セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<まとめ>タマノオヤ日前宮祭祀をしていた武内宿彌は、サルタヒコの血筋であった。

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『御祖代山杓子宮』(山梨県富士吉田市大明見)、おそらくはアマテラスを祀る?


2021,4,3

宮下文書におけるサルタヒコと、その子孫についての纏め(長いので2回に分割)。

一回目は、宮下文書版サルタヒコとはどういう御神霊であったのか、その女系子孫・武内宿禰について。

二回目は、伊勢神宮の本当の歴史、サルタヒコ子孫との関係。

 

 

面が猿に似ていたので、サルタヒコと呼ばれた、、、。

サルタヒコ(作田毘古命)は、オオトノジ(大戸道命)の次男、オオクニヌシの弟。タカテルヒメの兄。アマテラス・アメノオシホミミ・ニニギ・ヒコホホデミの4代に渡って仕えた。

もともとは農佐毘古命と称し、高天原四方州々の総農作の頭、その子孫を農神の首司とされた。また高天原より四方諸州に向かう道をつくり、『道祖神』と呼ばれた。どうやらサルタヒコというのはニックネームのようなものらしく、超長寿の御老体(享年446歳)ゆえに『老神』と慕われていたようだ。

面が猿に似ていたのでサルタヒコと呼ばれていた、、、。

妃は尾茂太留尊2女、作田比女命。スクナビコナとコトシロヌシの妹、また彼女の妹が『鈿目女命』という。三輪本現代訳におけるアメノウズメは、『天鈿女命』と『鈿目女命』の二つの表記があるが、別神の可能性も高いので注意。

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アマテラスの時代

スサノオ勢力が高天原に攻めてきた折、サルタヒコは兄オオクニヌシの命により、スサノオ(多加王)の一族郎党を皆殺しにしている。

その間に、石窟に籠もっていたアマテラスを救出し、サルタヒコが鳴木を叩き、アメノウズメ(天鈿女命)が祝の舞を踊ったという。

 

ニニギの時代

 宮下文書版ニニギの外寇親征の役においては、高天原軍勢一◯八千神の先導役となる。後世のホツマツタヱや古事記で語られるこの『天孫降臨』イメージは、その時代の渡来系出雲に配慮して、意図的に軍事色を排し、国土開発の描写に徹しているようにも見える。

南島戦地(伊予・愛媛付近)にてニニギ夫妻が大喧嘩、コノハナサクヤは激怒の末、祖母タカテルヒメとシタテルヒメを従えて富士朝高天原に帰還してしまう。様子を見ていたサルタヒコとアメノコヤネ(天清住命)はこれを追うが、高天原に駆けつけたときには、コノハナサクヤは既に火山に投身自殺した後であった。アメノコヤネは、生まれたばかりで無戸室に閉じ込められていた彼女の三皇子を救出。戸がないために屋根を破壊して赤子を救出、天清住命改め『天児屋根命』を名乗る。その後サルタヒコは、猿の扱いになれていた為、猿乳を搾り三皇子に与え養育した。

 

ニニギが后を失い、戦後PTSDに病んだ折、左臣フトダマと右臣アメノコヤネらは、ニニギをなんとか元気付けようと苦心する。このときサルタヒコは一つ妙案をひねり出す。

彼はアメノウズメと白髪頭を打振い、猿二匹とともに踊り、イシコリドメは焚器を棒で叩き日夜踊り続けた。ニニギ3皇子を曾祖母タカテルヒメとシタテルヒメが囲い、連れ添い、それを見守った。

宮下文書の世界には、華やかさも、ファンタジー要素もない。原始的で素朴ではあるが、これが現在にも残るサルタヒコ神楽の原型と思われる。

ニニギを、元気付けたかったのだろうか...?。

 しかしニニギはそのまま衰弱死(享年43歳)、コノハナサクヤの外祖父祖母の軍参謀コトシロヌシと妃タカテルヒメはその後を追い殉死。

ニニギ亡き後。その遺言によりサルタヒコを御前に立たせ、西剗の湖北(西湖付近)にある日向山の裾の龍宮に、自らが猿乳で育てたヒコホホデミと后トヨタマヒメを、世継ぎとして出迎えにいったという。

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『龍宮洞穴』(山梨県南都留郡富士河口湖町西湖)

気になるのは、兄オオクニヌシもかなり長寿だったようだ。この時代にオオクニヌシは遠久見国造に任命されている。遠久見佐野原に宮を造営し、晩年を過ごした。

ホツマツタヱにしろ宮下文書にしろ、暦の算出法は諸説あるらしいが、あくまで目安と割り切った方がよいのかと...。単なる誤植ならいいのだが...、ほぼ同一年に死去したコノハナサクヤ、オオヤマツミとカモサワヒメの年齢差も、色々な意味で謎が残る。

偽書のススメ2 :ニニギや神武は何と戦っていたのか? - セキホツ熊の謎を追え!

<偽書のススメ10>なんでみんな宮下文書の解釈が違うのか?、考えてみよう!!。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

~宮下文書三輪本現代訳・死亡推定年~

・アマテラス337歳(41才?)

・ツクヨミ345歳(49才?)

・エビス328歳(33才?)

・スサノオ433歳(63才?)

・アメノオシホミミ279歳(33才?)

・ニニギ(43歳)

・コノハナサクヤ34歳(10才?)

・ヒコホホデミ427歳?

・オオヤマツミ246歳(24才?)

・カモサワヒメ243歳(46才?)

 


ヒコホホデミの時代、サルタヒコが死去する。

高天原大室の御舟湖畔、御舟山の宮にて亡くなる。アマテラスから4代仕えた老神は、当時としても特別待遇で祀られるようになる。

宮の裏山『泉仙山古峰』のに埋葬され、根元に祀られたため、『根元の大神』と称した。場所は、亀之湖と高天原湖の間『古峰』...、ということは現在の新倉山や河口浅間神社方面と思われるが...。加茂喜三氏はこれを『根の神』の根源と解釈している。これをヒコホホデミの代に、高天原天社元宮七廟惣名阿祖山太神宮として合祀、神武時代に『七壮大神』とする。オオヤマツミ59世孫・熱都丹波彦命に守護をさせた。

現在、山梨県富士吉田市小明見にある『明見根元神社』とは、御祭神が天御柱命と罔象女命?なので、なんとも言えないが...。後世に合祀された七廟の一部ではないかと推測する。

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杓子山山頂近くに『根元神社奥宮』があるが、岩場で非常に危険なのでおすすめできない。

興味深いのは、サルタヒコはオオクニヌシの弟にも関わらず、後世に創作『地祇系』『国津神』には、編入されなかったということだ。

次回記事で後述するが、彼ら子孫は、富士朝と出雲に関係を持ちつつ、伊勢神宮のアマテラス祭祀にとっても重要な役割を持つようになる。それ故に、個人的には出雲神アメノホヒ神系の一部に組み込まれたのではないかとみている。

 

 

※wikipediaによると、秦氏の影響力の強い『伏見稲荷大社』(京都市伏見区)の北座(中社)に祀られている、佐田彦大神=サルタヒコの別名という説あり。

※また、三重県伊勢市の伊勢神宮内宮の近く『猿田彦神社』に祀られる太田命(大田命)、宮下文書では記載されていないが、やはり富士朝関係神に思える。サルタヒコ子孫、興玉命という説もある。宮下文書版興玉命は、ニニギの時代、塩土老翁命のニ子、弟アジスキタカヒコネとともに南島(四国)を統治している。別系統であり、どこからサルタヒコと結びついたかは不明。


15代応神天皇子孫と武内宿彌子孫の強固な絆。

この後のサルタヒコ子孫は、富士朝にとって重要な家系となる。

武内宿彌(女系)・坂上田村麿・菅原道真らもその遺伝子を受け継いでいる。

奇しくも、長寿で名を馳せたサルタヒコの女系子孫が、武内宿禰(一般的には280〜360歳?)であったわけだ。片や武内宿禰は、最低でも12代景行天皇、13代成務天皇、14代仲哀天皇、神功皇后、15代応神天皇の五朝に仕えている。

ま...、到底信じられる話ではないが、宮下文書までがそれを否定しない。加茂喜三氏は、少なくとも2~3代の世襲があったのではないかと述べている。

 

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▲宮下文書研究家・加茂喜三氏『富士王朝の滅亡』によると。

武内宿彌父方は8代孝元天皇皇子・比古布都押之信命(彦太忍信命)であるが、母方がサルタヒコ(作田彦命)の子孫・大名草比古命の娘、山下影比女命。

△ホツマツタヱによると、葛城氏葛城国造の葛城垂見宿彌の娘・高千那毘売と彦太忍信命の間に味師内宿彌が登場し、紀国造の娘・山下影媛(影媛)を娶りタケウチ(武内宿彌)を誕生させている。

この紀伊国造ウチマロ(兎道彦)や宇豆比古命の家系が、サルタヒコの男系子孫に比定できそうだ。

 

現在、『日前神宮・國懸神宮』(和歌山県和歌山市秋月)境内にあるのが天道根社天道根命を祀るニギハヤヒ天孫降臨神話にて護衛した、紀伊国造家を始めとする紀氏祖神とされている。即ち、宮下文書版・タマノオヤの御子ウサミに由来する日前宮には、富士朝とサルタヒコ子孫の深い関与があったと推測できる。

同時に武内宿彌とタマノオヤと応神天皇のクロスポイントも見えてくるわけで、武内宿彌や高良玉垂命もよく全国八幡神社に相殿・配祀されている。こうして現代の応神天皇八幡神信仰の原型が、形成されたのではないだろうか?。

神武東征後に玉はどこへ消えたのか?。橿原神宮は三種神器に護られた八幡神クロスポイントだった???。 - セキホツ熊の謎を追え!

<まとめ>15代応神天皇とは、古代八幡タマノオヤ・イワナガヒメと徐福秦氏の末裔?。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

加茂喜三氏曰く、武内宿彌の同母弟・農作王命が、阿祖山太神宮大宮司家を継ぎ富士朝に入麓している。その後この系統は、応神天皇子孫太田氏や宮下家らと婚姻関係を重ね29代・秋田吉彦命までが宮下文書に記録されているという。

以降、武内宿彌系氏族と富士朝との間の強いパイプとなったであろう。

 ただこの加茂氏論、私が参考にしている三輪本現代訳、神奈川県徐福研究会『神皇記』では、今のところ確認が取れていない(いまも調査中)。三輪本現代訳には、先代7代孝霊天皇が阿祖山太神宮の宮守司長に尾羽張田彦命(スサノオ68世孫)、副司長にオオヤマツミ系統・玉武男命をに任命している。この時期の8代孝元天皇〜10代崇神天皇時代の大宮司の項目の2代美弥方男命・3代阿祖男命・4代真田良男命・5代真田八代良男命『省略』とだけ書かれている。

 

もともと三輪本現代訳には未記載部分が多いのか?、加茂氏見解と食い違うところも多々あるので注意。

例えば、蘇我氏出自の見解など...。

加茂喜三氏曰く、蘇我系統は武内宿禰直系・蘇賀石川宿彌としているが、三輪本現代訳では太古からの臣家『祖家(そが)』としている。う~ん、どちらが正しいやら。加茂氏の本を読んでいて感じるのが、藤原物部系統と蘇我大伴系統に殆ど触れていないのをみると、認識されていないのかな?...とも思えてしまう。

 


さらに、その武内宿彌と富士朝を繋いだ人物が徐福であった。

前記事でも何度か紹介したが、宮下文書版の武内宿禰やその子孫は、徐福学に精通していたようだ。

武内宿禰子孫が祀る『真王神社』の真相、オオヤマクイとミシマミゾクイとは。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

〜神奈川県徐福研究会・宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』引用〜

時に、武内宿禰、大神宮へ奉幣にさて、徐福の来朝を聞いて大いに悦び、その門に入って教えを受け、後に一子矢代宿殊をも門人にした。矢代宿殊は秦人に学んだので姓を羽田と改めた。 徐福は武内宿禰の請をいれて、塾を開いて学を講じた。大神宮のほとんど全神官が学生になった。徐福は日本の古文史に興味を持ち、三十六神家につき、その口碑・伝言・文書などによって十二支談を作った。

以上

 但し、宮下文書版・徐福が渡来してきた7代孝霊天王時代と、武内宿禰が生誕していた時期はかなりズレているので注意。宮下文書版・徐福は8代孝元天皇(BC208年2月8日)に死去しているハズ。彼らが徐福に弟子入りした旨が描かれているが、徐福子孫に弟子入りしたとみるのが自然であろう。


宮下文書によると、

▲応神天皇御子・根鳥皇子子孫=太田氏

△武内宿彌御子・羽田矢代宿彌=羽田氏

254年、15代応神天皇御子、大山守皇子が富士朝に入麓、すでに徐福学を修得していた羽田宿彌は、彼ら皇子の付添として同伴、入麓している。

〜15代応神天皇三皇子の富士朝入り〜

・大山守皇子(宮下家)

・隼総別皇子(福地又八良大原田彦の養子)

・根鳥皇子(太田氏)

彼らは、310年の東軍『大山守皇子軍』vs.西軍『16代仁徳天皇と菟道稚郎子皇子軍』の東西戦争に巻き込まれたこともあって、富士朝にそのまま住み着いたとみる。

とんで347年、さらに応神天皇の根鳥皇子(太田氏始祖)が、阿祖谷の農事を司り、祭典司長に就任。羽田矢代宿彌は副司長となる。

 

宮下文書によると、東国富士朝勢力が担ぎ上げた大山守皇子反乱が失敗に終わった後、羽田矢代宿彌は隼総別皇子夫妻に付き添い、16代仁徳天皇・義兄の元を訪れている。戦後の帝都の様子を伺うつもりだったのだろうか?。

しかし、富士朝造反に怒り心頭の仁徳天皇は、異母弟とはいえ、富士朝で育ってきた隼総別皇子と仲良くする気など毛頭なかった。それどころか、隼総別皇子の妃・女登利媛(雌鳥皇女) を奪い取ろうと策略し、皇子と媛らは危機を感じ命がけで脱出する。こうして、隼総別皇子と羽田宿彌は逃亡中の死を見せかけ、富士朝へ逃げ帰ってきた経緯がある。

皇子は、スサノオ72代世孫・吉田彦の次男・福地真太八良が、太神宮分社山宮浅間神社の宮司とし、その3代孫原田彦の養子となる。福地又八郎政元と改称し、その職を継いだ。因みにWikipediaでは、富士朝は隠蔽され、彼らがスケープゴートされていることが理解できる(↓)。こうして、ヤマトタケル~15代応神天皇、武内宿禰らが復活させた東西交流は再び断絶されてしまう。

大山守皇子 - Wikipedia

隼別皇子 - Wikipedia



武内宿彌子孫・羽田氏

時代はとんで平安初期。

前記事記載どおり、800年延暦噴火の際に、応神天皇子孫・太田真長と武内宿彌子孫・羽田宗治は阿祖山太神宮から御神霊と御宝物等を避難させた。この功績により延暦25年(806年)6月、太田氏・羽田氏の両氏とも『伴氏』を勅命により賜って、太神宮・宮守護伴に命じられる。一方、延暦4年藤原種継暗殺事件により、大伴継人が首謀者として処刑、その子・大伴国道は佐渡流罪になるものの、803年恩赦帰京。延暦25年(806年)、大伴継人は死後恩赦、正五位上の位階を賜る。

偽書のススメ6:さらば富士王朝。延暦噴火だ緊急避難せよ坂上田村麿。 - セキホツ熊の謎を追え!

奇妙なのは、806年前後に富士朝『伴氏』と大伴系『伴氏』がほぼ同時に、朝廷関与により誕生している点だ。そして後世に誕生する父方サルタヒコ子孫・菅原道真は、母方遺伝子として、このどちらかの伴氏を継承してる事になる。

また羽田姓は後世まで続いており、羽田宗信は源頼義に仕え、羽田六郎左衛門時能は新田義貞に仕え、羽田正宗は楠木正行に従っている。街を走れば羽田さんだらけ、現代でも富士吉田市内や近隣に多く残っている。

火雷天神の正体はオオヤマクイ?菅原道真?、富士朝伴氏と大宰府憤死の秘密。 - セキホツ熊の謎を追え!

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因みに、羽田姓=秦氏子孫ではない。

武内宿彌御子の羽田矢代宿彌子孫だ。私自身誤解していたので訂正します、ごめんなさい、ご注意を。何時の記事だったか忘れてしまったが...、以前わたしは『秦氏子孫』と書いているはずだ...。

ま、言い訳を言わせていただくと、三輪本現代訳冒頭に羽田孜元総理大臣のコメントがあるのだが、自らを祖先を『秦河勝』と記しており、私も羽田氏=秦氏のイメージが勝手についてしまったのだ(苦笑)。ただ富士高天原では、宮下姓など徐福の子孫もたいへん多いので、徐福の血が合流している可能性は十分あるが...。

因みに波多野氏、こちらは徐福の子孫と言えそうだ。宮下家祖・大山守皇子に十二王子おり、その7子に、佐駕陸(さがむ)国造・幣岐佐陸彦がいる。ここから派生したのが波多野氏。

武内宿彌子孫・紀氏

ホツマツタヱにおいては武内宿禰の父・ウマシウチ(味師内宿彌)は、紀国日前宮アビカシハラにて、瀬織津姫を祀る為に9年住むとされる。この氏族の平安期末裔が紀氏の系譜となる。

~宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』・引用~

貫之の長子武貫は父の咎めに触れ、加茂明神宮司の館に寄寓し遂に、其の一女菊枝を配偶者とし、其の職を受け継ぎ常之を生んだ常之は長貫の父に当たる。長貫は義貫(おそらく賀茂次郎義綱の誤植?)と主従関係を結びその家将となった。義綱は奥州前九年、後三年の功績により左衛門少尉に任じられた...(中略)

同二年(天仁二年)近江国甲賀山の役のとき、義綱は佐渡に流され、家将長貫は戦死した。

引用以上

 

この紀武貫なる人物はネット検索でもヒットせず、不詳であるが、加茂明神(賀茂別雷神社)宮司に婿養子されたのがわかる。かつての賀茂氏や葛城氏ともに、近い存在だったのだろうか?。

紀氏は56代清和天皇皇兄・惟喬親王の外祖父であり、紀静子の御子。惟喬親王は藤原勢力の他氏排斥に敗れ廃太子となり、各地の山の民『木地師』たちの信仰対象となる。憶測の域は出ないが、その清和源氏子孫・賀茂次郎義綱(源義綱)の元服の背景にも、武内宿彌子孫らがチラつく訳だ。

宮下文書版の義綱の長男・源義明は生存しており、源為義に従い鎌倉へ桓武系平氏と思われる三浦平太夫為道の婿養子となり、三浦氏を名乗り富士朝関係氏族となる。

東奔西走した東征者氏族『清和源氏』の役割と、清和天皇の兄・惟喬親王のナゾの行動。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

次回は、伊勢神宮の本当の歴史、サルタヒコ子孫との関係。

 

 

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