2021,1,11
一般とは大きく異なる、あくまで宮下文書をベースとした考察なのでご了承を。
今回は神功皇后と安曇族の関係を紹介する予定だったのだが…。その前に説明し忘れたことがい〜っぱいあるので...(汗)。段取り悪くてごめんなさい、予定変更いたします。
少し朝鮮半島を勉強してみた。
アメノヒボコに富士朝の影①、タジマモリ・オトタチバナ・神功皇后は徐福末裔? - セキホツ熊の謎を追え!
そもそも新羅系アメノヒボコ子孫をなぜ三宅連と呼ぶのか?。
三宅(みやけ)とは『屯倉』、西国天皇勢力の支配制度で、家宅や倉庫や御田を指す。645年の大化の改新で廃止された。
ホツマツタヱ34文によると崇神58年に、加羅国の君ツノガアラシトが敦賀の気比神宮近くに漂着した。10代崇神天皇は彼を5年間配下に置き、自らの名前ミマキイリヒコの名前をもじり、『ミマナ』の称号を授け朝鮮半島に返した。ツノガアラシトは母国に帰ると『任那国』を建国した。
ザックリ言ってしまえば、6世紀まで西国天皇勢力は朝鮮半島南部を断片的に、日本の影響力の及ぶ地域としての『ミヤケ』と、植民地のように見做していたようだ(諸説あり)。そんな地域からやって来たアメノヒボコ勢力を指して、朝鮮半島の『ミヤケ』と呼称していた可能性もある。彼らは後世に三宅連と呼ばれ、ツノガアラシトとアメノヒボコが混同されている原因とも思われる。
平野邦雄著書『帰化人と古代国家』より引用。
『北史』『粱書』の諸夷伝は、新羅のことを「言語、名物、中国人に似たり」と記し、中国人に似る理由を、「居するに秦人を以てす、故にこれを名づけて秦韓という」と追記しているのである。この点はさかのぼって『魏志』東夷伝が、辰韓(新羅)は、「其の言葉、馬韓(百済)と同じからず、秦人に似るあり」とし、『後漢書』東夷伝が「秦語に似るあり」としたのを引き継いだものと思われる。
要するに新羅は秦人の居地であるから秦韓といい、風俗・言語・物産ともに中国に似ていると主張しているわけである。
(中略)
新羅・加羅人の伝承は、秦氏の存在と完全に重複するのである。
もともと朝鮮半島南部は秦氏が居地としており、彼らも新羅・加羅人と似ていると混同されていた可能性がある。実はこれ、後述する『徐福船団』が関係しているのかもしれない。
秦氏は一部アメノヒボコ子孫とされている節がある。
では秦氏とアメノヒボコ、なぜすり替える必要があるのだろう?。
~各書・秦氏来日について~
▲『史記』によると、始皇帝の命を受け3,000人の童男童女で出向し、平原広沢を得て王となり戻らなかったとされる。wikipediaによると二陣に別けられ、BC219年とBC210年に出航した説が有力。
△『宮下文書』では、七十四年甲申年(BC217)、7代孝霊天皇時代。徐福ら老若男女500余人のみが出航し、500余人とも高天原到着。また第二編神宮之巻にはBC218と記載されている。おそらく出航がBC218、到着がBC217とみる。
◯『日本書紀』では、三韓征伐後の15代応神天皇14年(283)に、百済から始皇帝子孫『弓月君』だけが来朝。秦氏船団が朝鮮半島に停泊させられており、新羅の妨害により日本へ渡航帰化できない窮状を奏上。その救援のため、葛城襲津彦らが日本から救援に向かうことになる。帰化は数千〜1万人規模と見られている。
見ての通り、そもそも宮下文書と記紀では、徐福が来日した時代が大きく異なるのだ。徐福秦氏は6代孝霊天皇時代以前から来日しており、この記紀との400年間以上の空白期間を調整する必要が出てきたのだと思われる。なぜならば期間中に、天皇家に秦氏の遺伝子が入る過程がバレる。
さらに、この空白の期間、秦氏は富士朝の客人勢力であり、活動経緯を辿れば富士朝の強い結びつきまでが露呈する。
前記事にも書いたが、西国天皇勢力が主眼を置いているのは秦氏やアメノヒボコよりも、むしろ、富士朝史を徹底的に消さなければならないことだ。彼らの基本姿勢は、富士朝を歴史上から消すためならば渡来人をも利用する。
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そこに都合よく、11代垂仁天皇3年(BC27)新羅人のアメノヒボコ勢力がやって来たので、彼らが先行して各地の秦氏痕跡に定住していた事にしよう…と。これには気比神宮に伝承のある、ツノガアラシトらも一部噛まされているのではないだろうか?。アメノヒボコもツノガアラシトも実在していたであろう、しかし後世の秦氏の付会のために、日本人に利用されたとみる。それは結局、日本側の身勝手な政治問題が大きいのだろう。
そして注目すべきは、秦氏は新羅の妨害によって、長期に渡り朝鮮半島南部に居住させられていたらしいのだ。
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ただ、徐福船団は総勢3000人いて、富士朝に先行して到達できたのは500人。海流に流され離散した可能性もあるが、宮下文書記載では初めから童男童女500余人の船団で、ほぼ500人とも富士朝に到達している。ならば先遣隊が、なんで記紀には隠されているのか?ということにもなるが…。
『史記』記載のBC210年後発隊は、先遣隊500余人の与り知らない彼らの捜索チームで、朝鮮半島南部で妨害に遭い足止めされていたと…。それが実に400年も朝鮮半島に閉じ込められていたことになるが…。
歴史家・倉本一宏氏によると、朝鮮半島では半島内トラブルを解決する為に、必ず外国勢力を引き込むという。歴史的に見てもその繰り返しであったという意見もある。
とすると徐福捜索の船団が、新羅によって政略的に引き込まれようとしていたのかもしれない。
ここからは、私のいつもの妄想だが…。
まず前記事通り、神功皇后には秦氏遺伝子が入っていたと仮定する。
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当然彼らは同族勢力が、新羅に数百年も渡航を阻まれていることを危惧するはずだ。
先行秦氏勢力500人は富士朝周辺にいて、神功皇后に奏上できる立場であった。皇后腹心である武内宿彌は、富士朝徐福に弟子入りし、御子の羽田矢代宿彌が阿祖山太神宮副司長就任、子孫に『羽田氏(波多臣)』を残し富士朝と強いパイプを持っていたはずだ。因みに、宮下文書では武内宿彌は徐福に弟子入りしていると明記されているのだが、明らかに年代が合わない…。おそらく徐福の子・福永あたりに弟子入りしているのだろう。
その時、朝鮮半島に対立気運が高まってくる。
神功皇后や武内宿彌も好機とみて、足止めされている秦氏同族を助けたいと奏上するものの、14代仲哀天皇はこれを『興味ない』と一蹴した。衰退した富士朝と外国人救出なんぞ興味がないわけで、そんな時間と余力があったら熊襲(九州)平定に尽力すべきだと。この仲哀天皇という方は、至ってまともな政治感覚の持ち主だと思うが…。神功皇后と武内宿彌には、それを凌ぐ強い目的があったとしか思えないのだ。
神功皇后は、天皇に激怒し◯◯した…。52歳だった。
こうして神功皇后と御子応神天皇と富士朝秦氏、皇后側近・武内宿彌、安曇族将軍の難波根子建振熊命らが団結して、朝鮮半島『残存秦氏救出作戦』を敢行した(妄想)。
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前述どおり、朝鮮南部秦氏勢力は武内宿彌の子・葛城襲津彦の出迎えににより、応神14年に来日。始皇帝子孫の『弓月君』と称し、『新撰姓氏録』では融通王と表記される。
日本書紀には、応神天皇が来たばかりの秦氏勢力の要請を受け、朝鮮半島南部の秦氏を迎えにいくとの記載がある。ただ、来たばかりの外国人の要請を、西国天皇勢力が鵜呑みにするわけがないし、彼らはそれほどお人好しではない。戦略的な罠の可能性もあるわけだ。この島国は長年、外国勢力や国内渡来系と戦ってきたわけで、秦氏にしろ、新羅人にしろの長期間の実績評価は必ず必要となる。
さらに宮下文書曰く、彼らは蓬莱山に行けば長寿の薬ができると、始皇帝を欺いて大資金と大船団と調達しやって来た、…フツーに詐欺師である(苦笑)。彼らがもし始皇帝の子孫ならば、こんな恩を仇で返すことするだろうか?、素性もわからない人々を短期間には信用できない。
こうして、400年間足止めされた秦氏『弓月君』勢力が、応神天皇時代に日本へ先行秦氏と合流したわけだが、後世に先行秦氏勢力と後発秦氏勢力の辻褄合わせが必要となる。これもあくまで、富士朝史を日本史から完全に消し去ることが主目的。そして秦氏に触れれば必ず富士朝が出てきてしまう、なぜならばヤマトタケル東征後、富士朝は客人勢力だった徐福秦氏に淘汰されているからだ。
※宮下文書では葛城襲津彦の出自はなく、個人的にも気になる存在。なぜなら伊豆淡島南部に『葛城山』という景勝地があり、葛城氏が信仰する鴨神コトシロヌシ(三嶋大社)と関係があったのではないかとも思っている。
九州北部のツクヨミ・アメノヒボコ・秦氏
地理的にいえば、北九州は渡来人たちの玄関口となる可能性が高い地域だ。徐福もアメノヒボコも朝鮮半島〜対馬を経由する。垂仁3年(BC27)アメノヒボコ来日の際は、朝鮮半島(新羅・加羅)を経由していることになり、朝鮮半島南部秦氏と重なって見えたのではないかと思もえる。
そこでホツマツタヱでは、筑前に富士朝神の痕跡を残したのだと思われる。ホツマ版ツクヨミは、筑紫のオトタチバナのアワキ宮で生誕したことになっている。ここにも秦氏とアメノヒボコの共通項を匂わせる『タチバナ』という言葉が登場してくるわけだ。
福岡市西区小戸『小戸大神宮』には、イザナギが禊祓をしてツクヨミら三貴神や、住吉三神を生んだ『小戸の橘の檍原(おどのたちばなのあはぎはら)』の伝承あり、日本書紀記載の『筑紫日向小戸橘之檍原』の比定地とされる。この『日向』というのは九州宮崎県ではなく、宮下文書における富士高天原『日向の穴宮』のこと、富士朝イザナギとイザナミの拠点であり、アマテラス・ツクヨミ・エビス三貴神が育った場所だ。
そして『小戸大神宮』周辺には、神功皇后の御腰掛石(安産石)の伝承に纏わる海岸がある。この御腰掛石(安産石)が、ツクヨミに大いに関係しているのだ。
開戦に際し、神功皇后は既に応神天皇を御懐妊されていたのだが、戦時中出産を遅らせるために『月延石』または『鎮懐石』と呼ばれる三つの石を腰に巻き、体を冷ましていたという。その三つの石は神社に奉納される事になるのだが、それが長崎県壱岐市『月讀神社』、京都府西京区・現在の松尾大社摂社『月読神社』、福岡県糸島市『鎮懐石八幡宮』となる。近く別記事で紹介するが、『松尾大社』は秦氏氏神オオヤマクイ(火雷神)を祀り、カモサワヒメ(別雷命)を祀る『賀茂別雷神社』とも親しい間柄である。
なんでこんなに神功皇后はツクヨミ信仰に傾倒しているのか?、富士朝信仰者としか思えないのだ。
※因みに。前述した、日本書紀の弓月君の『月』部分こそが、ツクヨミ富士朝で客人勢力として滞在生活していた先行秦氏勢力を匂わせているのかなとも思う…。但馬国日下部氏=ツクヨミの子孫という伝承も、何かしらの富士朝関与が根底にあったとみられる。ツクヨミの子孫ということは、必然的にオオヤマツミ版八王子の子孫を意味する。
筑前〜豊国にかけてはアメノヒボコと秦氏の痕跡が混在しており、富士朝信仰も強く感じるのだ。これが前記事で紹介した、高良大社・香春神社・宇佐八幡宮・雷山・高祖神社に影響を与え始めたのではないだろうか。これらの神社は富士朝の痕跡を隠すため、様々な伝承と仕掛けが加えられていったとみる。
平野邦雄氏著書『帰化人と古代国家』によると、6世紀、この豊国地域(福岡県~大分県)には『屯倉(ミヤケ)』が集中した秦氏の居住地であり、秦氏とアメノヒボコの痕跡が重複されている地域だという。さらに、この『香春神社』というのは、かつて豊前国『宇佐八幡宮』に匹敵するほどの正一位大社であった。氏曰く、むしろ宇佐八幡宮が低評価されていた時代でもあるという。
◯『香春神社』(福岡県田川郡香春町)
〜御祭神〜
・辛国息長大姫大目命
・忍骨命(天之忍穂耳命)
・豊比売命
息長氏はアメノヒボコ末裔とされており、辛国息長大姫大目命=神功皇后(諡・気長足姫尊)ではないかと言わる。辛国(カラクニ)=加羅(広義には任那)との説もあるが、単に辛国(シンコク)≒秦国とも読める。
『日本三代実録』は、豊比売命=辛国息長大姫大目命とし、大阪府大阪市東成区『比売許曽神社』では阿加流比売神=息長大姫刀自命とされるので、アメノヒボコの妻『阿加流比売』ではないかとも言われている。この神社には卑弥呼が関係しているとの説もあり、秦氏・アメノヒボコ・卑弥呼・八幡信仰のクロスポイント…なのかもしれない。
また宮下版アメノオシホミミは、宮下文書における八幡神???タマノオヤの父神にあたり、現在の『伊豆山神社』(静岡県熱海市)の主祭神でもある。
話が逸れるが…。
加茂喜三氏の『ヒミコの故郷』によれば、ヒミコとは『日巫女』と呼ばれるのが妥当であると述べ、やはり太陽信仰と関係があるのではないかという説を思い出す。宮下文書ではヒミコは登場せず、個人的にも全く見当つかないが、大陸との橋渡し役として海人安曇族が暗躍していたのだろうなとは思う…。そうなると強固な結びつきをもつ秦氏も当然関係しているのではないかと。秦氏と安曇族は八幡神・住吉神・太陽信仰でも一致している。
近く、この秦氏と安曇族の強固な結びつきを記事にしたい。
アメノヒボコたる必然性に、秦氏の理由がない…?。
平野邦雄氏は著書『帰化人と古代国家』の中で、アメノヒボコと秦氏の居住地の重複性を説いていた。私に近い史観をもつ歴史家に共感したのだが…、蓋を開けてみれば、『秦氏がアメノヒボコを支配下に従えていた』という結論に至っているようだ(苦笑)。
ま私は、秦氏勢力≒アメノヒボコ勢力のすり替えだとおもっているのだが…。本を読み終えたあとは、期待通りの解答ではなく複雑な心境ではある。著書自体は、情報量も多く、秦氏の事がとてもよく理解できておすすめできる。ただそもそも、宮下文書をしらない平野氏から見れば、秦氏とアメノヒボコ勢力をすり替えを疑う余地もない訳だし…。秦氏は秦氏、アメノヒボコはアメノヒボコなのだろう。
ただ氏は、こうも述べている。
要約すると。日本人が渡来系とスムーズに拡散同化できたと考えるのは安易だ。秦氏や朝鮮人の帰化は、それほど単純なことではない…と。これには私も同感。
当ブログ前記事どおり、ニニギの時代から日本人は朝鮮半島と争って、欠史八代では中国地方出雲では新羅渡来系を監視していたのだ。それに対して秦氏は、ヤマトタケル東征・富士朝鎮圧に協力し、タジマモリやオトタチバナらが信頼を着実に積み重ねてきた。
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秦氏が全国に進出できた背景とは、7代孝霊天皇時代から成果によりはじめて、西国天皇勢力に信頼・優遇・許可されてきた政治的取引であることを意味する。その取引条件は、まさに『富士山なしの神道体系の構築』への協力だった。日本に住むことの条件に、新しい神道をプロデュースさせられていたのかもしれない。それが両者の利害の一致だった。
彼らは先立って、いち早く富士古文書の重要性に気が付き、漢字訳して編集して、富士朝信仰が何たるか熟知していた。同時に大陸の先進的な知識・技術も兼ね備えている。この『太陽信仰』は、おそらく神仏習合の前段階の宗教大改革となろう、だからこそ西国天皇勢力にとっては利用価値があったとも言える。
西国秦氏の神社には、彼らなりの昇華と、富士朝への拘りの両面を感じる…。オオヤマツミとオオヤマクイ、なぜ素直にオオヤマツミ信仰ができなかったのか?。疑問も多い。
具体的に、どのような神道を模索していたかは調査中だが、少なくとも『伏見稲荷大社』や『木嶋坐天照御魂神社』は秦氏の関与であり、新しい神道である。さらに八幡神や稲荷神を広めたのも、彼ら秦氏といわれている。
※上写真は『沼津日枝神社』(静岡県沼津市平町)比叡山延暦寺の祟りを恐れて、藤原師通の母が富士山と愛鷹山の麓にオオヤマクイを祀り始めた。
最後に。
秦氏とよく渡来系として比較されるのが『漢氏(あやうじ)』、宮下文書版坂上田村麻呂など富士朝原住民氏族は、『漢氏』に付会されている人物も多い様だ。渡来系が多かったのは否定しようもないが、宮下文書版蘇我氏など、富士朝原住民→渡来系にされている風潮を、まず認識しておくべきかと思われる。
帰化人が珍重される時代は、平安中期までの貴族社会とともに終わりを告げる。
※地図はクラフトマップ使用。