セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<春日神>藤原氏が蘇我氏春日神を祀る逆転現象。 そして武蔵国からフツヌシが消え行く謎。

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富士王朝とウガヤ王朝の夏至レイライン。延長点?『井草八幡宮』。かつては春日神が主祭神として祀られていた

 2019,4,5

 春日神と春日族の国、武蔵国。

 

まず紹介したいのが、東京都府中市にある武蔵国総社『大國魂神社』。

付近は古来から霊場であり、12代景行天皇の代に創建され、13代成務天皇の代に无邪志国造・兄多毛比命が関係していたと思われる。『大國魂神社』とはこの創建時からの名称であるが、江戸期には神社名を『六所宮』に改名していた。

 

〇大國魂神社(東京都府中市宮町)

~大國魂神社祭神・現在

<主祭神>大国魂大神・御霊大神

<武蔵国内諸神>小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神。

※大国魂大神はオオクニヌシと解釈されている。諸神名は公式には伏せているようだ。推測するとセオリツヒメ・シタハル・クニトコダチ・スサノオ・オモイカネ・アマテラス・イソタケルかあたりか?。

※以降は過去の御祭神

 

~大國魂神社祭神(13代成務天皇の代)『新編武蔵国風土記稿』~

・オオナムチ(オオクニヌシ)

・スクナビコナ

・コトシロヌシ

・タケミナカタ

・タケミカヅチ

・フツヌシ

 

~大國魂神社祭神(江戸時代)『新編武蔵国風土記稿』~

〇中殿スサノオ・オオナムチ・フルノオオカミ(布留太神)

△西殿ニニギ・イザナギ・オオミヤノメ(大宮女命)

◇東殿セオリツヒメ・シタハル・ウカノミタマ 

 

『新編武蔵国風土記稿』によると、もともとは景行天皇の代に小川郷小野里にオオクニヌシが降臨した。小野郷というのは一宮・小野神社周辺の大規模遺跡、『落川・一宮遺跡』周辺と思われ、神社の原型はあくまで武蔵一宮小野神社とみる。御祭神は時代と共に変遷しており、ある意味世相を反映しているのかもしれないが、長きにわたりオオクニヌシを主祭神としている点は変わらない。現代の特徴としては『御霊大神』が祀られている。

ただここで注目して頂きたいのが、江戸時代(文化文政期1890年前後?)までは春日神の『剣神』『軍神』、フルノオオカミ(布都御魂ともいう)が祀られていたという事実である。そして春日神が消えている点にも注目して頂きたい。もともと神代武蔵国を統治していたのは、スサノオでもオオクニヌシでもシタハルでもない、フツヌシら祖家(そが)、つまり蘇我系統『祖家』の神々である。

宮下文書によると、神代にニニギによって、蘇我大伴系統であるフツヌシとタケミカヅチの子孫一族が『東国一帯守護司頭長』に任命され、神武天皇の代にフツヌシ52世孫の小夫・富佐地香取命を武佐志国造とした。ホツマツタヱにおいても、富士山以東ホツマ国(関東~東海地区)を統治していたのはフツヌシで一致している。現在の群馬県(貫前神社)~茨城県(鹿島神宮)~東京都や神奈川県(小野神社)なども、長きに渡りこの蘇我系統配下だったとみる。

 

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武蔵国内をよく見てみると、夏至レイライン上の杉並区『井草八幡宮』(上写真)や武蔵一宮『小野神社』にも『春日神』の痕跡が残されている。井草八幡宮(東京都杉並区善福寺)では、平安末期まで主祭神が春日神であったが、源頼朝による奥州藤原討伐(1189年)の折に八幡神に変更された。そもそも源氏の氏神が八幡神であり、やはり藤原氏の春日神では幕府としての体裁が取れなかったのだろう…。 

江戸時代、大國魂神社の御祭神とされていた布留太神、宮下文書比定の建雷命子孫の『布都の神剣』であり、高天原(富士朝)が神武天皇に授けた『世を司る』剣。よく知られているのは、大和国春日『石上神宮』(奈良県天理市布留町)に祀られている布都御魂大神・御神体=『布都御魂剣』である。

一般的にフツヌシ神自体が剣霊とも考えられ、古事記においてはフツヌシ=タケミカヅチの別称ともいわれる。また、宮下文書によるとタケミカヅチとフツヌシは東国統治の兄弟神とされ、東国では一つの共同体のような地盤であり、東国=ツワモノのイメージを定着させた。近年まではこのイメージが強かったらしく、宮本武蔵が『武蔵』という名に拘ったのも頷けるであろう。神武東征にフツヌシの剣が使用されたことは、各書の共通認識であり、タケミカヅチとフツヌシは常に対峙されている印象がある。 

そして江戸時代以降、武蔵総社大國魂神社の御祭神から春日神系が消えた…。

 

 

 春日神アメノコヤネ・タケミカヅチ・フツヌシは混同されている。

 

~宮下文書で解明する春日四柱とは~

・天児屋根命(藤原物部系統)

・武甕槌命(蘇我大伴系統)

・経津主命(蘇我大伴系統)

・比売神(ホツマツタヱによるとタケミカヅチ娘?)

 

~阿祖山太神宮・司長~

・天太眞祖(守護司長。玉臣?)

天児屋根命(副司長。藤原物部系統・右剣臣?)

・天太玉命(副司長。蘇我大伴系統・左鏡臣?)

 

※阿祖山太神宮とは、宮下文書におけるアマテラスが神祖を祀った大御社、司長は曽孫ヒコホホデミが任命している。

 

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春日神は藤原氏系統ではなく、蘇我氏系統。それを春日和邇氏が祀っていた?。

※因みに宮下文書において、雅武王命・建御名方命・経津主命・武甕槌尊は、蘇我系統・武勇命の四兄弟とされる。

 

宮下文書における物部氏と藤原氏は基本的に同祖であり、右大臣(軍を司る)の意味合い。モノノベ(武部)とは特定の氏族を指すものではなく、先祖代々継ぐものなので、結果的に氏族を示す言葉に変化したとみられる。右臣は天児屋根命→大政守命→武頭守主命→大物主命と続き、つまりはアメノコヤネの子孫が『大物主』となり、地祇系や三輪氏とは根本的に無関係であることが浮き彫りになる。注意すべきは、右臣=軍神と書いたが、左臣蘇我系統にもタケミカヅチやフツヌシのような軍神はいたわけで、一概には言えない。地域同盟関係や状況にもよるのだろう。

このように、渡来系に融合された三輪氏をはじめとする複数勢力が、『モノノベ』『大物主』のブランドを乱用していた感があり、その集大成の改竄書がホツマツタヱである。

 

では、蘇我系統と藤原系統に一体なにがあったのか…?。宮下文書とホツマツタヱを合体させて考えてみる。

 景行年間には大きな政変があり、蘇我系統と藤原系統による前述した左右両臣システムも終焉を迎えたとみる。宮下文書でも12代景行天皇以降の記述が途絶えており、もう富士朝が与り知らぬ政権に激変していく様子が伺われる。この政変に対しては多くの地域から不満が噴出したとみられ、東国蘇我系統タケミカヅチとフツヌシ子孫が富士朝と結託して、12代景行天皇勢力に反抗した。

天皇勢力はヤマトタケルと吉備武彦命(藤原物部系統)と大伴武日(蘇我大伴系統)を派遣し東征。そのまま富士朝を抑えて、東国の『奥』(おそらく東北)に攻めて入る。

ここで西国蘇我系統が東国蘇我系統を抑えると、それは単なる同族間争いになるので、完全鎮圧の確認が疑わしい。故に、藤原物部系統が東征と鎮護を引き受け、西国蘇我系統はこれに同意せざる得なくなった。

こうして戦後、『軍神』の性質が強いタケミカヅチとフツヌシの祭祀権と領土権は藤原物部系統に移管されたようだ。以降、蘇我春日の地に、藤原祖神アメノコヤネを中心とした『春日神』という名称が生まれ、タケミカヅチとフツヌシは蘇我祖神としてのアイデンティティを失ってしまわれた…。

これが全国にある、蘇我大伴系統と藤原物部系統の捻れ現象の発端とみる。

 

~ホツマツタエ16文~

ほつまくに をさまるのちに

ふつぬしの かとりのみちお

ことことく こやねにさつけ

かくれます かしまのみちの

おくもみな こやねにさづく

かすがとの たまかえしなす

おくのりも こやねにさつく

このゆえに よものまつりも

おのづから ひとりにつけり

かしまみち…。

 

その後646年大化の改新前、藤原(中臣)氏が蘇我氏を滅ぼす。藤原氏が春日神を祀りだしたのが710年。御蓋山・春日大社(奈良県奈良市春日野町)創建が768年である。

そして古事記が712年、日本書紀が720年発行…蘇我氏繁栄の痕跡自体が抹消される。

 

春日大社に蘇我氏の影、史実確認のため藤原不比等は富士朝を訪れていた?。 - セキホツ熊の謎を追え!

蘇我氏三代が、天皇家や藤原(中臣)氏にとっての脅威になったというのは教科書通りだと思う。しかし新興勢力『蘇我氏』三代で終わったというのは間違い…、この蘇我氏、想像以上に古い大勢力だった。有史以来、日本の根幹をなす政治一家『祖家』、立后し皇女を迎えるくりかえし、裏天皇家と呼んでも過言ではないだろう。どうやらこの蘇我氏の正当性を隠すために『欠史八代』は生まれたようなのだ。

 

次回に続く。

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