セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈妄想考察〉ニギハヤヒ・タマノオヤ・ホノアカリの影が、重なってみえる件

 

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右臣アメノコヤネ・左臣フトダマを祀る『内野浅間神社』(山梨県都留郡忍野村)

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内野浅間神社すぐ西100mにある『内野八幡神社』

2021,7,24

宮下文書ベースでの妄想考察となる。

富士古文書(宮下文書)は、何度もボロボロになり写本されてきた。それ故に偽書と呼ばれ、史実的価値は薄いとされているが、内容的には6000以上まえの記述が残されている可能性は否定できず。最古と呼ばれるホツマツタヱ成立のさらに3000年前、ダントツで日本最古の伝承類となる...。

また、全51代ウガヤフキアエズ朝〜10代崇神天皇までは、富士朝詣が途切れることがなかったとの証言もされており、ホツマツタヱ成立前後までの国史はうまく語り継がれていたものと推測できる。

  • 10代崇神天皇時代に三種神器レプリカが登場,。
  • 11代垂仁天皇時代に伊勢神宮が誕生。
  • 12代景行天皇時代に東征が始まる。

やはり大規模改竄が始まったのは、この時期かなと思っている...。

 

 

ニギハヤヒ・タマノオヤ・ホノアカリ

宮下文書には、瀬織津姫・九頭竜・ヤマタノオロチ・宗像三女神・ニギハヤヒ・国譲り神話等が登場してこない。一方で、藤原物部系統と蘇我大伴系統の再編、出雲神アメノホヒ子孫野見宿禰・坂上田村麿・菅原道真も同サルタヒコ子孫、家系図のすり替え痕があちらこちらで見られる。

前記事でも少し述べたが、タマノオヤやホノアカリを調べていくうちに、ニギハヤヒとの共通点が見えてきた。ニギハヤヒの別名『天照国照天火明櫛玉饒速日尊』を分解してみると、複数の神々を繋ぎ合わせていることがわかる。

  • 『天照』=ホツマ版アマテラス
  • 『国照』=ホツマ版ニギハヤヒ
  • 『天火明』=ホノアカリ
  • 『櫛玉』=櫛明玉命(タマノオヤ)あるいはホツマ版クシタマホノアカリ。
  • 『饒速日』=ニギハヤヒ

本日は、このニギハヤヒの類似性に着目してみたい。まずはこのタマノオヤ・ニギハヤヒ・ホノアカリ三柱を比較していく。

 

◯ニギハヤヒとは。

別名、天火明命、饒速日命、櫛玉命、天照国照彦火明櫛玉饒速日命、櫛玉饒速日命。天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。物部氏・穂積氏・尾張氏・海部氏・熊野国造の祖神。

・父アメノオシホミミまたは荒木臣命

・母タクハタチヂヒメ

・妃ミカシキヤヒメ・櫛玉姫命

・子ウマシマジ・天香具山命

『日本書紀』では神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かって天磐船に乗り、河内国の河上に降臨した。大阪府交野市『磐船神社』や、 『哮ヶ峰(たけるがみね)』はその痕跡とされ、一団はその後大和国に移ったとされている。注目すべきは、瓊瓊杵尊の天孫降臨説話以前、或いは別系統の『天孫降臨神話』として語られ、神武東征以前から大和国に祀られていた形跡ある。一般的にはホノアカリと同一視されることが多い。

ホツマツタヱでは、ホノアカリとは完全に別神。ニニギの孫であり、ホノアカリムメヒトの子、斎名クニテル。妃ミカシヤ姫の兄がナガスネヒコ。はじめ香具山政権を牛耳る悪役として登場し、アスカの後継者となるも英雄的要素はなく、成り行きで義兄ナガスネヒコを殺害し、神武皇軍に従う。

 

宮下文書では一切登場せず、また宮下文書では藤原物部系統と蘇我大伴系統が捻じれ現象を起こしており、ウマシマジは物部氏祖ではなく蘇我大伴系統となるので注意。祖家(のちの蘇我)系統ウマシマジが、ナガスネヒコの元にスパイ潜入し殺害し英雄的活躍をする、また大臣・表春桟男命(ウワハル)を称して、田地間・稲葉国造となる。

以前の記事では、中国地方に渡ったウマシマジの子孫が、アメノホヒに比定するのかな?と思っていたが...。今は訂正させていただくm(__)m、アメノホヒ=サルタヒコ子孫に比定される。

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◯タマノオヤとは。

別名、玉屋命、櫛明玉命、天明玉命、豊玉命、天羽玉玉神、玉造部玉作連の祖神。イシコリドメと共に、ニニギ天孫降臨五伴者一柱としても知られる。

宮下文書においては、外寇征親の役の後疲弊した富士朝ニニギ政権に代わり、西征で活躍。

・父アメノオシホミミ

・母タクハタチヂヒメ

・妃イワナガヒメ

・子ウサミ

・孫クマノクスヒコ

前記事のとおり、八幡信仰と関係あるのではないかと見ている。八幡神は、皇祖神の位置づけながら、天津神・国津神系統の信仰とは違う独自性が多いわけだ。子のウサミにより日前宮、孫のクマノクスヒコにより熊野山社にも祀られる。

もともとは再起不能になった兄ニニギを、サポートすべく立ち上がった弟タマノオヤ。しかし、彼の活躍なくして現代の神道は語れないほどの大活躍をしてしまった。後世ニニギ系天皇家にとっても、迂闊に手出しできない信仰となった。

 

~宮下文書・阿祖山太神宮守護司長(2代目)~

  • 太真祖命   守護司長              玉?
  • 天兒屋根命  守護副司長(右臣・藤原物部系統)  剣?
  • 天太玉命   守護副司長(左臣・蘇我大伴系統)  鏡?

 

~宮下文書、ニニギ・タマノオヤ系図~

 

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伊豆山とはなんなのか?。日金山に埋葬されたイワナガヒメと家族の大冒険。 - セキホツ熊の謎を追え!

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◯ホノアカリとは。

一般的には天火明命。尾張氏・津守氏 ・ 海部氏、丹波氏の祖。一部ニギハヤヒと同一視される。

・父アメノオシホミミまたはニニギ

・母タクハタチヂヒメ

・兄弟ニニギ

ホツマツタヱでは、ニニギの兄がクシタマホノアカリ、ニニギ長男がホノアカリムメヒトとなり同名別神の二柱存在する。尾張国・大和国の開拓の祖。

宮下文書では、天別天之火明命または天別火明命。天孫ニニギのさらに孫で、ウガヤフキアエズ弟となる。ウガヤフキアエズが霧島高千穂峰に進出し、ウガヤ朝建国する一方で、ホノアカリは日本の地理的中心『尾張』を拠点とする。

3代ウガヤフキアエズ神后はホノアカリ御子で、高天原副司令官の源玉男命はホノアカリ孫。後述するが、ホノアカリは神武東征以前に哮(イカルガ)峰にて祀られていた形跡があり、前述の哮ヶ峰(たけるがみね)ではないかとみている。かつて哮(イカルガ)峰とも呼ばれていたという。

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そもそも大和国はホノアカリの地。

宮下文書における『神武東征』の直接的原因とは、皇位継承の主張であった。

51代ウガヤフキアエズ王・弥真都男王尊即位36年6月、禍津亘理命は、46代ウガヤフキアエズ王皇子・天之明立農鋤命の玄孫、真佐勝彦命を奉じ神武皇軍に宣戦布告してきた。背景には、白木国(新羅国または白国)より軍師を手引きしており、その総大将が長髄彦となる。ここで白木軍が、天別火明命子孫・富明彦主命と称して、大和国入りする神武側皇軍の前に立ちはだかり、対抗してきたというシーンがある。

 

神奈川徐福研究会三輪本現代語訳『神皇紀』からそのまま引用すると、神武が白木軍に対して曰く、『あれは哮(イカルガ)峰に配り置いた火明命の御神体ではないか、ならば試しにこの弓矢を射返すが、それが本当ならば的中しないであろう』と。放った矢は長髄彦の長男・長髄足の腹を貫き、落馬して死んだ。これに長髄彦が大激怒し猛攻、神武軍は難波経由で名草へ撤退を余儀なくされるのであった...。つまり白木軍は、既に大和国に祀られていたホノアカリ子孫を自称し、勢力をなしていた。しかし実態は、長髄彦とホノアカリ勢力とは無縁であったことも示唆している。

ホツマツタヱ29文にも似た描写があり、神武皇軍がニギハヤヒと義兄ナガスネヒコに、クシタマホノアカリのシルシ(紋章)を見せろと問いただすシーンがある。ホツマツタヱ研究者がよく、記紀の原型がホツマツタヱと主張するが、そのホツマ原型は宮下文書ではないだろうか?。異なる点も多いが、度々似たような描写があることにも驚かされる。

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宮下文書版ホノアカリは、父ヒコホホデミに尾張國造を任命される。当時の尾張国は、信州出雲『陰社』の対とされる津島宮『陽社』があり、高天原、ウガヤに次ぐ日本第三極の重要拠点であった。ホノアカリ勢力は、尾張の『眞清田の宮』を拠点としていたが、彼が何故に大和国に祀られることとなったのか、経緯が述べられておらず。ただ、尾張を拠点とした大軍司家系であるスクナビコナ(大国御魂命)や大物主は、大和国にも数々痕跡を残しており、ホノアカリ子孫も大和国に進出し、開墾拠点を置いていたとておかしくはない土地柄ではある。

神武東征に真っ先に協力した、遠州オオクニヌシ子孫三輪氏が大活躍をし大和国へ進出。当然ホノアカリ勢力は、縮小した可能性がある。神武東征後の論功行賞では、天別天之火明命50代孫・尾羽張明照雄命を尾羽張・二川の国造として保留。こうして、大和国が日本中心を宣言して建国された一方で、尾張国の存在意義が低下していったものと思われる。

 

ホツマツタヱにおいては、神武東征以前に大和国を開墾した人物はクシタマホノアカリとされている。まずイカルガ宮、すぐにアスカ宮へ遷宮し初代『アスカ皇君』となる。大和国=ホノアカリの地といっても良いだろう。こうした経緯から読み解くに、どうやらホツマツタヱでホノアカリが同名異神二人出てくる理由は、タマノオヤ西征やウガヤ朝2700年の強引な欠史を埋め、タマノオヤやホノアカリ勢力の歪みを補正させるためでもありそうだ。

いやいや、そもそもの話、すべての系譜ごちゃまぜ現象の元凶は、富士朝~ウガヤ朝約3000年の強引な欠史の『歪み』といっても過言ではない。スタートが歪めばすべて歪む。

ホツマツタヱでは、この欠史の歪みを補正するために、八幡神+ウガヤフキアエズ朝。そのスタート部分がクシタマホノアカリ。その終焉部分がホノアカリムメヒトとなる。

こうして神武東征に先立ち、大和国が既にホノアカリ勢力により開拓されていた矛盾を解消しているわけだ。最終的にクシタマホノアカリには後継者を途絶えた事にして、ホノアカリムメヒトの子供ニギハヤヒがアスカの君となり替わっていた。ホノアカリ勢力が見事に、分断工作に利用されてしまったわけだ。

個人的には、ホツマ版クシタマホノアカリとは、宮下文書版ホノアカリ+タマノオヤに近い存在ではないだろうか?とみている。理由は後述するが、33代推古天皇登場するまでの一時的なアズミ族衰退時代だけ、同一視されていたのではないかと...。

 

◯『広瀬大社』(奈良県北葛城郡河合町)

〜主祭神〜

・若宇加能売命

〜相殿神〜

櫛玉命(社伝では饒速日命

・穂雷命

 

◯『櫛玉命神社』(奈良県高市郡明日香村)

・櫛玉命

・櫛玉姫命

・天明玉命

・豊玉命

前述したように、櫛玉命とはニギハヤヒのことだが、『櫛玉命神社』ではとくに定義なし。創建年代は不詳、仲哀天皇の御代に櫛玉彦命(櫛玉命)の後裔に当る荒木命が祖先を祀る。江戸時代初期には『八幡宮』と称され、八幡大神を祀っていたという。

 

 

皇別信仰の危険性。

富士朝を知るうえで、是非とも知っておくべき基本事項がある。それが『皇別信仰』が危険視されていた理由だ。これによって、なぜ富士朝が潰されたのかが簡単に理解できる。

ニギハヤヒ、タマノオヤ、ホノアカリに共通項は『皇別』となる。簡単にいえば天皇家からの派生勢力。

前述の神武東征の根本原因のように、天皇家にとっての一番の難題は『皇位継承権』。正確に言うと、皇兄・皇弟背後を牛耳るバックボーン同士の主導権争いとなる。広義には、西国天皇勢力も富士朝も祖先は同じ、ともに皇別同士の存在となる。

代々、西国天皇勢力を悩ませてきたのは、皇子親王が東国富士朝に渡るときの融合反応であった。富士朝と皇別との東国での交わりは、まるで化学反応のように、皇別を奉じ、西国へ反抗を繰り返してきた。彼らはしきりに神道の『本家』『元祖』は富士朝だと主張してきたわけだ。西国天皇勢力を揺るがし、仇なす勢力にもなりかねず、歴代天皇たちの悩みの元でもあった。



〜宮下文書における東西戦争〜

・タギシミミの反乱

・狭穂彦王の反乱(加茂喜三説)

・大山守皇子の反乱

・平将門の反乱(加茂喜三説)

・賀茂次郎義綱子孫三浦氏族の宮下家婿入り、鎌倉幕府成立

・南朝と宮下家・三浦義勝連合

・清和源氏新田氏徳川?と三浦氏蘆名氏天海?

 

富士朝に関係なく、皇別王別が危険視されるのは世界共通のこと。西国天皇勢力内でも皇位継承の争いが激化、奈良後期~平安初期の約1世紀の間(46代孝謙天皇~54代仁明天皇)に、皇位継承権を剥奪された廃太子が5件続いた。平安期にも惟喬親王のように、権力闘争に負け都落ちせざる得ない親王も多数いた。

そしてもし仮に、私が言うように八幡=タマノオヤという図式が証明されれば、八幡信仰というのは日本最大級の『皇別信仰』となるわけだ。

 

ではなんで、ニギハヤヒやタマノオヤやホノアカリが、混同されるようなことが起こったのか?。

アズミ族の衰退により、ニニギ直系子孫『天皇家』は、八幡信仰の取り扱いに苦慮したのではないかと。なんというか...大和国では、八幡信仰に対する紆余曲折が感じられるのだ。前記事にも述べたが、タマノオヤは富士朝阿祖山太神宮の実質トップ『二代目守護司長』でもあり、なんとしても隠しておきたい。もし日本を代表する八幡信仰≒富士朝発祥と、東国勢力に知られてしまえば、富士朝勢力蜂起に正当性を与えてしまうだろう。

そんな中、皇別タマノオヤ・アズミ族女系の血は天皇家と再合流を果たしたのだ。これが秦氏神功皇后の血もついだ15代応神天皇であった。後世の八幡神が、アズミと秦氏と15代応神天皇の血をひく29代欽明天皇に封じられた最大の理由は、ここにあるのではないかと。社会情勢的には仏教を重んじつつ、子孫としては八幡信仰を残したい、苦肉の策だったのであろう。

こうして八幡神=応神天皇というスリ替えが始まった。

応神天皇には秦氏女系の血も入っており、4世紀〜6世紀の一時期アズミ族衰退後も、富士朝信仰に理解のある秦氏にバックアップされたのであろう...。この混乱の最中、タマノオヤはニギハヤヒと同一視され、皇別神としてともに祀られていた時期があったのではないかと...。

日本全国の八幡宮に『鳩』が象徴されるのは、この大和国と河内国境の『斑鳩(イカルガ)』に関係しているのではないかとみている。

このあと応神天皇直系子孫である、29代欽明天皇の皇女・33代推古天皇の時代にアズミ族が復権、807年に『元石清水八幡宮』(奈良市東九条町)が創建される境内摂社には、祭神不明の『宮玉神社』があり、付近大安寺には『推古天皇社』も祀られている。石清水八幡宮側はあくまで、豊前国の宇佐神宮の直接勧請とし、元石清水八幡宮勧請説を否定しているが、関西圏における八幡信仰を辿る上ではどちらも重要な社には違いない。また推古時代直後に、アズミ族・阿曇比羅夫らが活躍した背景も頷ける。さらに50代桓武天皇と56代清和天皇も、15代応神天皇の直系子孫なのだ。

その後、河内国にて『石清水八幡宮』が860年創建され、河内国の清和天皇子孫・八幡太郎義家により東国へ拡散されてゆく流れとなる。宮下文書によると、富士朝宮下家にも、秦氏・応神天皇・清和源氏の血が入っている。つまり応神天皇を全国大々的に祀るということは、西国天皇勢力が、東国や富士朝を黙らせる免罪符ともなる。転じて、軍神としての八幡信仰とは、全国平定の意味もありそうだ...。

<まとめ>15代応神天皇とは、古代八幡タマノオヤ・イワナガヒメと徐福秦氏の末裔?。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

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物部氏祖神十柱として、饒速日命・宇麻志麻治命を祀る『物部神社』(山梨県笛吹市石和町)。


『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊』

このように、大和国ニギハヤヒという神には、タマノオヤやホノアカリといった皇別の神々が、複数内包されているのではないだろうか?。これら歴代皇別信仰を束ねて、本来藤原系統であった宮下文書版蘇我氏祖ウマシマジ〜物部氏までを、歴代改竄の数々を集約し鎮魂させたのが、ニギハヤヒ信仰ではなかったか...???。その過程で、国津神にすることができなかった皇別神を日嗣太陽神として、大和国に集約し、秦氏らに鎮魂させたのではないかとみている。

これが秦氏の影響が強い『木嶋坐天照御魂神社』(京都市右京区太秦)などでも、天照国照天火明命が信仰されていた理由ではないかとみる。

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