セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

景行天皇と日本武尊の東征戦後処理、出雲族大伴武日と兄多毛比命がガチで大伴氏族だった件。

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兄多毛比命の祀る大國魂神社『坪宮』。大國魂神社参拝前に行くのがいいらしい。

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宮下文書によるオリジナル出雲『天獄』は何処に存在していたのだろうか? - セキホツ熊の謎を追え!


2019,7,7 

まずは景行天皇と成務天皇の実在性を検証。

一般的には、12代景行天皇~13代成務天皇の実在性が問われており、15代応神天皇の側近・武内宿彌の年齢360歳にも表れている。

・12代景行天皇106歳147歳?(日本書紀)、136歳(古事記)

・13代成務天皇107歳(日本書紀)、95歳(古事記)

・14代仲哀天皇52歳(日本書紀・古事記)

・武内宿彌283歳以上?諸説あり。

この辺りの年齢感覚は、明らかにおかしい(笑)。

12代景行天皇は歴代天皇最高齢とのこと、また武内宿禰は12代景行天皇から16仁徳代天皇にかけて天皇家に仕えた忠臣である。さらに14代仲哀天皇には『暗殺説』があるのだが、気になるのは14代仲哀天皇が日本武尊の子供である点。

『成務紀』によると、成務天皇と武内宿彌が誕生日が同じという…。また、景行天皇のパーティー会場に稚足彦尊(成務天皇)と武内宿禰が二人とも不在であった…などと、三文推理小説並みの記述あり。故にネットでは『武内宿彌=成務天皇やんけ(笑)』とか、『皇家途絶えてしまっているやんけ?』との憶測も飛び交う。

~『成務紀』によると~

景行『成ちゃん武ちゃん、なんでパーティーこなかったの?』

成務・武内『警備が手薄であったので、私がしておりました』

景行『えらい!』

周囲『ヒソヒソ』

…この二人どうみても怪しい。

結局私がなにが言いたいかというと…、現代までに伝わる12代~14代天皇の御世は重複?並行?していたのではないかと…。

12代景行天皇在位が西暦71~130年、倭国大乱が西暦約100~180年?、邪馬台国西暦100~150年頃成立?、こう見ると政治的にいかに大変な時期であったかがわかる。長寿となった景行天皇は、晩年に大和纏向から追い出されるように近江国大津『高穴穂宮』に移動させられ、その後たった2年後崩御している。なにか大和纏向にいられなくなった理由でもあったのだろうか?。因みに、この近江国大津は日本武尊が東征帰路に目指していた方角でもあり、景行46年には建部大社(御祭神・日本武尊)が創建されている。

宮下文書における武内宿彌は出自不明、単に『蘇我大伴系統』比定と考えてもよいのだろうか…重要人物ゆえ扱いに迷うところである。邪馬台国や卑弥呼についても記載がなく欠史。12代景行天皇以降突然、神巧皇后摂政を経て15代応神天皇へと移行、16代仁徳以降の天皇は名前ぐらいしかでてこない。この仁徳天皇と大山守皇子の『富士川の戦い』を経て、『空白の4世紀』に突入する。

…なるほど、どうやら富士朝宮下家的には成務天皇と仲哀天皇を認めてたくないようだ(笑)。後述するが、武蔵大国魂神社にも氷川神社にも、創建伝承が『景行』と『成務』の二面性あり。景行天皇世代の『大伴武日』と、成務天皇世代の『エタモヒ』が同時代に生きていた可能性は十分あると思っている。

 

蘇我大伴系統、 大伴武日命と兄多毛比命の出自を探る。

宮下文書によると、臣家である蘇我大伴系統には『武日』を称している人物が最低三人いる(蘇我武日・大日武日・大伴武日)。何れも蘇我大伴系統、ウマシマジ子孫であり、宮下文書未登場であるアメノホヒの共通の子孫ではないかとみている。

今回は数少ない出雲変遷の手がかり。兄多毛比と大伴武日の接点を調べてみよう。

 

◇大伴武日命とは…12代景行天皇時代の富士山周辺監視者。

日本書紀では『靫部(ゆぎへ)を以って大伴の連の遠祖武日に賜ふ』とある。

宮下文書ではウマシマジ=ウワハル=蘇我大伴系統、つまり因幡国造ウマシマジ子孫だ。

征夷大将軍日本武尊の副将。東夷征討の活躍が評価され富士高天原に留まり、東国監視を任された。

それとは別に讃岐国(阿波国の北)の管理も任されている。国造本紀では子孫?と思われる『大伴直大瀧』が阿波国造。

 

◆兄多毛比命(エタモヒ)とは…13代成務天皇時代の出雲臣武蔵国造。アメノホヒやタケヒラトリやアメノオシヒの子孫。

国造本紀によると親族が関東『无邪志(むさし)』『胸刺(むさし)』『上総・菊麻』『鳥取・波伯』『周防・大嶋』などの国造に任命されており、成務天皇から信頼が厚かった。彼の拠点は多摩~淡津佐にかけて広範囲とみられ、陵墓は埼玉県熊谷市『胄山古墳』で『胄山神社の下』(下写真)と云われている(諸説あり)。

またエタモヒは大伴系統で、出雲臣祖二井之宇迦諸忍之神狭10世孫、タカミムスビの子アメノオシヒ子孫などと言われている。アメノオシヒ子孫には野見宿彌や土師連らがおり、宮下文書において野見宿彌は単に『出雲国の人』と書かれており出自を明らかにしていない。

神狭日命=天忍日命=大伴連祖(先代旧事紀)。

天忍日命=大伴連祖(記紀)。

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△アメノオシヒとは

ホツマツタヱによると、アメノオシヒはカンサヒ(神狭日命)の子、トヨケ死後このカンサヒが根の国のマスヒトに就任する。シラウドとコクミの非道を知りながら放置していると高天原に告発される。その後アメノオシヒが、サホコ・チタル国マスヒトに就任、九頭竜モチコの義姉妹クラコを娶る。その後は大蛇と化した九頭竜モチコと八岐大蛇ハヤコに取り込まれ、アマテル中央勢力に反旗を翻し、この反乱『ムハタレ』がのちのち全国的に波及していく(倭国大乱か?)。

 ※個人的には、孝安天皇の皇后となった『押日媛命』(記紀では押媛)周辺が気になっている。宮下文書では押日媛命は蘇日政我の娘であり、蘇我大伴系統である。アメノオシヒとなにか関係がありそうだが…。

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~宮下文書による出雲変遷の図①→②→③~

地図上①信州オリジナル出雲、スサノオ夫妻を埋葬する鳥上山所在地?

地図上②丹波~丹後国造蘇我大伴系統がアメノオシヒ?。子孫がエタモヒ ? 

地図上③因幡国造蘇我大伴系統ウマシマジ勢力がアメノホヒに比定される?

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一方、宮下文書によると。

古来より信州出雲は『法の番人』スサノオを祀っていた。一方で中国地方渡来人の勢力拡大が進み、古来より罪人扱いを受けた彼らは、その待遇改善を求めてきたのではないかとみる。つまり渡来系の過去すべての罪からの解放、その象徴が信州オリジナル出雲の閉鎖であり、スサノオの封印であったわけだ。渡来系の解放こそが、本当の出雲『国譲り』の大義名分ではないかと分析する。

ここで宮下文書とホツマツタエを掛け合わせて妄想すると、『中国地方のごたごたで、信州出雲を閉鎖しなくてはならなくなった。その機能は武蔵国氷川に移した。それらを丹波出雲出身の出雲臣エタモヒらが実行した』という感じか…?。

ヒントはホツマツタヱのサホコチタル国の騒動内容 …、丹波が中国地方渡来勢力に取り込まれる生々しさを感じてしまう。

周辺氏族が渡来系に侵食されていたとは言え、蘇我大伴系統本体の影響力は未だ強かったとみる。後世、絶大な権力を持っていた蘇我系統は藤原物部系統に危険視されるわけだ。関東でも兄多毛比一族や笠原氏一族にかわり、物部氏や丈部氏が流入してくる。このときに蘇我大伴系統の栄光ある東国史は、改竄隠蔽されていくのだろう。

 

 

日本武尊と大伴武日、武蔵国で何をコソコソしていたか? 

日本武尊の東夷征討の際、吉備彦命(藤原物部系統)とともに副将を勤めていたのが、大伴武日命(蘇我大伴系統)である。彼はそのまま、富士高天原に留まり東国監視役に就任した。

~ホツマツタヱ曰く~

もともと、大伴武日(タケヒ)が西国天皇勢力からサカオリ(山梨県)を賜り、東国(ホツマ)情勢を監視する立場にあった。ヒタカミミチノクの政治情勢が悪化したのを受け、景行天皇にエミシ討伐を要請する。あくまで諸悪の根源は高天原よりさらに東国ヒタカミであり、富士山周辺は古来より天皇の領地であったことをアピールしているわけだ。

~宮下文書曰く~

西国天皇勢力に不満を持っていた、富士王朝オオヤマツミ72世孫『阿祖彦王』ら富士高天原・関東・東北連合に造反の動きがあった。いち早くそれを察知した12代景行天皇は、ヤマトタケルを征夷大将軍として派兵して、副将吉備彦命大伴武日命でこれを鎮圧する。この東夷征討は東西の解釈のズレがあり、西国解釈では富士山周辺(ホツマ)との天皇との親密ぶりを強調して、高天原とはもとより争い事などなかったことを強調している。勝者と敗者との見解の相違というべきか。


戦後ヤマトタケルは、武蔵から信州経由で尾張へ帰還した。どうやらこれは、東国の戦後処理を兼ねた景行天皇の代理巡幸ではないだろうか?。

宮下文書曰く『皇子(日本武尊)は副将大伴武日を高天原に留め、東北の国々を治めさせ、遂に還御された。』

図①日本武尊の帰路f:id:sekihotu:20190706142329p:plain

もともと神代より関東以遠は、蘇我系統タケミカヅチやフツヌシ子孫の影響下にあった(宮下文書ではタケミカヅチとフツヌシは蘇我系統)。彼らが景行天皇の政治体制に不満を持ち、富士朝再興を企てた。つまりヤマトタケル東征では蘇我大伴系統が、東西に分かれて対立していた構図が浮き彫りとなる。

ホツマツタヱではこれを、タカミムスビの子孫ヒタカミミチノクの高天原同族対立として表現しているわけだ。それら戦後処理をタケヒ(大伴武日命)らが実行していく。

それをさらに、次の13代成務天皇時代の同族エタモヒが、武蔵国造として大伴武日をなぞる行動をしていく。

注目すべきは東征戦後処理。ホツマツタヱ16文によると、タケミカヅチとフツヌシの領地権と祭祀権はカスガマロ(アメノコヤネ)に集中させたとのこと。即ち、この時点でタケミカヅチとフツヌシは『春日神』として、藤原物部系統『吉備彦命』らに移管されたということだ。これが後世、『春日大社』(奈良県奈良市春日野町)に祀られているタケミカヅチとフツヌシが、藤原祖神として扱われている最大の理由で、ここに祖神すり替え作業が行われたワケだ。

しかし蘇我祖神を、藤原氏族に預けざるえない理由とは何だろうか?。

タケミカヅチ・フツヌシ子孫の領地を、そのまま蘇我大伴系統が再統治したら、それは単なる同族争いで、戦後処理まで曖昧にされてしまう可能性が出てくる。故にその統治を同僚・吉備彦命(藤原物部系統)に任せたのであろう、これには蘇我大伴系統宗家も納得せざる得ない状況になるハズだ。f:id:sekihotu:20190601145003p:plain

こうしてヤマトタケルは、タケミカヅチとフツヌシ子孫による東国体制を排除し、政治・宗教の大規模再編を断行。従来の蘇我大伴系統祖神に代わり、新たな信仰を信州出雲から武蔵に、勧請誘致させようとする狙いが垣間見える。即ち、後世にエタモヒが行った氷川神社の改築である。

以降武蔵国は、タケミカヅチ・フツヌシの国から、スサノオ・オオクニヌシの国に塗り替えられるのである。

 

関東各地の日本武尊と出雲族の足跡。

では次に、ヤマトタケルは具体的に何をしていたのか?。

あくまで結果的にいうと…。どうやら氷川神社と伊勢神宮(内宮)を繋ごうとしていた形跡がみえる?。レイラインが富士山を無視している点がポイントである(笑)。ココからもヤマトタケルが武蔵を出雲化したかったのではないかと想像できる。 

 

図②武蔵国・日本武尊とスサノオ伝承『氷川伊勢レイライン』
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~景行時代の日本武尊とスサノオ、氷川神社の位置付け『氷川伊勢レイライン』~

・氷川神社(埼玉県さいたま市)スサノオ・イナダヒメ・オオクニヌシ

・出雲祝神社(東京都西多摩郡瑞穂町)・アメノホヒタケヒラトリエタモヒ

・元狭山神社(東京都西多摩郡瑞穂町)・スサノオ・日本武尊・コノハナサクヤ・イナダヒメ

・狭山神社(東京都西多摩郡瑞穂町)・箱根大神・オオヤマツミ・コノハナサクヤ・イワナガヒメ・機神社タクハタチヂヒメ

・八雲神社(東京都西多摩郡瑞穂町)・スサノオ・イチキシマ

・正一位岩走神社(東京都あきる野市)・タジカラオ

・阿伎留神社(東京都あきる野市)タケヒラトリ・アメノコヤネ・大鳥社・祓戸四柱

・今熊神社(東京都八王子市)スサノオ・ツクヨミ

・軍刀利神社(山梨県上野原市)日本武尊

・日代御子大神社(山梨県富士吉田市)日本武尊

・小御嶽神社(山梨県南都留郡)イワナガヒメ?

 

以下、武蔵国にある『エタモヒ』『大伴武日命』『出雲族』関係神社を紹介していこう。

 

〇氷川神社(埼玉県さいたま市)

前記事の重複になるが、ホツマツタヱにおいてヤマトタケルは、自らをスサノオの転生と悟り、ヒカハ神スサノオを祀り始めた。しかし社伝によると、その直後13代成務天皇の時代にエタモヒが祖神としてスサノオを祀ったとあり、『景行』と『成務』の創建伝承が二つ重なるのだ。もし仮に12代景行天皇と13代成務天皇の歴史重複が認められれば、大伴武日命とエタモヒは非常に近い存在にも見えるのだが…。 

緊急続報!氷川神スサノオの転生であった『日本武尊』、目指したのはあの重心点だった!。津島越え伊勢路に死す『墓場までのレイライン』。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

〇出雲伊波比神社(埼玉県入間郡毛呂山町)

大伴武日命(オオトモタケヒ)は、武蔵国『出雲伊波比神社』にて、オオクニヌシと『比々羅木鉾』を祀る。古事記によるとこの『比比羅木之八尋矛』は、日本武尊が父・景行天皇から『東方蛮族討伐』のため授かった大切な武器。鉾先は東北を向いており、東北鎮護の意味合いを持つとされる。また直後の13代成務天皇の代には、出雲臣武蔵国造兄多毛比(エタモヒ)が祖神であるアメノホヒを合祀した。

ココにも『景行』と『成務』の創建伝承の二面性がある。

論社である東京都西多摩郡瑞穂町『出雲祝神社』にもその面影があり、アメノホヒ・タケヒラトリ・エタモヒが祀られる。丹波・出雲大神宮の配祀神でもあるタケヒラトリと、タケヒの名前の類似性が気になる…(笑)。

この出雲伊波比神社、全国的には無名だが、武蔵国ではかなり重要な社と思われる。

<神社めぐり>出雲伊波比神社と出雲祝神社の謎、そして武蔵一宮小野神社との意外な繋がり。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

〇大国魂神社・人見稲荷(東京都府中市)

景行41年(111年)創建され、タイミング的に大伴武日が関与していない訳がない。

また新編武蔵国風土記稿において、これが『成務時代にエタモヒ国造が此地に国府をおいた…』という。ここにも氷川伝承同様に『景行』と『成務』二面性がある訳だ。

境内には摂社『大鳥神社』があり大鷲大神が祀られる。そして大国魂神社から西へ歩いて15分ほどの所に、エタモヒを祀る『坪宮』が存在する。

夏至レイライン上の東京都府中市若松にある『人見稲荷神社』(下写真↓)は、もともとエタモヒを祀る社であったという。神社由緒書には『兄多毛比命』を『兄武比命』と記しており、どちらもタケヒと読めるわけだ。そしてアメノホヒの息子が鷲宮神社のタケヒラトリ…。エタモヒと大伴武日の陰があちこちで重なってくるわけだ。

小野神社と大国魂神社と人見稲荷の三社は夏至レイライン上に並び、三社共通しているのが瀬織津姫・シタハル・エタモヒ・小野氏族となる。

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<人見稲荷神社>瀬織津姫を三陣並べて、元寇『神風』を二度も呼んでしまった少弐氏おじいちゃんのお話。 - セキホツ熊の謎を追え!



〇鷲神社(東京都台東区千束)

御祭神・天日鷲命・日本武尊

大鳥神社は日本武尊の由来の神社。全国的に日本武尊のイメージとして『大鳥』『白鳥』『鷲(おおとり)』などが登場する。そして酉(とり)の市で知られる。

天日鷲命とはタカミムスビの子孫、タジカラオの子、阿波国開拓神、忌部氏祖、神武東征に活躍した太玉命に従うとある。上記のように大伴武日の子孫が阿波国造であると考えると、接点が見えてくる。どれも宮下文書的蘇我系統・ウマシマジ子孫『大伴武日』を彷彿とさせる。

 

〇鷲宮神社(埼玉県久喜市)

御祭神・アメノホヒ・タケヒラトリ・オオナムチ

ここでも注目すべきは、丹波・出雲大神宮の配祀神タケヒラトリが祀られている点。社伝によるとアメノホヒの子・タケヒラトリら出雲族27人部族が来て、オオナムチを鎮守として祀る。その後日本武尊が東征の戦勝祈願し、アメノホヒとタケヒラトリを祀ったという。宮下文書にはアメノホヒもタケヒラトリも出てこず、比定されるのはアメノホヒ勢力=因幡国造ウマシマジ勢力ではないかと想像している。

どうやら10代崇神天皇の代に、上記東京都台東区『鷲神社』より土師氏が流入した関係神社のようだ。鷲神社のタジカラヲ息子『天日鷲命』と鷲宮神社のアメノホヒ息子『タケヒラトリ』は、近い存在か?。因みに宮下文書では、タジカラオはタカミムスビ子孫であり蘇我大伴系統である、さらにその正体はアシナヅチであり、イナダヒメの実父である。

周辺には鷲神社と鷲宮神社が無数ある。日本武尊東征より先行して、武蔵国に流入してきた出雲族蘇我系統もかなりいたのかもしれない。

 

出雲族というと朝鮮から渡来してきた高度な技術集団で栄華を誇っていたなどといわれているが、本当の意味での『出雲』とはおそらく信州のことである。それをさらに移したのが武蔵国となるわけだ。

今までの『退屈』な武蔵史の見方がガラリと変わるのである。

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※地図はクラフトマップ使用。 

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