社に移転させた。

f:id:sekihotu:20190224140003j:plain
一方、寒川神社と分離した福地八幡宮。寒川比古はこちらにも残っている。

www.sekihotu.com