セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<まとめ>鎌倉権五郎景政『御霊大神』と瀬織津姫の偶然の出会いを検証。

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御霊神社(神奈川県鎌倉市坂ノ下)、通称『権五郎神社』。

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2020,4,11

少し予定を変更。

大庭御厨と御霊神社巡りに行って来たので、今回は鎌倉権五郎景政についてまとめてみたい。鎌倉権五郎景政を知らない方でも一からわかる記事が必要かな?と思い、まとめ記事にした。

※前半は前記事のまとめで、ブログを継続的に読んでいる方は大阪・御霊神社の『瀬織津姫・天穂日レイライン』のあたりから読めばいいのかな…。


御霊信仰とは、不幸や恨みを抱えて死んだ、特定の人物を鎮魂させるための信仰、関西圏には様々な天皇貴族の御霊信仰があり、京都にある上御霊神社と下御霊神社が有名。

伝説性の人物は諸説出てくるもので、今回紹介するの鎌倉権五郎景政もそんな偉人の一人。彼の『御霊神社』も南関東を中心に多くの点在している。

世間的に見れば、平安後期の一武将にすぎないが、現代まで伝承が謎っている点は興味深い。伝承によると鎌倉権五郎景政は、最後まで武士の本懐を貫いた、後悔をもって死んだ魂でもないようにも思うのだが…。

 

<宮下文書>楠新両家が滅んだ上は足利一族を砕く大将は、我が国大日本にお前しかいない。 - セキホツ熊の謎を追え!

藤原仮冒と関東源氏が消されたワケに挑む、見えてきた瀬織津姫と御霊大神の並祀理由?。 - セキホツ熊の謎を追え!

鎌倉権五郎景政まとめ

鎌倉権五郎景政は歌舞伎『暫』のモデルともなった人物で、知る人ぞ知る平安武士の武士先駆け的存在。江戸時代、歌舞伎『暫』は始めからフィクションとして成立しているのだが、加茂次郎義綱(宮下文書ではのちの三浦氏)を救出させるあたり、宮下文書史実に対する、何かしらのメッセージ性を感じる。

一般的には、鎌倉権五郎景政と三浦為継のやり取りが有名。後三年の役合戦にて景政の左目に矢が刺さる、それを同族の三浦為継が矢を抜いてあげようと顔に足をかけると、『無礼モンがあ~!!』といきり立ち、為継が陳謝せざる得ない状況に陥ったという(笑)。Wikipediaによると、三浦為継姉妹が鎌倉景通に嫁いで、梶原景久(梶原氏祖)を産んでいる。これはその鎌倉氏族内の協調関係を裏付ける逸話であろう。

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系図

~鎌倉氏系図~

鎌倉氏系図は諸説あり、一般的には三浦氏も鎌倉氏も同祖。桓武系平氏と言われている平忠通子孫だが、三浦氏は加茂次郎義綱の子、義明の血が入り、鎌倉権五郎景政は神号『源正霊神』ともいわれ、両家とも源氏と富士朝の陰がチラつく存在なのだ。

また『尊卑分脈』では系図が異なり、景政の三代孫が梶原景時とされ、現に梶原御霊神社(神奈川県鎌倉市)や御霊明神(東京都八王子市梶原八幡近く)では梶原氏が『祖神』として景政を祀っており、ある程度の信憑性はある。

Wikipediaによると、大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏一族五家の祖を『五霊』と列し、その筆頭祖霊を景政『御霊大神』として祀るとの説もある。

 

~三浦氏系図~

同祖スタートの三浦氏には、清和河内源氏・加茂次郎義綱子孫源義明が三浦義明として婿入りする。また富士朝にも三浦義顕が婿入りをして、清和河内源氏の血筋が入る。

即ち、清和源氏+桓武平氏+富士朝宮下家=三浦氏のバックアップがあって、源頼朝は鎌倉幕府を成立させることができた。

 

宮下文書には景政は登場しない。しかし、富士朝宮下家支流・大森駿河守頼茂は、源頼義が烏帽子親となり元服し、鎌倉権正景任の娘・鶴司を娶るとあり、鎌倉氏は富士朝とも縁戚関係があったということだ。

この大森頼茂は加茂次郎孫・三浦義顕らの敗走に同行し、現在の静岡県御殿場市付近にて隠遁生活を強いられていた人物で、のちに富士朝・48代宮下記太夫政仁により救出される。大森氏は室町時代以降の小田原城主とみられ、鎌倉氏は源氏と富士朝側と協調していたことが浮き彫りとなる。一般的に大森氏は、児玉氏同様に藤原仮冒氏族と思われているようだが、…それにしても関白・藤原伊周はあちこちで子作り名義に利用されているなあ。



時代背景

もともと関東、とくに鎌倉周辺は桓武系平氏色の強い土地柄であり、源氏が鎌倉幕府を開くにあたっては、やはり源氏と平氏との協調が必要となる。御霊信仰とは平氏鎮魂の象徴なのかもしれない。

 しかし宮下文書においては、関東にも源氏勢力が多数いたとの記述あり、特に武蔵国内の半分は源満仲子孫・柏木右衛門佐義季が治めていたとのこと。その後、柏木氏は富士朝関係者として活躍していたようだ。

源将軍家三代で滅亡…、そして梶原氏・和田氏・三浦氏衰退…北条得宗家の台頭…。源将軍家を滅ぼした北条氏は、桓武系平氏直方流であり、ライバル源氏に対して強いコンプレックスを抱いていた。富士朝のコネクションを持つ、三浦氏と同族和田氏を讒言で挑発し、自滅させることに成功。北条得宗家に権力が集中してゆくと、さらなる源氏潰しに警戒感を抱き、藤原氏仮冒をしていく『隠れ源氏』も出てきたとみる。ある意味、源平合戦の法則はまだ続いており、室町時代まで源氏は常に混乱の渦中にいたわけだ。

また北条氏は、1188年源頼朝が始めた富士朝『二所明神』詣をとりやめようとしていた節があり、1244年三浦家村や1245年三浦光村を将軍家代参させてきたが、1247年宝治合戦にて三浦氏ごと権力から追放した。両勢力が警戒心を持つのは当然なわけで、藤原摂家将軍家により二所明神を復活させるものの(家臣による代参が多い)、互いの不満は募るばかりであった。

こうして北条氏は富士朝の痕跡を消しまくり、源氏三浦氏(宮下家)は北関東源氏勢力(新田氏)と協力して、桓武系平氏北条氏もろとも討幕させる動きとなる。

※因みに1252年武藤左衛門尉景時?なる人物が代参している。

 

 まとめると御霊神社とは、関東から富士朝と源氏の気配を消すために、桓武系平氏を団結させ、信仰させたとも推測できる。富士朝への方位、即ち『御室山鎌倉レイライン』沿いに御霊神社が集中しているのは、その表れではないかと…。北条氏は富士朝三浦氏を敵にした、当然その報復と祟りを恐れたであろうし、鎌倉幕府への防壁として、桓武系平氏由来の『御霊神社』をレイライン上、複数建てたのかもしれない。

例えていうなら、それは後世、徳川幕府が『山王日枝神社』(東京都千代田区永田町)を江戸城鎮護とし、富士朝方面八王子周辺に小さい『日枝神社』を建てまくった状況に似ているのかもしれない。

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<レイラインの美学⑬>鎌倉幕府と御室山の繋がりにみる御霊大神。三浦半島は富士朝のお膝元であった。 - セキホツ熊の謎を追え!

この鎌倉期というのは、政治経済宗教のパワーバランスが崩れ、歴史の大規模改竄時期でもあった。北条得宗家が富士朝の痕跡を消そうとしているよい事例ともなる。

例えば伊豆半島の神道体系を悉く粉砕したのは、この時代に成立された『三宅記』であり、伊豆創世記に仏教要素を織り混ぜ、三嶋神が天竺からやって来たとした。これに、未だ多くの専門家が囚われている現状があり、富士朝由来の伊豆代表神、三嶋神カモサワヒメが封じこまれている元凶といってもよい。

※因みに、平安末期の三宅島というのは『宮下島』と表記した。鎮西八郎源為朝とともに流罪にあった、従者であった47代宮下源太夫明廣の弟、深巣二郎清国に由来する。三宅島自体の歴史が改竄されているとみる。

 

大庭御厨

 現在の神奈川県藤沢市周辺や鎌倉は、10世紀前半『平将門の乱』に関係した平良文の拠点で、鎌倉氏はその子孫にあたる。12世紀初め鎌倉権五郎景政が大庭御厨を開墾して、伊勢神宮へ奉納、以降鎌倉党本貫地とする。現在の梶原御霊神社(神奈川県)は、もともと源氏山にあったとも言われ、この源氏山の別名『葛原岡』というのは桓武天皇の子・葛原親王に由来するとの説もあり。この地域が桓武系平氏の色合いの濃い土地柄であった痕跡でもある。

 

宮下文書におけるこの地域は、坂上田村麿が800年4月富士山『延暦の大噴火』にて、富士朝『阿祖山太神宮』の大宮司、副宮司、諸神官ら349人を避難誘導させた地域と一致する。相模一宮・寒川神社(神奈川県高座郡寒川)は富士朝七廟より寒川大明神を勧請し、里宮としたものである。即ち、富士朝の息のかかった地に、桓武系平氏鎌倉氏の本貫地があったということにもなる。

また鎌倉氏族梶原景時の大屋敷は、寒川神社近くの『一宮天満宮』にあり、彼らが高座郡を拠点にしていたことが伺える。1200年『梶原景時の変』にて梶原氏が滅びると、梶原刑部亮朝景と梶原七郎景氏なる人物は、富士朝に逃げ込んで出家しており、富士朝との親密ぶりも伺える。つまり桓武系平氏の中にも、富士朝と親密な勢力がいたのかもしれない。

また東京都八王子市館町『御霊神社』伝承では、鎌倉権五郎景政は大庭御厨に関与する前(1087年)に、八王子にて右目を射たれ42歳で死んでいる。近くには同族梶原氏創建の梶原八幡神社(東京都八王子市元八王子)もあり、それなりに信憑性は持てる土地柄ではあるが、そうなると一般説とは大きく異なるわけだ…。

因みにここの社伝では、景政は左目ではなく右目を射たれたそうだ。うーん、なんか異説すぎる気もするんだが…。

 

というか…時代的にみると景政が大庭御厨を作る前に、死んだという事になる。

これは一体どういうことだ?。次回記事ではこのあたりを考察していく。



『瀬織津姫・天穂日レイライン』。

このように、もともと鎌倉幕府周辺が平氏色の強い土地柄であったことから、御霊信仰は広まったとみる。ネガティブに云えば、源氏と富士朝の痕跡を消す為ではないかと。それが何故、武蔵国府・大国魂神社にまで及んでいたのか…?。

 

大国魂神社(東京都府中市宮町)

~御祭神~

・大国魂大神(大国主と解釈されている)

・御霊大神(鎌倉権五郎景政と解釈されている)

 

※国内諸神として小野大神(不明)

小野大神=文珠菩薩=瀬織津姫の可能性大、江戸時代には確実に瀬織津姫が祀られていた。

 

大国魂神社社殿修造した頼朝側近である武藤資頼は、瀬織津姫を祀る人見稲荷神社(東京都府中市)の旧書の管理にも関与、嫁が梶原景時娘であり、鎌倉氏族梶原氏が間接的に大国魂神社に関与していたことになる。

新編武蔵風土記稿が成立したのが江戸末期と考えると、御霊大神が本殿に祀られ始めたのはのは江戸後期以降~明治期と、ごく最近ではないかとみる。しかし平安後期の一武将をなぜ、江戸時代後期に武蔵総社本殿に祀り始めたのだろうか?。それも謎である。

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大阪府大阪市『御霊神社』ではこの源正霊神(鎌倉景政)とアマテラス荒魂・瀬織津姫が並祀されており、大国魂神社に祀られる小野大神=瀬織津姫と考えれば状況が似ている。

御霊神社(大阪市中央区)

~御祭神~

・天照大神荒魂(瀬織津姫と解釈される)

・津布良彦命

・津布良媛命

・応神天皇

源正霊神(鎌倉権五郎景政と解釈される)

 

Wikipediaによると、当社は御霊という名称ではあるものの、御霊信仰とは関係がない…と強調している。

古来、摂津国津村郷(現在の楠永神社付近)に圓神祠と呼ばれる祠があり、それが約700m東北に遷座したのが現在の御霊神社となる。1594年亀井茲矩が邸地を神社に寄進し遷座し、その亀井氏邸地に祀られていた源正霊神を本殿に合祀したようだ。つまり合祀に『意図的なものではない』という意味で、この地に何故、瀬織津姫を祀っていたのかが論点となる。しかし私が興味を持っているのはこの『たまたま』という、神業の偶然性なわけですよ(笑)。

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時代を遡って、源義経家臣の亀井六郎重清は、鎌倉氏の開拓した大庭御厨推定地にて亀井神社(上写真)を創建しており、彼らが鎌倉権五郎景政を信仰していた直接的な理由とみる。亀井氏は武藤氏少弐氏と同じ、源氏に多い『目結紋』氏族、ただ一度没落しており、亀井茲矩と亀井六郎重清を家系図上辿るのは困難とされる。

Wikipediaによるとは穂積氏子孫とも佐々木源氏子孫ともいわれており、茲矩自身は尼子氏家臣・湯氏から亀井家に婿入りしている。

因みに現代の政治家、亀井静香もこの氏族の出身とのこと。

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江戸時代初頭になると、この亀井茲矩が因幡鹿野藩主となり、中国地方へ下向する。その折、この大阪御霊神社の瀬織津姫を因幡『白兎神社』周辺邸地に遷し祀っている。さらに白兎神社と大国魂神社は『日出日沈レイライン』にて結ばれたことになる。

また御霊神社も橿原神宮と白兎神社を結ぶ『瀬織津姫・天穂日レイライン』が、白兎神社にてクロスしており、南南東三キロには天穂日神社(鳥取県鳥取市福井)がある。その先の日月宮こと北村神社(鳥取県鳥取市河原町北村)にはアマテラスとツクヨミと日月大明神・瀬織津姫が祀られ、なにより兵庫県西宮市には瀬織津姫の別名『向津姫』を祀る廣田神社がある。大阪・御霊神社跡地『楠永神社』もこのレイラインと900mほどの距離にある。

ホツマツタヱ7文においてはアメノホヒは、アマテルと九頭竜モチコの一人息子。九頭竜モチコが瀬織津姫と中宮の座を巡り対立し左遷された折、瀬織津姫自身の判断によりアメノホヒは伊勢に残され、アマテルの元で養育されている。アマテルの側にいた瀬織津姫自身が、アメノホヒを養育したとは書いていない。しかし彼女の実子アメノオシホミミは皇位継承の為、母親の元を離れタガやヒタカミにて育ち、残された二人は義理親子のような仲になれたであろうと推測。六甲山にある六甲比咩神社(兵庫県神戸市灘区六甲山町)の周辺にも、義母を慕うようにアメノホヒの磐座があり、六甲山麓の芦屋神社(兵庫県芦屋市東芦屋町)の御祭神でもある。

鳥取市の天穂日神社神社は因幡国造氏の氏神をまつり、因幡の大社『宇倍神社』(鳥取県鳥取市国府町)よりも社格は上であったそうだ。そして境内にあるアメノホヒ像の隣には白兎が仲良く並んでいる。そして現代においても、アメノホヒは出雲の祖神として知られ、瀬織津姫が祀られている可能性が高い武蔵国大國魂神社にもアメノホヒ子孫・エタモヒ(境外社坪宮)が祀られる。

鳥取県鳥取市八頭郡にある『成田山青龍寺』や『慈住寺』では、かつては白兎神社が点在しており、アマテラスを行宮地まで案内したとの伝承があるという。瀬織津姫と白兎の関連性はネットでもよく語られている。

※今回は御霊大神がテーマなのでここまで、またいつか別の記事にしたい。

 

日月神示5帖に並記されている、『大庭』と『ヒムカ』の関係とは

ここで、日月神示を振り返ってみる。ヒムカとは『日向』、向津姫こと瀬織津姫を指しているとおもわれ、因幡白兎伝承と同様に日神アマテラスを誘い導く存在とみる。

『富士を開く』が、何を意味しているかは不明、しかし『大庭の富士』の『米』が重要な役割を果たすと見る。自然に考えれば…鎌倉権五郎景政の開拓した大規模荘園、相模一宮・寒川神社南東の『大庭御厨』ではないのだろうか?

 

 

~日月神示第5帖~

富士とは神の山の事ぞ、神の山はみな富士と言うのぞ

見晴らし台とは身を晴らす張らす所ぞ

身を晴らす張らすとは身の中を神にて張る事ぞ

臣民の身の中に一杯に神の力を張らす事ぞ

大庭の富士を探して見よ

神の米が出て来るからそれを大切にせよ

富士を開くとは心に神を満たす事ぞ、ヒムカとは神を迎える事ぞ

ヒムカはその使いぞ

ヒムカは神の使いだから九この道を早く開いてくれよ

ヒムカのお役は人の病を直して神の方に向けさすお役ぞ

この理みちをよく心得て間違い無い様に早く伝えてくれよ

 

<神社めぐり>大國魂神社①最強サクナダリ神社に、瀬織津姫が祀られている可能性。 - セキホツ熊の謎を追え!

<レイラインの美学③>日月神示ヒムカの役割、瀬織津姫死亡説と天照大神と木花咲耶姫の本当の関係。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

果たして、これらは偶然なのだろうか?、鎌倉権五郎景政と瀬織津姫の意外な接点が見えてきたわけだ…。まあ亀井茲矩は、ホントなんとなく行動していただけかもしれない。私もたまたま行った神社が、実は御先祖様の関係社ということがままある。しかし『たまたま』ならば、それはそれで興味深い所業なわけである(笑)。このブログ自体、こういう妄想が大好きなので…。

 

 

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