2021,10,23
当ブログは宮下文書ベースの考察をしています。一般論とはかなり違うのでご注意くださいm(__)m。
一言、宮下文書『富士古文書』といっても、複数の文献や資料や古地図などによる総称となる。これを現代訳したのが岩間尹著書『開闢神代暦代記』で、最終項に『重要記録』と記して以下の経緯が述べられている。おそらくは三浦氏41代宗家の岩間尹氏が、現代社会に一番伝えたい事項なのではないだろうか?。氏は『歴史は真実の記録でなければならない』と断言している。
長きにわたり日本人を欺いてきた記紀の嘘も、案外いい加減なものなのかもしれない。そろそろ馬脚を現してきた…?。
~目次~
- 宮下文書のコピー本、朝廷は飛鳥時代まで持っていた???。
- 鎌足の子とは、誰なのか?
- 鎌足が喜んだ背景
- 不比等の洒落?、参拝ネームの存在。
- ここで、県犬養三千代が絡んでくる。
- 藤原と蘇我の因縁は開闢神代から。
春日大社に蘇我氏の影、史実確認のため藤原不比等は富士朝を訪れていた?。 - セキホツ熊の謎を追え!
宮下文書のコピー本、朝廷は飛鳥時代まで持っていた???。
宮下文書は、秦氏により蓬莱国日本の口伝・記録・文書等を編纂された『徐福文献』をもとに、8代孝元天皇が『開闢神代暦代記』として編修し、高天原『富士阿祖山神社』に宝蔵していたという。『開闢神代暦代記』は岩間氏の著書名と同名なので注意。ちょっと紛らわしい(苦笑)。
一方朝廷側の宝庫にも、開闢の原始からの『謎』の書物が所蔵されていた可能性がある。飛鳥時代に大臣蘇我蝦夷が自殺するにあたり低宅ごと消失され、有名な『乙巳の変』として語られている。wikipedia蘇我蝦夷によると、皇極天皇4年(645年6月13日=太陽暦7月11日)蘇我入鹿が暗殺されると、父・蘇我蝦夷は邸宅に火をかけ自害した。日本書紀曰く、このときに低宅にあった『天皇記』が焼失、『国記』は火中から救出され中大兄皇子に献上されたものの行方知れず。本件にも諸説あるが、焼失した古文書は朝廷宝庫ではなく、なぜか蝦夷邸宅にあったようだ...。
そして岩間氏によると、この蝦夷が焼失させた書物の原典は、なんと富士朝所蔵の富士古文書『開闢神代暦代記』のコピー本だったというのだ。
皇極天皇4年8月13日蘇我蝦夷の自尽直後、日本中が大雨大嵐となり、とくに甲斐国では農作物などの大打撃を受ける。これらは蝦夷が焼失させた古文書に対する天津神国津神の祟りではないかと、まことしやかの騒ぎとなり、36代孝徳天皇らが大評議を開くことになる。
~評議~
- 左大臣阿部倉梯麿
- 右大臣蘇我倉山田石川麿
- 内大臣鎌足
~聴取~
- 甲斐国造田辺武居
- 駿河国造安部比羅夫彦
甲斐国造・田辺武居の奏聞により、全ての罪は蝦夷にありと不問に処されるが、席上の田辺武居は、書物の原典が『開闢神代暦代記』であり、富士朝に所蔵されている旨を明かした。これを聞き内大臣鎌足(中臣鎌足)は大いに喜んだという。この状況から蝦夷により焼失された書物は、周知されていなかったのが分かる。しかし結果的に、36代孝徳天皇の勅命にて、この原典を『不問』とすることを引き換えに、公に出すこともしなかったようだ。
鎌足は、息子とされる中臣藤原物部麿に命じてこの原典の写本を命じる。天智天皇4年(665年?あるいは671年説あり?)、物部麿は田辺武居の手引きで富士朝阿祖谷へ入麓する。現地調査で、神代〜8代孝元天皇までの蘇我・武部両家の系統を明らかとし、それらを記録、8代孝元天皇以降〜天智天皇までの系図を自ら書き足して、後世に伝える事とした。
ただし岩間氏の見解では、藤原氏が写記しているのは物部、蘇我の世代記のみ、彼らの眼中には国家も天皇家もない。単に蘇我氏と物部氏の世代のみが明確にされ、誇張されたと述べている。この原典の写本自体が、藤原vs蘇我の政争の具に利用されたことを示唆している。
蘇我滅亡後、奇しくも藤原氏の全盛期となり、春日大社も藤原不比等の創建と言われている。そして注目すべきは、藤原不比等により新しい歴史『日本書紀』が編纂されたことだ。つまりこの時点で、富士朝オリジナル本が不要となったわけである。
鎌足の子とは、誰なのか?
宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』より。665年(天智天皇4年)、22代福地太夫元長が大宮司のとき、中臣藤原物部麿なる人物が阿祖谷に来訪、徐福伝を拝謁しに来たとある。一体何者なのか?。
佐治芳彦著者『謎の宮下文書』によると、鎌足の御子と明記されている『中臣藤原物部物部麿』こそが、藤原不比等ではないかという。wikipedia不比等によると、38代天智天皇より賜る『藤原』を称することが出来たのは、藤原鎌足子孫でも不比等家系のみとされる。
そしてこのときの写本のタイミングに便乗して、『作正宇津須(ウツス)』と記載されており、佐治氏は宮下文書の一部が改訂を受けていたのでは?というのだ。三輪本現代訳には『その徐福伝は殆ど腐朽しかけて居たので、これが消滅するのを恐れ、副書を作った』とある。
んんんー…副書とはなんだ?。じゃあ現代の宮下文書は書き換えられた、偽モンか?。
前記事のおさらいとなるが、個人的には、改訂の可能性は少ないと感じる。
西国天皇勢力にとっての富士朝は、あくまでアンタッチャブルな聖域だったのだ。日本最大級のタブーと言っても過言ではない。それが富士朝と富士古文書が邪険にされつつ、後世室町時代まで生き延びた最大の理由。そして、宮下文書が現代まで奇跡的に残されている理由なのであろう。
当時の平安京の人々は、菅原道真や平将門の事件といい、自らの御祖神『火雷天神』『雷神』の祟を真剣に恐れていたのだ…。これが先述の、天災の恐怖ゆえに、甲斐国造を召喚しての大評議となった理由であろう。
ゆえに西国天皇勢力にとって都合が悪い歴史は、神の書物・宮下文書を改訂して天変地異の御祖霊の祟りを促すよりも、新たに歴史書でウソを作ってオリジナルを採用せず、放置すればよいだけの話。『触らぬ神に祟りなし』である。
そしてそれは、直後に権力者たちがとりなした『日本書紀』『古事記』の役割だった。
鎌足が喜んだ背景
この神代〜8代孝元天皇以降『開闢神代暦代記』以降の時代、おそらくは蘇我・藤原氏系図は改竄されつくされ、彼らは自らの家系図すら把握できていなかったとみる。三輪本現代訳『神皇紀』によれば、『初めて神代に於ける物部家の祖先、並びに蘇我家の祖先を知った』とある。
13代成務天皇以降の記載は宮下文書にすらなく、10代崇神〜12代景行天皇時代ホツマツタヱ成立により多くの改竄欠史が齎された。その内容は、賀茂氏と三輪氏を合体したり、天津神と国津神のグループ分けをしたり、想像を絶するほどハチャメチャなものだ(前記事参照)。宮下文書における欠史八代は富士朝信仰を純粋に崇敬している節がある、つまり10代崇神天皇以降の『ホツマツタヱ』が日本史を木っ端微塵にしたと言える。
ましてや、蘇我と藤原の祖が『中臣』という両臣システムという繋がりを背負っており、天皇家と三つ巴の近新婚をしていたなんて想像だに出来なかったハズだ。皇家と蘇我氏と藤原氏はまさに遺伝子の三つ巴螺旋構造、その蘇我氏を、藤原氏は自らの手でその一角を滅ぼした。藤原家は、皇家と蘇我氏『祖家』のアイデンティティを否定したに等しい。
※因みに、宮下文書では神代より、蘇我系統と藤原系統の両臣家とも『中臣』を称していた時期がある。当ブログでは、誤解が生まれるので、敢えて藤原=中臣とは表記しない。
さらに、この事件で消失した『天皇記』と『国記』は、(620年)推古天皇28年に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる歴史書で、未完とも云われている。
私が気になる点は、宮下文書版の厩戸皇子は秦河勝を側近とし、富士朝を復興している立場なのだ。祟峻天皇時代589年、厩戸皇子は富士朝阿祖谷へ入麓し、『阿祖山太神宮』に大日本元幣司を与える。富士朝七廟を再興し、寒川神と八幡神を合祀した『福地八幡神社』などを再編復興しているのだ。また富士朝に福知山白蓮寺を建立している。
聖徳太子の背景には、15代応神天皇直系29代欽明天皇と、富士朝秦氏の影響力が浮き彫りとなる。
残念ながら宮下文書三輪本現代訳では、厩戸皇子は名前程度しか登場しない。一般的には仏教を重んじていた人物であるが、富士朝との良好な関係を目指して、先住民信仰を重視していたのではないかと…。そんな彼らが主体となり、富士古文書ベースに天皇記や国記を編纂していたとは考えられないだろうか?と…。
一方で九鬼文書などでは、聖徳太子による神代文献焚書が伝わっているが、これは富士朝以外の各地域ウソ本を燃やしていたのではないのか???(妄想)。もしかしたら彼は、仏教を取り入れる一方で、歪んで氾濫した国史を正そうとしていた人物ではないのかと…(妄想)。
しかし蘇我蝦夷の変心?により、そのすべてが消失してしまった。
前述のように『鎌足が喜んだ』と記載されており、当初は明らかに事態好転の期待感はあった。彼ら藤原家は純粋に真相を知りたかったからこそ、わざわざ富士朝へ赴き写本したのではないかと。
ただいくら真実を知ったとて、彼らにはどうしても誤魔化さなければならない点も多かった。例えば、『タケミカヅチとフツヌシは蘇我の神様でしたwww』とはもう言えないのである、こうなると嘘を吐き通さねばなるまい。
※因みに、宮下文書における春日大社のタケミカヅチ・フツヌシは蘇我大伴系統。しかしホツマツタヱ以降、藤原祖神アメノコヤネ系統に組み込まれたとみている。さらに不比等の立場からすれば、蘇我氏祖神を祀り、滅んだ蘇我(祖家)氏を鎮魂させる目的もあったのではないかとみる。
このような背景で、不比等は写本データの都合の良い部分だけを切り取り、日本書紀編纂のためにフィードバックさせたのではないだろうか?。つまり、『作正宇津須(ウツス)』の実態ではなかったか?(妄想)。藤原不比等以下藤原家にとっての当面の課題は、この三つ巴の両臣システムをいかに誤魔化すかにあり、これが記紀が生まれた最大の理由になったとみる。
不比等の洒落?、参拝ネームの存在。
中臣藤原物部麿…。宮下文書を読んだ人間であれば、洒落のきいたニックネームであることに気づくべきだろう。宮下文書では、中臣≒藤原≒物部も同祖直系子孫なのだ。
藤原不比等はそのことを知り驚愕したにちがいない。それで皮肉を込めて、自らのニックネーム中臣+藤原+物部+麿としたのではないかと?。富士朝へ宮下文書を改竄に来た高圧的な人物なら、こんなユーモアは見せないだろうと…。
富士朝参拝というのは、朝廷や北条得宗家からみれば、現代の靖国問題以上にデリケートな問題でもあった。時として公に出せない、伏せるために架空名義での参拝もあったのではないかと。
例えば…、1252年(建長4年)、鎌倉時代の将軍家代参においても、祈願使・武藤左衛門尉景時なる人物の参拝があったようだ。年代的に武藤資頼の子・孫ではないかと見る。武藤資頼は梶原景時の娘を娶っており、外祖父梶原氏となる。梶原氏が失脚すると、一部が家祖・鎌倉氏族権正氏が多い富士朝阿祖谷へ逃亡している。その背景を知れば、これが代参ネームである可能性に気づくわけだ。しかし武藤氏族『少弐氏』は、玄界灘警護を任された氏族でもある。彼らが富士朝祖神に何を祈願したかは想像難くない、『元寇』に神風が来た理由も頷けるのかも...(苦笑)。
ここで、県犬養三千代が絡んでくる。
前記事にて度々、藤原不比等の後妻・県犬養三千代との関係を述べたが。二人が婚姻関係を持つとしたら、この富士朝来訪が何処かでキッカケになっているのではないかと…。本ブログの見解では、県犬養氏も橘氏も、秦氏同様に富士朝要素が強いのだ。
前記事でも紹介しているが、県犬養氏は県犬養東人を祖としており、屯倉(みやけ)を守護する伴造氏族。後世の源平藤橘(四姓)の栗隈王〜美努王を祖とする橘氏であり、橘諸兄は異例の大出世をする。この橘氏の再婚からの系図自体かなり特殊ではある…。鎌倉期の寒河尼と結城氏の系譜を彷彿とさせると思うのは私だけだろうか?、男系の出自を曖昧にしている印象もある。
何度も述べているが、当ブログでは三宅≒屯倉≒宮下家(みやけ)ではないかと考えている。宮下文書によると、伊豆諸島の三宅島は宮下家47代宮下源太夫明廣の弟・深巣二郎清国の長男が源為朝につき、事の成り行きで支配しており『宮下(みやけ)島』と呼ばれていた。新羅王アメノヒボコ子孫と秦氏子孫、このあたり一部混同があると思われる。アメノヒボコ系の地域に、秦氏の祀る神々が多いのも気になる。
また県犬養氏は、富士朝色の強い関東圏を影響下に持っており、後世の平将門の母方でもある。
アメノヒボコに富士朝の影①、タジマモリ・オトタチバナ・神功皇后は徐福末裔? - セキホツ熊の謎を追え!
アメノヒボコに富士朝の影②、八幡神・応神天皇と三韓征伐の真相とは?。 - セキホツ熊の謎を追え!
<まとめ>15代応神天皇とは、古代八幡タマノオヤ・イワナガヒメと徐福秦氏の末裔?。 - セキホツ熊の謎を追え!
また興味深いのが
・比叡山延暦寺(天台宗比叡山≒富士の見立て)
・大比叡
・将門岩(将門伝承)
・賀茂御祖神社
・梅宮大社(橘氏氏神)
・松尾大社(秦氏氏神)
秦氏や富士朝色が、非常に強いレイラインで結ばれる。
藤原不比等という人物は、県犬養氏の娘を娶り富士朝と朝廷の架け橋たる立場を、自ら望んでいたとも思える。飛鳥時代、藤原氏も蘇我氏も未だ富士朝を邪険にしきれなかった感がある。
藤原と蘇我の因縁は開闢神代から。
以上の旨は、昭和40年代に発行された三浦氏族41代宗家・岩間尹の著書『開闢神代暦代記』に記載されている。漢文20行程の資料も掲載されている。これに基づき昭和59年間、古史古伝研究家・佐治芳彦が、著者『謎の宮下文書』にて考察している。
私はつい最近まで岩間本を読んでおらず、まず佐治氏記事のみを読んで心に留めていた。その段階で記事を書いたのが、下のリンクに貼ってある↓。
春日大社に蘇我氏の影、史実確認のため藤原不比等は富士朝を訪れていた?。 - セキホツ熊の謎を追え!
今回、岩間本を入手し記事全体を読んで、改めて再考してみたのが今回の記事。正直、両者の言い分がようやく繋がったので、ああそういうことか…という感じである(笑)。まあ...宮下文書に対する理解が深まったことになった。
佐治氏はかなり博学な方で、政治的背景の動きから岩間氏記事を読み解こうとされていた。ただ、疑問に感じたのが『蘇我』『藤原』の神代からの永きに渡る因縁の仲に言及していない。
氏は宮下文書を信じていないのか?。語る必要もないほど愚かなウソと考えているのか?…。それとも単に知らないのか?。蘇我蝦夷がホントに隠したかった部分。藤原鎌足がホントに知りたかった内容とは、この藤原と蘇我の古代からの壮大な因縁ではなかったのかと思うのだ。
宮下文書研究本は中古本に頼る他なく、決して多いものではない。多くの研究者が、この藤原と蘇我の因縁についてスルーしており、なんとも歯がゆい状況だ。もともと、この宮下文書三輪本版『藤原蘇我両臣システム』がホントに存在していたのかは議論の余地あり。私が歴史素人で先入観もないから…信じていられるのか?。
どちらにせよ、宮下文書を語る上では基礎中の基礎知識なので、是非ともみなさんには知っておいて頂きたい。下リンクより↓
<欠史八代の家系図>繰り返される近親婚、彼らは両臣という遺伝子防御システムであった。中臣・物部・藤原編。 - セキホツ熊の謎を追え!
<欠史八代の家系図>繰り返される近親婚、彼らは両臣という遺伝子防御システムであった②。中臣・蘇我・大伴編 - セキホツ熊の謎を追え!