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偽書のススメ5:応神天皇の子孫が残した宮下文書 - セキホツ熊の謎を追え!
2019,3,3
まさに天地がひっくり返った瞬間である。
前記事の続き。何度も危機を乗り越えてきた富士朝であったが、ついに火山期『延暦大噴火』を迎える。
平安時代・50代桓武天皇の時代(800年)。富士朝の大宮司や諸神官一行・349名は伊勢神宮を参拝し、その足で新都『平安京』を見物していたという。
一方で、富士朝留守番役は応神天皇26世孫・太田真長と武内宿彌30世孫・羽田宗治が、暴風が続くため、富士七廟の御神霊や御宝物を宝庫に避難させていた。その最中、いきなり富士山が大噴火したという。
宮下文書現代語訳神皇紀曰く
『(前略)…大激震と共に福地山八方より溶岩・熱泥が押し出し、二十里四方の山間渓谷より人家初め神社仏閣に至るまで溶岩・熱泥が、或いは押し入り或いは押し破り、たちまち溶岩満流の世界になってしまった。人畜の焼死は数えきれない。諸山は赤く染まり、各湖は何れも溶岩熱泥押入り魚類は悉く死んで浮き上がった。』
まず桓武天皇は平安京にいる富士朝神宮一方300余名を保護し、征夷大将軍・坂上田村麿を現地入りさせた。
一部にはこの一行を留まらせて、その隙に富士朝を鎮圧したという陰謀説もあるが、…いや、そんな余裕はなかったのであろう。富士朝側も桓武天皇側も為す術もなく右往左往していたような状態、大自然の脅威を前に謀略など無意味だ、それに史上これ程の大天災を利用した侵攻など聞いたことがない。何よりも歴代天皇は国祖神を蔑ろにしてきた疚しさがあり、自然災害を『祟り』の様に恐れていたわけで、現代人とは感覚がちがう。もし仮に、阿祖山太大神宮への強制介入を予定していたとしても、当面動けなかったろう。例えば雲仙普賢岳噴火の動画をYouTubeで見てほしい、一瞬にして火砕流が人里に襲いかかるのである。弱体化した富士朝とはいえ、そんな状況下で桓武天皇軍が侵攻できるだろうか?。
この時、阿祖山太神宮はじめ七廟の多くが焼失あるいは埋没、それでも噴火は断続的に続き、最終的には数百年に亘る大災害に発展していった。
刻々と挙げられる被害報告はまさに現代の災害速報ニュース、当時の緊迫感が感じ取れた。おそらく災害に対する脅威は今も昔も変わらないだろう、こんなliveな古文書は初めてだ…。
坂上田村麿の正体。道祖神サルタヒコ子孫。
翌年(801年)六月一日、この救助隊300人・復旧活動を指揮したのが、かの有名な従四位上・征夷大将軍・坂上田村麿である。
そしてその被害者供養には、最澄上人も現地入りし、命を失ったすべての動植物を供養している。
この年、前述した京都視察をしていた大宮司はじめ富士朝一行は、坂上田村麿により福地山行満寺の出張地、東相模国高座に移住させられた。そして七廟一社・寒川大明神からクニサツチ・オオヤマツミ・カモサワヒメ・コノハナサクヤ・応神天皇らを分離遷座させる、これが現在の相模一宮・寒川神社である。寒川比古=オオヤマツミ、寒川比女=カモサワヒメ(別雷命)、寒川夫妻の子神がコノハナサクヤとなる。寒川大明神を分離させ富士朝跡地に残されているのが、現在の『福地八幡宮』(山梨県富士吉田)のようだ。富士朝関係社が定住を始めた場所は、ちょうど平安後期における伊勢神宮に寄進された、相模国『大庭御厨』付近であろうか?。
一般的に坂上田村麿は渡来系とも言われているが、宮下文書においてはオオクニヌシ弟・サルタヒコの子孫だ。奇しくもサルタヒコはニニギ外寇親征の役では先頭に立ち、高天原から四方諸州に道路を整備した『道祖神』ともいわれ、道案内の神として有名。
※因みに現在の福地八幡宮にも寒川彦(オオヤマツミ)は祀られている。
※因みに寒川神社本殿裏『神嶽山神苑』に存在する謎のお社『御祖神社』が、察するにクニサツチのお社。最近まで禁足地であったが、御祈祷を受ければ入園許可されるようだ。
姿を消した富士朝。
さらには、この後864年の56代清和天皇の代に、かの有名な貞観大噴火を迎え大打撃を受ける。奇しくもこの後世に清和天皇の子孫・加茂二郎義綱子孫『三浦氏』が宮下家に婿入りすることになるのだが、その記事は下のリンクにて↓。
『暫』と『源義忠暗殺事件』に潜んだ真相。富士朝・加茂次郎子孫は鎌倉幕府に貢献していた。 - セキホツ熊の謎を追え!
東奔西走した東征者氏族『清和源氏』の役割と、清和天皇の兄・惟喬親王のナゾの行動。 - セキホツ熊の謎を追え!
この噴火で富士五湖の湖形は大幅に変わり、大型湖であった『剗の湖』三湖に分断し魚類が死滅した。富士山周辺の村や道も次々閉鎖されていく。勅使として富士山表本宮浅間神社に下向していた藤原氏宗は、関係神官たちの不勤不敬がこの噴火をもたらしたと、陳謝・祈祷の徹底を命じてきたという。現代政治家にもありそうな光景である。
噴火は西暦1083年まで断続的に続き、次第に富士山麓北東の富士朝への参拝者の足も遠のき、富士朝の反対方向西南にある『本宮浅間大社』(現静岡県・富士宮市)が盛況する。60代醍醐天皇はいよいよ富士朝鎮圧に乗り出し、延喜七丁卯年(907年)富士朝の阿祖山太神宮は『先現(せんげん)明神』すなわち『浅間(せんげん)明神』と改称、こうして現代の富士山周辺神社は『浅間神社』や『コノハナサクヤ』一色にさせられる。
この後富士朝は、源頼朝・南朝・甲斐・三河と関係していくのだが、全国的な影響力はもはやなくなる。清和源氏・加茂二郎義綱子孫『三浦氏』が富士朝に合流し、宮下家に婿入りするも、北条執権の陰謀により『宝治合戦』で三浦氏が疲弊衰退。富士朝三浦残党は、新田義貞と南朝に加担して鎌倉幕府討幕させるも、北朝と対立し足利将軍家の逆鱗に触れ、富士古文書の多くが焼き捨てられたという。
宮下家は残る僅かの古文書をただひたすら隠し続け、延命させるためにはむしろ公に出さず、自ら存在を闇に潜ませたというほうが正しい。
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