セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<富士朝めぐり①>先現と徐福、新旧二つの富士朝。八幡神をすり替えたのは徐福富士朝だった?。

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明治16年、宮下家伝来の宮下文書が公開された『大明見小室浅間神社』。


2020,9,5
ここで、富士朝の経緯を再び考えてみたいと思う。以前から富士朝をじっくり考察してみたかったのだが、そのタイミングがとれなかった。富士吉田~山中湖周辺の神社もいろいろ紹介したいので、結構な長いシリーズになると思う。『富士朝めぐりシリーズ』と題して、今後も続けたい。今回は第一回『大明見浅間神社』と『福地八幡宮』の関係について。八幡神を再考察する上でもよいタイミングだと思うのだ。

宮下文書やホツマツタヱを読んでいると、やはり15代応神天皇登場以前から八幡信仰はあった。そして宮下文書には、応神天皇の御子大山守皇子(宮下家始祖)は『徐福の子孫』と明記されている。即ち応神天皇勢力と徐福勢力の接点が浮き彫りとなる。

結論からいえば、旧来の富士朝は徐福応神勢力に淘汰されたのではないかと思っている。即ち、応神天皇=八幡神に仕立てあげたのは、他ならぬ新興富士朝こと徐福勢力なのではないかと…。

徐福から見えてきた『センゲン』の本当の意味。

八幡神を語るにはやはり、富士朝と徐福と応神天皇の関係を暴かねばなるまい。

その八幡の鍵『阿祖山太神宮』とは、そもそもなんなのか?。まずはその流れを汲む大明見小室浅間神社をご紹介する。阿祖山太神宮の場所については諸説あるが、大明見周辺には違いないく、大明見小室浅間神社の古宮(元宮)付近ではないかとみる。 

◯大明見小室浅間神社(山梨県富士吉田市大明見2丁目)

~御祭神~

・木花開耶姫命

・誉田別命

・国狭槌命

・泥土煮命

・上筒男命

・他十三柱

 

※小室(おむろ)と読む。

創建崇神天皇6年。阿祖山太神宮の流れを汲むと思われる北東本宮小室浅間神社、旧名『阿曽谷宮守神社』。1km東大明見1丁目、不動湯方面古屋川沿いに旧社(古宮)が存在する。明治15年8月7日、有栖川宮熾仁親王より御神号と御神鏡が奉納。翌年明治16年、宮下家により宮下文書が公開される。

当ブログでは北東本宮小室浅間神社と紹介してきたが、最近ネット上では『大明見小室浅間神社』名称が目立つようになったので、以降大明見で統一する。

宮下文書によると『阿曽谷』という地名、もともと阿曽(阿祖・阿蘇)というのは富士山の名前の一つであった。また『明見(あすみ)の里』というのは、7代孝霊天皇が高天原太神宮参拝の折、夕暮れ時に『明日見よう』と行在所に戻られたことに起因する。残念ながらワダツミやアズミとは関係ないようだ。

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大明見小室浅間神社の拝殿。

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大明見小室浅間神社の旧社跡(古宮)

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大明見小室浅間神社の原型、『阿祖山太神宮』を簡単に説明。

~神代~

イザナギ・イザナミの拠点『小室』の阿田都山に造られた、『高天原宗廟天社大宮阿祖山太神宮』を原型とし、アマテラスの時代、神祖神宗代々の天つ大御神を祀った神代唯一の大御社。

ヒコホホデミの時代。それまで信仰していた皇祖の神霊・御陵を七廟に整理統合する。

~高天原七廟~

・高座の神廟(タカミムスビ・カミムスビ)

・菅原の神廟(クニサヅチ・クニサヒメ)

・高灯の神廟(イザナギ・イザナミ )

・麻呂山の神廟(アマテラス)

・金山の神廟(ニニギ・コノハナサクヤ)

・山守の宮の神廟(オオヤマツミ・カモサワヒメ)

・根元の神廟(サルタヒコ)

 

~現在の七廟(個人的見解)~

・高座の神廟、高座山付近?。

・菅原の神廟、現『大明見小室浅間神社』付近?

・高灯の神廟、現在の小明見『三峰神社』付近?

・麻呂山の神廟、『太神社』と『徐福墓』。

・金山の神廟、古宮と山神社の間『金山神社』?、都留市上谷『金山神社』とは別。

・山守の宮の神廟、『大明見山神社』?。

・根元の神廟、『大明見根元神社』?。

※前記事で紹介した山神社は、山守の宮とみられる。

 

~神武天皇時代~

紀元前657年四月高天原の神都にあがり、高天原天つ大御神を遥拝、『高灯の神廟』と『無戸室古跡』と『金山の神廟』を訪れている。無戸室古跡とは、コノハナサクヤが富士火口への投身自殺前にニニギ三御子を残した場所。金山の神廟にて、天日子火瓊瓊杵尊と木花咲耶毘女を宮守大神と称し阿祖山太神宮のすぐ北隣に祀り直したようだ。

その後、麻呂山の神廟の天照大御神、加茂山の山守大神や、寒川ちかく菅原の神廟寒川大神を祀る。

このように、ウガヤ51代人皇~神武天皇~欠史八代の天皇は、それぞれ富士高天原の来歴がある。

 

~7代孝霊天皇時代~

紀元前217年9月、徐福船団が童男童女500人を従えて高天原に来訪。

徐福は当初から蓬莱山を目指して来日しており、富士朝にも到着していたようだ。途中、木日国熊野山などで不二山を見失い停留していたが、不二を頼りに相模国経由で高天原へ到着。即ち徐福勢力は西日本各地拡散をしつつ、高天原へたどり着いた。

徐福は、富士古文書の重要性を瞬時に悟りその保管を提案、その方法の一つとして漢文化に着手した。これがのちの『宮下文書』となり、家系図詳細不明だが大山守皇子(以降の宮下家)には徐福と応神天皇の血が入っているとされる。

また、宮下文書には武内宿彌と徐福の交流が記されており、客人として富士高天原に滞在していた徐福に、武内宿彌が学んでいたという。一般的にも武内宿彌は、295歳~312歳(諸説あり)とにかく長寿で有名なのだが、宮下文書においても徐福と同時代を生きており、このあと12代景行天皇の側近として登場している。

徐福が長生きなのか?、それとも武内宿彌が長生きなのか?…ま結果として、二人は同時代に巡りあっている…。

 

但し、

・7代孝霊天皇時代『竹内宿彌』

・12代景行天皇時代『武内宿彌』

という表記なので、これ同一人物なのだろうか?。竹内宿彌の息子が羽田矢代宿彌なので竹内宿彌=武内宿彌のハズなのだが…、正直私は、この徐福と武内宿彌の交流に関しては疑念を持たざるえない…。

 

一方ホツマツタヱによると、武内宿彌は紀国ウマシウチの子供であり、タマノオヤ・イシコリドメ子孫の残した『日前宮』勢力と関係がありそうなのだ…。日前宮(アビカシハラ)にてムカツ姫を祀っていた設定になっており、このあたりからも私がイワナガヒメ≒瀬織津姫と重複イメージがあるのかもしれない。

※因みにホツマツタヱ愛読者は、日前宮=ムカツ姫(瀬織津姫)のイメージが強い、宮下文書愛読者からはタマノオヤ・イシコリドメのイメージが強い。そうなると、瀬織津姫祭祀の提唱者であり、タマノオヤの活躍を闇に葬ったのは武内宿彌なのかもしれない…。

宮下文書における瀬織津姫の正体①瀬織津姫の意味とは? - セキホツ熊の謎を追え!

 

~10代崇神天皇時代~

詔にて、富士朝麻呂山のアマテラスを笠縫の里の大社(天社)に遷座した。これが日本史の一つの転換期となるのだが…。なんの因果か飢餓・疫病や盗賊蜂起が続発、吉備彦命が高天原参拝。5月5日大国魂神祭を行わせる。

・カミムスビを神座山(笛吹市・檜峯神社か?)

・アマテラスを御祖代山(杓子山宮のことか?)

・タカミムスビを高座山(南都留郡忍野・高座山?)

にそれぞれ祀る。

『檜峯神社』御祭神は高皇産霊尊、大己貴神、神皇産霊尊、少彦名神。やはり5月5日『大国魂神』とはオオクニヌシとスクナビコナを並祀している。

 大国魂神の秘密。スクナビコナとオオクニヌシを並祀する本当の意味/健磐龍命悲しき英雄。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

~12代景行天皇から15代応神天皇の時代~

…武内宿彌さまは、まだまだご健在である(震え声)。

個人的に考えているのは、ヤマトタケル東征の段階で富士朝も西国天皇勢力も、徐福勢力にある程度浸透されていたということだ。この時代には中国地方出雲の過激派白木系渡来勢力などの外圧もあったはずだが、日本先住民の東国や富士朝勢力までもが反抗してきた。東西問題を抱えていた景行天皇・武内宿禰勢力はまさに四面楚歌、ただ少なくとも武内宿彌は徐福学を学び、徐福勢力に信頼を置いていたようだ。

結果として、西国天皇勢力はもっとマシな誰かに新しい富士朝を任せたいと思っただろうし、日本に尊敬の念をもつ徐福勢力にとっては政界に入り込む余地が生まれる。これで景行天皇や武内宿彌が造反したはずの富士朝を、ヤマトタケルを行かせるだけで簡単に許容させたのも合点がいく。

即ち、反抗する富士朝を東国先住民クニサツチ勢力から、徐福勢力に任せようとした。

 

カギとなる人物は11代垂仁時代の渡来系『田道間守』ではないかとみる、一般的には新羅アメノヒボコ勢力末裔であるが、秦氏と宮下家に関係があるのではないかと睨んでいる。彼は三宅連の祖となる。前記事でも書いたが平安時代、伊豆諸島三宅島というのはかつて『宮下家(みやけ)』と呼ばれ宮下家由来だそうで、またホツマツタヱによると田道間守の娘がヤマトタケル妃・オトタチバナ、田道間守殉死後に穂積氏オシヤマの養女となる。そして富士朝色の強い九州筑紫や日向国寒川(宮崎県西都市南方)にもアメノヒボコと徐福由来地が多い、即ちアメノヒボコ子孫と徐福子孫が混同(または仮冒)されているのではないかと…。歴史学者・平野邦雄氏は、朝鮮新羅系アメノヒボコ子孫と秦氏の居住地域が一致するとの見解を出している。

以降、徐福勢力は富士朝にてオオヤマツミを祀る、謎の渡来系右派となる。

応神天皇の皇子、大山守皇子と隼総別王と根鳥皇子が富士高天原に土着、それぞれは異母兄弟なので、二人の弟と徐福との血縁は不明。また大山守皇子とともに派遣されていた羽田矢代宿彌は、太神宮副司長に任命される。前述どうり武内宿彌の子で、秦氏や波多氏らに繋がる伝説上人物とされているが、現在でも富士吉田市周辺には羽田さんが一杯いる。また根鳥皇子の子孫が太田氏の祖、…これは後世の相模国の太田道灌と関係ありそうなのだが…どうだろう?。

応神天皇崩御後、大山守皇子は阿田都山宮守大神近くに父と祖母を祀り『高御久良神社』とし、その宮の下に居住したので『宮下家』を称する。

 

~飛鳥時代・厩戸皇子から平安時代~

宮下文書と福地八幡宮由緒をかけあわせて考えると。

聖徳太子による富士朝改革があった模様。崇峻天皇2年(589)、厩戸皇子即ち聖徳太子の来訪。高座山西麓の白蓮滝の寒川神社を、応神天皇と神功皇后を祀る高御久良神社(軽島大神宮のことか?)に合祀し、寒川大明神とした。白蓮滝の所在は不明だが、高座山西麓に『硯見不動尊』や『大明見杓子山湧水地』があり、これが後の『福地八幡宮』(山梨県富士吉田市下吉田)の原型で、800年延暦火山避難活動を経て、『小室浅間神社』とともに明見地区から現在地下吉田地区に遷座したとみる。

つまり、富士朝祖神クニサツチと応神天皇を並祀するスタイルを確立した。

 

〇旧富士朝勢力・寒川大神クニサツチの子孫

〇新富士朝勢力・八幡神応神天皇と徐福の子孫

 

漠然と『富士朝』と云えど、このように二段構造が浮き彫りとなる。これは新旧富士朝勢力の融合であり、旧勢力は富士朝にとっての先現(センゲン)、49代光仁天皇御世に先現太神と改められ、転じて後世には『浅間神』と呼ばれる。つまり『せんげん』という意味のが、何に対しての『先・現』なのかがお判りであろう。15代応神天皇を境に富士朝が前勢力と後勢力で、二つの価値観や信仰を持っていたということだ。これが本当の意味での『先現』となる。

また、富士は『不二山』から『福地山』と呼ぶことになり、『福』は徐福勢力の姓によく利用された文字なので、裏返せば『福の地』となる。こうして富士朝は緩やかに徐福勢力に淘汰、すり替えられていったということだ。

こうして八幡神信仰も、内部から緩やかにすり替えられたとみる。

その並祀スタイルを、現在の富士吉田下吉田や北口本宮富士浅間神社境内社などの『福地八幡』にみることができる。また高御久良神社はのちの高良玉垂神と関係があるかもしれない。もともと『高良大社』のある福岡県久留米市は、今も富士朝勢力の痕跡が根強い地域であり、ホツマツタヱではツクヨミが筑紫アワキ宮で誕生することになる。この地域には富士朝や九州徐福勢力による応神天皇信仰があったのであろう、後世に応神天皇=八幡にされたがゆえに、応神天皇=高良玉垂神と富士朝の正体が明かせなくなり『謎の神』とされたのではないかと…。

逆に、ツクヨミ子孫=富士朝の正体や徐福勢力の説明できなくなり、応神天皇=八幡にされた可能性もある…(妄想)。

 

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◯福地八幡宮(山梨県富士吉田市下吉田)

~御祭神~

・天照皇大神

・寒川彦命

・息長帯比賣命

・誉田別命

・渡辺綱命

このように宮下文書における応神天皇史は、基本欠史であるが、徐福応神子孫『秦氏』がなにを信仰していたかによってある程度の想像はできるのだ…。

よく八幡の『幡』『秦』に準えて、全国的に八幡神に秦氏のイメージがあるといわれる。私もはじめは『みんな何でもかんでも秦氏にして…、ウケる~』と鼻で笑っていたのだが、…やっぱり秦氏だったでござる(笑)。実際全国に拡散した秦氏が、応神天皇を八幡と認識させていた姿がみえてきた。

…ただ、やはりタマノオヤの存在を知らなければ、みんな単に応神天皇=八幡という結論付けて終わらせてしまうであろう。応神天皇遥か以前、オリジナル八幡神が存在していたとみるべきだろう。

<まとめ+追記>八幡神と比売大神イトウの正体わかった!宇佐神宮・伊豆山神社・天孫降臨・八王子権現のまとめ。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

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下吉田にある坂上田村麿由来の『小室浅間神社』。通称、下宮や下浅間と呼ばれる。

~平安時代延暦噴火時代~

富士山噴火の記録はすさまじいもので、溶岩が稲妻とともに雨のように無差別に高天原を襲ったとのこと、七廟のなかにも再興と焼失を繰り返し、機能的には、大明見小室浅間神社や相模一宮・寒川神社が継承しているものと推測する。

また坂上田村麿由来の下宮小室浅間神社(山梨県富士吉田市下吉田)も、807年に創建されている。社伝では坂上田村麿の東征に関係していると謳っているが、やはり800年延暦観噴火避難活動に関係しているのは間違いない。大明見小室浅間神社とは言わば兄弟関係だろうが、関係は曖昧にされ、この下宮小室浅間(下浅間ともいう)が地域の御鎮守となる。Wikipedia下宮小室浅間によると『建武2年(1355年)9月23日清和天皇遠孫を称する家臣、大塔宮護良親王の首を桂の神木の根元に葬り、祈請書を残す』とあるが…。これは宮下家(賀茂次郎義綱子孫三浦氏が婿入り)のことではないだろうか?、新羅三郎義光子孫であれば、それを隠す必要もない…。

平安末期には太神宮を『二所明神』『二所七廟明神』と称した。大宮司宮下家・大山守皇子子孫の家系と、副司古屋氏・隼総別皇子子孫の家系で、役割分担をして太神宮に奉仕するシステム。『古屋』とは現在の古宮沿いの古屋川に名が残っている。

 

~鎌倉時代から南北朝時代~

吾妻鏡では『二所詣』は源頼朝が始めた箱根~伊豆山~三嶋参拝のことを指すが、本来は『富士朝詣』『二所明神』の意味ではないかと。大明見山神社近くの古屋川上流『不動湯(硯水不動尊)』には源頼朝由来の霊水所があり、源頼朝は『富士の巻き狩』と称して太神宮へ参拝していた。富士朝に逃げ込んだ三浦氏枝氏和田義盛らが、頼朝を案内していたとの説もあるが、おそらくは義盛の子・新兵衛尉朝盛のことを指している。

平安時代末期より、宮下家は清和源氏賀茂次郎義綱子孫『三浦氏』を婿養子に迎える。

因みに明見には、鎌倉権五郎景政子孫を名乗る『権正氏』という姓があるという。平安末期、大山守皇子子孫の大森駿河守頼茂は、鎌倉権正景任の娘を娶っている。さらには梶原景時の子孫、梶原刑部亮朝景と景原七郎景氏が鎌倉幕府から逃亡している。鎌倉氏や梶原氏も、相模徐福勢力に近い存在だったのであり、さらに賀茂次郎義綱や三浦為継と鎌倉権五郎景政を題材にしたフィクションは、富士朝を暗示していたとも言えよう。

しかしこの梶原景時という人物、調べれば調べるほど面白い。なんとウエツフミの断簡親本『新はりの記』を所有していたというのだ…(現在調査中)。東京都八王子市元八王子の梶原八幡神社の『鶴岡古神体』を賜り、小野氏族横山氏の土地に祀ったといい、謎多き武士である。

そのほかにも1247年宝治合戦の三浦光村や南朝皇子なども合流しており、富士朝は逃亡者たちの『駆け込み寺』にもなった。この辺は過去記事参照のこと(下リンクより↓)。 

『暫』と『源義忠暗殺事件』に潜んだ真相。富士朝・加茂次郎子孫は鎌倉幕府に貢献していた。 - セキホツ熊の謎を追え!

鎌倉権五郎景政が死んだのは八王子?、梶原景時が繋ぐ謎の古神体『鎌倉八王子レイライン』 - セキホツ熊の謎を追え!

<まとめ>鎌倉権五郎景政『御霊大神』と瀬織津姫の偶然の出会いを検証。 - セキホツ熊の謎を追え!

<宮下文書>楠新両家が滅んだ上は足利一族を砕く大将は、我が国大日本にお前しかいない。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

f:id:sekihotu:20190224140946j:plain注意!寒川毘古と寒川大神は本来違う。

~宮下文書・富士朝家系図~

・クニサツチ(寒川大神)

  ↓

・イザナギ

  ↓

・ツクヨミ

  ↓

・オオヤマツミ(寒川毘古命)

 

…正直、私も誤解していたのだが。

ここで注意すべきは、寒川大神=寒川毘古ではなく、寒川(桂川)の畔に祀られているクニサツチ夫妻(国狭槌尊・白清龍比女尊)という事。そもそも寒川とは、高天原の河川名で現在の富士吉田市内の宮川?または桂川?。

また宮下文書では、相模一宮・寒川神社にはクニサツチとコノハナサクヤが遷座されているという。故に『寒川』の意味は境内の『神嶽山神苑』にひっそり祀られているクニサツチを暗示しているとみる。

となると現在、福地八幡宮御祭神(上写真↑)に祀られているのも寒川毘古命なのだが、本来の経緯から考えると寒川大神(クニサツチ)が正当ではないだろうか…。

 

※はあ…今回地図作るのに、3時間かかった…。

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