セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<神社めぐり>出雲伊波比神社と出雲祝神社の謎、そして武蔵一宮小野神社との意外な繋がり。

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2019,7,20

出雲伊波比神社と出雲祝神社の謎

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前記事にて、日本武尊の帰路立ち寄ったと云われる氷川神社と関東周辺神社の重要性を述べた。個人的にはその中でも重要な『出雲伊波比神社』と『出雲祝神社』へどうしても行きたくてうずうず…今回は曇天の中、出かけてみた。

Googleマップ線引き機能によると。前回紹介した氷川~富士王朝~伊勢内宮レイラインのほかに、武蔵一宮『小野神社』とレイラインで繋がっていたようだ。

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なんと出雲伊波比神社と出雲祝神社は武蔵一宮小野神社とも繋がっていた。

◯出雲伊波比神社(埼玉県入間郡毛呂山町)

神社は、JR八高線『毛呂』からおりて10分毛呂山小学校となり、電車というか気動車を降りるまで普通に『ケロ』と読んでいた…。イヤー⊂(・∀・⊂*)かわいいと思ったら『モロ』だった…。毛呂駅をおりて、福祉会館ウィズ毛呂山、毛呂山小学校の後ろに毛呂山中学校…何度も確認したがやはり『モロ』だった。

因みにJR八高線は高麗川以北一時間に一本しかないので、駅構内で時間を潰す。帰宅後に地図で確認したら、神社から東に15分くらいに東武越生線『東毛呂』駅があった(笑)。

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~御祭神~

大名牟遅神・天穂日命・他17柱

由緒書によると他17柱には品陀和気命(応神天皇)・息長帯比売(神巧皇后)が含まれる。

社伝よると、景行53年?(43年と思われる)に日本武尊が東征の際に神宝・比比羅木鉾と大国主を祀る。

 

ガラス戸の拝殿と重要文化財の本殿、その横には大きな摂社(稲荷社?)。

毛呂という地名は、藤原北家仲光から派生した毛呂氏に由来する。鎌倉時代には源頼朝側近として活躍していたものの、北条執権時代にはと得宗家から干されたようだ。当時北条政権は源頼朝の息のかかった古参武士を恐れ、むしろ排除していた。室町時代に、毛呂三河守藤原朝臣顕繁によって出雲伊波比神社は再建され、現在埼玉県内最古の神社建築物とされている。この地が古くから武蔵国内で重視されていたのがわかるが、更に北にはウマシマジ子孫児玉氏の拠点『児玉郡』や『本庄市』がある。

 

今回神社に来た最大の理由は、景行時代と成務時代の二面性を確認するためである。この時代の東国特有の現象、12代景行天皇と13代成務天皇の業績が重なるのだ。

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由緒書(上写真)によると、12代景行時代に侍臣武日命(宮下文書比定、副将・大伴武日)が、比比羅木鉾とオオナムチを御祭神に創建された。景行天皇から東北鎮護の為授けられた『比比羅木鉾』は東北に向かって祀られているが、神社参道自体は北に向かっている。出雲伊波比神社の『伊波比』とは、出雲の神オオナムチを『斎る』という意味である。その直後の13代成務時代に武蔵国造・兄多毛比命(エタモヒ)が殊に崇敬し、自らの祖先・天穂日命を相殿したという。大伴武日命も兄多毛比命も大伴子孫であり、宮下文書における蘇我大伴系統、それをなぞる行動を兄多毛比命がしているわけだ。

これが、景行時代と成務時代の二面性である。

各文献によると日本武尊東征では、大伴武日が東国監視を任されるはずだが、その割に武蔵国内で伝承が少ない。成務時代の武蔵国造エタモヒの活躍のほうが目立つものの、こちらも活動拠点が明確に見えてこない謎多き人物なのである。

 

また源義家『流鏑馬』伝承も鍵となる。今までにも述べてきたとおり、日本武尊や坂上田村麻呂や源義家ら、歴代東征者たちが歴史を塗り替えてきた。源義家の場合、武蔵国府・大国魂神社・百草八幡・狭山神社などにも痕跡を残しており、こちらは日本武尊経路をなぞるような行動をしており、義家がこの地に祀られた東国統治の象徴『比比羅木鉾』を目的にきたのは明白であろう。

この鉾は、1527年大永7年(室町時代)に社殿ごと焼失し、翌年から祀られたもの。本殿は重要文化財指定ではあるものの、現存する比比羅木鉾はおそらくレプリカであろう。

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個人的に思うのは、出雲伊波比神社や狭山神社などのJR八高線沿線の神社は、『八王子構造線』に影響されているのではないかと睨んでいる。

八王子構造線とは、関東西の平野山地の境がほぼ南北直線上に並んでいる面白い構造線。フォッサマグナの孤島である『関東山地』の東境界線である。ヤマトタケルは何故か、この古い地盤である『関東山地』山中をくまなく巡り、三峯神社・武蔵御岳神社・軍刀利神社・王勢籠神社…など神社を造りまくっているのだ。これは、古い地盤の山々を鎮魂して回っていたのか?(妄想)。

神社が鎮座している『臥龍山』は、八王子構造線から東に少し離れた平野部の孤立丘・残丘のような山で、地理的に狭山神社周辺とも似ている。

宮下文書によるとアマテラスの代に四州の山々は、富士王朝ツクヨミの子孫オオヤマツミ(正哉山住命)子孫が管理している。山岳信仰の監視が届きにくい広大な関東平野に対しての、ある意味、防壁なのではないだろうか?。

日本においては、『山』という存在が渡来人の侵攻を防いできた。古来から関東平野は、渡来系の歴史なしに語れない土地柄である。すぐ近くの入間や高麗川などは渡来系の拠点となり、716年高麗川には1799名の高句麗移民が入植した。既存勢力に対して彼らが抗ってきた歴史は否めないし、現に先住民たちはそれを恐れていた。

 

 〇出雲祝神社(埼玉県入間市)

 

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~御祭神~

天穂日命

天夷鳥命(建比良鳥命あるいは天日照命のこと)

兄多毛比命(エタモヒ)

ほか

天照皇大神

伊弉諾命

伊弉冉命

大国主命

倉稲魂命

大山祇命

市杵嶋姫命

速玉男命

事解之男命

大屋毘古命

菅原道真命

 

~由緒~

日本武尊東征の際、小手指ヶ原に天穂日命と天夷鳥命(=タケヒラトリ)を祀った。

社伝によると、天穂日命子孫が出雲の国から樹種を携え蒔種したのが、『寄木の森(出雲祝神社周辺)』という。本殿裏の丘には『牟佐志国造御社』の石碑があり、天穂日命子孫=エタモヒ親族を指していると考えるのが自然であろう。

 

武蔵国延喜式内『出雲伊波比神社』の論社で、江戸~明治時代までは『物部天神神社』(埼玉県所沢市小手指元町)の神職にて兼務されていた。前記事から何度も述べているが、宮下文書における蘇我大伴系統の東国史は、後世に藤原物部系統に塗り替えられているのだ。これが春日大社を藤原氏が祖神として祀る、逆転現象である。

当社は戦国時代に『出雲祝神社』を称すが、武蔵国風土記稿によると江戸期は寄木宮(寄木明神)というスサノオを祀る神社であったという。現在も鳥居神額に寄木宮の表記があり、拝殿右隣には摂社『八雲神社』があり、『天王さま』(おそらくスサノオ)を祀っている。これは直ぐ南の狭山丘陵にある八雲神社と同じ信仰ではないか?、さらには狭山丘陵南斜面の『阿豆佐味天神社』にもスサノオが祀られている。神社周囲には『富士山』という意味深な地名もあり、富士信仰と駒形信仰と出雲信仰の混在が見られる。 

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白ヌコさま



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地図はクラフトマップ使用。

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