セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

藤原仮冒と関東源氏が消されたワケに挑む、見えてきた瀬織津姫と御霊大神の並祀理由?。

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1247宝治合戦・頼朝公影堂にて三浦氏は集団自決する。

 

『暫』と『源義忠暗殺事件』に潜んだ真相。富士朝・加茂次郎子孫は鎌倉幕府に貢献していた。 - セキホツ熊の謎を追え!

<レイラインの美学⑬>鎌倉幕府と御室山の繋がりにみる御霊大神。三浦半島は富士朝のお膝元であった。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

2020,1,19

関東の源氏が大繁殖していた件

東国の武士は武芸百般にして強かった。鎌倉時代、西国天皇勢力が1221年『承久の乱』などで鎌倉転覆を謀ってきたが、簡単にはいかなかった。

そんなに誰もが強かったのだろうか?。

個人的に考えるのは、平安後期~室町時代は『源氏』の子孫も多かったのではないか?ということだ。鎌倉武士というのは単なる、無名武士による下剋上ではなく、まだ世の中は源氏というブランドに甘んじた過渡期だ。結局は室町時代まで、そのブランドに左右されていた時代であった。

具体的に言うと、前三年・後九年の役で八幡太郎義家に従って活躍した源頼信らが知行を賜り、定住し始めた時期らしい。武蔵国の半分は、桓武系平氏ではなく、清和源氏・河内源氏が統治していたようだ。


~Wikipedia武蔵国司より~

(権守)源満仲(949年 )従五位上。別名・多田満仲。

藤原斯生(969年3月 )。

(権守)菅原幹正(993年5月 )。菅原道真の曽孫。

源満政従四位下。源満仲の弟。

源満季従四位上。源満仲の弟。

菅原修成(995年 - 996年?)。

藤原寧親(996年 - 999年10月19日)従五位下。

平行義(1004年7月 )。

源頼貞(1017年10月 )。源満仲の子。

(姓欠)為時(1018年3月 )。

源頼平 源満仲の子。

藤原惟経(1040年1月25日  )

菅原是綱(1075年5月 )。

藤原長賢(1091年1月28日 -)

藤原成実(1095年 - 1102年7月11日)従五位下

藤原行実(1103年2月30日任 - 同年8月13日 卒)正四位下。

源顕俊(1103年11月1日任 - 1107年7月24日」)従五位下。62代村上源氏。

藤原長賢(1004年)。

源義家(1108年8月 )。源満仲の曽孫。

 

上表を見てみても、平安後期から源満仲や八幡太郎義家などが、武蔵守に就任している。つまり、夏至レイライン上の重要東征拠点、大国魂神社や小野神社を源氏保護下においていたのではないかと。

そして源満仲子孫を中心として、秩父・児玉から多摩・足立にかけ領主になっている。一言源氏といっても多くあるが、鎌倉武士『武蔵七党』の誕生の背景には、桓武平氏と共に清和源氏(河内源氏)が潜んでいたことになる。

これは関東の歴史を根底から考え直す転機となりそうだ。

宮下文書曰く『(源)満仲の第四子に頼信に、頼義、頼清、義季の三子あり、義季は兄頼義に従い、前九年の役の功績により、武蔵国の半分を賜り、柏木右衛門佐義季と称した。三子あり。嫡子隼人正義長に久良岐、都築、多摩、橘樹、入間、前玉(行田?)の六郡を賜い、次子二郎太輔頼盛に秩父、児玉の二郡を賜い、三子三郎兵衛頼高に、足立、豊島の二郡を賜われた。』

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ここで久良岐という具体的な地名が出てきたので、ネットで当時の様子を調べてみると『武藤氏』の名前が出てくる。武藤頼平は自称藤原北家と称し、子・武藤資頼は、源平合戦の折、源氏方に投降し、三浦義澄に預けられ後、少弐氏として鎮西奉行から元寇で活躍し興隆する。その武藤資頼の孫・武藤景頼が系図によっては安達頼景と重なるのだ。またWikipediaによると安達義景・母は武藤頼佐の娘という。鎌倉中期(1247年)宝治合戦、武藤氏は三浦氏を滅亡させた有力御家人・安達氏などにも血縁がある可能性が出てきた。

そして、前記事でも紹介したウマシマジ子孫の児玉氏。研究者の間には、藤原姓を仮冒している疑いがあったが、背景には源氏の血筋も入っている可能性が出てくる

春日蘇我氏族が武蔵国で大繁栄、藤原氏への復讐を果す。ウワハルとシタハルの正体。 - セキホツ熊の謎を追え!

また変わり種の『源氏』を言うと。 52代嵯峨天皇の皇子『宗康親王』は摂津の渡部に住んでいたので、渡部を称した。源頼光四天王・渡部綱道は武蔵国美田(東京都港区三田?)で生まれたので、『美田源氏』と称した。平家物語『劔巻』では渡部綱なる人物が『美田源次』とされている。幼名は多摩丸という。宮下文書によるとその後、源満仲と共に摂津渡部に戻り、源満仲の子・頼光は摂津源氏を称したという。渡部綱道六代目孫は渡部美濃守綱広は、平治の役後に三浦義顕とともに行動し、富士周辺(静岡県小山町)に隠れて彷徨い、48代宮下記太夫政仁に発見されている。

 

こういった隠れ源氏のケースは多かったのではないか。もちろん源氏の血が入っているのならば、何処かで藤原の血と繋がる訳で、『仮冒』呼ばわりされることもないであろうが…。一般的にもこの時代、藤原仮冒は横行していたと認識されている。しかし主眼はあくまで、藤原子孫を名乗ることよりも、源氏であることを隠すことにあるようだ。

 

では何故、源氏は隠されたのだろうか?。まず平家台頭や北条台頭など源氏復興衰退のイベントが多くあり、源氏自ら名を伏せた。さらに宮下文書的に視点で言えば、三浦氏族(源氏)が富士朝と繋がっているからだ。これは後世、歴史学者に真っ先に隠蔽改竄されることになったであろう。とくに賀茂次郎義綱の家系は、源氏研究者の間でも、殆どスルーされる傾向にあり。賀茂次郎と三浦氏族の繋がりなど、世間的には知る由もないのであろう。

そもそも源氏は、結束と裏切りにより繁栄してきた。源頼朝が弟・義経を成敗したのも、源氏裏切りと、頼朝自身の人間不信の背景があるからだ。源将軍家が途絶えると、北条執権政治~得宗専制が源氏たちに強いコンプレックスを抱かせた。即ち、源氏が有力御家人であることが災いとなり、源氏は潰された。源氏を頼り、源氏に怯えて、源氏を伐つ。そして北条氏得宗家や北朝足利将軍家の横暴により、彼らは源氏であることを隠さねばならなくなったのだ。

 そして1247年宝治合戦の背景も、実は源氏vs源氏とみる。河内源氏子孫の三浦氏族を滅ぼした安達氏背後にも、源氏の影響が見え隠れする。その後、この武藤氏は少弐氏と名乗り南北朝側につき、勢力を二分することになる。同じ八幡太郎義家の子『源義国』子孫であった北朝足利氏勢力にも南朝新田氏勢力にも翻弄されていく。

つまりは、鎌倉時代以降、室町時代まで源氏同士の潰し合いは、続いていたわけだ…。

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源頼朝を祀る『白旗神社』

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宝治合戦その後の三浦氏。

ここで三浦氏の最後を調べてみた。宮下文書によると。1247年宝治合戦。安達氏の和睦に見せかけた奇襲攻撃を受け、三浦泰村は鎌倉鶴岡八幡宮・東側にある、源頼朝影堂(上写真)に入り、一族270余名集団自決させた。Wikipediaでは光村は泰村の弟とされるが、宮下文書では胤義の子で、即ち泰村の従兄弟にあたる。宮下家に逃げのび、入道して『妙道』と称している。

また唯一の事件逃亡者、三浦泰村の弟・三浦家村は諸説あるが旁証なし。彼は1244年将軍家奉幣使として富士朝に代参し、島津忠久の息子・忠時の娘と結婚している。頼朝影堂にはなぜか島津忠久の墓がポツンとあるのだが、なるほど九州に逃れた可能性もありうるよな…と。その後『元寇』の文永・弘安の役で、目撃されたという話もあるようだ。

富士朝宮下家はこの後、新田義貞を支援して、北条鎌倉幕府を打倒する。そして南朝に加担し続け、足利将軍家の逆鱗に触れ、宮下文書大部分を焼き討ちにされている。

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桓武系平氏三浦氏から見えてきた、瀬織津姫と御霊大神のコンビネーション。

前記事で、『御霊大神』に富士朝の気配を感じる…といったことを覚えているだろうか?。大国魂神社の謎の神、『御霊大神』は、一般的に桓武系平氏『鎌倉権五郎景政』と言われている。Wikipedia鎌倉氏によると。三浦氏族は桓武系平氏平忠通の息子として派生する。鎌倉章名と三浦為通の分岐点と言われている。宮下文書にも三浦氏誕生の頃の三浦守『平太夫』と書かれているので、母方に桓武系平氏の血が入っていると思われる(上系図)。

宮下文書曰く

『義綱の嫡子義明は、源為義に従って鎌倉に下り、三浦平太夫為道の女子浦浪姫を妻とし、三浦郡で生活し衣笠城に住まう。久寿二乙亥年(一一五五)、下野那須野において、九匹の狐を退治した功績により、従四位上を授かり、三浦大佐に任じられた。』

一般的にはこの三浦(平)為道が三浦氏祖とされている。鎌倉氏祖『鎌倉章名』の兄である。

これだけみても、鎌倉氏族が三浦氏のバックボーンである宮下家に、近い存在なのが想像できる。いままでは鎌倉氏も三浦氏も、桓武系平氏出身と認識していたので注目してこなかったのだが。鎌倉権五郎景政は、大阪御霊神社にて『源正霊神』として祀られているのだ。鎌倉氏族に宮下家や源氏との繋がりは考えられないだろうか?。

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ここで冷静に、宮下文書とWikipediaで、相模国を時系列を振り返ってみよう…。

①800年、延暦富士噴火。

②801年、寒川神社周辺の東相模国高座郡(現在の高座郡寒川町)に、富士朝関係者が約300余人引っ越してくる。

②1104年平安後期に、鎌倉氏により、大庭御厨(現在の茅ケ崎市~藤沢市)が開墾される。1117年伊勢神宮に寄進される。

④1144年頼朝・父の義朝軍により大庭御厨収奪。1156年保元の乱以降、大庭景義と大庭景親は源義朝配下に鞍替えする。

⑤大庭御厨は三浦氏の所領となり存続した。1247年宝治合戦に三浦氏が敗れると、北条得宗家の所領となる。

 

 あれ…!?

鎌倉→三浦→富士朝繋がった!

こうしてみると、鎌倉氏のいた地域は、富士朝関係者が300余人逃げてきた地域、すぐ南方になるのだ。寄進型荘園『大庭御厨』というのは、富士朝関係者による大規模移民開拓が関与しているのではないか?。そして鎌倉氏と宮下家には、婚姻関係が発生し、源頼義が関与しているのだ。

宮下文書曰く

『大森駿河守頼茂は、太神宮の太宮司即ち大山守皇子三十八代目の孫であり、宮下記太夫親明の曾孫である。(中略)親明に一子あり元若という。其のとき二歳で母と共に大森の館で養われた。源頼義が烏帽子親となって元服し、大森頼親と称した。鎌倉権正景任の女子である鶴司を妻とした。頼義は頼義に従い、前九年の役に功をあげ、駿河庄司に任じられた。又源義家に従い、後三年の役の功績により駿河守となる。』

 

ここで『鎌倉権正景任』なる人物は、ネット上ではヒットしない。上系図のように『鎌倉権五郎景政』と考えると年代が合わないかもしれない…。しかし、近い存在と考えてよいのではないか?。一般的には1144年源義朝軍が大庭御厨を収奪したことになっているのだが…。上記だけをみても宮下文書記述と食い違いをみる。私には、鎌倉氏と源氏が、単に対立していたとは思えないのだ。

 

 

ところで何故、私が『御霊大神』に執着するのかとういうと…。

大国魂神社記事で述べた『日月神示第5帖』には、ヒムカと大庭御厨が並記されている箇所があるのだ。

<神社めぐり>大國魂神社①最強サクナダリ神社に、瀬織津姫が祀られている可能性。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

~日月神示第5帖~

富士とは神の山の事ぞ、神の山はみな富士と言うのぞ

見晴らし台とは身を晴らす張らす所ぞ

身を晴らす張らすとは身の中を神にて張る事ぞ

臣民の身の中に一杯に神の力を張らす事ぞ

大庭の富士を探して見よ

神の米が出て来るからそれを大切にせよ

富士を開くとは心に神を満たす事ぞ、ヒムカとは神を迎える事ぞ

ヒムカはその使いぞ

ヒムカは神の使いだから九この道を早く開いてくれよ

ヒムカのお役は人の病を直して神の方に向けさすお役ぞ

この理みちをよく心得て間違い無い様に早く伝えてくれよ



因みに前記事にも書いたが、個人的にヒムカ=瀬織津姫と仮定する。

上記文章を読んでいると、ヒムカと大庭(御霊)を並祀することに、何か重要な意味が隠されているのではないかと思うのだ。大庭の富士とは、神奈川県藤沢市『長後の富士塚』だろうか?。確かに藤沢市内は御霊神社が多い。ヒントは鎌倉御室山レイラインにあるような気がする。

<レイラインの美学⑬>鎌倉幕府と御室山の繋がりにみる御霊大神。三浦半島は富士朝のお膝元であった。 - セキホツ熊の謎を追え!

御霊大神と瀬織津姫のコンビネーションは、東京都府中市『大国魂神社』のほか、大阪市中央区『御霊神社』にもある。前述したが、ここでは鎌倉権五郎景政を『源正霊神』として祀っている。主祭神・瀬織津姫には亀井茲矩が関与している。亀井氏は大國魂神社同線上の日出日沈レイライン上、鳥取県鳥取市『白兎神社』にも、大阪御霊神社御祭神を関与させている。大庭御厨付近(藤沢市)にも亀井六郎重清が神奈川県藤沢市亀井野『亀井神社』を創建している。なにかありそうな…。

<レイラインの美学⑪>日本の東西を繋ぐ『日出日沈レイライン』。江戸幕府の理由、そもそも武蔵国は都になるための約束の地だった!?。 - セキホツ熊の謎を追え!

そして宇多源氏や佐々木氏の気配も感じる。佐々木秀義は平治の乱後に三浦義顕を匿い、その四兄弟は源頼朝挙兵を助けている。亀井氏や武藤氏や少弐氏は、宇多源氏系統の『目結家紋』が暗躍しているのだ。

 

御先祖様の『仮冒』を偲んで。

正月ブログを休ませてもらって、熱中していた事があった…。

実は、宮下文書に私のご先祖の関係氏族がでていたのだ。個人的に歴史は苦手なため、youtubeやWikipediaで知識を補強しつつ、宮下文書を何度も読み返す作業になった。身バレしない程度に、その結果を書いてみたいと思う。

今まで私のご先祖は、単に藤原の仮冒と認識してきたのだが…。そもそも家紋が源氏系統であるし、祖父の地元祖霊社に祀られている氏神が、八幡神・三島神・春日神・住吉神・三貴神で、富士朝色を色濃く感じさせる構成になっている。どうやら私の関係氏族は、関東に所縁を持つ源氏ではないかと。

同時に私の先祖が繁栄して、衰退落城したとある小さい集落。周辺地域(関東圏以外の地域)では、異様と思われるほど、カモサワヒメ系神社が多い地域ということもわかった。詳細は言えないが、ナキサワメを単一祀ること自体、珍しいので…かなり強烈な富士朝信者であったと思われる。個人的にこの地元神社をナキサワメ=カモサワヒメの根拠にしているわけだが…。

時代は変わり、祖父は地元宮大工奉公からイジメを苦に東京に逃亡、浄土真宗?に鞍替えしてきた。もともとウチの先祖は、隠居後出家していたらしい。さらには、仏教のほうがカッコよかったそうだ(笑)。

戦後になり祖父は、相模一宮寒川神社だけは執着し、吉祥寺から小田急線で2~3時間かけて律儀に通っていたという。頑固真面目な祖父の性格からすると、あの神社に何かしら感じるものがあったのだろうか?。祖父亡き今、知る術もない訳だが…。

因みにカモサワヒメとは別雷命であり、三嶋神であり、寒川比女命のことである。そして神名帳考証・神名帳注釈によると、相模国・寒川神社祭神は『澤女神(ナキサワメ)』。

私自身幼少の頃から三嶋大社や伊豆山や大室山など、伊豆国に親しんでいた環境であったが、家族は今、伊豆国に住んでいる。三嶋大社にも近い。私の家族に話しても、『ふうん』『あっそ』と軽くあしらわれるのだが…(泣)。

 

伊豆国三嶋大社・加茂澤毘女にトコトコついてくる瀬織津姫の不思議①。 - セキホツ熊の謎を追え!

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※地図はクラフトマップ使用。

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