2019,5,26
そもそもオリジナル出雲『天獄』とは存在したのだろうか?
これから後記事にて『出雲国』について触れる予定なので、先に宮下文書における出雲考察を纏めたい。
宮下文書における天つ日嗣アマテラスの時代。
タカミムスビの曽孫、つまりアマテラスのはとこの『多加王』が1300余引き連れて高天原富士山に攻めてきた。宮下文書には多加王勢力出身地までの記載されてないが、彼の叔父『金劔清(金山毘古命)』から察するに中国大陸や朝鮮半島の可能性が高い。これを高天原軍として応戦したのが、アマテラス従弟のオオクニヌシとサルタヒコ、その間アマテラスは付近の石窟に籠ってしまった。
タヂカラオが多加王を捕らえ、これをオオクニヌシが説得工作した。アマテラスを石窟から救出すると皆が歓びサルタヒコが鳴木を叩き、アメノウズメが踊った…。
図①宮下文書による神代家系図。
そう言われてみれば、信州ではスサノオの痕跡が残っている…。
オオクニヌシとタヂカラオは多加王を阿祖北(飛騨~信州~越前越後)の山陰に追放する。この地は不二山の悪雲が吹き出してくる方角にあたることから出雲国と名づけられた(祖佐記)。
多加王はそこで心改め、金劔清とタヂカラオとともに『室雲の剣』『宝司の玉』『八太羽の鏡』を製作し、富士朝高天原の宗廟太神宮に納め、四海の荒振る悪神を平定する。
タヂカラオは左大臣の家系で諱テナツチという、タヂカラオ嫁が諱アシナツチ、娘のイナダヒメ諱ヤサカヒメを多加王の嫁とした。
多加王の娘がミホツヒメ(出雲毘女命)とタクハタチヂヒメ(雲津毘女命)であり、ミホツヒメは丹波一宮・出雲大神宮(京都府亀岡市千歳)にて『出雲大神』として祀られる。そして多加王(八佐加毘古命)は祖国を佐け治めたとして諱・祖佐男命(スサノオ)を賜る。
但し、厳密にいうとミホツヒメ(出雲大神)はスサノオの『女』とだけ書いてある。これが稲田毘女の娘を指しているのかは不明。
一般的に、現在信州で語られている伝承は、スサノオ地祇系タケミナカタ親族としての側面が多いワケだが、宮下文書を読んだあとでは長野県に対する印象がガラリと変わる(笑)。うーんそういわれてみれば…、スサノオの痕跡も結構あるなあ~と。思い当たる節がボロボロ出てくるのだ。
〇例えば諏訪大社上社などで、タケミナカタ配偶者として祀られている八坂刀売神(ヤサカトメ)とは、一体どういう存在なのだろうか?。いずれにせよ宮下文書の八佐加毘女命(ヤサカヒメ)とは稲田毘女(イナダヒメ)のことらしい。
〇例えば長野県諏訪市内には手長神社や足長神社がある。また市内の『先宮神社』(長野県諏訪市)には、諏訪明神以前の国神が祀られているという説がある。
〇例えば、長野県長野市豊野町に『伊豆毛(いずも)神社』という古社がある。御祭神がスサノオとオオクニヌシ。長野市泉平『素桜神社』にはスサノオの植えた神代の桜伝承がある。
〇神仏習合時代の善光寺(長野県長野市長野元善町)を守護していたのが善光寺七社、神道上の神々であることが有名。この七社には入らないものの、善光寺に一番近い神社がスサノオを祀る弥栄神社(長野県長野市大字長野)。1196年源頼朝による勧請、のちに天王社と呼ばれていた。
〇明治維新の廃仏毀釈の折、真っ先に標的にされたのが当時『戸隠山顕光寺』であり、のちの『戸隠神社』(長野県長野市戸隠)であった。現在の御祭神はタヂカラオ・タクハタチヂヒメ・九頭竜他である。江戸時代には、徳川幕府に手厚い保護を受けてきた顕光寺だが、廃仏毀釈の際には、僧侶たちが近くの善光寺などに助けを求めたという。寺であることを理由に貴重な文化遺産は壊滅させられ、戸隠されてしまったわけだ。
※因みにホツマツタヱにおける九頭竜モチコは、スサノオと不倫関係にあった。
あくまで結果論だが、信州にもスサノオ信仰の痕跡が結構あるのだ。
そして宮下文書版タケミナカタは、フトダマの曽孫(蘇我系統)でタヂカラオとは遠縁。もともと富士朝ロイヤルガード的存在、鹿にまたがり富士王朝周辺を警護していたという。また宮下文書では『北中国守護司頭長』としての経歴もあることから、『国譲り』神話上で地祇系出雲神とされていた理由も見えてくる。また国譲りで、タケミナカタを諏訪に追放したとされるタケミカヅチとフツヌシは、実は兄弟で、東国一帯守護司頭長となる(上家系図参照のこと)。
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…では現在語られている『出雲』と『国譲り』とは何なのか?
そもそも日本原始、富士山を中心に日本列島を四分割『四季島』統治し、阿祖北(越と信州)と阿祖西(現在の中国地方)はクニトコダチ勢力下であった。クニトコダチ夫妻は出雲大神宮(京都府亀岡市)付近で崩御し、阿祖北から派遣されたスサノオの娘?ミホツヒメがこれを祀り祭事を行った。こうして国祖クニトコダチと妻カミサカヒメは豊受大神として祀られた。
~宮下文書曰く~
『出雲毘女命を田場(丹波)国の真伊原の桑田の宮に招いて、豊受大神の宮の守護をさせた。』
ミホツヒメは、現人神と称えられるほどの温厚な性格で人格者で、ミホツヒメ自身も丹波山(御影山?)にて出雲大神として祀られた。これを後世に中国地方に御霊分けしたものが現・出雲大社とみる。現代の丹波一宮・出雲大神宮は神社庁に属さない単立神社、Wikipediaによると出雲大社の『元出雲』の伝承が残り、江戸時代まで出雲と言えば出雲大神宮を示していたと主張している。
宮下文書におけるアマテラスの御宇、陰長波(イナハ)の小名として『出雲』が登場、『出雲』の地名自体は各地に複数点在する地名であったのかもしれない。
神武天皇の代に三輪、鹿島、阿蘇を三大本営大本陣とし、その下に三十六ヵ所の副本営副本陣を定めた。そのうち二か所が三穂津の宮(田場田)と出雲の宮(出雲野の杵筑)であり、この頃から出雲=中国地方が定着しはじめたのかもしれない。
そもそも現・出雲大社の古称『杵築(きづき)』とは、当時の裁判所機関である『天獄』の意味を持ち、全国から神々が集い刑罰を決めていた。信州出雲にて『木』『竹』で『きちく』の大宮を築いたのがきっかけ、これが中国地方渡来系を見張る出先機関として陰長波(イナハ)に駐在していたとみる。現在出雲にて語られている、全国から神々が集う『神在月』の伝承はここからきているのであろう。
スサノオの拠点は阿祖北信州?とみる、オオクニヌシの拠点は遠久見(遠州)の神であり後世に徳川家康の崇敬を受けている。
下図は出雲の変遷順
①阿祖北出雲?
↓
②丹波一宮・出雲大神宮
↓
③現・出雲大社
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前述のように罪人であったスサノオは、阿祖北出雲にて改心し、オオクニヌシの監視のもと全国で警察活動或いは裁判活動をした。オオクニヌシはスサノオのはとこ、さらに後見人のような存在とみる。スクナビコナもコトシロヌシもタケミナカタも、それぞれタカミムスビを通じてのスサノオと遠縁ではあるが、直系ではない。さらにスサノオやオオクニヌシは中国地方とは直接の関係はない。
九州ウガヤ朝51代・弥真都男王尊の御宇。中国地方は新羅(白木人)禍津亘理彦命の拠点になっていた、そして禍津亘理彦命が手を組んだのが大和国に陣取るナガスネヒコである。ウガヤ52代にあたる神武天皇東征の本当の目的とは、このナガスネヒコ勢力を鎮圧することであった。同時並行的にタケミカヅチとフツヌシ子孫勢力の東国軍団らが、日栄山(おそらく比叡山)にて禍津亘理彦命を撃破した。神武軍はそのフツヌシ『布都の神剣』を富士朝高天原より授けられ、ナガスネヒコを撃破する。
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このような経緯から、中国地方は犯罪者の土地扱いされていた。少なくとも『欠史八代』は保守政権が続き、渡来系出雲は厳重に警戒されていたはずで、このとき警察機関『出雲』が当地に駐在監視していたとみる。しかしながら11代垂仁天皇の代に出雲国罪囚500人、徒党して諸国に乱入、三年越しで逮捕死刑に処した。
なおホツマツタヱにおいても、サホコ国・チタル国(山陰・中国地方)は、ヤマタノオロチや九頭竜など混乱の元凶の地として描かれている。
宮下文書的解釈で考えてみれば、現在の出雲大社オオクニヌシは三輪氏祖であり、神武東征の『罪人』を見張る立場であった。つまり、もともとは三輪氏が渡来系出雲監視をしていたが…その後、渡来系に懐柔されスサノオ子孫を自称していく。12代景行天皇の御宇に成立したホツマツタヱでは、スサノオ・オオクニヌシ・コトシロヌシ・タケミナカタはすべて三輪氏族地祇系統の直系とされ、この時代から三輪氏がおかしくなってくる。今ある出雲神話は、後世に記紀や出雲国風土記やホツマツタエや三輪氏などが出鱈目に付会させたものだとみる。
個人的にこの渡来系出雲は、後世に同じ渡来系勢力である邪馬台国勢力と同盟関係となるのではないかと妄想している。邪馬台国有力候補地の纏向遺跡で三輪氏と繋がり、三輪氏がスサノオ親族と仮冒していく。各地の渡来系勢力は着実に増長し、中央政府に圧力をかけて『倭国大乱』『邪馬台国』の流れとなるとみる。
つまり出雲『国譲り』とは、10代崇神~12代景行年間ころに起きた政変ではないかと推測できる。
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全国各地の『出雲』の痕跡とは何なのか?
それでは同じく、出雲祖神として有名なアメノホヒ勢力とは何なのか?。改めて疑問が出てしまった…。
例えば武蔵国には、アメノホヒ子孫の出雲族エタモヒが土着してきたという伝承がある。宮下文書には、残念ながらアメノホヒや武蔵国造エタモヒの記載がない。しかしながら武蔵国内アメノホヒを祀る『鷲宮神社』(埼玉県久喜市鷲宮)の御祭神をみると、この出雲大神宮の影響下であることが判る。武蔵国内に入り込んだといわれる出雲族とはこの出雲大神宮、丹波国勢力なのかもしれない。
つまり各地で一言『出雲族』と言っても、時代により出身も中身も違う可能性も出てくるわけだ。宮下文書ベースで考えれば『出雲』は転々としており、信州の出雲族もいるだろうし、丹波の出雲族もいるわけだ。現に宮下文書自体『出雲国』は時代により曖昧化されており、前述のように神武年間には陰長波(イナハ)に移っていたと思うが、渡来系出雲族の台頭により阿祖北出雲の存在は消されていく感が否めない。
中国地方渡来系権力者からすると先住民の栄光は目障りでしかない。自分たちを虐げてきた警察活動の黒歴史なわけだから…。
また全国にある『真名井伝承』もホツマツタエの時代に付会で作られたと思われる。
ホツマツタヱにおいてサホコ国マナイの土地は、トヨケ(豊受大神)と孫アマテルの聖地として描かれている。
前述のように宮下文書では、クニトコダチとカミサカヒメ夫婦の二柱合わせて『豊受大神』といわれる。クニトコダチ勢力が海外から日本へ渡り、分佐(ワカサ)→稲場→田路場(タジバ)→針美(ハリミ)と移住する過程において、最終的に阿祖北と阿祖西を統治し、田場(丹波)にも愛着があったであろう。最終的には田場山(出雲大神宮御蔭山?)真伊原にて埋葬された。そのような経緯から豊受大神由来の『真伊原』=『真名井』ができたのではないか?。
つまり元伊勢とは元出雲にルーツがあり、現在の『伊勢神宮』が『出雲大社』と対比されている理由も見えてくる。
…ところで御穂須須美命とは誰なのか?
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前記事にて紹介した富士山~高千穂峰の『夏至レイライン』上に、津久井中野神社という興味深い神社があるので紹介する。ミホススミとタクハタチヂヒメとトヨウケヒメとスサノオを祀る神社だ。存在感たっぷりの赤大鳥居と、境内社のにぎやかな雰囲気が好きで、道志みちへ出るときはよく立ち寄る。昭和文化に癒される。
〇津久井中野神社(神奈川県相模原市緑区中野)
~御祭神~
・御穂須須美命
・豊宇気比売命
・𣑥幡千千姫命
~境内社~
・素戔嗚尊
・天照大御神など複数社
鳥居には『正一位諏訪大明神』の神額があり、かつてはタケミナカタが祀られていた形跡があるという。戦国時代当地は、武田勢力と北条勢力の中間点にあり、時として武田勢力御祭神タケミナカタを伏せる目的として、ミホススミを装いカムフラージュしたという説が有力である。また『出雲国風土記』においてミホススミは、オオクニヌシ子神であり、故にタケミナカタではないか?という説に至るわけだが…。
ただ何度も言うが、宮下文書解釈では、そもそもスサノオ地祇系は存在しなかった。
では宮下文書的に、ミホススミは誰なのか?
あくまで個人的妄想を言えば…、この御祭神構成であればミホススミ=ミホツヒメが自然ではないか?と思うのだ。スサノオの娘でありタクハタチヂヒメと姉妹となる出雲毘女命である。つまりこの神社はスサノオファミリーを祀る神社であり、むしろミホススミやタクハタチヂヒメが、スサノオの娘であることを隠しているのではないかと…。
前述した長野県諏訪市にある『先宮神社』のように、諏訪大明神以前のスサノオ信仰をタケミナカタで隠された可能性もある。
※因みに。最近知ったのだが、中野神社東隣に小さな神池と『厳島神社』がある。むかしこの弁財天に願掛けし成功した地元商人が、弁財天社を新築した直後死んだとされる。世間的にも弁財天の祠やお社は、いじくると祟られるという伝承があるらしい…。
個人的には、お辞儀だけして、そーっと立ち去る…。
※地図はクラフトマップ使用。