セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

東奔西走した東征者氏族『清和源氏』の役割と、清和天皇の兄・惟喬親王のナゾの行動。

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清和源氏が八幡神を祀る『鶴岡八幡宮』(神奈川県鎌倉市雪ノ下)。

2020,5,2
GW連休は神社巡り三昧と思っていたが…コロナ騒動でそれどころではなくなってしまった( ´△`)。もう家でおとなしく読書か、記事書くしかないな~。そんな中、清和源氏と清和天皇と富士朝の興味深い関係が見えてきたのでご報告する。

一応書いておくが、当ブログは宮下文書に基づく妄想ブログである。

 

清和天皇は幼帝

古来ウガヤ朝時代より、天皇(神皇)は成人男子と決められており、その補佐的な役割として皇后摂政が存在していたようだ。

神武以降、幼帝が何故禁じられていたかといえば、政治判断上の独立性も必要だろう。ただそれ以上に、ウガヤ朝時代には富士朝まで即位式典の為の大航海が待っており、これは宗教上いわば大人のための試練である。現に日向から富士朝への航海上、数人の皇子が絶命しており、到底幼帝がこなせるものではなかった背景がある。

平安時代に至るまで、確かに女帝が数代存在していた。ただこれはウガヤ朝の皇后摂政仕来たりを継承しており、どちらかというと次期天皇の中継ぎ的役割とみている。女帝となれる条件はまず皇女(皇家の血筋)であり、継承予定皇子の母か姉妹とされていたようだ。女帝問題はみなさんもそれぞれ意見は分かれるだろうが…、見方を変えれば、大切な子どもを汚い大人の政治世界から守る、幼帝を出さないための最終ガードでもあった筈だ。

 そんな中、禁断の『幼帝』解禁とされたのが56代清和天皇(在位858~876年)であった。彼の誕生背景には父55代文徳の若い急死があり、周囲には政治勢力争いがあった。もともと聡明なる第一皇子・惟喬親王が皇位継承の予定であったが、藤原北家の母をもつ惟仁親王(清和天皇)のバックボーンを宛に推挙される。貞観元年(859年)、敗者となった異母兄の惟喬親王は僅かの家人を連れ出し、各地を隠棲生活をすることになる(諸説あり)。

幼帝の誕生は事実上『皇后摂政』の不要を意味し、『摂政』や『関白』の役割を臣家に移行させ、さらには藤原北家による権力集中を意味していた。この後女帝は、109代明正天皇(在位1629~1643)まで長期間登場していない。

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ただ宮下文書的な観点から清和天皇をみれば…。

ごくナチュラルな形の『天皇』…というと語弊があるが。つまり欠史八代までの慣習に則った婚姻方法で誕生した『天皇』ということだ。

 宮下文書によると。皇家=『天つ神』、その右臣・藤原物部系統と左臣・蘇我大伴系統が『国つ神』と定義される。天皇はこの『国つ神』家から立后された子を娶り、皇女は『国つ神』家に嫁がせるのが習わしなのだ。これら三勢力で三つ巴に近親婚させてきたのが、欠史八代までの天皇制の実体である。

偶然とはいえ、彼の外祖父・藤原良房の妃は源潔姫、彼女は52代嵯峨天皇の皇女。その娘が藤原明子(ふじわらのあきらけいこ)が55代文徳天皇の皇后となり、惟仁親王を誕生させた。Wikipediaによると源潔姫は臣下の妻となった初めての皇女』と記載されているが、宮下文書の欠史八代時代ではごく当然のように行われていた行為、つまり天つ神も国つ神も、遺伝子的には限りなく近い存在になっていた。もしかしたらこれが2代~9代天皇を、世間的に欠史にせざる得なくなった要因なのかもしれない。

即ち清和天皇は、皇女を『国つ神』藤原氏族に嫁がせ、その娘を皇后にし、その御子となる。古代天皇家の習わしに合致した、正当ルートの皇子なのだ。

<欠史八代の家系図>繰り返される近親婚、彼らは両臣という遺伝子防御システムであった。中臣・物部・藤原編。 - セキホツ熊の謎を追え!

<欠史八代の家系図>繰り返される近親婚、彼らは両臣という遺伝子防御システムであった②。中臣・蘇我・大伴編 - セキホツ熊の謎を追え!

 

ただ彼は、政治家としては際立つ活躍はなく、彼の天皇としての血筋は息子57代陽成天皇の代で幕を下ろす。現代までに彼を有名にしたのは、第6皇子の貞純親王子孫、後世武家の棟梁といわれる『清和源氏』たちである。

 

~清和天皇子孫~

・源経基

・多田満仲

・源義頼

・源義家

・源義綱(子孫が宮下家・三浦氏に婿入り)

・源頼朝

・新田義貞

・足利尊氏

・太田道灌(宮下文書では伴氏?出自が違う気がする…)

・武田信玄

・明智光秀

・毛利義広

・島津忠久(自称)

・徳川家康(自称)

など

実は…貞観噴火のち、富士朝を復興したのは清和天皇だった。

しかし彼が神から祝福されていたかは疑問余地あり、彼の在位中は地震と噴火だらけ、苦難を極めた政権運営であった。実際、殆ど外祖父で太政大臣・藤原良房に任せきりの政治スタイルであった。彼が若くして退位し出家したのも、恐らくは京都での天変地異を鎮める目的があったのではないだろうか?。そして譲位四年後の謎の早逝に至る。

 

 ~清和天皇時代の主な災害~

・864富士山噴火(貞観噴火)

・867別府鶴見岳噴火

・867阿蘇山噴火

・869肥後津波地震

・871三陸沖津波地震(貞観地震)

・871出羽鳥海山噴火

・878相模・武蔵地震

その他京都で地震頻発。

 

~864年貞観噴火・宮下文書曰く~

『八月三日、勅使藤原氏宗が富士山表本宮大宮浅間神社に下向して、次のようにのべた。即ち今度の噴火は考えてみると、全く神官の不勤不敬が、もたらしたのであるから、宜しく陳謝、祈祷せよと。』

貞観噴火背景を説明すると、平安時代初頭の延歴19年(800年)に延歴噴火が起こり、富士山が火山活動期に入る。802年の噴火第2波にて終息したかに思えたが864年再びの噴火。 

宮下文書だけを読んでいると、天皇勢力による一方的な富士朝弾圧行為にみえるが…、清和天皇を知ってゆくと、自然災害相手にどうしようもない主導者の葛藤がみられる。天災=神の祟り、この時代の人々は恐らく本気で畏敬の念をもっていたろうし、藤原氏宗の神官たちへの八つ当たりもどこか悲哀を感じる。いつの時代も、人々は大災害を前になすすべもなく右往左往し、ときに政権のボロまで露呈するから不思議である。…これが浄化作用というのか?。

そして、西国天皇勢力は噴火により焼失した富士七廟のうち三社(宮守神社・幸燈明神大社・福地八幡大神)を、災害まえのように完全復元するように命じている。

 

惟仁天皇(清和天皇)

太政大臣 藤原良房(花押あり)

左大臣    源信之(花押あり)

右大臣    藤原良相(花押あり)

 

『勅・昨年焼失した七社の内、三社の宮は、噴火の際、富士大神が現れ賜れた通りに再興創立することを命じる。』

 

即ち、56代清和天皇が富士朝を弾圧した記録はない、むしろ復興を命じた張本人だ。865年太神宮である浅間明神に正一位一弊司を授け、再び官社に列することになる。

う~んなるほど…、後世(1161年ころ)なぜ48代宮下記太夫政仁が、清和源氏の三浦義顕に『義』を感じ救助したのかわかった。真意はどうであれ、富士朝関係者は清和天皇に恩を感じていた可能性がある…。そしてなにより加茂次郎義綱子孫は、富士朝神の別雷命の導きにより富士朝にたどり着いたのかもしれない…。

しかし延歴・貞観噴火のダブルパンチで富士朝が弱体化したのも事実、西国天皇勢力による富士朝監視強化にも繋がったとも言えそうだ。結局、この清和復興も焼け石に水。このあともまだまだ富士山の噴火活動は続き、永保3年(1083年)を境にようやく沈静化していく。富士朝が疲弊していったのは宮下文書記載の通りであろう。

『暫』と『源義忠暗殺事件』に潜んだ真相。富士朝・加茂次郎子孫は鎌倉幕府に貢献していた。 - セキホツ熊の謎を追え!


こうして…あくまで結果として、清和天皇は仏門に目覚める。

東国武蔵の『夏至レイライン』近く、高幡山明王院金剛寺(東京都日野市高幡)も彼の勅願によるものだとの説あり。おそらくは武蔵での地震と関係があるのかもしれない。後に彼らの子孫・源頼義が東征の折り氏神『八幡大菩薩』を合祀し、のちに稲荷、丹生、高野、青龍権現を合祀して『五部権現』とした。

武蔵国から忽然と消えた『真慈悲寺』の謎、覇者線『夏至レイライン』上の源氏祈願所。 - セキホツ熊の謎を追え!

天皇譲位後は断食を伴う苦行を敢行、たいへん真面目な人物であったようだ。政治的無能といわれ、朝廷内権力に翻弄された幼帝にも関わらず、天災の続く乱世に責任を感じていたのかもしれない。そして譲位からたった四年後の元慶4年(880年)、病で崩御され、丹波国愛宕山南麓の『水尾陵』に埋葬される。もともと水尾は清和天皇の隠棲地でもあり、現在も『出雲大神宮』のある京都府亀岡市と隣接している。

氏神『八幡神』と紀氏の異母兄『惟喬親王』の謎 

さて今回の記事を書こうと思ったのは、なにも清和天皇だけをクローズアップする為ではない、異母兄の惟喬親王の行動があまりにも不可解だからだ。

清和天皇(在位858~876年)即位直前の天安元年(857年)、異母兄の惟喬親王が不可解な行動をとる。先代に信頼されつつも皇位を逃した人物であり、てっきり惟仁親王を恨んでいると思いきや…、異母弟を祀りだすのだ。…しかも、まだ即位していない生きた皇子を祀りだす(笑)。

 

◯長谷八幡宮(京都府京都市左京区)

~御祭神~

惟仁親王(清和天皇)

昭和50年に仁徳天皇合祀

昭和56年に応神天皇・比売大神・宗像三女神・神巧皇后を追加。

 

~摂社~

・高皇産霊命

・蛭子尊

 

~末社~

・天照大神

・加茂大神

・貴船大神(タカオカミ)ほか

 

~御旅所~

 ・出亀山

※御旅所とは神社関係地で、御祭神が巡行する際の休憩所とされる。

 

Wikipediaによると京都愛宕群村志に『村社創立詳かならず口碑に天安元年惟喬親王の御願にて惟仁親王を祭りしといへど其の無稽尤も甚だし改正すべきなり』とある。

天皇崩御後に御魂を祀ることはよくあることだが、天皇即位前や在位期間中に神社にて次期天皇を祀るだろうか?。即ち『生き神』を祀るこの神社自体が謎の存在でしかない。

まーここからいつもの妄想なのだが…(笑)。上記の状況からみても、この神社は後世に源氏の氏神となる『八幡神』を純粋に祀っていたのではないか?…と思うのだ。

では何故?、惟喬親王は率直に八幡神と公言しないのか?。…八幡は八幡でも正八幡ではなく、古八幡タマノオヤであればどうであろうか?、公表できるワケがない。注目すべきは比売大神と宗像三女神を別神として祀っている点、全国的には比売大神=宗像三女と解釈されているのに追随していない。

つまり、此処はタマノオヤの神社ではないかとおもえるのだが…(妄想)。



源氏が、氏神として『八幡神』を祀る理由は諸説あるが、河内源氏の地に『岩清水八幡』があり、源頼義の子『八幡太郎義家』が元服している。前九年の役では源頼義が『八幡神社いっぱい作りますから必勝させてください。』と祈願。ただそれ以上にしっくり出来るエピソードがあるだろうか?。

私が最も知りたいのは清和天皇と八幡神の接点なのだが…、調べてみてもよくわからんのだ。 

実際、八幡神については辻褄が合わないことが多い。

鎌倉の鶴岡八幡元宮『由比若宮』も意味不明なのだ。由比若宮から鶴岡八幡宮に遷宮した際に、古神体を東京都八王子市元八王子の『梶原八幡神社』に遷し、新たに岩清水から勧請した御神体を得ているのだ。一般的に、『遷座』というのは御神体を御移することのハズだが…?。即ち、鶴岡八幡宮は由比若宮はまったく無縁の神社ということになり、岩清水八幡宮から新しく勧請された二社ということになってしまう。

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元鶴岡と言われている由比若宮(神奈川県鎌倉市材木座)。

また、もともと梶原八幡神社近くに牛頭天王が祀られており、後世、『八王子』という地名の由来となる。その古神体がタクハタチヂヒメ八人の王子の一柱=『タマノオヤ』=『八幡』と考えると、宮下文書的にすべての辻褄があうのだ。

つまり、由比若宮でもタマノオヤを祀ることを隠しきれなくなったため、八王子に御移したということだ。

<まとめ+追記>八幡神と比売大神イトウの正体わかった!宇佐神宮・伊豆山神社・天孫降臨・八王子権現のまとめ。 - セキホツ熊の謎を追え!

聡明なる惟喬プリンセスの奇行はまだまだ続く(笑)。

惟喬親王の母は紀静子、武内宿彌子孫『紀氏』の出自であり、政治的バックボーンとしては格下氏族であった。これが異母弟の惟仁親王に、即位を譲る最大の理由となる。しかし前記事にも記載したが、そもそも武内宿彌は徐福信仰者であり、時代を越えて富士朝との繋がりは未だあったのではないかとみる。

全国300社以上の『賀茂神社』正体解明。富士朝ウガヤ朝・日本最大級の欠史鎮魂神社。 - セキホツ熊の謎を追え!

<レイラインの美学⑭>ウガヤ朝とタマヨリヒメをニニギが繋ぐ、欠史鎮魂のための『賀茂レイライン』。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

宮下文書曰く

『義綱は加茂明神において元服したので、初めは加茂二郎義綱と称した。当社の宮司は紀長貫といい、紀貫之の曾孫である。貫之の長子武貫は父の咎めに触れ、加茂明神宮司の館に寄寓し遂に、其の一女菊枝を配偶者とし、其の職を受け継ぎ常之を生んだ常之は長貫の父にあたる。…(中略)…天仁二年(1109)近江国甲賀山の役のとき、義綱は佐渡に流され、家将長貫は戦死した。』

つまり紀氏とは、別雷命『カモサワヒメ』を信仰する富士朝信仰者ではないかと。惟喬親王のバックボーンであり、後世には加茂二郎義綱の家将ということになる。

 

Wikipediaによると『惟喬親王は、貞観14年(872年)病のため出家して素覚と号し、小野(伊勢物語八十三段によると比叡山山麓とあり、近江と大原の説がある)に隠棲した……(中略)……木地師の伝承によると、近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)で隠棲していた小野宮惟喬親王が住民に木工技術を伝えたのが木地師のはじまりであるとする。これによって惟喬親王は木地師の祖と呼ばれ、同地の大皇器地祖神社のほか全国の山間部で祀られている。また、北区雲ケ畑には惟喬神社がある。』

惟喬は晩年隠棲を転々とし、洛北の大原、雲ケ畑、小野郷大森など痕跡あり、死亡地も京都北部や滋賀県山間部と諸説あり、これらの地にはそれぞれ惟喬信仰が今も残されている。

同時に、『惟喬神社』(京都府京都市北区雲ヶ畑町)境内には大山祇神社もあり、惟喬親王御陵(滋賀県東近江市箕川町)付近にも山乃神社あり、カモサワヒメの夫であり富士朝象徴オオヤマツミが祀られている。富士朝信仰者から見れば、聡明であったプリンセスは富士朝再興の希望であり、紀氏や木地師の間で密かに祀られいたのではないか…。

 

~以下、惟喬親王の関係施設~

◯大皇器地祖神社(滋賀県東近江市君ヶ畑町)

寛平10年(898年)創祀。惟喬親王が隠棲していた折、小椋信濃守久長と小椋伯耆守光吉に命じて木地の器を作らせた。筒井八幡神社(滋賀県東近江市永源寺町)とともに当社を木地師の祖社としている。諸国に離散していった木地師に影響力を持つとされる。

因みに木地師とは、各地で木地物素材が豊富に取れる場所を転々として生計をたて、里の人と交易をして生計を立てていた。こけしの産地である宮城県白石市『小野宮惟喬親王神社』は通称『こけし神社』とも呼ばれる。山の民とも云われオオヤマツミ信仰を口碑していてもおかしくはない。

 

◯筒井神社または筒井八幡神社(滋賀県東近江市永源寺町)

貞観7年(848年)筒井峠にて、宇佐八幡を勧請し、惟喬親王を祀り創建。明治初年から、管理の都合上惟喬親王御陵周辺より遷座している。

 

◯惟喬親王御陵(滋賀県東近江市箕川町)

上記の筒井八幡神社の旧跡でもある。前述したが伊勢物語八十三段によると京都市左京区大原『小野御陵神社』にも惟喬親王の墓は存在しており、どちらが本物かは不明。



惟喬親王が一体何を考えていたのかは、もはや誰にもわからない。しかし地図上で推測はできる訳だ。

さて、いつものように、これら関係地を点と線で結んでみよう。…というかコレ、当ブログでこれまで何度も紹介している『富士山出雲大神宮レイライン』である(笑)。いままで惟喬親王のしてきたバラバラで奇怪な行動に、一本筋が通るわけだ。そしてそれらは富士山の方向を指し示している…。

<レイラインの美学⑥>元出雲と日本総社の真実。出雲大神宮と津島神社と富士山は繋がっていた。 - セキホツ熊の謎を追え!

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どうやらこのレイラインは、赤ラインから青ライン
修正移行されいる感もある。上賀茂神社(賀茂別雷神社)の本懐は本来『神山』であったはずだが、時代と共に『出雲大神宮』の存在が薄れ、神山の存在も忘れられ、上賀茂神社に主軸がシフトしていくようにも見えるのだ。

 

そして、あくまで結果論だが、後世このレイラインは清和源氏に深く関係してくるのだ。

 

清和天皇子孫『河内源氏』は八幡太郎義家と賀茂次郎義綱を誕生させ、それぞれ八幡神タマノオヤと別雷命カモサワヒメを信仰してきた。平安時代にはかれらがレイラインを東奔西走し、清和源氏こそが歴史を塗り替えてきたとも言える。

そしてこの八幡太郎義家と賀茂次郎義綱の子孫が東国でめぐり合い、協調しあった結果が『鎌倉幕府』ということになる。

まるでこのレイラインはそのシナリオ通りにもみえる(笑)。

大局的にみれば人間なんてモンは、すべて神の掌でコマとして踊らせられている存在???。まるで丹波国『クニトコタチ』と富士山『クニサツチ』による紅白綱引き大会の様相である。おもわず『世の中うまくできているな~』と感嘆してしまったのであった(妄想)。



 

あと個人的には、武蔵国久良岐郡(現在の横浜)にも着目する。宮下文書によると、この地は多田満仲(源満仲)子孫で武蔵国の半分を賜った柏木右衛門佐義季の地であり、嫡男の隼人正義長の領地である。前記事にて紹介した、武藤氏がこの地より登場したわけだ。

 

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 ※地図はクラフトマップ使用。

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