セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

『伊勢』の本当の歴史、サルタヒコ子孫伊勢国造と坂上田村麿、菅原道真の関係。

 

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長野県大町社宮本『仁科神明宮』境内・都波岐社、サルタヒコを祀る。

2021,4,10

宮下文書視点で、今の伊勢神宮を分析すると。

もともと富士朝にも西国天皇勢力にも、アマテラス信仰はあった。ただ西国天皇勢力は富士先住民信仰要素を排し、『火』『水』の仕組みに代わる信仰・拠点が欲しかったのだ。太陽こそが遍くこの国を集約できると信じ、日子・日嗣の性質を強調、人民支配の効率化を優先させた。

 

即ち、富士朝からの脱却を意味していた。

 <富士朝めぐり②>西国天皇勢力に奪われた太陽神、そもそも富士高天原は『火』と『水』の楽園だった。 - セキホツ熊の謎を追え!

11代垂仁天皇時代に、太陽神を実質最高神とし、アマテラスを伊勢内宮に祀り始める。

後世21代雄略天皇22年、出雲を冠していたタニハの扱いに困り、皇祖クニトコダチ夫妻(豊受大神)も、併せて外宮に祀り始めたとみる。伊勢神宮とよく引き合いに出される『出雲』とは、丹波一宮・出雲大神宮(京都府亀岡市千歳町)禁足地に眠るクニトコダチ夫妻のこと。それを巫女として支えたのが、信州にあったオリジナル出雲のスサノオ娘、『出雲大神』ことミホツヒメ。伊勢神宮・斎王の原型になったのは、アマテラスやミホツヒメかもしれない。

 

〜伊勢神宮レイライン〜

・内宮6月21日夏至頃朝日の方角、『秋葉山』~『富士山』北斜面~旧・加茂山付近

・内宮8月7日立秋頃朝日の方角、『草薙神社』『御穂神社』〜三島加茂『瀧川神社』~鶴岡八幡元宮『由比若宮』~千葉県銚子市『犬吠埼』?

・外宮6月21日夏至頃朝日の方角、富士朝『杓子山』付近

・外宮6月21日頃夏至夕日の方角、京都府亀岡市西山?、大本拠点『亀岡城跡』?~『粟鹿神社』?~隠岐島?※51代神皇侵攻ルート伊賀~宇治。

・外宮9月23日頃秋分夕日の方角、奈良県『畝傍山』?

※因みに伊勢神宮外宮と出雲大神宮のレイライン上に、『松尾大社』『伏見稲荷』がある。

※日の出マップ参照、メルカトル図法につき多少ズレあり。

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レイライン上の静岡県三島市川原ケ谷『瀧川神社』、旧加茂国にて瀬織津姫を祀る。

2013年放火で全焼するも、伊勢神宮遷宮の古材予備材を譲り受け再建。

では、もともと伊勢神宮はどういう場所であったのか?。

結論から言えば、初代神武天皇の実父、ウガヤ51代・弥真都男王尊を祀る陵墓だった。古代からの聖地というよりは、日本国と天皇家のターニングポイント。今や、役割変更された歴史のほうが、遥かに上回ってしまったわけだ...。

 

11代垂仁天皇は、この『新生・伊勢神宮』をスタートさせるにあたり、富士朝の祭祀ルールに従ったとみる。それを任せられたのが垂仁天皇皇女『倭姫命』を宮守護兼、祭祀司長。そして、富士朝サルタヒコ子孫・舟田彦、後世の伊勢国造松木家であった(後述)。

三重県伊勢市の伊勢神宮内宮の近くに、『猿田彦神社』あり、現在サルタヒコと子孫といわれる大田命(太田命)を祀る。このようにサルタヒコに由来する神社が多く残る、これがカギだ。

 

〜三重県サルタヒコ系神社〜

・猿田彦神社(三重県伊勢市宇治浦田)

・ニ見興玉神社(三重県伊勢市ニ見町江)

・椿大神社(三重県鈴鹿市山本町)

・都波岐神社(三重県鈴鹿市一ノ宮町)

・阿射加神社(三重県松阪市小阿坂町)

・阿射加神社(三重県松阪市大阿坂町)

〜太田命〜

・川添神社(三重県多気郡大台町)

 

伊勢の本当の歴史

宮下文書における日本の開闢期、四季島統治時代。

伊勢は伊志、阿祖南『伊志尾』と呼ばれ、富士朝クニサツチの管轄であった。

アマテラスの時代から、南陽波(なには)六道の『伊瀬』と記載されている。

ニニギの時代には、尾張から伊勢など紀伊半島北部はスクナビコナ(諱は大国御魂命)が任され、尾治田中島・国府の宮、現在の『尾張大国霊神社』より南西国海々までの広範囲の総司令頭長とされる。現在の『度会大国玉比賣神社』(伊勢市豊川町)の御祭神・大国玉命とは、スクナビコナの事だろう。その妃・武彌雄毘女命(96歳)を渡会原に葬り、大国御魂毘女と諡している。

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ただ宮下文書では、同時期、同範囲をスクナビコナと大物主(藤原物部系統)の領地の重複性がみられる。これが何を示しているのかは正直不明だが、宮下文書解釈ではこの二柱ともに、難波〜大和〜伊勢守護であったハズだ。

wikipedia伊勢神宮によると、崇神6年宮中からアマテラスと倭大国魂大神、皇居の外に御移したと書かれている。神武天皇以降それを遠州(遠久見)からの三輪大和勢力進出で、オオクニヌシと混同され、どちらも当時の有力者『大三輪』に統合されてしまったのではないかとみている。後世のホツマツタヱにおいて、大国魂命や大物主命が、オオクニヌシと同一視される一因であろう。

宮下文書の崇神天皇6年、大和国笠縫アマテラスの神前にて、倭大国魂大神を大々的に祀り直す。これが本来の伊勢守護神スクナビコナへの配慮であり、後世の『大和神社』(奈良県天理市)と推測する。

※大国魂大神については、またいつか別記事で纏めたい。

大和国のミワとカモ、クシヒコの大国主・事代主・大物主の混在の証明?。 - セキホツ熊の謎を追え!




時代はとんで、神武天皇東征時代。神武天皇の先代ウガヤ51代神皇・弥真都男(やまとお)王尊の御宇。日高佐野王尊(のちの神武天皇)の兄である海津彦五瀬王命が、名草戸長と出雲渡来系勢力の長髄彦に謀殺された。

日高佐野王命は即座に51代神皇へ、五瀬王命崩御を報告。その時51代神皇は、九州高千穂の宮から東国奥羽に和平を結ぶため巡幸中であった。彼が急ぎ駆けつけたのが、伊勢崎の『多気の宮』。そして武佐志や遠久見などの東国軍兵を集結させたのが『度会(度海)の宮』。

※因みに、この遠久見=遠州の軍勢は、オオクニヌシ子孫・三輪氏祖かもしれない。宮下文書版三輪氏祖はこの神武東征に功績があったと記されている。

 

ここでウガヤ51代は、改めて四皇子・日高佐野王尊を皇太子に立て直し、行宮を『佐野の宮』とした。比定地は『日前宮』近くとみるが、彼の侵攻ルート上に複数あった可能性あり。

さらに51代神皇軍は、伊瀬崎から伊賀谷まで快進撃させるも、山背谷にて猛反撃に遭い、宇治川を境に攻防戦に入った。これがどうやら、伊勢~聖地『丹波出雲』のレイラインコースとなるようだ。ここで51代神皇が体調を崩され急死、伊瀬山田の合野山に埋葬され『阿知須山の陵』と称する。諡は宇家潤不ニ合須尊(寿令140歳)。

戦後十四年後に崩御された51代皇后・多摩夜里毘女尊(照玉毘女命)も同所に埋葬されている。

結果、神武天皇は東国軍の支援もあり、暗黒の世を抜けめでたく天照国となった。国名を『大日本』と号した。神武天皇が都とした大和(やまと)橿原の宮は、明らかに父・弥真都男(やまとお)王尊に由来しているのではないか?。




これが初代神武天皇時代に創建された、宮下文書記載『伊勢神宮』の正体である。ウガヤ51代父母を祀る宮が存在して、左右に摂社大神として宮を立て、左に陸軍戦病死者将校、右に陸軍戦病死兵卒を祀っていた。

因みに、海軍皇族・将校の神霊を祀っているのは山背国竈山『貴船大神』。

 

〜神武天皇時代、伊瀬国〜

・合山大神、摂社八社、末社二十四社。

・度会神社、末社四社

具体的な所在地は調査中。伊勢は遷宮を繰り返し、神宮125社をはじめ謎の神社が多いので、調査も難航が予想される。現在の三重県多気郡は細長く、地名が『竹』や『瀧』に変更されている場合があるようだ。注目すべきヒントは、東征戦没者を祀っている点だろうか...。

 

時代は変わり、10代崇神天皇の時代。

天皇が富士朝麻呂山より、アマテラスの御神霊を強制遷座させるも、天災人災が続発。大和国の人々は、アマテラス御神霊を畏怖するあまり、丹波地方を始め『元伊勢』と呼ばれる宮をたらい回しにしたとみる。

11代垂仁天皇25年(BC5)、アマテラスの御神霊を、大和国笠縫から、ウガヤ51代神皇陵墓所在地の東南である伊瀬国渡会原五十鈴川上の新宮へと遷宮。『天照皇太神宮』とした。このとき笠縫から三品大御宝(富士朝のレプリカ)も合わせて遷宮している。

皇女倭姫命を宮守護兼、祭祀司長に任命。富士高天原阿祖山太神宮の供物司長、サルタヒコ子孫・舟田彦を同皇太神宮供物司長とした。



サルタヒコ67世孫・桜田彦命には三子がいた。

サルタヒコ子孫は、政治と宗教で重要な役割を担ってゆく。前記事紹介の『日前神宮』に関与していた武内宿禰にも、女系遺伝子が入っている。

そして、男系子孫には67世孫に桜田彦命がおり、彼には三人の息子がいた。

 

~桜田彦命・三子~

・舟田彦(山田氏松木氏祖)

・野見彦(菅原道真始祖)

・田村彦(坂上田村麿始祖)

※これについて、私が読解力が乏しいあまり混乱してしまったようだ。

3/20の記事で、ページによって舟田彦と野見彦が混同して解釈できると書いたが。...結局、間違いはないと判断した。この桜田彦三兄弟については宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』P161、P189、P252、P292と記載があるが、文章の主語が『誰』なのか、ちょっとわかりにくかったようだ...。

下系図はP292〜293の記述に基づく(前記事から変更点なし)。

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<まとめ>タマノオヤ日前宮祭祀をしていた武内宿彌は、サルタヒコの血筋であった。 - セキホツ熊の謎を追え!

△長男・舟田彦の家系

11代垂仁天皇25年(BC5)。長男・舟田彦はもともと、富士朝・阿祖山太神宮供物司長をしていた。伊勢度会の『天照皇太神宮』遷宮に合わせ、その職を弟の田村彦に譲り、伊瀬へ。天照皇太神宮供物司長となる。転任して伊勢国河曲原に移り、都波岐の神田作事のため、『都波岐宮』を造営して居住する。

ここでは富士朝高天原小室沢の古例に従い、伊勢倭田山尾崎峰の大きな『松』の下で供物を焚いた。のちの倭田氏=山田氏、後に松木氏と称した。また、高天原天つ大御神・天神・地祇に供物を捧げ場所として『二度見ケ浦』と定め、遥か高天原太神宮にも向かい捧げられることを定めた。

 

一般的に知られている松木氏は、伊勢祠官の家系。多くの分家を生んだ『度会氏』本流であり、古来より伊勢外宮の禰宜・権禰宜を世襲して務める。禰宜を務められた重代家は、度会氏六家のみ(檜垣家・松木家など)。

鎌倉時代後期~南北朝時代、伊勢皇大神宮・内宮と対立し伊勢神道を提唱している。


△次男・野見彦の家系

少し時代を遡って。

10代崇神天皇60年、四道将軍こと吉備津彦が、中国地方出雲から北越を平定。次男・野見彦はその補佐将として活躍、この功績により出雲を拠点とし、北越の農事を司る。

11代垂仁天皇時代。この野見彦が、最強を自負する当麻蹴速を相撲(角力)で倒し、天皇に気に入られた。以降、その領地を賜り野見宿彌と称する。

この時代、有力者埋葬による殉死が、あまりにも惨たらしいので禁止令が出る。皇弟倭彦命の陵墓などから、夜な夜な悲鳴や呻きが聞こえたという...。おそらくは神代にてコトシロヌシ夫妻が、ニニギのため殉死した美談が、後世に悪習として拡大解釈されたのか?。家臣らが当然のごとく後追い、あるいは強要され苦しんでいた。

野見宿彌は『埴輪(はにわ)』を提案、人身御供の見立てにこの埴輪を献上しようとした。

しかし垂仁天皇崩御後は野見宿彌夫妻ともに殉死し、垂仁御陵のある大和国菅原の伏見付近に祀られた。そのため御子・出雲彦命『菅原宿彌』の名を賜り、後世に彼の子孫が菅原道真となる。因みに『菅原』とは高天原の地名でもあり、アメノオシホミミの実父・マゴコロタケル夫妻の陵墓があったと推定。

wikipedia菅原氏では、アメノホヒ末裔と言われているが、宮下文書にアメノホヒは登場しない。つまり、アメノホヒ神系というのは富士朝神系サルタヒコ子孫と菅原氏祖を指し、付会いされた神系ではないか?とみる(後述)。
※因みに上地図に記載されている、伊勢内宮・富士山レイライン上にある『秋葉山』の秋葉城は、菅原道真子孫『天野氏』の築城。氏祖は菅原道真7代孫、天野遠江守景信。現在の『秋葉本宮・上社』(静岡県浜松市天竜区)。

火雷天神の正体はオオヤマクイ?菅原道真?、富士朝伴氏と大宰府憤死の秘密。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

△三男・田村彦の家系

上記の舟田彦に代わり、富士朝の阿祖山太神宮供物司長となったのが三男・田村彦。彼のさらに31世孫宮田麿は、太神宮農作及び祭典副司長となっていた。

宮田麿は、加幣使・忍壁親王(40代天武天皇御子)に気に入られ、飛鳥へ。親王副司に取りたてられる。その後、蝦夷平定の功績として科野国高井郡と水内郡を賜り、長野原の吉田岡の坂上を拠点とし『坂之上』と称した。これがなんと!、戸隠神社や伊豆毛神社や飯綱山の近くであった。

ここで前記事を思い出して欲しい。

40代天武天皇とは、古事記編纂に着手した歴史改竄の張本人。天武13年(684)白鳳地震が起こると、本州重心点北4㎞に『加茂神社』(長野市鬼無里東京二条)を創建し、『鬼無里に遷都しろ!』と騒ぎ出した人物でもある...。坂上田村麿が本州重心点近く『瀬戸川神社』(長野県上水内小川村瀬戸川)を参拝していたと書いたが、これら坂上家の地元近くであったわけだ。

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坂上田村麿が本州重心点へ行った本当の理由、富士噴火鎮魂『富士山重心点レイライン』。 - セキホツ熊の謎を追え!

<レイラインの美学④>スサノオ『重心点』レイライン。信州になにやら巨大拠点の痕跡。 - セキホツ熊の謎を追え!

その後、宮田麿は陸奥国三十四郡を賜り、苅田郡苅田に居住、征夷大将軍・坂上苅田麿を称す。774年中納言兼鎮守府将軍として、阿祖山太神宮に上り『先現(せんげん)太神』と改称。将軍職を息子・坂上田村麿に譲り、自身は再び、信州旧領地の吉田岡『坂上の館』にて隠居した。

坂上家は『信州出雲』と何か関係があったのだろうか?。

一般的には坂上苅田麿の父は、坂上犬養とも渡来系『東漢氏』ともいわれるので注意。『犬養』というのは、西国天皇勢力が、富士朝を指す隠語のように感じてしまう(妄想)。平将門の別記事にてこれに触れたい。

また天正7年(1579)には、彼の子孫田村氏・愛姫が、伊達政宗の正室となっている。

 

 

根底から考え直さなければならない、出雲族出雲臣とは?

さて、ここで触れておきたいのが、アメノホヒ子孫の出雲臣出雲族、武蔵国進出である。

武蔵国『大國魂神社』『氷川神社』『鷲宮神社』『久伊豆神社』ともに共通して影響してくる。根源は13代成務天皇の時代、出雲臣で武蔵国造のエタモヒ(兄武比命)が、氷川神社などに出雲祖神を祀ったとされる。岩槻市『久伊豆神社』は、29代欽明天皇時代、出雲臣土師氏が武蔵国に移住した際創建、のちの太田道灌が岩槻城鎮守にしている。出雲族土師氏=野見宿彌の末裔、日本書紀では土師阿多勝(若葉足尼)の父。

この『出雲臣』とは、一体何を意味しているのか?。

少なくとも宮下文書では、世間でいうアメノホヒ子孫ではなく、サルタヒコ子孫ということが浮き彫りとなってきた訳だ...。

 彼らは、伊勢の松木氏山田氏ともども、富士朝『天神』祭祀に精通した由緒正しき家系。一般的に、菅原道真公の祖先といわれるアメノホヒというのは神は、どうやら中国地方における富士朝の祭祀影響力を暗示した存在らしいのだ。

 

前記事で指摘したように、宮下文書版サルタヒコはオオクニヌシの弟でありながら、国つ神・地祇系には編入されなかった。つまりもう一つの『出雲系』であるアメノホヒ神系に組み込まれたワケだ。

ここで、記紀アメノホヒを振り返ってみよう。高天原の天津神であり、出雲に3年行ったきり戻らなくなった...。

また『出雲国造神賀詞』では、地上の悪神鎮魂のために地上に遣わされたとある...。

勿論、三輪氏が複数氏族と合流したように、アメノホヒ神系にも複数氏族が混在している可能性はあり。特に、中国地方出雲を監視していた宮下文書版ウマシマジ子孫・大伴氏や、丹波出雲周辺を開拓した秦氏など、つまり富士朝系『出雲』祭祀に関係した氏族も、複数結びつき付会されているのではないかと...(調査中)。

そしてホツマ版アメノホヒ実母は、九頭竜モチコ。信州出雲と思われる『戸隠神社奥社』の地主の神、戸隠信仰においても中心的存在

 

※大伴氏は後に『伴氏』となり、菅原氏の母方に合流してもいるとも言えそうだが...。

※前述の『川添神社』(三重県多気郡大台町)の御祭神、伊勢国造の祖である『建日別命』ここにもタケヒが登場するわけだ。『建日別神社』『建比良辺神社』とも呼ばれていたという。これは出雲族土師氏の祖タケヒラドリとは関係ないだろうか?(妄想)。




『伊勢』の記事を書いていたら、結局『出雲』になっていた。いや、伊勢でのサルタヒコ子孫を勉強していたら...出雲でのサルタヒコ子孫が見えてきた。まさに、伊勢と出雲は表裏一体の存在かもしれない。

ウ、ウ~ン、、、繋がりそうで繋がらない。

いや...さらに、頭がこんがらがっている(苦笑)。

信州出雲

丹波出雲

中国地方出雲

武蔵国出雲族と氷川神社

伊勢

 

いずれにしても、出雲や武蔵国出雲族については、前記事の再考察が必要と思われる。

 

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※地図はクラフトマップ使用。

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