セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<レイラインの美学⑥>元出雲と日本総社の真実。出雲大神宮と津島神社と富士山は繋がっていた。

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2019,6,23

クニトコタチとクニサツチの宮下文書二大拠点を結んでみる。

前記事『スサノオ重心点レイライン』にて古代出雲について考察したが、今回は出雲陽大社といわれる尾張国『津島神社』について触れる。

・陽大社(津島神社)

・陰大社(阿祖北の出雲)

なんと富士山と津島神社と出雲大神宮は、一本のレイラインで結ばれるのだ。しかし今となっては、宮下文書でも読まない限り、誰もその重要性に気付けないであろう…。眠れる巨人のレイラインとでもいおうか(笑)。

 宮下文書によるオリジナル出雲『天獄』は何処に存在していたのだろうか? - セキホツ熊の謎を追え!

<レイラインの美学④>スサノオ『重心点』レイライン。信州になにやら巨大拠点の痕跡。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

~富士山出雲大神宮レイライン~

・横浜・港の見える丘公園(神奈川県横浜市かつての武蔵国久良岐郡)

・比々多神社元宮(神奈川県伊勢原市・トヨクムヌ・タマノオヤほか)

・富士山(山梨県/静岡県)

・伊豆神社(大きく南にズレ・長野県下伊那郡)

・守山城跡(愛知県名古屋市)

・名古屋城(愛知県名古屋市)

・津島神社(愛知県津島市・別名『日本総社』・牛頭天王信仰)

・多度大社(大きく南にズレ・三重県桑名市・アマツヒコネ)

・猪毛利谷神社(三重県いなべ市・伊香色男)

・大皇器地祖神社(滋賀県東近江市・惟喬親王)

・惟喬親王御陵(滋賀県東近江市)

・津島神社小祠(滋賀県東近江市)

・太郎坊阿賀神社(滋賀県東近江市・アメノオシホミミ)

・比叡山青龍寺(京都市左京区)

・長谷八幡宮(京都市左京区・惟喬親王関係社・タカミムスビ)

・上賀茂神社神山(衣笠峯・別雷命降臨地)

・愛宕神社(愛宕山総本社・豊受姫命)

・出雲山(京都府亀岡市)

・出雲大神宮(京都府亀岡市)

 

※Googleマップ線引き機能参照。メルカトル図法ではズレあり。 

そして今回、日本総社・津島神社がなぜ『尾張国』にあるのかは理解できた。



丹波と富士、日本二大拠点『出雲大神宮』の成立。

 まず東西二大拠点の主、クニトコタチとクニサツチを説明しなくてはなるまい。

宮下文書を要約すると、王タカミムスビと妃カミムスビの勢力が、海外から渡来してきた。彼らはまず息子のクニトコタチを蓬莱の国(日本)に派遣させていたが、彼からの音沙汰がないので、彼の弟のクニサツチを連れてタカミムスビ自ら蓬莱の国に赴いた。タカミムスビとカミムスビは、長い旅路の果てに蓬莱山(富士山)にたどり着くも、クニトコタチに出会う事なく崩御する。そのあと佐賀見(相模国)にてクニトコタチとクニサツチは兄弟偶然の再会を果たす。f:id:sekihotu:20190622213215p:plain

兄弟で話し合った結果、日本列島を四州(四季島)に分割させ、阿祖(富士山)を中心に阿祖北と阿祖西をクニトコタチ、阿祖東と阿祖南をクニサツチが統治することにした。前述とおり、阿祖北の信州出雲はクニトコタチの領土ということになる。後々の決めごとはおもに富士高天原に集い決定する事とした。

その後、兄クニトコタチはクニサツチと別れを告げる、『伊須礼伊出佐良場(イスレイデサラバ)』、後世この地を『伊須(伊豆)』と呼んだ。

 

クニトコタチ夫妻は、トヨクムヌとイザナミら三柱を生む。トヨクムヌは若くして崩御し、息子の阿和武男命(眞心武命)はアメノオシホミミの実父となった。アマテラスとアメノオシホミミは養子関係(従兄弟の子供)だが、両者ともにクニトコタチの遺伝子で繋がっていたことになる。

クニサツチと妃・白清龍毘女(ハクセイリュウヒメ?)は富士高天原に残る。関西圏に妃・神佐加毘女(カミサカヒメ?)を残していたクニトコタチは船で帰り、丹波国の出雲大神宮付近(京都府亀岡市)に拠点を置いた。クニトコタチ夫妻は丹波の桑田宮で崩御、二柱揃って『豊受大神』として祀られた。

~宮下文書における出雲変遷図~

①阿祖北出雲

②田場山・桑田宮出雲

③現・出雲大社

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~宮下文書曰く~

『(天照)大御神は勅命を以て出雲国杵筑宮より、祖佐男命の女、ミホツヒメ(出雲毘女)を田場(丹波)の国真伊原の桑田の宮に招いて、豊受大神の宮の守護をさせた』

桑田の宮は、スサノオの娘ミホツヒメが阿祖北(信州?)から派遣され管理していたが、亡くなると彼女自身が『出雲大神』として祀られた。宮下文書の『田場山』の比定地は不明であるが、出雲大神宮の境内東に『御蔭山』という禁足地があり、現在もクニトコタチの聖域とされている。

<レイラインの美学⑭>ウガヤ朝とタマヨリヒメをニニギが繋ぐ、欠史鎮魂のための『賀茂レイライン』。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

〇丹波一宮・出雲大神宮(京都府亀岡市千歳町)

~御祭神~

・オオクニヌシ

・ミホツヒメ

・アマツヒコネ

・タケヒラトリ

〇摂社

・スサノオ

・クシイナダヒメ

・オオヤマツミ

・サルタヒコ

〇末社

・コトシロヌシ

・スクナビコナ

など

※Wikipediaより。『丹波国風土記』逸文によると「元明天皇和銅年中、大国主神御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」とある。出雲大社(島根県出雲市大社町)は出雲大神宮から勧請されたもので、『元出雲』の通称を持ち、江戸時代末まで出雲の神といえば出雲大神宮を指していた

そして宮下文書登場『桑田宮』には、その裏付けがあるわけだ。

 

伊勢にて豊受大神に仕える巫女『斎王』とは、おそらくミホツヒメが元祖、即ち『出雲毘女』がモデルとされたのではないだろうか?。ただミホツヒメが生涯独身とは記載されていない。

さらに『真伊原』が転じて籠神社真名井伝承となったのであろう。そして伊勢外宮の豊受大神の発祥は籠神社真名井神社ではなく『出雲大神宮』であり、その正体はクニトコタチという解釈ができる。

疑問なのが豊受『ヒメ』の扱い、一般的には豊受といえば女神『トヨウケヒメ』なのである。これは『豊受大神』と同じくクニトコタチと妃カミサカヒメを指しているのか?。それともカミサカヒメだけの存在なのか?。はたまた豊受に仕えたミホツヒメのことなのか?…疑問は多く残る。

結論として丹波一宮・出雲大神宮は『出雲』を冠するものの、スサノオとの直接的関係はない。本懐はあくまでクニトコタチ信仰であったと見られ、この丹波出雲が『元伊勢』『伊勢神宮外宮』と『出雲大社』に分離させられたのだ。そして、現代神道において何故『伊勢』が『出雲』と対峙させられているのか、その一つの答えになるかもしれない。

 

丹波一宮・出雲大神宮、大国主の謎

では出雲大神宮のもう一方の御祭神、オオクニヌシはどこからやってきたのだろうか?。結論から言えば、彼はミホツヒメの父スサノオ『世直し活動』のお目付け役であり、協力者、彼はミホツヒメの夫ではない。

 

~宮下文書によると~

・神武天皇の代『小夫・丹馬但波命を丹波の国造とした。大巳貴命五十四世の孫である。』

・オオクニヌシは中国地方ではなく遠久見(遠州)を拠点としていた。子孫の三輪氏のルーツも同様

 

そもそも丹波国造として出雲大神宮にやって来たオオクニヌシ子孫が、『大国主命』を祀りはじめ、出雲大神宮からオオクニヌシを分霊したのが現・出雲大社。一方ミホツヒメを勧請したのが島根県松江市美保関町『美保神社』ではなかろうか?。『大社だけでは片詣り』とされ出雲大社と美保神社が双璧をなした背景も、結局は出雲大神宮にあるのかもしれない。これが丹波出雲大神宮が、『元出雲』とよばれる由縁というわけだ。

但し、それ以前にもオオクニヌシは中国地方にいた形跡がある。古事記『垂仁記』には11代垂仁天皇の子・誉津別命が『しゃべれない』のは出雲のオオクニヌシの祟りで、出雲参りするとしゃべれるようになったとか。

現・出雲大社の本殿では、オオクニヌシは神座が横(西)を向いており、そもそもが古来から封印されている『祟り神』的存在であったとの説もある。また鎌倉時代~江戸期寛文7年まで神仏習合の影響もあり御祭神はスサノオであった。

配祀神アマツヒコネとタケヒラトリも気になるところ。タケヒラトリはアメノホヒの息子である。13代成務天皇の代、国造として武蔵に渡り『氷川神社』『鷲宮神社』を祀った出雲臣となにか関連があるかもしれない。

アマツヒコネはレイライン近くの三重県桑名市『多度大社』の御祭神である。アメノホヒ同様に宮下文書には登場しない謎の神である。

 いずれにせよ丹波一宮・出雲大神宮は地理的に、関西圏と中国地方の橋渡し的な存在であったと思われる。

 

日本総社・ 津島神社について

〇津島神社(愛知県津島市神明町)

~御祭神~

・スサノオ

~摂社~

・タヂカラオ(戸隠社)

・八王子

など

 ※牛頭天王総本社

 

社伝によるとスサノオは朝鮮半島から日本に渡来し、荒魂は出雲(現・出雲大社?)に残し、和魂は対馬(玄界灘、旧称が津島)を経由したのち、津島(尾張国)に鎮まったという。

宮下文書によると、スサノオは朝鮮半島付近?を拠点にしてた高天原に攻めてきた、アマテラスの『はとこ』に当たるタカミムスビ子孫。出雲の司法警察機能は『陽大社』と『陰大社』を分離させられており、『陽大社』を担う津島神社は『日本総社』とも言われた。

『日本総社』の呼称では、宮下文書と津島神社の社伝が一致している。

 

~宮下文書曰く~

・『即ち、法政に背く神々、又は四方諸々の州国を初め浦々島々の諸々の盗賊、その他諸々の荒振神を、皆出雲国に追放して、同国の出雲谷の里、大洞に入れることに定めた。これを天獄という』

・『又、1,000日毎にその末の三十日間に四方諸々の州国より、天つ神・国つ神が出雲の国に集合して、諸の罪神々に亦説諭の上その罪を論、その処罰を証決することに定めた』

・『祖佐男命三十八世孫、武長刀毘古命に命じて尾羽張の入浜の津島に日本総社を置き、東南諸国の罪悪神の事を治めさせた。これより出雲大社を陰大社と言い、津島の日本総社を陽大社と呼ぶ』

・『(ウガヤ33代に)津島の宮殿に祖佐男命の御霊を祀り、津島牛頭天王神社と名付けた……出雲国の出雲谷の里にある大洞穴の天獄に四方の全ての罪悪神を集め、これを監視して説教説諭をさせた』

・神武天皇の代には天別天之火明命50世孫・尾羽張大王尾羽張明照雄命が東海惣国の元師として尾張を統治。

 

もともと信州出雲とは罪神を監視する場所であったので僻地、不便ゆえに牢獄としては扱いやすかった。しかし各州から神々が集結するには、なるべく日本列島の中心部がよかろう。出雲の司法機能を分離させた決定的理由が見えてこないが、クニトコタチ圏とクニサツチ圏で財源を分担したとの見方ができる。信州は阿祖北クニトコタチの領分で、尾張は阿祖南クニサツチの領分だ。

そして宮下文書では、この辺から出雲の所在地が曖昧にされている気がするのだが…。

古事記『垂仁記』によると11代垂仁天皇の時代には出雲=中国地方になっていた。

12代景行天皇の作らせたホツマツタヱには、中国地方サホコ地方とチタル地方が、常に混乱の元凶のように描かれていた。そのうえスサノオ・オオクニヌシ・ミホツヒメ・オオモノヌシ・コトシロヌシ・タケミナカタも一色単に『三輪氏族』系統にされてしまったわけだ。

…やはり、10代崇神~12代景行天皇時代に中国地方出雲は成立したとみていいだろう。  

 

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 富士山出雲大神宮レイライン上、そのほか気になる点。

〇 長谷八幡宮(京都府京都市左京区)

~御祭神~

・惟仁親王(56代清和天皇の諱)

現代昭和50年代に入り仁徳天皇・応神天皇・比咩大神・宗像三女神・神巧皇后を合祀する。

 

興味深いのは、平安期の55代文徳天皇の第一皇子・惟喬親王。彼はこのレイラインの意味をわかっていたと思われる。レイライン上の 長谷八幡宮では惟喬親王の御願で、弟・惟仁親王(56代清和天皇)を祀ったとされる。惟喬親王自身は京都から同じレイライン上の滋賀県東近江市の御陵近くに隠棲したらしい(諸説あり)。

また清和天皇は879年出家し丹波国水尾(愛宕山周辺)の地にて断食の苦行に入り、そのまま水尾の地に隠棲、この地に現在は清和天皇陵がある。後の清和源氏の祖となり有名な八幡太郎義家賀茂次郎義綱を子孫とし、レイライン上を見ると上賀茂神社衣笠峯と同線上にあるわけだ。宮下文書では、加茂次郎義綱子孫の三浦義顕の子・義仁は平安後期に富士朝に渡り、富士朝宮下家の婿入りを果たすのだ。

まさにクニトコタチ『出雲大神宮』とクニサツチ『富士朝』の東西偶然の出会いのような…。

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これらすべてレイライン上の歴史上の出来事…これがはたして偶然だろうか?

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〇比々多神社元宮(神奈川県伊勢原市三ノ宮)

~御祭神(里宮)~

・豊国主尊

・天明玉命(タマノオヤ)

・雅日女尊

・日本武尊

~相殿~

・大山祇神

・木花咲耶姫

 

神奈川県伊勢原市の比々多神社(写真)にはクニトコタチの息子『トヨクムヌ』と実玄孫『タマノオヤ』が祀られている。Wikipediaによると周囲の遺跡の状況から縄文時代一万年前からの祭祀所の可能性がある。

私自身、宮下文書の『神代』は五千年~六千年ぐらい前と推定していたのだが…。しかし静岡県の伊豆三宮・岩留浅間の溶岩跡『神代満流尾』といい、富士宮市『千居遺跡』といい、一万年以上まえの可能性がかなり出てきた(笑)。ただそうなると宮下文書の記述だけでは一万年に及ばない、ある程度の欠史や付会があると思われる。

因みにタマノオヤはニニギの弟で本来の八幡神と推定できる。

緊急続報!宇佐神宮の八幡神と比売大神の正体わかった。 - セキホツ熊の謎を追え! 

 

このように 富士山と出雲大神宮は、ウガヤ王朝が出来るまでの日本二大拠点であり、その拠点を繋ぐレイライン上に津島神社『日本総社』があるわけだ。これが果たして偶然だろうか?、それに国家が絡まなければ『日本総社』『元出雲』なんて伝承は残らなかったはずである。

 

日月神示502帖

『タンバとはタニハ、田庭とは日の本の国ぞ世界の事ぞ

タンバとはタンバイチとは世界の中心ということぞ、日の本という事ぞ』

…タンバの意味とは何か?…そしてオワリの仕組みとは?

 

私的には津島神社と出雲大神宮の重要性、そして宮下文書の信憑性までも確認できた。出雲大神宮社伝と宮下文書には、ある程度の一致が見られる。

もはや宮下文書は単なる偽書ではない。

 

<レイラインの美学⑦>出雲改竄と信州安曇野に牛頭天王の陰、英雄ニニギ教育の場をもとめて - セキホツ熊の謎を追え!

 

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※地図はクラフトマップ使用
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