セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

緊急続報!氷川神スサノオの転生であった『日本武尊』、目指したのはあの重心点だった!。津島越え伊勢路に死す『墓場までのレイライン』。

2019,6,29

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日本武尊の『墓場までのレイライン』

『レイラインの美学』 シリーズ④⑦にて、『スサノオ重心点レイライン』と『陰社陽社レイライン』を紹介した。どちらもスサノオに関係している社が多いのだが、これがなんと日本武尊東征の帰路であった!!。

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『レイラインの美学』 シリーズ④スサノオ重心点レイライン
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『レイラインの美学』 シリーズ⑦陰社陽社レイライン

本州重心点を出雲陰社、宮下文書に比定される津島神社を出雲陽社と設定して(仮)のレイラインを作ってみた。

 

宮下文書によるオリジナル出雲『天獄』は何処に存在していたのだろうか? - セキホツ熊の謎を追え!

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景行41年東征完了から景行43年死去までの経路。

〇ホツマツタヱにおいてのは『ヱミシ征伐』は、西国天皇勢力から諏訪サカオリを預かるタケヒが、東国で反乱の気配を察知し、西国天皇勢力に征伐を要請する。

〇 宮下文書における『東夷征討』は、タケミカヅチやフツヌシ子孫らが東国諸国が富士朝を持ち上げ連携し、西国天皇勢力に危機感が生まれる。これをヤマトタケルが早期に鎮圧する運びとなる。この際、吉備彦命(藤原物部系統)とともに副将を勤めていたのが大伴武日(蘇我大伴系統)である。大伴武日に東北を監視する役割を与え、ヤマトタケルは西国への帰路につくことになる。

~宮下文書曰く、日本武尊帰還~

『皇子は副将大伴武日を高天原に留め、東北の国々を治めさせ、遂に還御された』

 

~宮下文書における西国帰還の経路~

高天原阿田都山(小室浅間付近)→大田原→御古峠→海伊国山背国府(酒折宮付近?)→底大湖(甲府盆地)→奥仙人峠(大嶽山那賀都奥宮?)→玉沢(御嶽山奥宮?)→武佐志野(大国魂と氷川と金鑚?)→上毛原(妙義山?)→碓氷峠(碓氷峠熊野神社)→科野路(戸隠周辺?)→尾羽張(津島?)→中島の松子島の源太夫の宮(熱田神宮)→伊吹山→能煩野(死去・加佐登神社)→那豆岐田の陵(埋葬・能褒野墓)

 

~他文献によるヤマトタケル東征帰路~

・日本書紀では武蔵→上野→碓氷峠→信濃→美濃→尾張の順となる。

・古事記では甲斐→信濃で『坂の神』(…八坂?)を服従させたという。

・ホツマツタヱでも相模→秩父→ホツマ→信濃→木曽路→尾張と似たような帰路となる。

このように各書かなり相違点を生んでいる訳だが、共通点はヤマトタケルは帰路に『信濃(科野)』がある事だ。

…もうお気付きかと思うが、宮下文書における初代『出雲』は信州にあり、スサノオとイナダヒメの埋葬地『同国大社の裏の鳥上山』もこの周辺ではないかとみている。因みに、鳥上山(船通山)も斐伊川も島根県にもあり。

今回は、彼らが帰路に、何故信濃に出向いたのか?、考察してみようと思う。

 偽書のススメ4:富士王朝救世主、日本武尊 - セキホツ熊の謎を追え!

 何しに信濃に遠回りしたのか? 日本武尊の帰路を追う。

それでは、帰路上のヤマトタケル伝承地を、順番に紹介していこう、解釈によっては順番が前後する可能性もあり。

 

日代御子大神社(山梨県富士吉田市下吉田):御祭神『日本武尊』。

日代とは12代景行天皇の事なので、ヤマトタケルの父と関係があるのかもしれない。武蔵一宮小野神社の摂社『日代神社』にも、大足彦忍代別命=景行天皇が祀られている。日代御子大神社境内には、女獅子岩と子獅子岩という磐座がある。  

〇酒折宮(山梨県甲府市酒折):御祭神『日本武尊』。

注意すべきは、宮下文書における『坂下(サカオリ)宮』とは全く別の宮。宮下文書版坂下宮は『阿田都山の麓』とあり、山梨県富士吉田市下吉田付近に存在していたと推測する。

このように県内広範囲に点在するヤマトタケル関係地が、各地に様々な伝承を残している。甲府『酒折宮』や笛吹市『坂折天神社』などにも痕跡を残しており、彼の広範囲にして細やかな行動が浮き彫りとなる。

因みに、宮下文書比定の『坂下(サカオリ)宮』は、ヤマトタケルと美夜受媛の子『福地媛』の生誕地とされる。阿祖山太神宮・宮守司長の福地記太夫は日本武尊東征中、ここでヤマトタケル母子を擁護していた。

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※甲斐三宮・玉緒神社、軍刀利神社なども ヤマトタケル由来。

底大湖(甲府市・甲斐市など)

Wikipediaによると、甲府盆地はかつて長野県諏訪盆地『諏訪湖』のような巨大盆地湖であったとの説がある。宮下文書によると海伊(甲斐)国造・奈良田彦は12代景行天皇に対して造反した立場であるが、底大湖を20年間掘り下げ減水させた功により免じられたとある。

凶変がある時は鳴動して里人に告げる謎山。幻しの甲府盆地『底大湖』と国玉大明神『御室山』の繋がり。 - セキホツ熊の謎を追え!

大嶽山那賀都神社奥宮(山梨県山梨市)

社伝によると 景行天皇の代、ヤマトタケルが甲武信の国境越えに際し佩剣を留め置き、『三神』を祀ったとのこと。これは『三峯神』のことだろうか?、あるいは奥多摩湖南部の『三頭山』か?、解釈によってルートが大きくズレる可能性あり。

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御岳山(東京都青梅市御岳山)

謎の神『櫛真智命』と日本武尊などを祀る。ヤマトタケルが山犬に導かれた伝承がある。

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虎柏神社(東京都青梅市)

ホツマツタヱによると、ヤマトタケル東征時にタマガワアフミという村をトラガシハに与えたという。トラガシハが転じて『虎柏』となったようだ。延喜式論社に『虎狛神社』(東京都調布市佐須町)がある。

このほか埼玉県狭山市『広瀬神社』や毛呂山町『出雲伊波比神社』にも日本武尊の痕跡がある。

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大國魂神社(東京都府中市)

社伝によると12代景行41年(111年)に創建されており、タイミング的にはヤマトタケル東征と関係がありそうなのだが…。武蔵一宮・小野神社の創建が3代綏靖時代なので、富士山高千穂峰『夏至レイライン』を補完する意味合いで建造されたと妄想。武蔵国というよりも全国レベルで重要な神社、ヤマトタケルの副将『大伴武日』が東国統治を任されている以上、創建に関与してないわけがない…。

この武日(タケヒ)と、境外社『坪宮』に祀られている武蔵国造『兄多毛比(エタモヒ)命』との関係がわかれば武蔵史はかなり解明されると思っている…。宮下文書では、どちらも蘇我大伴系統と思われる。

また『夏至レイライン』上にある『人見稲荷神社』(東京都府中市若松)の社伝においては、エタモヒが『兄武比命』と表記されている。たとえエタモヒ表記が『兄多毛比命』にしろ『兄武比命』にしろ、私にはどちらもタケヒと読めるのだが…(笑)。

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氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区)
~ホツマツタヱ(40文)~

キミサメイワク カミノツケ

ワレハイヤシキ ヒカワカミ

モトニカエルト メクミコル

マヨヒオサトス シメシナリ  

君 覚め曰く 神の告げ "我は賎しき ヒカワ神 元に返る" と 恵み凝る 迷いを諭す 示しなり

まずヒカハ神とはスサノオのこと、ヤマトタケルはスサノオの転生であったことを悟ったという。信州出雲を封じ込め『ホツマ(調和)の道』を進むことが、『真の神であると悟る(40文)』という意味か?。ホツマとは何の調和だろうか?…国譲りで渡来人との調和のために信州出雲を閉鎖することだろうか…。

氷川神社は、文献により創建がバラバラ。宮下文書では、初代神武天皇の時代に武佐志野副本営『日川(ひかわ)』として登場している。ホツマツタヱで『スサノオ』を祀りだしたのは景行年間となり、さらにWikipediaによると、13代成務時代に国造エタモヒのが祖神を祀ったのが始まりとされる。

理由として考えられるのは、そもそもスサノオではなくアラハバキを祀る社であり、この期間を欠史にされているとみる。またヒカハというのは、島根県の『斐伊川』が語源というのは後付け、もともとは信州出雲国『斐川(場所不明)』が語源のようだ。

氷川三社~本州重心点『スサノオ重心点レイライン』には、スサノオに纏わる神社がズラリ並ぶ。 

<レイラインの美学④>スサノオ『重心点』レイライン。信州になにやら巨大拠点の痕跡。 - セキホツ熊の謎を追え!

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金鑚神社(埼玉県児玉郡神川町) 

社伝によると、武蔵五宮(二宮)金鑚神社も景行年間の創建になる。ヤマトタケルが『火打金』を御霊代として納め、アマテラスとスサノオを祀ったとのこと。平安時代に坂上田村麿が東征の折にも、必勝祈願として参拝している。

Wikipediaによると、『風土記稿』では、御祭神を金山彦神としてスサノオの別名としたのの説あり。宮下文書によると金山毘古命は鍛冶師『金劔清』の子・劔刀知で、スサノオの従兄弟にあたり、おそらくは大陸方面から渡来してきたと思われる。

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三峯神社(埼玉県秩父市三峰)

上地図のレイラインからかなりズレるが、ヤマトタケル伝承で有名な古社。宮下文書における日程的には、『大嶽山にて三神を祀る』後で前後する可能性あり。

社伝によると、やはり景行年間に碓氷峠に向かう途上で、ヤマトタケルが仮宮を建てイザナギとイザナミを祀ったとされる。後世に静岡県伊豆山神社同様、役小角や空海の介入があった模様。

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妙義神社(群馬県富岡市)

ヤマトタケルや豊受大神らが祀られており、社伝によるとヤマトタケル東征の際に、この地に陣営を構えたとのこと。また室町時代に太田道灌も足利成氏との戦の際参拝したとのこと。この後、群馬県利根郡『上州武尊山』にもヤマトタケル伝承がある。

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熊野皇大神社(群馬県長野県境・碓氷峠熊野神社)

ヤマトタケルの別名を『小碓尊』『小碓命』とすると…、碓氷峠の『氷』とは『氷川』の意味とも考えられる。社伝によるとヤマトタケル東征の際の『帰路』でヤタガラスの導きがあり、熊野神社を勧請したという。

また亡き妻・弟橘姫を嘆いて、『吾嬬者耶』または『ああ愛しき我が妻よ』と嘆いたという。これが浅間山北部で、群馬県西端の嬬恋村の地名由来だという。

宮下文書では東征中に、相模湾を渡る際『大妃橘媛命』が入水し、嵐を沈めたと記載される。そして東北遠征帰還後にまた、神奈川県三浦半島から相模湾を見渡し『吾嬬はや』と嘆いた。以降東方(阿津佐・阿須佐・河津佐・淡津佐)を吾嬬の国と呼んだ。これは現在の埼玉氷川神社付近~千葉県房総半島に当たる。

この『吾嬬はや』というセリフは、甲斐や関東あちこちで伝承化されており、彼の口癖になっていたのかもしれない(苦笑)。

皆神山(長野県長野市松代町)

新宗教『大本』で有名な出口王仁三郎が、着目していたパワースポット。前述のとおり、ヤマトタケルは自らをスサノオ転生と悟り、皆神山に石碑を残す出口王仁三郎も、スサノオ霊が内に宿ることを明かしており、まさにこの重心点レイラインはスサノオの道となる。

また、ヤマトタケルは伊勢国『亀山城』付近で埋葬され、出口仁三郎は丹波『亀山城址』(旧丹波国桑田郡亀岡)に神殿を築き宗教拠点としており…、偶然がさらに重なるわけだ。多少話が逸れるが、鶴亀伝承は富士朝のクニサツチが愛した動物たちなのだ、個人的には『鶴(山梨県都留)』はクニサツチ、『亀(京都府亀岡)』はクニトコタチの隠語の一つかな~ともおもう(妄想)。

皆神山東の舞鶴山古墳に『白鳥神社』があり、ヤマトタケルを祀っている。これは浅間山東の長野県東御市の『白鳥神社』を勧請したもので直接的伝承はないものの、東御市付近には彼の滞在伝承があるという。

※因みに皆神山はオカルト界では有名であるが、戦中日本政府が本土決戦に備え皆神山に首都移転を計画していたことでも有名。皆神山『松代大本営跡』には防空壕が張り巡らされていた。

本州重心点、旧瀬戸川神社跡地(長野県上水内郡小川村)。

情報が非常に少ない。長野県神社庁ホームページによると、『瀬戸川神社』には坂上田村麻呂が東征の必勝祈願に来たようだ。こんな山奥の小さな神社に何をしていたのか?。現在は真北500メートル移動している。残念ながら、ヤマトタケルが参拝した伝承は見つからない。

 〇戸隠山(長野県長野市戸隠)

ヤマトタケルと12代景行天皇、ホツマツタヱ編集者の関係を考えれば、旅のメインはこの戸隠山ではないかと推測する。

・中国地方出雲を渡来系に『譲る』代わりに、信州出雲を閉鎖する。

・スサノオの神霊は武蔵国氷川神社に御移し、信州出雲を閉鎖する。

・結果をこれをホツマツタヱに記載する。

…これが彼らの本当の目的かもしれない。

宮下文書によるとウマシマジ=ウワハル=蘇我大伴系統。日本武尊の副将『大伴武日』はウマシマジ=ウワハルの子孫であり、戸隠宝光社の御祭神はウワハルである。大伴武日に関係がないわけはない。

そして九頭竜社にはアメノホヒの母親九頭竜が祀られていて、アメノホヒは武蔵国造『エタモヒ』の遠い祖先になる。宮下文書の状況から推測するに、どちらも蘇我系統となる。もし『大伴武日』と『エタモヒ』が親族、あるいは同一人物ならば様々な面で辻褄が合ってくるのだが…。

そして日本武尊はこの後、長野県下伊那郡の『阿智神社』を訪れるのだが、御祭神が戸隠神社と同じオモイカネとウワハルなのだ。『信濃地名考』によると、そもそもこの阿智神社は戸隠神社の元宮であるという説もあり、いろいろと偶然とは思えない共通項が多い。

 戸隠山には、九頭竜退治したのは日本武尊という情報もあるが、千葉県の鹿野山にある日本武尊と九頭竜伝承と混同している可能性もあり、…慎重に調べていきたい。ホツマツタヱにおいては、この地で九頭竜がタジカラヲに霊の結を斬られ、おとなしくなったとされる。

いずれにしても、『スサノオ×ヤマタノオロチ』伝承と『日本武尊×九頭竜』伝承とが、うまく対峙されている感がある。奇しくも、九頭竜モチコは中国地方を拠点にしており、スサノオと浮気をした女性である…。

戸隠神社HPによると(2020年4月現在)、明治維新の折に戸隠神社(戸隠山顕光寺)は、明治政府による廃仏毀釈の宗教弾圧を受け、破壊されたり、燃やされたり、埋められたりしたそうだ。残念ながら、具体的に何が消失したかまでは記載されていないが、仏像・仏画・教典・古記が散逸し、一部は善光寺などにも避難させているらしい。

では…明治政府とは一体何者なのか?、中国地方出雲国近くの長州藩母体だと考えれば、実にわかりやすいカラクリ。Wikipediaによると江戸時代まで『出雲』という名称は丹波一宮・出雲大神宮を指しており、出雲史改竄はこの明治初頭に実行されたのかもしれない(妄想)。

 〇津島神社(愛知県津島市) 

出雲陰大社~出雲陽大社のレイラインの上であり、スサノオを祀る『日本総社』とされる。牛頭天王と八王子権現の実質総本山、廃仏毀釈後にもその影響が強く、奥の院とされる牛頭山宝寿院が、当社から仏教色の強い物品を買い取っていったという。摂社に『熱田社』がありヤマトタケルが祀られているが、どうやら直接的伝承はない。今後も注視していく。

熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)

古事記では、ヤマトタケル東征完了後に美夜受媛との初夜を迎えており、彼女は尾張から外に出ていない事になっている。つまり酒折宮に残してきた福地媛の史実をなくそうとしており、尊の配偶者が富士朝に残されていることがバレると不都合と考えられたのだろう。そして尾張の初夜後に、草薙の剣を置いて伊吹山の荒ぶる神の討伐に出ている。

宮下文書版の美夜受媛は、尾張国太夫で天別天之火明六十世孫『尾羽張源太夫穂明男命』の娘。ヤマトタケルとの娘『福地媛』を高天原に嫁がせ、自身は尾張に帰郷していた。さらにヤマトタケルがこの妻へ『これを吾と思へといって草薙剣をさずけられた』とある。どの文献でも草薙の剣は熱田神宮にあったようだ。

諸説あるが、一般的に『天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)』の別名『草薙剣(クサナギノツルギ)のことでスサノオの象徴であるとともに、ここでもスサノオ×ヤマトタケルの対比がみられるわけだ。また島根県奥出雲町『船通山(鳥上山)』では、天叢雲剣を発見した神話に因んだ宣揚祭が催されている。

宮下文書では『(信州)出雲国斐川の上室(後、室改村)より出たため室雲の剣と名付け…』とある。『叢雲剣、後改草薙剣』とある。

 〇伊吹山(滋賀県米原市) ~能褒野墓 (三重県亀山市)

記紀では、ヤマトタケルは伊吹山の神の討伐に出て、苦戦を強いられる。

宮下文書では、単に熱田神宮→伊吹山と琵琶湖に抜けようとしていたようだ。12代景行天皇は晩年の景行58年、大和国纏向から近江国『志賀高穴穂宮』に宮を変えている。ヤマトタケルも本来は大津に向かう予定だったのかもしれない。彼の死後、景行46年に近江一宮・建部大社が創建され日本武尊が祀られる。

ヤマトタケルが伊吹山登頂すると、天候が悪く、木の根で足を傷つけたために伊勢路に迷い込んできたとある。推測するに、何かしらの理由?で伊吹山越えが困難なので、南からの鈴鹿越えにシフトしたともとれる。結果、山中に杖を頼りに『見野(美濃)』から歩いて、陰社陽社レイライン上の死地に吸い寄せられてきたという感じだ(怖)。

ただやはり思うのが、彼は伊吹山に何しに登ったのだろうか?。地図を見てみても、登頂せずとも関ケ原から、琵琶湖には抜けられるだろう…。

景行43年(建部大社社伝によると・日本武尊32歳の時)。陰社陽社レイライン近くの能煩野で死去、那豆岐田の陵にて埋葬される(能褒野墓)。陵墓については諸説あるが、宮内庁によって次の三か所に治定されている、能褒野墓(三重県亀山市)・白鳥陵(奈良県御所市)・白鳥陵(大阪府羽曳野市)。

しかし、宮下文書と建部大社伝はある程度一致する…。

 

 ヤマトタケルはなんで、信州出雲を閉鎖する必要があったのか?。

前記事のおさらいとなるが…。10代崇神~12代景行のホツマツタヱ制作中、中国地方を渡来人たちに『国譲り』する必要が出てきた。本来、渡来人監視をしていた大国主・スサノオ・大物主・ウマシマジ子孫勢力に変化が起こった、それが渡来系勢力による懐柔或いは乗っ取りであった。

そのウマシマジの子孫が、ヤマトタケルの副将『大伴武日』であり、おそらく記紀で『アメノホヒ』子孫に比定される。彼らが率先して、出雲国譲りの歪みを修正する工作を、東西様々な場所でしてきたとみる(妄想)。13代成務時代のアメノホヒ子孫の出雲臣武蔵国造エタモヒは、この大伴武日に追随するかの様な痕跡を残しており、親族或いは同一人物の可能性が高い。少なくとも両人は、宮下文書における蘇我大伴系統で一致するとみる。

信州出雲の場所は未だ特定できないが、有力候補地は本州重心点~戸隠神社周辺だと思っている。戸隠神社にはアメノホヒの母といわれる九頭竜がおり、そのほかタジカラオやタクハタチヂヒメら宮下文書版出雲神話の役者たちも揃っているのだ。f:id:sekihotu:20190418205953p:plain

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以前、エタモヒ勢力は、中国地方出雲を追放されて武蔵国に流れ着いたようなことを書いたが…、そこは修正したい。実際は権力中枢の人物であり、東国と西国同時期に歴史修正する立場だったのかもしれない。渡来系に侵食されたとはいえ、氏族的に東国でも西国でも有力者、それゆえの『出雲臣』という役職なのだろう。

 

一応、御断りしておくと…。ヤマトタケル伝承は各地にあり、多くの寄り道をしている。決して、レイライン上をまっすぐ歩いたわけではない。甲斐や武蔵国には、彼の伝承は驚くほどあるし、重心点以降は木曽路『阿智神社』から尾張に抜けたようで、ルートとは大きくズレる。

また宮下文書によると、日本武尊は死に場所を探していたわけではなく、あくまで結果として『陰社陽社レイライン』上にある能褒野墓で死んだ…。

ま…。本当に偶然なのか?とはおもうのだが…。もともと宮下文書は、オカルト要素控え目文献であるからこその『不可知論』を感じてしまう。…これが信州で封じたスサノオの呪いなのか?。それともスサノオが看取ってくれたのか?。このようにヤマトタケルは自らスサノオの転生を悟った、実に神がかりな人生と言えよう。

 

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※地図はクラフトマップ使用。 

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