セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<まとめ>15代応神天皇とは、古代八幡タマノオヤ・イワナガヒメと徐福秦氏の末裔?。

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安曇族『富士氏』が大宮司を継承していた、『富士山本宮浅間大社』(静岡県富士宮市)


2020,1,
23

 

このブログでは

・神功皇后=徐福末裔

・古代八幡=タマノオヤ

・安曇族=タマノオヤ子孫

と仮定した上で、『宮下文書』ベースに妄想考察してますのでご了承を。

 

結局、八幡神とは何なのか?。

なんで八幡神=応神天皇なのか?。

素朴な疑問だが、個人的に納得ゆく答えにまだ巡り合っていない。

結論から言えば、タマノオヤから見れば子孫なのではないだろうか?と…。さらに渡来系秦氏の遺伝子が入っており、この島国の王政の一つの『節目』であったのではないかと。今回はこのブログの節目ともなる纏め記事、一応…(笑)、今の段階で結論が出たので総括してみた。

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タマノオヤ子孫=安曇族?。

安曇族やその子孫小野氏には2つの通説がある。

大きく分けると、

①ワダツミ末裔安曇族説。

②天足彦国押人命皇別説。

 

◯安曇氏Wikipediaより、

・『古事記』では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」

・『日本書紀』では応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」

・『新撰姓氏録』では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」。

◯小野氏wikipediaより、

孝昭天皇皇子・天足彦国押人命を祖とする和珥氏の枝氏。

◯和邇氏wikipediaより、引用。

孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(天押帯日子命)から出たと称しているが、この天足彦国押人命という名は実体が殆ど無いものであり、和邇氏族の実際の上祖は天足彦国押人命の子とされる和邇日子押人命であったと考えられる。氏族名の「和邇」とは鰐のトーテムを意味すると考えられ、龍蛇、鰐信仰を持っていた海人族の安曇氏と同族で、その祖神は綿津見豊玉彦命であったと見られる。

◯海人wikipediaより、

和邇氏は安曇氏の初期分岐氏族、『皇別』を称す。後裔に小野氏がいる。

◯宮下文書研究家・鈴木貞一氏『日本古代文書の謎』注釈要約。

『玉祖神社』(山口県防府市大崎)には太真祖命が祀られているが、一座不詳とある。これは宇都志日金命で御子であろう。

※個人的にも、日金の宮(日金山)タマノオヤとイワナガヒメの御子。ヒコホホデミから、穴門の宮こと玉祖神社『タマノオヤ』の宮守を任せられた宇都志日金折は、御子と見るのが自然。

※因みに宮下文書では宇都志日金命と表記されており、『柝』や『折』はつかないので注意。 

 

<まとめ+追記>八幡神と比売大神イトウの正体わかった!宇佐神宮・伊豆山神社・天孫降臨・八王子権現のまとめ。 - セキホツ熊の謎を追え!

小野氏はイワナガヒメ末裔?。夏至レイライン多摩にて『タマ』を見守ってきた玉神八幡氏族の本懐とは。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

ただ難問なのは、鈴木氏推論だと、安曇=ワダツミといういままでの史学の固定観念を捨てねばならず、安曇=タマノオヤ・イワナガヒメ子孫を証明しなくてはならない。溜息しか出ない…。

 

宮下文書から系図を推測。

まず、一般論から。

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この安曇族と天皇家との皇別接点が、『日子坐王(彦坐王)』である。第9代開化天皇の第三皇子で、和珥臣(和珥氏)遠祖である天足彦国押人・娘との間に生まれた皇子。日本書紀垂仁天皇紀において丹波道主命が子。系図で見ても安曇族としてかなり濃い血筋なのがわかる(宮下文書には日子坐王は登場しない)。

さらに『丹波(タニハ)』が絡んでくるが、この時期の丹波国は、丹波国、丹後国、但馬国を内包する。 丹波道主命は宮下文書にも僅かに記載があり、四道将軍の1人。但し、出自までは記載されていない。個人的には、伊豆安曇族と秦氏の結びつきを、この『丹波』に強く感じるのだ。これがホツマ版アメヒボコがイズシマのフトミミ娘を娶った、出石(伊豆志)神社と関係するのではないかと…。秦氏遺伝子は安曇遺伝子と合流し神功皇后となる。

※前記事にも書いたが、面白いことに日子坐王からツクヨミ子孫と呼ばれる日下部氏が派生している。加茂喜三氏は甲斐国造と絡んで、富士朝と関係があると書いていた。

ただ上の系図はwikipediaの一般的な見解、これが宮下文書論拠に考えると更にややこしい。先述、私が弱音を吐いたのは大体このへんである…、もう系譜がぜんぜんっ違うのだ(泣)。宮下文書三輪本現代訳には神功皇后の孫、大山守皇子は『徐福の子孫』と明記されているわけだ。

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まず、大前提として。

宮下文書における皇族は、藤原系統と蘇我系統による両臣親近婚システムに守られている。太古からの皇別である『皇家』『アメノコヤネ藤原物部系統・右臣』『フトダマ蘇我大伴系統・左臣』の3勢力限定の婚姻関係となる。

※私は便宜上、藤原物部系統と蘇我大伴系統と呼んでいるが、どちらも『中臣』と呼ばれていた時代もあったようだ。

△藤原と物部は直系同族→右臣

▲蘇我と大伴は直系同族→左臣

<欠史八代の家系図>繰り返される近親婚、彼らは両臣という遺伝子防御システムであった。中臣・物部・藤原編。 - セキホツ熊の謎を追え!

<欠史八代の家系図>繰り返される近親婚、彼らは両臣という遺伝子防御システムであった②。中臣・蘇我・大伴編 - セキホツ熊の謎を追え!

 

これが何を意味するのか?。

三つ巴螺旋状、長期計画的に婚姻が進行され、一片たりとも外様の遺伝子が入らない完全防壁のようなシステムだ(残念ながら、ウガヤ朝時代は確認が取れない、全てを厳密に解析したわけではないが…)。

これが神武天皇から11垂仁天皇まで続き、12代景行天皇からこのシステムが事実上、反故にされたとみる。景行天皇は女好きで側室の数が急増、多様化した利害関係から政治的トラブルに発展。また両臣家である藤原物部系統と蘇我大伴系統も、2~9代欠史八代のうちに利権を持ちすぎて脅威になってきた。天皇権力を集中させるべく、藤原と蘇我の権力を排除して、埋没した皇家の権威底上げを図ったのだろう。

 

そもそも、12代景行政府体制は、大正国政大夫として、景行天皇の皇兄・倭武彦命が就任、次席?として大臣国政大夫に、平郡水菟命(藤原物部系統)か就任。景行天皇の外祖父だけを残し、蘇我大伴系統は除外されてしまっている。

系図上の12代景行天皇の母・日葉酢媛尊は狭穂媛命の妹で、武部伊莒命(藤原物部系統)の娘にあたる。おそらくは『先代旧事本紀』の物部伊莒弗に該当し、その他にも見たこともない人物が随所ゾロゾロでてくるのだ。おそらく彼らは後世の系図上抹殺された人物である。こうなると宮下文書系図と一般的系図を比較するのが、素人オッサンにはいかに難しい作業かおわかりだろう(泣)。

 

まあ、なにが言いたいかというと。12代景行年間までは、秦氏や安曇氏の有力氏族すら正后立后される余地はなかった。もちろん天皇『側室』という概念は古来神武天皇からあるが…、宮下文書にはその記載まではない。

このように、景行年間前後、安曇族が躍進して見える背景の一つには、藤原系統と蘇我系統の両臣親近婚システムを歴史上抹消するために、天皇外祖父の付会として系図の各所にて利用された側面もある。これが反故されたため藤原系統と蘇我系統の地位が相対的に、安曇族と同等まで失墜した感もある。当然ながら、安曇族の地位は上がる。

時代的には『倭国大乱』と呼ばれた直後…、このタイミングだからこそ、神功皇后が誕生したのかもしれない。


されど、それを差し引いても、当時安曇族が繁栄していたのは否定しようもなく、安曇族と皇家の縁は深化が為されていたともみる。さらには、安曇族と秦氏の遺伝子をもつ神功皇后が、正后にされる前代未聞のことが起こったのである(そもそも15代応神天皇がホントに14代仲哀天皇の御子なのか?という議論は置いておいて)。

 

ここで、14代仲哀天皇が不審な死を遂げた。

前記事で述べた、加茂喜三氏の『神功皇后vs忍熊皇子』伊豆論を思い出す。15代応神天皇の異母兄弟である、忍熊皇子や麛坂皇子は、皇后のお腹の子を殺そうとしていたわけで、彼らの反発の理由も浮き彫りとなってくる。

まさに、神功皇后は命を狙われる存在となってしまっていたのだ。

アメノヒボコに富士朝の影②、八幡神・応神天皇と三韓征伐の真相とは?。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

八幡信仰改革の真相?。『皇別信仰』

知られてはならず…、祀らねばならず…。

これに呼応して、伊豆山神社と宇佐神宮の改竄の歴史がはじまった。

宇都志日金折と安曇族の故郷、『熱海日金山』の歴史が修正が行われた。熱海はアタ族=安曇族と縁が深い地とされ、日金山はタマノオヤの『日金の宮』であり、妃イワナガヒメの陵墓、現在の伊豆山神社に比定。『走湯山縁起』によると、15代応神天皇二年に相模国唐浜の海上に直径三尺の円鏡が出現、松葉仙人がまず高麗山?に祀り伊豆山に移し祀ったという…。応神天皇死後の、辻褄合わせ的な要素が高いと思われる。

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八幡神を隠す理由は大きく2つのある。

一つは。タマノオヤは阿祖山太神宮の二代目守護司長であり、三種神器祭祀に直結するという事だ。簡単に言えば、西国天皇勢力は、富士朝傀儡とタマノオヤ信仰が結びつくことを恐れていた。

 もっと言えばタマノオヤの『玉』を恐れていた。

宮下文書曰く。崇神5年、10代崇神天皇は三種神器レプリカの製作を、富士高天原・筑紫津島より5名の巨匠に命じる。欠史八代の天皇は富士朝阿祖山太神宮を詣でて、三種神器やアマテラスを祀っていたハズだが、10代崇神天皇は笠縫に三種神器があれば、わざわざ富士朝詣でしなくても良いと考えたわけだ。その結果、皮肉なことに人災・天災が多発したわけで、逆にホンモノの玉の恐ろしさを思い知らされたのではないだろうか…?。

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これは前記事でも述べた剣・玉・鏡を司る女系の血筋、『祓戸四柱』メンバーを隠す理由と酷似しており、奇しくも安曇族にはその女系の血筋が入っているハズである。あくまでこれは個人的妄想だが、安曇族が、夏至レイライン多摩(タマ)にある武蔵一宮小野神社、瀬織津姫を祀る理由であろうとおもうのだ。心の中に『玉』を持つ者、それを誘い気づかせる存在、それが瀬織津姫以下『祓戸四柱』の本当の役割とみている。

・瀬織津姫≒月桜田毘女

・速開都姫≒加茂澤毘女(寒川毘女・別雷命)

・伊吹戸主≒大山祇命

・速佐須良姫≒岩長毘女(ホツマ版イワナガ=ヤマタノオロチ転生)

生まれながらにして三種神器の遺伝子をもつ安曇族、彼らの強さの秘訣なのかもしれない???(妄想)。

〈神社めぐり麻賀多神社①〉宮下文書✕日月神示で考えてみよう!、富士山と鳴門の仕組み、祓戸四柱ヒムカの関係性。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

もう一つの理由は。

『皇別』とは皇位継承権を脅かす存在なのだ。皇兄皇弟が天皇になり継承する前例もあるが、特に権力を集中させたい天皇勢力には、最大の障壁となる。神武東征もタギシミミの乱もこの皇別から発生しており、50代桓武天皇遺伝子をもった平将門は新皇を名乗ったわけだ。広義にみれば、富士朝も『皇別』の関係となろう。

 このタマノオヤという存在は、タクハタチヂヒメ八王子の一柱、ニニギの『弟』の、日本最大級の皇別信仰であった。即ち、皇別が大繁栄をした安曇族という『前例』を示してしまっているのだ、これが後世アダとなり問題視されたのではないかと。

子孫である15代応神天皇『誉田別尊』は、子孫として先代タマノオヤを庇い、八幡神を担った。また応神天皇子孫が富士朝を統治している以上は、富士朝傀儡も否定はできず、納得せざる得ない人選ではある。しかし悪く言えば歴史改竄であり、応神天皇以前の富士朝は先現(センゲン)=浅間として人々の記憶から消し去られることになってしまったのだ。

ここに八幡神たる必然性が出てくる…、やはり応神天皇でなくてはならなかったのだ。

<富士朝めぐり①>先現と徐福、新旧二つの富士朝。八幡神をすり替えたのは徐福富士朝だった?。 - セキホツ熊の謎を追え!

 
安曇族と秦氏の重なり。

ごくザックリ安曇族の拠点を説明しておくと、前回紹介したアメノヒボコ巡礼コースとも重複するところもある。仮にアメノヒボコ=徐福秦氏であれば、秦氏勢力と安曇族の強固な結びつきが浮き彫りとなるわけだ。

秦氏勢力とアメノヒボコ勢力の重複性は、前記事にて述べたとおり。これに加えて安曇族も秦氏と重なり合う部分が多い。これがもし神功皇后=秦氏と仮定するならば、安曇族将軍・難波根子建振熊命従わせていた主従関係が成立していた可能性もある。

・大陸との太いコネクションをもつ秦氏。

・太古からの航海技術をもつ海人安曇族。

よい住み分けができていたのではないか?。

 この両者を象徴する場所が『比叡山』と『琵琶湖』なのだ。琵琶湖の西岸に安曇族小野氏、東岸に、秦氏。前記事どおり、比叡山は富士朝の象徴する『富士山』を見立てたシンボル、その土地の重要性は彼らが一番理解していたはずだ。

西国天皇勢力がつくった富士山なしの神道体系、比叡山から淡路島と祓戸鳴門の流れ。 - セキホツ熊の謎を追え!

現在、琵琶湖西岸滋賀県小野には『小野神社』があり、小野氏祖として 天足彦国押人命と米餅搗大使主命が祀られている。米餅搗大使主命は神功皇后将軍の難波根子建振熊命の御子にあたる。

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なぜ安曇族は、琵琶湖や日本海を中心に栄えたのか?。

安曇族が日本海に多い理由は、日本海を季節風や海流航行していたからで、若狭湾が大陸交易の玄関であったからだ。即ち関西地区から若狭を抜ける最短コースを考えれば、琵琶湖に拠点を持つのが理に適っている。

そして、日本海側・筑紫〜若狭〜信州安曇野〜山形県飽波まで、彼らが広範囲に拠点を構えていた理由まで浮き彫りとなる。

・北九州というのは日本に到着した時の玄関、秦氏の拠点。

・若狭〜越は日本を出発したときの玄関。

・豊前はその中継基地?。

・安曇野や姫川は、船の木材と翡翠の採掘。

・琵琶湖は安曇族と秦氏の拠点。

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◯『小野神社』(島根県益田市戸田町字松雲山)

〜御祭神〜

・小野天大神之多初阿豆委居命

〜配祀〜

・日本武尊

・応神天皇

・神功皇后

・比売大神 

・武内宿禰 

・彌都波能賣神 

・若年神 

・事代主神

・綿津見神 

・天射若子神

※通称『八幡様』と呼ばれている。『石見国抄』によれば、第59代宇多天皇の御宇、平安時代前期の寛平3年(891年)の鎮座で、『小野山』に勧請された古社。昌泰2年(899年)、授位の記事がある。大阪御霊神社の瀬織津姫を御分霊したとされる、津和野藩主亀井茲監より大宮司を置かれ祭典料を供進せらる。

<まとめ>鎌倉権五郎景政『御霊大神』と瀬織津姫の偶然の出会いを検証。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

高良玉垂神は武内宿彌?。

神功皇后を語る上で欠かせないのが武内宿彌、彼は富士朝客人勢力であった徐福らと親交が深かった。そして彼の出自はタマノオヤの御子ウサミが創建した日前神宮、前記事どおり、日前宮・阿備柏原(アビカシハラ)橿原神宮(カシハラ)をレイラインでつなぐと、石清水別宮や鳥見山をとおり、タマノオヤを祀る『玉諸神社奥宮』(山梨県甲州市塩山竹森)へ辿り着く。周辺には瀬織津姫を祀る『船宮神社』がある。

神武東征後に玉はどこへ消えたのか?。橿原神宮は三種神器に護られた八幡神クロスポイントだった???。 - セキホツ熊の謎を追え!

<神社めぐり>玉諸神社奥宮、明治初年に消えた2m水晶御神体の行方?、鉄道王の雨宮敬次郎飛躍の奇跡。 - セキホツ熊の謎を追え!

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ホツマツタヱによると、アビカシハラは瀬織津姫を祀る宮に変更されており、ウマシタケヰココロがムカツ姫(瀬織津姫)を祀るために九年住んだという、この御子が武内宿彌。因みに加茂喜三氏は武内宿彌の父親を、孝元天皇皇子『比古布都押之信命』としている。

また彼の御子・羽田矢代宿彌は、富士朝御舟山嶺に『高良玉太礼神社(後の真王神社)』にて武内宿彌を祀ったという(別記事にて)。宮下文書三輪本現代訳には記載がないのだが、どうやら高良玉垂神というのは、富士朝の武内宿彌信仰のようだ。

さらに宮下文書によると、彼の子孫・紀長貫は後世平安期に賀茂別雷神社(加茂明神)の宮司となり、加茂次郎義綱元服後に家将として従軍している。この子孫が宮下家に婿入りして、源頼朝鎌倉幕府バックアップしたわけだ。こうしてみると、『賀茂別雷神社』と武内宿彌子孫羽田氏・紀氏は、富士朝東西パイプ役として、後世まで暗躍していたことが浮き彫りとなる。

武内宿彌は13代成務天皇ではないか?とか、15代応神天皇の父親ではないか?という説も根強い。『住吉大社』(大阪府大阪市住吉区住吉)には、住吉大神と神功皇后との密事によって応神天皇が誕生したという俗信があるようだ。ここから転じて、応神天皇の父親は住吉神を崇敬している氏族とも…。

安曇族も住吉神を信仰していたが…。

 

駿河に帰化した和彌部氏

宮下文書研究家・加茂喜三氏によると、神功皇后と安曇族将軍・難波根子建振熊命は三韓征伐の折に、伊豆国に製造技術がある高速葦船、枯野船(カヌーの原型)を調達するために東征した。そこで上記の忍熊皇子と麛坂皇子連合軍と戦闘になったと主張している。

しかし…もし、神功皇后が富士朝秦氏と結びつきが強い人物であれば、違う理由もみえてくるのではないだろうか?。つまり西国秦氏勢力の神功皇后が、富士朝秦氏と接触しようとしたわけで、それを阻止するために忍熊皇子と麛坂皇子が西国からこの地に布陣していたということだ。彼らは是が非でも、お腹の御子を殺さねばならなかったわけだ。

こうして、15代応神天皇子孫が富士朝と良縁だったのは前記事のとおり、応神天皇皇子の大山皇子は徐福の子孫と、宮下文書にしっかり記載されている。応神天皇死後、大山守皇子らが富士朝〜関東地方の事実上支配者となり、応神天皇信仰が富士朝高天原に根付いた。安曇族和邇氏にもこの駿河湾に由縁ができ、以降和彌部臣と称し駿河に戻ってくる、この直系が『富士山本宮浅間大社』(静岡県富士宮市)の大宮司『富士氏』となる。

浅間大社は、高天原とよばれた山梨県富士吉田市からみて『富士山』を挟んで裏鬼門に当たる。宮下文書版ツクヨミと月桜田毘女が富士朝から逃げてオオヤマツミが生まれた、白玉ノ池の畔『家司真ノ宮』と考えられる。

ここにはまだ、『火』『水』の伝承が残っているのではないか?。

神社HPによると、『富士本宮浅間社記』7代孝霊天皇時代に富士山が大噴火、この地域が荒廃した。11代垂仁天皇は鎮魂のために浅間神を祀り創建した。『姫神の水徳をもって噴火が静まった』と、富士朝先住民によく見られた『富士山=火神』、『女神=水神』、古来からの火水信仰と合致する。現在、境内にある湧玉池『水屋神社』には御井神なる謎の神と、鳴雷神が祀られており、高確率でオオヤマツミ妃のカモサワヒメ(別雷命)と思われる。ひょっとして、ナルカミ信仰というのもカモサワヒメなのだろうか???。

これを踏襲したのが、貞観噴火での富士朝を避難活動した坂上田村麿で、大同元年(806)平城天皇の勅命を奉じ山宮から遷座させ、噴火鎮静化祈願をしたものとみる。

話が逸れるので、詳細は別記事にしたい(笑)。



終わりに、静岡県沼津市西熊堂にある『高尾山古墳』について、気になる点があるので述べてみる。

高尾山古墳は、愛鷹山の麓で2005年頃発掘された東国最古の前方後方墳として、考古学ファンに注目される。前記事で紹介した『小野氏レイライン上』に存在しており、古墳上には長い間、ウケモチを祀る『穂見神社』が存在していたという(現在も北東にある)。

そして発見者が小野氏という。

 

小野さんキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

 

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昭和40年代。加藤学園考古学研究所・小野真一氏は、静岡県沼津市東熊堂『穂見神社』をみて、古墳の直上に鎮座されているのでは?と思ったそうだ。山梨県には穂見神社が複数現存するが、現在の山梨県南アルプス市高尾にある『高尾穂見神社』から勧請した保食神(ウケモチ)。このウケモチはホツマツタヱにおいてクニサツチの御子なのだ。wikipediaによると、14代仲哀天皇8年3月に神功皇后と武内宿禰が安曇連に命じて気比神を祀らせたといい、『気比宮社記』では気比神=ウケモチであり、これが気比神宮の創建理由となる。

安曇...。

小野…。

ウケモチ…。

住所が『熊堂』というのか。うーむ…これ単なる偶然だろうか?…ニヤリが止まらない(熊笑)



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※地図はクラフトマップ使用。

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