セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<偽書のススメ9>富士延暦噴火を免れた古代書・宮下文書のその後と、その管理者たち。

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2020,2,11

宮下文書末路、涙の消失…。最後まで残ったものは?

 

~宮下文書管理者まとめ~

 

基本的に現存する『宮下文書』は、鎌倉時代以降の複製のようだ。しかし管理人たちの涙ぐましい努力は、現代人に全く知られていない。宮下文書で一番称賛されるべきは、それら後世に継ぐ者たちであろう。彼らがいたからこそ、古代文書は伝えられたのだ。

とはいえ、南朝や宮下家側からみた、『勝者の歴史』に対する『敗者の言い訳』もある。…歴史を公平に見るのは難しい。

 

・27代宮下記太夫仁元の時代(平安時代初期)

800年富士山延暦噴火。高天原・小室・中室・大室をはじめ二十里四方、溶岩流に没す。禰宜祝等と徐福伝、古文書を相模国寒川神社に避難させ、太神宮『山宮』に対し『里宮』と称した。

806年平城天皇は坂上田村麿に命じて太神宮七廟中、四座を復興。27代宮下記太夫仁元を山宮と里宮の宮司を兼ねさせた。

 

・49代宮下源太夫義仁の代(平安時代末期~鎌倉時代初期)

1083年富士山の七ヶ所噴火を最後に、火山活動が終息に向かう。寒川神社宝蔵にある、膨大な古文書写本を開始、それに伴い、写本したものを太神宮『山宮』に移し返す作業も開始。

 

・56代富士宮下右近亮義高(里宮丸)の父、里宮宮司宮下記太夫明吉の時代(鎌倉時代後期)

1282年馬入河(相模川)の氾濫により、寒川神社宝蔵内の古文書が流失。それを庇い、明吉とその父国明の親子が共に溺死。

宮下文書曰く。

『古文書の現書、副書は悉く流失した。それ故、今は我が国神代の事を世に伝えられるのは唯一、複写古文書しか無い。』

 

・58代宇津左亮義利の時代(室町時代)

南朝の宗良親王、興良親王、尹良親王を富士朝・宇津峰南城にて守護していた時代。親王をお慰めする為、徐福伝・寒川日記海伊国開闢歴記・作田彦命歴代記などの古文書を写本して献上。これが後に幸いする。

 

・59代宇津源太夫宗正の時代(室町時代)

南朝親王を匿っていたことが北朝足利氏側に露顕される。宮下家の衰退、多くの神官は戦死。以後六代の記録途絶え、名を伝えるのみに留まる。

 

・66代宮下源太夫宗高の時代(江戸時代)

写本していた古文書の腐食が進む。腐食したものから複写開始。

 

・67代宮下甚太夫宗忠の時代(江戸時代初期~中期)

宗忠が領主・秋元摂津守喬知の重税・虐政に反抗。領主に向かい、正義を唱える。1668年金井河原で宗忠が斬首される。さらに宮下宗家の大宮司の職を剥奪。49代宮下源太夫義仁の弟、庄太夫重泰の十五世孫を大宮司とした。古文書が『龍の河原』にて焼却処分。49代宮下源太夫義仁が謄写していた寒川日記は消滅。しかし、領主の隙を見て一部隠匿に成功。このとき58代宇津左亮義利の写本が辛うじて残る。

 

宗忠の妹・豊女と従兄弟の富士源太夫義信が68代として宗家を再興。事実上、宮下家は神職以上に、古文書残編を保護することに徹したようだ。残る古文書写本を家の棟梁に結び隠す。

家中の者には『みだりに開けば失明する』と厳しく口伝。

 

・77代宮下元太夫義興の時代(江戸時代末期~明治時代)

1863年、宮下家大宮司の邸宅で火事。家族が、棟梁の古文書写本を邸宅裏の小川に沈め避難させ、駆けつけた一族がそれを保護。本館と秘蔵の宝は全て焼失。

1883年、宮下家一族相談の上、文明社会・明治において『失明することはない』と判断。奥の間で、身を清め、お祈り後開封される。

古文書(徐福伝・寒川日記・その他写本、南朝に関する記録等)が確認される。

 

 

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