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2019,7,21まとめ
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『八幡』『八雲』『八王子権現』の奇妙な共通点 その② 八幡神の正体ついに判明か? - セキホツ熊の謎を追え!
『八幡』『八雲』『八王子権現』の奇妙な共通点 その③八幡神の比売様イトウ、熱海伊豆山にいた!? - セキホツ熊の謎を追え!
緊急続報!宇佐神宮の八幡神と比売大神の正体わかった。 - セキホツ熊の謎を追え!
上4記事まとめ+追記。『読みにくい』とのご意見あり、今回はコンパクトに纏めてみました。
八幡(やわた)神とは?
~八幡大神とは(八幡三所大神)~
・『誉田別命(15代応神天皇)』
・『比咩大神(一般的には宗像三神)』
・『息長帯姫命(応神母・神巧皇后)』
八幡大神とは三神の総称のこと。
~八幡神の定義~
◯『扶桑略記』や宇佐神宮由緒書を要約すると、宇佐八幡付近の厩峯(御許山)菱形池にて、鍛冶の翁や八つ頭の龍が現れて、その姿を見たものは不幸に見舞われたという。鍛冶の翁が三歳小児の姿として顕現、自ら『誉田天皇広幡八幡麿』『護国霊験威身神大自在王菩薩』と名乗った。
◯鎌倉中期の『承久記』によると、八幡神はアマテラスに次ぐ皇室の守護神であり皇祖神という位置付け。
◯『宮下文書』においては、初代ウガヤ王の時代にエビス=オオワダツミ=ヒルコの曾孫・豊玉男命に八子がいた。この長男の宇佐豊武命が八旗を祀り八幡大神宮と称した。神武東征後に住吉三神を祀り『祖古津八ツ幡』と称される。
◯『ホツマツタヱ』に八幡神は登場せず、アマテル誕生の記念に八豊幡(ヤトヨ)を立て、その孫ニニギもニハリの宮で、旗の飾り付けに利用している。
・15代応神天皇
・神功皇后(応神天皇・母)
・比売大神
一般的に、『八幡神』とは上の三柱総称定義されるが、記紀には登場しない。『扶桑略記』以外の文献には、応神天皇=八幡神と定義するとは書いてない。29代欽明天皇の時代、豊後国宇佐神宮に顕示した…が、実のところはそれより遥か以前に宇佐神宮は存在していたし、八つの白旗を祀る習慣はあったのだ。
…さて八幡神の正体とは誰なのか?。
八幡=八王子権現?。
一般的に『八王子権現』というのは、アマテラスかスサノオに関係する八人の王子、しかし文献や神社ごとに構成内容が違い研究者たちを惑わせている。八王子共通点は、アマテラスとスサノオの『縁』であり、記紀ではこれを『誓約の子』と呼んでいる。考えてみれば、どの文献でもアマテラスとスサノオは不仲であったわけで、不仲を乗り越えた協調・調和を意味するということか…?。
『八』とはなにか?。スサノオ諡『八佐加毘古命』、妃・稲田毘女は『八佐加毘女』、スサノオの制作した『八本の御剣(室雲の剣)』や『八太羽鏡(ヤタハノカガミ)』、どれも八に因んでいる。八坂神社の語源とみられる『弥栄(いやさか)』とは、祝詞などに登場するが、『万歳』のような意味合いと認識される。
『幡』という字も気になるところ。旗ではなく明らかに『機織り』の語意であり、最も相応しい女神は𣑥幡毘女(萬機秋津毘女)ではなかろうか?。宮下文書におけるタクハタチヂヒメは、織機の製造方法を四方州国に伝授した功績があり、夫アメノオシホミミとの間に八王子『皇子五人、皇女が三人』を残している。同書の大きな特徴は彼女がスサノオの娘であること、つまりニニギ・タマノオヤ・太八重美命・天母岬毘女(この4子以外記載されておらず不明)は、アマテラスとスサノオの共通の孫に当たる。王子らは、それぞれ歴史上重要人物となるとみる。そして八幡に似た意味不明の言葉、『八雲』とは何か…?、実はタクハタチヂヒメの幼名が信州出雲出身ゆえに、『雲津毘女』というのだ。
~天孫八王子世代(四神のみ判明)~
・天日子火瓊々杵尊(仁人木尊)
・天太眞祖命(阿祖山太神宮守護司長)
・太八重美命(蘇我大伴系統フトダマ妃)
・天母岬毘女(藤原物部系統アメノコヤネ妃)
さらに宮下文書で興味深いのは、天孫ニニギがかなりの不良少年であったことで、好青年に描かれているホツマツタヱとは真逆の性格となる。ニニギに手を焼いたアマテラスは、スサノオにニニギを再教育(更正?)させるように命じており、同時に他の八王子弟妹も、外祖父スサノオに託された可能性はある…。即ち、これが『牛頭天王と八王子権現』の由来ではかいか?。
かつては敵対していたスサノオが、アマテラス義孫を立派な指導者に育て上げた、その改心と教育こそが八王子権現の大きな意義だといえる。そして記紀やホツマツタヱでは皇祖ニニギの悪行を、スサノオにすべて覆いかぶせたのが浮き彫りとなる。
注意点として、ツクヨミにもオオヤマツミを含めた八王子がいるが、紅一点の月結毘女命をカウントすると九子である。宮下文書研究家の加茂喜三氏は、『八王子=オオヤマツミの八柱兄弟』と断言しているが、五男三女を構成していないし、スサノオと直接的絡みがない。以下の理由で、私は牛頭八王子権現とは違う『八王子』と判断している。
※因みに、『八坂神社』(京都市祇園町)のように単にスサノオの八柱御子と解釈している社もあり、どの古文書でもこの構成要因・男女5:3を堅持している。
〇『八坂神社』(京都市東山区祇園町)御祭神・素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神
〇『大将軍八神社』(京都市上京区)御祭神・素戔嗚尊・御子神八柱
※ 因みにWikipediaによると八坂神社・東御座に『蛇毒気神』なる謎の神が祀られており、ヤマタノオロチの分霊ともいわれている。
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宮下文書版『天孫降臨』は『八幡』の功績であった?。
宮下文書版八王子の次男、タマノオヤは伊豆でイワナガヒメを娶った。
ここで仮説を言うと…。
▼『玉祖神社』(タマノオヤの死亡地)
▽『宇佐神宮』(比売大神イトウ=イワナガヒメ?)
タマノオヤの死亡後、子ウサミはその対岸に宇佐神宮を創設、両親を周防灘水門の守護神に祀り上げたのではないかと推測。宇佐神宮と玉祖神社は、いわば彼岸の『対』なのだ。
タマノオヤ訃報が富士朝に伝わると、ニニギの子ヒコホホデミ本陣が西征に本格参戦、ウサミらはヒコホホデミをサポートし、西方をクマなく治め 『1500余日で、西南地方の諸々の州国を平定した』とある。残念ながら、道中ウサミが宇佐神宮創建に関与したとは一言も書いてない。その後西方をクマなく治め『日前(ひのくま)神宮』の創建、最終的には紀伊国に『久眞野(くまの)の宮』を造営した。
ヒコホホデミが富士朝帰還の折、穴門の宮は宇都志日金折命に託される。宮下文書には彼の出自までは書かれていないが、古事記においてはワダツミの子、阿曇連の祖、長野県安曇野穂高神社の『穂高見命』と同神とみられ、ウサミと宇都志日金命はかなり親密であったと思われる。さらに宮下文書研究家・鈴木貞一氏は、タマノオヤの御子であり、ウサミの兄弟ではないかと推測している。
ウサミの故郷、伊豆熱海は『アズミ』=『アタミ』。薩摩・熱海・熊野ともに安曇アタ族と関係あり。さらに『日金』はイワナガヒメ死亡地の熱海・日金山を彷彿とさせる。
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その後クマノクスヒコは、日前宮や熊野宮で父親ウサミを祀ったと記されているのだが…、これがおそらく『熊野夫須美(フスミ)』ではないかみる。クマノフスミは熊野速玉大社や熊野那智大社の御祭神であり、その正体はイザナミとも云われるが、クマノクスビ本人という説もある。
…何故、宮下文書以外ではクスヒコがクスビに変更されてしまっているのだろうか?。個人的にはフスミ同様に、クマノクスビとはクマノクスヒコとウサミの掛け合わした造語に見えるのだ…。例えば下記『大将軍神社』の 御祭神はイワナガヒメとその家族 で、その神社の別称は『須美社』という…。
〇『大将軍神社』(京都府京都市北区西賀茂角社町)
~御祭神~
・イワナガヒメ(イワナガヒメとその家族四柱を祀る)
別名『須美(すみ)社』或いは『角社』。
さらに熊野信仰が伊豆国に凱旋、紀伊宮信仰=『来宮(きのみや)』信仰となったとみる。そもそも伊豆半島北部には熊野神社が多く、別の理由も考えられるが…。
静岡県伊東市馬場『葛見神社』には謎の神『葛見神(クズミ)』が祀られており、『伊東の宮』の比定地とみる。『曾我兄弟の仇討ち』で有名な伊東祐親所縁の神社で、鎌倉時代には伊東祐時が日向地頭に任命され、宇佐神宮~日向周辺に流入し日向伊東氏となり宇佐イトウ神とも繋がる。後世には藤原南家伊東氏族にも宇佐美氏が登場する。また同市内八幡野にある、伊豆国府八幡宮の『八幡宮来宮神社』の御祭神『イワクラワケ』は、おそらくイワナガヒメの親族ではないか?とみている。
ウガヤ王朝期の宇佐神宮とは。
つづいて、天孫降臨後の初代ウガヤ王の時代。
タマノオヤ西征後、富士高天原は大陸人襲来に備えて九州遷都を敢行、その最終調整のため、再び西征が必要になった。宮下文書には単に『大賊』の平定と記載されているが、これが『第二次外寇戦』とみる研究家もいる。
西征者に任命されたのがスクナヒコナとオオクニヌシの孫にあたる健磐龍命、九州地方にて抵抗する大賊らの統治へ向かう。一般的に健磐龍命は、神武天皇の孫とされているので注意。その拠点として十万余神の軍勢を集めたのが『穴門の住防の宮』(=長門一宮・住吉神社?)。
宮下文書には詳細が書かれていないが、健磐龍命は道中、『幣立神宮』(熊本県上益城郡山都町)の創建にも関与しつつ南下、最終的に夏至レイラインで富士山と繋がる、霧島山高千穂峰に到達したとみる。この地が最終的に、ウガヤ朝の信仰拠点となる。
初代ウガヤ王朝の代。豊玉男命の八子が海の守りの全国主要水門を守護し始める。宇佐豊武命は初代タマヨリヒメの実兄、初代ウガヤフキアエズの義兄。彼らは穴門周辺をガードしていた先住民富士高天原勢力、つまり宇佐神宮役割とは富士東国先住民による西国統治の海軍拠点であったのだ。
~豊玉男命の八子(息子のみ娘は含まず)~
・宇佐豊武命 総元帥大本営 (宇佐の宮)
・佐津真命 (佐津真)
・日野前佐武命 (長崎)
・大阿佐彦命 (阿波)
・那珂三井男命 (初古崎)
・玉縣彦命 (対馬)
・石田明男命 (伊岐島 )
・羽茂猛命 (佐渡)
彼らは小高い岡の上に八旗を掲げ八幡大神宮と称した、これが宇佐神宮南の『大元神社』とみる。ただ八子=八幡ではない。豊玉男命の息子たち八子は宇佐神宮摂社『八子神社』にしっかりと祀られているし、『承久記』には八幡=皇祖と定義されており、彼らは皇祖といえる立場ではない。
…では八幡とは誰なのか?。
やはり私は、八王子の一柱タマノオヤが相応しいと思う。そして比売大神イトウは伊豆大神イワナガヒメ。ホツマツタヱ(28文)ではイワナガヒメ=ヤマタノオロチ(=ハヤコ・ハヤサスラヒメ)転生としっかり明記されている。
ヤマタ=ヤワタ(八幡)である。
宇佐八子勢力はいわば海軍or海上保安庁として活動し、その勢力は壱岐、対馬、佐渡島、伊豆国三嶋大社から伊豆諸島ら離島にも及んでいた。中国地方の出雲渡来人やその他漂流者を監視し、何かあれば鎮圧行動に出ていた。
しかし中国地方渡来人の視点で見れば、まさに弱者をイジメる悪神ヤマタノオロチに見えたわけだ。前述した、宇佐神宮由緒書にて八つ頭の龍が現れたのも、イトウ=イワナガヒメ=ヤマタノオロチを暗示していたのであろう。
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神武期の宇佐神宮とは。
それからウガヤ王朝51代後。神武天皇の代の海守大本営は3ヵ所、副本営本管副本陣を12ヵ所になる。やはり豊玉男命子孫を元帥に配置。
海守三大本営大本陣
・武勇男命(摂津水門、住吉の宮)
・高照武命(中之島土佐和野の水門 高加茂の宮)
・武田建命(祖古都八ツ幡の宮)
神武天皇の代から、海守三大本営に『住吉三神』が祀られる。宮下文書版住吉三神とは津都王三神、富士先住民歴代の偉人らしく宇佐の摂社『住吉神社』にも祀られている。北東本宮小室浅間神社にも祀られており、富士朝信仰にとってもかなりの重要神と思われる。後世、ホツマツタヱ成立期に登場する宗像三女は宮下文書に未登場、どうやらこの住吉三神と八王子三女のコンセプトを組み合わせた存在ではないかとみる。
~住吉三神~
・住吉の宮・上津都王神(上筒之男命)天之世天之神七代の大御神
・土佐和野水門・中津都王神(中筒之男命)天之御中世火高見神十五代の大御神
・宇佐の宮再興・祖古都王神(底筒之男命)高天原世天神七代の大御神
こうして、中国地方を拠点にしていた渡来人たちが蜂起する。神武天皇が平定の為に東征、中国地方渡来系らはスサノオ・オオクニヌシ・大物主・ウマシマジ子孫らに監視される立場となる。おそらくは、この宇佐神宮のワダツミ八子=富士朝先住民勢力の威圧的な行為も受けてきたのであろう。これが、最終的に欠史八代まで続くことになる。
しかし、10代崇神~12代景行年間までに中国地方渡来系は勢力を増し、立場が逆転。長年犯罪者扱いを受けた彼らは免罪と待遇改善を要求し、ヤマトタケルが法の番人スサノオを信州出雲戸隠にて封印させることに成功。西国天皇勢力は、彼らに国(中国地方)を譲らざる得なかった。これが出雲『国譲り』の正体で、景行年間前後に起きた政変とみる。 富士朝先住民の防衛の要、ワダツミ八子は悪役に姿を変えて、ヤマタノオロチとされてしまった訳だ。
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ホツマツタヱと日本武尊に『醜く』されたイワナガヒメ。
景行年成立のホツマツタヱ(24文)は、とある有名な神話を生んだ。
ニニギの嫁候補、姉イワナガヒメと妹コノハナサクヤが対立。最終的にニニギは美人のコノハナサクヤを選んだとされるが、この舞台『伊豆崎の仮宮』こそが伊豆山ではないかとみる。皮肉なことに、この姉妹喧嘩神話が解明のヒントになった(苦笑)。
結局…、この神話は何がいいたいのか?。
タマノオヤのニニギの功績をすり替え、イワナガヒメとコノハナサクヤを執拗に対峙させることによって、この神話の意図してきた裏話が浮き彫りとなってくる。どうやら宮下文書『ニニギ外寇親征の役』と『タマノオヤ西征』を、後世のホツマツタヱが、まとめて『ニニギ国土開発史』にすり替えたとみる。これによりタマノオヤの活躍が消滅してしまい、当時の人々は、それぞれの妃イワナガヒメとコノハナサクヤの姉妹喧嘩と風刺していたのではないか?。次第に人々はイワナガヒメを恐れ、神名も華やかなコノハナサクヤと対照的なこともあり、全国的に醜い祟り神としての特質を帯びてきたのだろう。
結果的には、ニニギ天孫降臨に随伴したの五伴緒神として、彼らの活躍は辛うじて後世に残ったようだ。
~ニニギ天孫降臨・五伴緒神~
・アメノコヤネ(藤原氏祖)
・フトダマ(蘇我氏祖)
・アメノウズメ(菅原氏祖?)
・イシコリドメ(作鏡氏祖?)
・タマノオヤ(オリジナル八幡神?)
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その他の手がかり
またGoogleマップ線引き機能で、伊豆山『本宮社』と宇佐神宮奥宮『大元神社』をレイラインで結ぶと、ドンピシャで神武天皇拠点『橿原神宮』を通る。これは今まで見てきたどのレイラインよりも高精度、ただ現存する橿原神宮は明治23年(1890年)に考古学的推測を元に創建されたもので、不明な点が多いようだ。
前述の『大将軍神社』(京都市北区)のように、歴代東征者が天孫降臨を准える神として、或いは軍神として軍事利用してきたのではないかと。また後世、戦国武将の武田信玄らが使用していた『日月軍配』とは、八幡神を象徴しているのではないだろうか…?ともおもう。
また鎌倉時代には日向などに伊東氏が流入、このへんは北条得宗家の思惑があったとみられ、その後頼朝の落胤説がある大友氏族による『ウエツフミ』改竄説がある。ウエツフミには、富士朝は存在していないように記載されている。
また、現代の出光興産と宇佐美鉱油の関係も面白い。『海賊呼ばれた男』で有名な出光佐三の祖先は、前述した到津(いとうづ)氏と同祖、宇佐神宮大宮司であり本姓『宇佐氏』。1967年に出光単独特約販売店(有)宇佐美共栄社を設立した宇佐美史郎と意気投合していたようだ。しかし二人の出会いはあくまで偶然だったようだ。
このように伊豆山神社と宇佐神宮には、東国と西国、東征と西征の歴史が眠っているのではないかとみる。
※地図はクラフトマップ使用。