セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

火雷天神の正体はオオヤマクイ?菅原道真?、富士朝伴氏と大宰府憤死の秘密。

 

f:id:sekihotu:20210220053208p:plain

源頼朝、豊臣秀吉、徳川家康に由縁あり『荏柄天神社』(神奈川県鎌倉市二階堂)。



2021,2,20

秦氏が祀る山背国『日火水』レイライン、火雷神・別雷神弓矢の仕組み。 - セキホツ熊の謎を追え!

西国天皇勢力がつくった富士山なしの神道体系、比叡山から淡路島と祓戸鳴門の流れ。 - セキホツ熊の謎を追え!

前記事につづきオオヤマクイ解明編?。

古事記版オオヤマクイは地祇系。オオヤマクイ父神・大年神は、須佐之男命と神大市比売(オオヤマツミの娘)の御子、明らかに国津神である。これが、個人的に私がオオヤマクイに関心が持てなかった理由でもある。ま、残念なことに神社巡りをしていても、日枝系統や松尾系統はスルーしていたのだが...。

こ…これがとんでもない過ちだったことに気づいたわけだ...(震え声)。

 

結論から言えば、秦氏氏神であるオオヤマクイ≒火雷神は、富士朝信仰を准える存在ではないかとおもうのだ。この神を語らずして富士朝解明はありえない。

 

 

f:id:sekihotu:20210220054152p:plain

『地祇系』と『天神』と『火雷天神』

このブログでは何度も説明しているが、スサノオやオオクニヌシを祖とする地祇系は、後世ホツマツタヱや記紀の創作。そもそもこれが、日本神話を大混乱させている要因である。また自動的に、『天神』という概念も考え直す必要が出てくる。

 

そもそも天神とは、国津神に対する天津神のことであり、特定の神の名ではなかったのだが、畏怖・祈願の対象として祭祀された。中にはスクナビコナやオオヤマツミを指していると思われる社もある。各時代の歴史改竄により行き場を失くした古代信仰を、菅原道真公を祀ることで代行、或いは鎮魂していたのではないかと。

知られてはならず、祀らねばならず...。 

東京都台東区上野公園『五條天神社』、東京都調布市『布多天神社』や、宮崎県西都市寒川の『寒川天神社』などは、先行して天神なる存在がまず有り、後付的に菅原道真公が相殿されたのではないかと見る。

 

◯『太宰府天満宮』(福岡県太宰府市宰府)

~御祭神~

菅原道真公を天満大自在天神或いは火雷天神として祀る。

 

◯北野天満宮(京都市上京区御前通)

~御祭神~

菅原道真公

~境内社~

火之御子社 ・火雷神

〜境外社〜

北野天満宮御旅所御輿岡神社 (京都市中京区西ノ京御輿岡町)

 祭神:大己貴命、少彦名命、菅原大神(菅原道真公)




火雷天神を知るにはまず、この菅原道真を語らねばなるまい。

『太宰府天満宮』(福岡県太宰府市)では菅原道真公が『天満大自在天神』『火雷天神』として祀られていたという。ただし、菅原道真公=『火雷天神』とされた直接的理由は筑紫国太宰府に起因するものではなく、山背国北野(京都)にあることに着目する。それは903年菅原道真公が左遷され憤死した後、京都での落雷が相次いだからだ。

北野天満宮境内では火之御子社 『火雷神』を別神として祀り、北野天満宮『御旅所』が前記事で紹介した松尾大社・磐座~比叡山~日吉大社・磐座レイライン上にある。つまるところ、謎の神『火雷天神』祭祀の背後には、やはり秦氏と秦氏氏神オオヤマクイの影が見え隠れしてくるわけだ。

 

〜日吉・松尾磐座レイライン〜

・首塚大明神(京都市西京区)酒呑童子、安倍晴明伝承

・松尾大社磐座(京都市西京区嵐山宮町)

・梅宮大社(京都市右京区梅津)

・木嶋坐天照御魂神社(京都市右京区太秦森ヶ東町)

・北野天満宮御旅所(京都市中京区西ノ京)

・晴明神社(京都市上京区晴明町)安倍晴明伝承

・賀茂御祖神社(京都区左京区下鴨)

・賀茂波爾神社(京都市左京区高野上竹屋町)

・比叡山(京都区左京区一乗寺井出ヶ谷・将門岩近く)

・日吉大社金大巌(滋賀県大津市坂本・八王子山)

 

f:id:sekihotu:20210206153855p:plain

前記事でも書いたが。宮下文書研究家・加茂喜三氏曰く、934年東大寺西塔が落雷炎上した際も、人々が『近々、東国に変乱が起る』と風説したわけで、このとき既に雷神=東国の認識があったという。この事件直後に平将門が『新皇』を称し、この謎の神『火雷天神』を旗頭に、坂東八箇国(関八州)で蜂起する流れとなる。この場合の雷神とは、西国大宰府に左遷された菅原道真公ではなく、火雷神(オオヤマクイ)や別雷神(カモサワヒメ)ら富士朝を指していると思うのだ。

また鳥取県米子市加茂町『賀茂神社天満宮』では京都賀茂別雷神社から勧請して別雷神と、菅原道真公を『雷神』として並祀している。平安京の人々は菅原道真公以上に、その背後の古代信仰を恐れていたのではないだろうか?。

 

◯寒川天神社(宮崎県西都市大字寒川)

・大山祇神

・天穂日命

・菅原道真公

※宮崎県史蹟調査報告によると、『大山積神誕生所の地なり』という伝承あり、周辺には天神山、天神谷とよばれる地名あり。wikipedia寒川(西都市)によると、1989年3月、寒川こと蛇籠川上流にあった寒川郷は、限界集落として廃村されている。You Tubeで『寒川ドキュメンタリー』と検索すると、当時の貴重な映像がみられる。 宮崎市の映画制作会社、監督・籾木良作氏、作品名『寒川』

 

▲宮下文書版オオヤマツミ=寒川比古命

△宮下文書版クニサツチ夫妻=寒川大神

寒川とは富士高天原の川の一つ

 

当社のように、天神とはオオヤマツミも含むとみる、こうした背景を鑑みて始めて地祇系統の虚構が見えてくるのだ。オオヤマクイの母神オオイチヒメ、宮下文書における『大市毘女命』とは、なんと富士朝アマテラスの幼名。宮下文書においてはオオヤマツミの父ツクヨミの実姉であり、彼の実質上司にあたる。

ま、このようにザックリ分類し直せば、地祇と天神を富士朝の視点に変えることができると思う...。


菅原道真の母『伴真成の娘』のヒミツ。

ここで宮下文書版・菅原道真の神系について触れておく。

宮下文書版の菅原道真はサルタヒコ(作田彦命)の子孫、富士朝の神系となる。

10代崇神時代(BC38)、野見彦が四道将軍・吉備津彦の補佐将となり、中国地方出雲~北越を平定し、その功績により出雲の農事を司る。wikipedia的には天穂日命の子孫・野見宿彌の系譜とされるが、宮下文書には天穂日命は登場しない。野見彦=野見宿彌???。

f:id:sekihotu:20190303131518p:plain但し、菅原道真の母方・伴真成について気になっていることがある。

wikipediaでは大伴氏子孫とされているが、宮下文書では15代応神天皇子孫太田氏、或いは武内宿彌子孫羽田氏。800年延暦噴火の際、阿祖山太神宮にて御神霊や宝具を避難・保護させた功績として、延暦25年(806年)6月太田氏・羽田氏の両氏ともに『伴氏』を勅命により賜っている。以降子々孫々称している。

ただ太田姓・羽田姓がなくなったわけではなく、例えば、羽田宗信は源頼義に仕え、羽田六郎左衛門時能は新田義貞に仕え、羽田正宗は楠木正行に従っている。太田氏については断言できないが、太田道灌や太田鍋島氏、日月神示で有名な『麻賀多神社』(千葉県成田市台方)の宮司家太田氏に関係があるのではないかと考えている。

〈神社めぐり麻賀多神社①〉宮下文書✕日月神示で考えてみよう!、富士山と鳴門の仕組み、祓戸四柱ヒムカの関係性。 - セキホツ熊の謎を追え!

この伴氏登場...。奇しくも時期的には、延暦4年(785)の『藤原種継暗殺事件』とリンクしてくるのだ。長岡京にて藤原種継が暗殺されたときに、首謀者として大伴継人が処刑されたのだが、彼の息子が『伴氏』を称する時期と一致している。

大伴継人は死後の延暦25年(806年)、恩赦され正五位上の位階を賜っている。

大伴継人の子・伴国道は、佐渡国への流罪となっていたが803年恩赦により帰京している。大伴氏族は彼の代から『伴氏』を称している。

 

同806年...、これは朝廷が仕組んだ、大伴氏『伴氏』と富士朝『伴氏』のスリ替えではないだろうか?。

 

残念ながら、伴真成という人物は宮下文書に登場しない(今のところ発見できず)、しかし、名前の『真』というのは太田氏の通字なのだ。

このブログでは何度も説明しているが、蘇我氏と大伴氏は同祖『祖家(そが)』、藤原物部系統とともに中臣(左臣)の家系。世の歴史の教科書にも、蘇我氏や大伴氏が藤原氏と権力争いに敗れ衰退してゆく様は語られている。宮下文書版・神代フトダマからの祖家臣家、大伴氏『伴氏』は権力闘争に破れ抹消され、富士朝伴氏が身代わりにされた可能性もある。

皮肉なことに12代景行年間の富士朝には、ヤマトタケル東征に副将として随伴した大伴武日が、お目付け役としてこの地に赴任されていた経緯もあるが、今回の当件とは無縁であろう。806年前後は、この二つの『伴氏』がほぼ同時に生まれ、大伴氏系統と太田・羽田氏系統が混在している可能性もあるので注意。あまりにも不自然な状況だが、これ以上はわからない...。

<欠史八代の家系図>繰り返される近親婚、彼らは両臣という遺伝子防御システムであった。中臣・物部・藤原編。 - セキホツ熊の謎を追え!

<欠史八代の家系図>繰り返される近親婚、彼らは両臣という遺伝子防御システムであった②。中臣・蘇我・大伴編 - セキホツ熊の謎を追え!

ただ、菅原道真本人がもしこれを知っていたのなら、朝廷に対してどういう感情を抱くだろうか?。彼の母方が大伴氏系なのか?それとも富士朝系なのか?今は特定できないのだが...、富士朝ともども約100年間に渡り愚弄されてきたわけだ。結果的に彼は、延喜3年(903年)大宰府で『憤死した』と伝えらている...。彼のプライドとプレッシャーはもう限界にあったのかもしれない。

さらには、菅原道真や富士朝を翻弄した天皇貴族たちが、古代神『雷神』を恐れていた理由も見えてくるわけだ。

 

f:id:sekihotu:20210220070047j:plain

※上写真は『河口浅間神社』(山梨県南都留郡富士河口湖町)境内にある『波多志神社』、当社創祀者・伴直真貞を祀る。

宮下文書から推測するに伴氏、太田真長の孫・太田真貞と思われる。15代応神天皇御子・根鳥皇子が富士朝祭典司長として川口村北の『太田の宮』を拠点とし、子孫が太田を称した。当ブログでは神功皇后=徐福子孫と推測しているので、秦氏の女系遺伝子が入っているのではないかと...。真貞は祝(はふり)の神職に任命されたという。

<まとめ>15代応神天皇とは、古代八幡タマノオヤ・イワナガヒメと徐福秦氏の末裔?。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

こうしてみると、賀茂次郎義綱一家も富士朝が絡み、1109年『源義忠暗殺事件』のスケープゴートとされた事件を思い出す。宮下文書記述に反して、世間的には一家集団自決に近い形で処理されているので、今回の件もありうるな...と。

『暫』と『源義忠暗殺事件』に潜んだ真相。富士朝・加茂次郎子孫は鎌倉幕府に貢献していた。 - セキホツ熊の謎を追え!

ホントに富士朝の痕跡は、あちらこちら歴史の闇に潜んでいる。時に西国権力争いに利用されつつ、隠されてもきているようだ。

サルタヒコ子孫については、いつか別記事で纏めて紹介したい。

 

 

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

※地図はクラフトマップ使用

www.craftmap.box-i.net