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2020,1,26
武蔵国にて大繁栄した、源氏の痕跡を探せ
前記事にて。平安後期~鎌倉時代の武蔵国半分を源氏統治していた事が判ってきた。一般的に武蔵国は、桓武系平氏が幅を利かせ、源氏が入る余地などなかったと言われている。しかし蓋を開けてみれば、源義季(源頼季のことか?)らが武蔵国半分を統治していた。三浦氏も富士朝と繋がる源義綱子孫だったわけで、関東源氏勢力図がガラリと変わることになる。
国府・大国魂神社周辺には源義家が苗を奉納した『馬場大門の欅並木』が残る。武蔵一宮『小野神社』でも源頼義参拝の社伝が残っている。武蔵国に源氏が多くいたのであれば、必ずその拠り所となる祈願所が存在するはず。そして、それらは覇者線である『夏至レイライン』周辺と考えている。坂上田村麻呂は夏至レイライン上、東京都武蔵野市吉祥寺『武蔵野八幡宮』を創建させた。源頼朝は東京都杉並区井草『井草八幡宮』を八幡宮に整備し直した。源経基は東京都三鷹市井の頭『井の頭弁財天』を創建した。
では源頼義と源義家は?、彼らは一体どこを必勝祈願所にしたのであろうか?。
実は…なんと東京都多摩市聖蹟桜ヶ丘『小野神社』付近に、しっかり痕跡があったのだ。夏至レイラインの重要な案内者である『瀬織津姫』も絡んでいた可能性がある。
源頼義と義家の武蔵国痕跡。
・源頼義、前九年の役(1051~1063)にて奥州騒乱を平定する。清原氏の後援もあり、奥州安部氏を討伐成功。嫡男・義家も従五位下出羽守に任命される。次男・義綱は右衛門尉に任命される。
・源義家は、別名『八幡太郎義家』。桓武系平氏・平直方娘を母に持つ。後三年の役(1083~1089)にて清原氏内紛が勃発、争いに巻き込まれつつ平定する。
源義家と弟の義綱の不仲説があるが、宮下文書においては宗家嫡流に義綱子孫が、忠実なまでに従い続けている。結果的には富士朝と合流し、鎌倉幕府、将軍頼朝にも貢献している。
同じ宮下文書によると、源義季(源頼季?)は前九年の役の功績により武蔵国半分を所領とし、柏木右衛門佐義季を名乗る。その柏木氏には三兄弟おり、長男・隼人正義長が久良岐・都築・多摩・橘樹・入間・前玉を所領とする。これが同時代の藤原北家祖を自称する『武藤氏』と関係が出てくるかは、只今調査中…。ただ、武蔵野(東京西部)の神社社伝を辿ると、その領地に源氏痕跡が浮き彫りとなり、武蔵野半分が行動範囲にされていたことが見えてくる。
武蔵国内諸社の伝承を紹介するが、伝承によっては奥州討伐下向と凱旋が、混同されている場合もあるので注意。
〇武蔵国府・大国魂神社(東京都府中市)
康平5年(1062年)、前九年の役凱旋の折、源頼義・義家父子が、欅の苗千本を寄進。これが現在、国の天然記念物に指定されている『馬場大門の欅並木』の由来。すももを供物として奉納、現在に至るまで7月20日に恒例の『すもも祭り』が催されるようになる。
〇武蔵一宮・小野神社(東京都多摩市)
永承6年(1051年)に源頼義陸奥守下向の際、義家と『太刀一振り』と『詠歌一首』の奉納する。吾妻鏡では養和元年(1181)四月一宮は吉富井蓮光寺と併記、建久四年(1193)八月の刻印ある経筒の銘が一宮別当・松連寺(後述)と記載。
〇大宮八幡宮(東京都杉並区大宮)
武蔵国八幡一之宮。前九年の役、平定後の康平6年(1063年)。八条の白雲を見た地に、吉兆を感じ石清水八幡宮を勧請したという。源氏一大拠点であり、頼義・義家東征祈願所という見方もできるが、残念ながら『夏至レイライン』からはかなりズレてしまう。
〇多田神社(東京都中野区)
寛治6年(1092)源義家が大宮八幡宮に参詣の折、当地に先祖・多田満仲(別名・源満仲)を奉祀。『贈正一位鎮守府将軍多田満仲公』を祀る。満仲は天暦3年(949年)従五位上武蔵権守。
〇荻窪八幡神社(東京都杉並区)
源頼義や太田道灌が戦勝を祈願していた。因みに頼朝の夏至レイライン祈願所である、杉並区善福寺『井草八幡宮』でも太田道灌が祈願している。
〇鷺宮八幡神社(東京都中野区白鷺)
康平7年(1064)、源頼義奥州討伐後、鎌倉街道に面した当地に創建。
〇兜神社(東京都日本橋兜町)
前九年の役の折、源義家がこの地の兜岩に戦勝祈願した。現在、東京証券取引所の御鎮守とされている。
〇千住神社(東京都足立区)
『史蹟 八幡太郎源義家陣営の地』碑がある。
〇高松八幡神社(東京都練馬区高松)
源義家が、康平7年(1064)前九年の役後、戦勝に感謝して八幡宮を創建。
〇高幡不動尊(東京都日野市)
清和源氏の祖・56代清和天皇の勅願で、円仁により開山された東関東鎮護の霊場。天喜4年(1056年)源頼義公が奥州征伐に際には、八幡社を勧請して、のちに稲荷、丹生、高野、青龍権現を合祀して五部権現と称する。後述の百草八幡神社近く。
〇狭山神社(東京都西多摩郡瑞穂町)
創建年代等は不詳、源義家が永承年間(1046-1053)、箱根権現の霊夢により、当地に箱根権現を勧請。小野神社とは立川断層レイラインで繋がる。
〇下落合氷川神社(埼玉県さいたま市中央区)
源頼義・義家父子が奥州討伐凱旋の折、戦勝御礼に笠間氷川大明神を創建。
〇白幡八幡大神(神奈川県川崎市宮前区)
源頼義が康平4年(1061)、奥州討伐後に創建。もしくは源頼朝が建久3年(1192)に創建という説有。
※因みにネット上誤情報が多いので、改めて書かせていただく。武蔵野八幡宮が遷座してきたという情報があるが、延暦8年創建時から現地『井の頭池』近くにあった。
長禄2年(1458年)太田道灌が江戸城築城の際、井戸から『吉祥増上』の金印が発見され青巖周陽を開山。その後江戸幕府により『吉祥寺』として、天正19年(1591年)駿河台に移動→明暦の大火(1657年)により駒込(現・文京区水道橋付近)に遷される。さらに火災で、その吉祥寺門前住民が武蔵野八幡宮付近に集団移住してきて、吉祥寺村集落を形成した。
つまり武蔵野には住民と地名だけが移転してきたわけで、吉祥寺と武蔵野八幡宮が駒込から遷された訳ではない。この複雑な事情を、混同しているブログが多すぎる(泣)。この『吉祥寺』自体は、現在も文京区駒込三丁目に存在している。詳細は吉祥寺(文京区)Wikipedia参照のこと。
…というか、ここにも太田道灌が絡んでくるところがスゴいな。やはり只者ではない。
実はスゴイ霊場であった『百草園』『百草八幡神社』
東征者が夏至レイラインに祈願するのは当然のこと…?。
源氏が氏神である八幡神を祟敬するのも至極当然のこと…。
しかし考えてみれば、夏至レイライン上小野神社には『八幡神』が祀られていない。源頼義は武蔵一宮・小野神社でも『太刀一振り』を奉納し必勝祈願をしているが、結局は他八幡宮にも祈願しているようだ。過去も現在も、小野神社から一番近い八幡社になるのではないだろうか?。そしてこの霊場に、研究者曰く幻しの大規模寺院、『真慈悲寺(しんじひじ)』が存在していたという。
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※百草八幡神社すぐ隣、『京王百草園』は現在、梅苑として営業している。
〇百草八幡神社(東京都日野市百草)
~御祭神~
・誉田別命
・気長足姫命
・武内宿禰
・源義家
※因みに現在の百草八幡神社は、一宮小野神社(多摩市)の担当の兼務社になっている。
古くは古八幡宮、古富(吉富?)八幡社などと呼ばれた。真慈悲寺よりも以前に、寺と八幡社が先行して存在していた。『新編武蔵風土記稿』によると、奈良時代天平年間(729~49)道璿の高弟・道広が先行的存在の寺を創建した。八幡社社宝の石造狛犬にも『天平』と彫ってあり、奈良時代には存在していたと思われる。因みに現在の鉄筋コンクリート製拝殿近く、テカテカ光る「天平寶字」と彫られた狛犬は、どう考えてもレプリカ。
1062年源頼義が奥州討伐の際、岩清水八幡宮の霊土を埋め、その上に八幡社を再建された。そして戦勝後(?)に伽藍坊門を建てた。源義家も武器や木造を奉納している。1192年鎌倉幕府を立ち上げ直後、鎌倉幕府将軍・源頼朝も『太刀一振』を奉納。
結局この『百草八幡神社』は、『真慈悲寺』の境内(伽藍)鎮守に変化したとみる。
鎌倉幕府記録書『吾妻鏡』の文治2年2月3日条によると、『御祈祷の霊場』とある。武蔵国にいつの頃からか、忽然と現れた重要拠点であることが推測される(時期的には平安後期から鎌倉後記か)。規模は、武蔵における国分寺や浅草寺にも匹敵すると言われ、一時期は五百石の祭田があった。しかしこの吾妻鏡によれば、財政事情は寄進荘園もなく深刻であったとも指摘されている。
新田義貞と鎌倉幕府の正慶二年(1333)『分倍河原の戦い』において伽藍は焼失、寺領も失われた。源氏新田が、自らの祖先の寺社を焼き討ちにするとも考えにくいが…。寺側が鎌倉幕府側に加担していたのかもしれない。
夏至レイライン上『人見稲荷(六所宮客来三所之神)』も同年、北条高時と新田義貞と合戦中に焼き討ちされている。その後、武藤資頼の代から4代頼次の屋敷が破壊され、旧記が消失している。同時期に、源経基創建の井の頭弁財天(東京都三鷹市井の頭)も焼失している。反鎌倉勢力『新田軍』南下の激しさを物語っている。
こうして僅かの記載だけを残し、真慈悲寺は忽然と消えてしまったのである…。以後戦国時代まで山城『百草城』として曲輪・腰曲輪・堀切などの遺構を残しており、平野部をなんと『筑波山』まで一望できることから、後北条氏に要塞化されたものとみる(下写真)。このような戦国空白時代が、真慈悲寺研究をさらに困難なものとしているのではないだろうか。
江戸時代になると、魯庵や小田原城主六代大久保忠増の室『寿昌尼』らが当地に慈岳山松連寺が建立する。前述した鎌倉時代の小野神社別当寺『松連寺』とは時代が合わないのだが…全く別の存在なのだろうか?。この松連寺に、阿弥陀仏像や源義家木像や軍器などが寺宝として継承された。百草八幡神社も松連寺の別当とし再興される。
真慈悲寺は長い間、日野市百草地域にあることは推測されていたようだ。建長2年(1250年)に、武蔵国多西郡吉富郷(百草・落川および多摩を中心とした地域)に存在していたと記されている。
京王線百草園駅~聖蹟桜ヶ丘駅中間地点には大規模遺跡『落川・一の宮遺跡』があり、古墳時代・平安時代~十四世紀に渡る住居・祭祀・鍛冶炉跡などが点在している。おそらく、『小野神社』信仰を中心とした『小野郷』であり、武蔵国府大国魂神社のオオナムチが顕現された地と比定される。また東京都教育委員会によると、『日本紀略』に記載されている『小野牧』にも関係するという。明治時代の廃仏毀釈の折、小野大神・瀬織津姫から強制分離された『文殊菩薩像』が安置された、『真明寺』(慶長年間創建)もほぼ同遺跡上に存在する。
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宮下文書にも『小野神社』が出ていないか、注意深く探してみた。…ごく僅か、富士朝による多摩地域の関与が記載されている。
四世紀後半?51代応神天皇の子、大山守皇子のさらに子が富士朝に入り五王子を産み、それぞれ吉田氏を称す。これがおそらく山梨県富士吉田市の由縁。『第四王子吉田四奈摩古男は陸佐志(むさし)国の県主となった。亦、吉田氏と称し小多摩(小玉)関戸・大久保・高井・諸氏の祖である。
『関戸』というのは現在の多摩市一宮の隣、聖蹟桜ヶ丘駅周辺~旧鎌倉街道沿いをいう。近くに関戸城跡がある。そういえば多摩市桜ケ丘にある山神社前に『寺方大屋敷』という史跡があるな…関係ないかもしれないが(妄想)。
近年昭和32年京王電鉄が、廃寺とされた松連寺跡地を買収、松尾芭蕉句碑や若山牧水歌碑などがあり、周辺を梅苑として整備する。園内トイレを設置するので発掘調査をしたところ、13世記ごろの瓦が大量5000点発掘されていたという。中には、『蓮華唐草文軒平瓦』という特徴的なものもある。研究者の間でも、真慈悲寺のもので間違いないとの声がある。
武蔵国に残る、大国主と八幡神のお話。
武蔵国には面白い伝承があるのを思い出した。
大國魂神社ホームページによると。その昔、大国主が武蔵国に散歩しに来たときに、八幡神が案内したそうだ。八幡神は『宿を探してくる』といい残し、大国主を一人にした。しかし八幡神は戻ってこない。大国主は『もう待つのはいやだ』といったという。ゆえに大国魂神社には『まつ』の木がないのだという。正月にも門松は出さないそうだ。
東征者は本来、武蔵国小野神社か大國魂神社のオオクニヌシを祀るのが、習わしなのだろう。しかし源氏がこの国で八幡信仰を優先させた為、大国主信仰にイレギュラーが起きたのかもしれない(笑)。上地図の夏至レイラインも、複雑化しているのが見て取れる。
現状、関東で一番普及しているのが八幡信仰であるし、それはだれもが認めるところ。では、誰が信仰を拡散させたのだろうか?。やはり、桓武系平氏ではなく…源氏ではなかろうか?。
※地図はクラフトマップ使用。www.craftmap.box-i.net