2021,9,11
本ブログでは宮下文書ベースの考察をしている。
今回はオトタチバナヒメを特集。宮下文書岩間本『開闢神代歴代記』にとんでもない記述をみつけたのでご紹介する(震え声)。
- 仲哀天皇の母親?
- ヤマトタケル東征のパラドックス
- アメノヒボコ子孫『タチバナ』とは。
- 橘氏・県犬養氏と橘モトヒコは、繋がるのだろうか?。
- 13代成務天皇・14代仲哀天皇について。
- 15代応神天皇とは、秦氏男系女系の結合体?。
仲哀天皇の母親?
一般的に14代仲哀天皇とは、ヤマトタケルと両道入姫命の御子と言われているが…。
結論からいうと、14代仲哀天皇とはオトタチバナヒメの息子なのだ。
つまり父15代応神天皇は、オトタチバナヒメの孫。16代仁徳天皇と大山守皇子は曾孫となる。さらにホツマツタヱ版系譜では、彼女はタジマモリの実娘とされているので、神功皇后と同じ新羅王子・アメノヒボコ子孫となるのだが…、併せて気になるところ。
〜13代仲哀天皇の母親〜
▲wikipedia=両道入姫命(別名:石衝毘売命)
△宮下文書=大妃橘媛命
〜岩間尹著『開闢神代歴代記』より引用〜
足仲彦天皇は、人皇十四代の天皇、景行天皇の孫、日本武尊の第二子、母は、橘毘女命
橘毘女は、日本武尊の東征の折り、三浦ヶ崎の海中に身を投じて、阿津佐の浜に、恙なく舟を着せしめ、尊の東征を成就せしめた賢夫人であった。
…中略…
諡、仲哀天皇。
景行年間ヤマトタケル東征時、オトタチバナヒメが神奈川県三浦半島沖で入水自殺をし、嵐を鎮めた逸話は皆さんご存知かとおもうが…。
宮下文書三輪本おける彼女は、何故か『大妃橘媛命』と表記されている。今考えれば、富士朝にとっての意義深い人物であり、実質のヤマトタケルの正妻だったのかもしれない…。では何故、隠す必要があるのか?。
背景として考えられるのは、記紀などによる強引な系図作りにある。平安期までに朝廷は、『皇后は皇族しかなれない』という慣例を作りたかったようで、歴代皇后の出自を修正しまくっていた。藤原物部・蘇我大伴両臣システムがある宮下文書版と比べても、神武皇后〜12代景行皇后は、悉く改竄されている。
皇后になる前に入水自殺したヤマトタケル妃も、結果的には仲哀天皇の実母となる為、出自修正の槍玉に挙げられたのではないか?。ましてや、富士朝や富士朝客人勢力『秦氏』の痕跡は徹底的に消さねばなるまい。
一方、一般的に仲哀天皇実母とされる『両道入姫命』は、宮下文書に一切登場しない。wikipediaによると、11代垂仁天皇皇女の両道入姫皇女(石衝毘売命)なる人物は、年代的矛盾が生じ、実在性すら問われている。さらに気になるのは、この人物の背景にも、山背国秦氏が見え隠れしているのだ。
もともと11代垂仁天皇は、新羅アメノヒボコ子孫タジマモリらに絶大な信頼を持っており、秦氏との交流も深い人物。大陸の豊富な知識を持つ渡来系を、国造りの基盤として、山背国や但馬国開拓で積極的に活用していた。両道入姫命の母親は山背大国不遅(山代大国之淵)の娘で、綺戸辺(かむはたとべ)という。垂仁天皇が山背に巡幸していた折、当地で評判の美人として嫁入りしたとのこと。前記事のとおり、このとき既に11代垂仁天皇は、山背国を秦氏に開拓させていたハズなのだが…。
ところが、ホツマツタヱにおいては、カマハダトベとカリハタトベの赤の他人二人が、同時にそれぞれ垂仁天皇に嫁入りしている。どうやら、記紀はこれを元ネタとして、二人を混同させているようだ。
- カマハダトベ オオクニサラズの娘(美人)
- カリハタトベ ヤマシロフチの娘
※カマハダトベの御子が、岩衝別命となる。
さらに、『上宮記』によると、両道入姫命の同母兄・磐衝別命(石衝別命)、さらにその五世孫・振媛は彦主人王に嫁ぎ、26代継体天皇(乎富等大公王)を生んでいる。15代応神天皇直系子孫と、遺伝子が再合流を果たしているわけだ。
天皇家にはかなり、秦氏の遺伝子が入り込んでいる可能性あり。これを後世に、都合が悪いと思う人々も結構いたのではないだろうか?。
ヤマトタケル東征のパラドックス
そもそも宮下文書と他文献との間には、多くの矛盾があった。とくに、12代景行天皇時代のパラドックスを解明すると…。ヤマトタケルが富士朝蜂起を制圧しに出たのに、終戦後もののみごとに富士朝寄りに懐柔される。
例えば、奈良田彦(塩見宿禰=塩海宿禰)は東国軍側に関与していたが、恩赦を与えられた上、甲斐国造に任命されている。さらにヤマトタケルと宮簀媛の愛娘・福地姫と大伴武日を残し、富士朝の反勢力首謀者側との連携を、むしろ密にさせて帰還する。
このあたり文献により描写が違うのだが…。
△宮下文書では...。
富士山以東勢力が富士朝に集い、12代景行天皇勢力と対峙した。宮下文書では、これらまとめて『東夷征討』という。
▲ホツマツタヱ...。
富士山以東〜関東圏≒ホツマ国は、もともと西国天皇勢力下にあり、ヤマトタケルの部下・大伴武日が統治していたことになっていた。首謀者はあくまで、関東以東のヒタカミ勢力であり、富士勢力は敵ではなかった。橘モトヒコは東国ヒタカミ軍からの誘いを跳ね除け、朝廷側についたことを強調している。
『悪いのは富士朝じゃあないよ、関東以東の野蛮な連中だ!』…と云わんばかり、話をすり替えているのがお解りだと思う。
なぜにここまで、西国天皇勢力は富士朝を庇っていたのか???。…いや、富士朝滞在期間中に、ヤマトタケルにどんな心境の変化があったのか?。
答えは…結構わかりやすいのかもしれない。
富士朝の反乱を赦した一番の理由とは…やはり、オトタチバナヒメの『自決』としか考えられないのだ。最愛の妻を失くしたヤマトタケルは、東国巡幸で、各地ことあるごとに『吾嬬や』『吾嬬はや』と泣き叫んでいた。宮下文書ではこのあたりの詳細が分かり辛いが...。
ホツマ版オトタチバナではタジマモリの実子なのだ。
11代垂仁天皇の後追いでタジマモリが殉死すると、12代景行天皇は、タジマモリの残された妻が、『カグの君』の橘モトヒコの娘ハナタチバナであることを知る。天皇はどこか惹かれたようで、忠臣の家族としてハナタチバナを厚遇する。さらにハナタチバナのお中には御子が宿されており、景行天皇により『オトタチバナ』を賜る。また、父タジマモリに容姿が似ているからというだけの理由で、穂積氏・忍山宿禰の養子になった。文脈から察するに、忍山宿禰はホツミテシと同一人物の可能性あり、ホツミは橘モトヒコと同族とされている。
※一般的に穂積氏は、物部氏の正統。
これらの経緯から、彼女は皇家に忠義を抱いていたようで、『死んで龍となり、ヤマトタケル様の舟を守ります!』と言い残し、入水自殺したという。その彼女の意地らしさが、ヤマトタケルの心を震わせたのではないかと?。
〜ホツマツタヱ39文〜
おとたちばなは
へにのぼり あめつちいのり
わがきみの いつおやまとに
たてんとす われきみのため
たつとなり ふねまもらんと
うみにいる
※宮下文書岩間本では、『東北神を鎮める』とし、オトタチバナは東国の正当性を暗にアピールしている。
この時期、ヤマトタケルもう一人の側室・宮簀媛が福地姫を産んだばかりだというのに…。もう見境なく、オトタチバナヒメのことしか考ていないのだ。挙げ句、東国一体をまるまる福地記太夫に任せ、国名が『吾嬬惣国』になっちゃったワケだ…。
ここに、ヤマトタケルと富士朝の間における、オトタチバナヒメのポジションが垣間見えてくる。やはり…彼女は、遺伝子的に、富士朝と繋がりがある人物なのではないだろうか?。同時に彼女と御子がいかに、東西勢力の板挟みにあって、苦しんでいいたかが見えてくる。
それは、ヤマトタケルにとっても同じことなわけで...。
彼の富士朝関係者への寛容さは、オトタチバナヒメを失った富士朝氏族親類縁者への、痛み分けだったのではないかと...。『吾嬬はや』と男泣きして叫んで見せたのは、オトタチバナヒメ遺族への彼なりの『配慮』だったのかなと…。さらにはサカオリの連歌で、富士朝・福地記太夫らと憐れみを共有し、東征随伴のうちに意気投合していった。宮下文書によると、現在『酒折宮』の歌碑に伝わる連歌は、ヤマトタケルと福地記太夫の掛け合いという。『ツヅ歌』という形式で、ホツマツタヱにも記載されている。
やはり、結果的に彼女の自決が、西国天皇勢力と富士朝の意思疎通を復活させ、断絶を食い止めたのではないかと…(妄想)。
アメノヒボコ子孫『タチバナ』とは。
ホツマ版タジマモリは新羅王子アメノヒボコ末裔となる。
タジマモリは橘モトヒコの家に滞在していた客人で、『橘(カグ)』の採取のためにトコヨ国へ渡る。トコヨは大陸だと思うのだが、ホツマツタヱでは東国ヒタカミを指している。前述の通り、穂積氏忍山宿禰の養女にされている。一方、日本書紀では、単に穂積氏忍山宿禰の娘とされている。
※一般的に、神功皇后もアメノヒボコ子孫と言われている。
ここから、アメノヒボコ子孫である、タヂマモリ、神功皇后、オトタチバナヒメに共通項が出てきた。こうしてアメノヒボコ子孫≒三宅≒宮下=秦氏遺伝子という計算式が出て来たわけだ。アメノヒボコ勢力『タチバナ』≒秦氏であれば、大いなる謎が繋がってしまうのだ。
全てとは言わないが…。重複された地域的に、秦氏とアメノヒボコ子孫はすり替えられているのではないかと見ている。
※詳細は別記事にて↓
アメノヒボコに富士朝の影①、タジマモリ・オトタチバナ・神功皇后は徐福末裔? - セキホツ熊の謎を追え!
アメノヒボコに富士朝の影②、八幡神・応神天皇と三韓征伐の真相とは?。 - セキホツ熊の謎を追え!
<まとめ>15代応神天皇とは、古代八幡タマノオヤ・イワナガヒメと徐福秦氏の末裔?。 - セキホツ熊の謎を追え!
橘氏・県犬養氏と橘モトヒコは、繋がるのだろうか?。
では橘氏はどうだろうか?。
源平藤橘と並び称される中世『四姓』の一つで、県犬養東人を祖とする。飛鳥時代末期に橘諸兄の登場により大きな権力を持っていた。しかし『橘(タチバナ)』には、富士朝客人勢力『秦氏』や『県犬養氏』がチラつくのである。
これが前述、ホツマツタヱ登場の橘モトヒコと繋がるのか?…考察してみよう。
◆まず橘モトヒコを考えてみる。
ホツマツタヱにはオトタチバナの母方として、橘モトヒコなる人物が登場する。
オオヤマズミのマウラ (橘の君) の後裔で、マウラは『三浦』の語源ともいわれる。
橘の君(カグのキミ)。タジマモリを客人としてもてなし、娘ハナタチバナ姫 を嫁がせ、オトタチバナ姫の祖父に当たる。11代垂仁天皇時代、おそらくはホツマ版の橘モトヒコは、宮下文書版富士朝にとても近い存在ではないかと…。
〜ヤマトタケル東征後の相模武蔵国造比較〜
- ホツマツタヱ 橘モトヒコ『サガム・ムサシ』
- 宮下文書 福地記太夫『吾嬬惣国』
※スサノオ74代阿祖山太神宮宮守司長のこと。
※ホツマ版オオヤマツミは富士山統治者の役職名となる。
このあたり、宮下文書における富士朝と、その客人勢力秦氏の関係に酷似している。またタケウチ(武内宿禰)がモトヒコに教えを請う場面があり、これは宮下文書版武内宿禰が、徐福子孫に弟子入りしたエピソードに似ているかもしれない…。
ホツマという言葉には、『真実』『健やか』『東国』という意味を併せ持つが...、個人的には暗に聖地『富士山』そのものを指していたとみる。つまりはホツマツタヱという書物とは、富士朝史を新たに創生させようとした書物だろう。その中で橘モトヒコは、タジマモリと12代景行天皇の縁がもとで、タケウチ(武内宿禰)の求めに応じて、国を治める道の奥義『ホヅマシルベ』の文献を開示した。これこそがホツマツタヱにおける『宮下文書(富士古文書)』ではないだろうか?…。
またホツマツタヱ39文では、橘モトヒコの城である『サガムの小野』(現在の神奈川県厚木市)にて、ヤマトタケルに紹介したとあるが…。しかし、御子がいるとなると話は違ってくるはずだ。東征スケジュールとオトタチバナヒメ懐妊期間の日数が合わないし、このあと神奈川県大磯から出港し、初対面からすぐさまオトタチバナヒメが入水自殺するのは強引過ぎないか?。ヤマトタケルからしても、感情移入できる対象になるとは思えない。
※一方宮下文書では、なんとも三輪本と岩間本で、東征ルート解釈に誤差が生まれそうなのだ...。
富士朝を出て、加後坂から足加羅峠をぬけ、佐賀見入った『出先(三輪本)』あるいは、『出崎(岩間本)』で、舟に載り、房総半島へ抜けている。
ともかく、橘モトヒコが、いかに富士朝と接点が多いかが見えてくる。
◇一方で、橘氏(県犬養氏)を考察してみよう。
前述の駿河国『かぐや姫』伝承の母方縁であり、大和朝廷の直轄領である屯倉(みやけ)守衛の一氏族であった。
〜加茂喜三説・駿河国『かぐや姫』伝説〜
父=愛鷹明神
母=犬養明神
月・富士山=ツクヨミ・オオヤマツミ(富士朝神)
宮下文書研究家・加茂喜三氏によると、下総の『寒川神社』神主が犬養氏同族で、平将門母方の家系。
平安期『タチバナ』や『カグ』は西国でも、忠義の象徴として語り継がれていた可能性はある…。その遺伝子が南北朝時代を代表する忠臣、本姓橘氏・楠木正成にも入っていれば、さらに感慨深いものがあり。徳川家康・南朝+富士朝をバックアップした井伊氏も、『橘』を家紋とする但馬氏族三宅氏。橘氏の氏神は、梅宮大社の酒解神≒オオヤマツミと解釈しており…、このように橘氏勢力は、常に富士朝勢力を後援しているようにみえるのだ。
楠木正成は本姓橘氏、母方は宮下家派生の富士朝神官・井出氏だった!!。 - セキホツ熊の謎を追え!
古史古伝研究家・佐治芳彦氏によると、後世の飛鳥時代に県犬養三千代を妻とした藤原不比等は、富士朝参拝の可能性あり。
・『藤』≒富士山?
・『原』≒孕み山?
『藤原(ふじわら)』を称すことが出来たのは実質、不比等系統以降。不自然にも、天
皇から『藤原』を賜った翌日、中臣鎌足は死んだという。京都山科で育った不比等もまた、『日本書紀』編纂に関わり、同時期に藤原4子を失い、御祖神の祟りを誰よりも怖れていた人物とみる。そして県犬養三千代子孫は『橘氏』を称し、栄枯盛衰してゆく。
一方、県犬養氏の『犬』とは、オオカミ≒山の大神(おおかみ)の意味ではないかとみている。甲斐から武蔵への途上、ヤマトタケルを導くオオカミ信仰が、秩父三峰山や武蔵御岳山にはある。
断言はできないが、『橘』『犬』『屯倉(みやけ)』、特定氏族とは言わないまでも、富士朝関係者を暗に指す言葉だったのではないか?。
春日大社に蘇我氏の影、史実確認のため藤原不比等は富士朝を訪れていた?。 - セキホツ熊の謎を追え!
室町幕府は見えない敵の富士朝に攪乱されていた、尹良親王『田貫の長者』の真相。 - セキホツ熊の謎を追え!
13代成務天皇・14代仲哀天皇について。
三輪本現代訳では、成務天皇・仲哀天皇・応神天皇の直接的記載が抜けていたが、大山守皇子の描写から間接的に、辛うじて時代背景を読み取っていた。
しかし、宮下文書岩間本には...、僅かだが...紹介項目があった。
◯13代成務天皇とは
父はヤマトタケル、母は八坂入姫命の息子。尾羽張高岡にて、ヤマトタケルの草薙の剣を納め、熱田大明神を創建。夏の暑い日に、宮を建てたゆえ、『熱田』と称した。ヤマトタケルの王子、長田王を斉主とし、子々孫々宮守を継いだとある。13代成務天皇も実在したようだ。
前記事では武内宿禰が変装しているのではないか?とか、どう見ても先代とダブっているとか妄想考察したわけだが…。違ったみたいです、ゴメンナサイm(__)m。
◯14代仲哀天皇とは
52歳のときに、熊襲が造反し、神功皇后とともに、長門豊浦〜橿日宮へ進軍した。神功皇后は元である新羅(新羅木)を討伐すべきと進言したが、14代仲哀天皇はこれを聞かず、程なく陣中にて崩御された。死因は記載なし。
さらに、神功皇后は武内宿禰とともに、男装して海を渡り、戦わずして(新羅を)降伏せしめた。その帰途、凱旋中に筑紫にて、誉田別命(15代応神天皇)を出産、仲哀天皇の庶子・カゴ(鹿+射という字)坂・忍熊のニ王子の造反を平定し、大和国へ帰還した。
※ただ…気になるのは武内宿禰の一般的年齢解釈が280〜360歳となるわけだが。謎は深そうだ。
15代応神天皇とは、秦氏男系女系の結合体?。
最後改めて、宮下文書版オトタチバナヒメの孫、15代応神天皇について考えてみよう。
もし仮に…、アメノヒボコ子孫≒秦氏で、14代仲哀天皇の母方・オトタチバナヒメ=秦氏であれば…。仲哀天皇と神功皇后を経由して、男系からも女系からも、秦氏の強い遺伝子が入っていることになる。秦氏と富士朝が、なぜ応神八幡神を特別視したのか、浮き彫りとなる。
何度もいうが、宮下文書には15代応神天皇御子『大山守皇子(宮下家祖)は、徐福子孫』と明記されていた。富士朝阿田都山に、神功皇后の弓と応神天皇の遺髪を御神体として祀り、高御久良神社を創建。その宮の下に住まう、これが『宮下家』の始まりとなる。そして古墳時代末期~飛鳥時代589年には、厩戸皇子により寒川大明神と高御久良神社を合祀し、現在の『福地八幡神社』が創建された。
滋賀県東岸には、秦氏勢力とアメノヒボコ勢力痕跡の重複性を持つ『伊砂砂神社』『苗村神社』がある。ここには富士朝神の代表、寒川神やクニサツチが祀られているのだ。
7代孝霊天皇時代、彼らは幾多の苦難を乗り越え、遥々富士山に憧れて来日してきた。富士山を愛すがゆえに、寒川神クニサツチ・オオヤマツミ・カモサワヒメに、アイデンティティを見出すことができる氏族なのだ。
総合的に考えると…。
秦氏は、アメノヒボコ・三宅氏・弓月君など朝鮮渡来系と混同されている節がある。サルタヒコ子孫の坂上田村麿も、渡来系東漢氏とされており、富士朝痕跡隠しに利用されているのではないか?。彼らの神社を見るに富士朝信仰であり、富士朝客人勢力関係氏族と推測できる。
もし仮に、彼らが本当に新羅王子アメノヒボコ子孫であれば、富士朝寒川信仰とは融合できないだろう(笑)。…逆に、富士山を崇敬していた秦氏が、なぜ、アメノヒボコ子孫・神功皇后・応神天皇を崇敬するようになるのか?。
不思議ではある…。