セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

常陸国佐竹氏と天香々背男命『天津甕星』の真相?、三毳山と星宮神社レイライン。

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茨城県日立市大みか町『大甕神社』


2021,12,30

下野国『三毳山(みかもやま)』が、富士朝信仰にダブって見えるのは前記事のとおり。周辺は古名『三鴨村』と呼ばれていた地域で、かつての村社『三鴨神社』ではコトシロヌシが祀られている。北部三谷地区にはオオヤマツミを祀る『三島神社』もあり、三毳山と対面している構図にも見える。

ただ、現在『三毳神社』の御祭神はヤマトタケルと天香々背男命…。この周辺では馴染み深い御神霊なのだが…。今回は三毳神社と三鴨神社の共通項として、この『天香々背男命』が何故祀られているのか?着目したい…。

<緊急続報>三毳山はとんでもないクロスポイントで、今までのすべてが繋がった件。 - セキホツ熊の謎を追え!

<神社めぐり>三毳山解明、宮下氏族『吉田氏』末裔・都賀氏と天台宗円仁の生誕地であった。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

~目次~

まず、下野国『三毳山』の状況

◯『三毳神社』(栃木県栃木市藤岡町大田和)

〜御祭神~

  • 日本武命 

〜配祀〜

  • 伊邪那岐命
  • 伊邪那美命
  • 迦具土命
  • 大山祇命
  • 倉稲魂命
  • 五十猛神
  • 香々春男命

※創建720年征夷将軍・多治比眞人による創建。



◯『三毳神社(奥宮)』

〜御祭神~

  • 日本武尊

〜配祀〜

  • 香々背男命



◯『三鴨神社』(栃木市岩舟町下津原)

〜御祭神~

  • 事代主命

〜相殿~

  • 建御名方命
  • 香々背男命
  • 倉稲魂命
  • 武甕槌命
  • 櫛御氣野命
  • 天太玉命
  • 火産霊命
  • 伊邪那美命
  • 白山姫命
  • 若狭彦命

※1718創建三鴨村社。三鴨とは旧名『三鴨(みかも)村』のこと、後述するがかつて三毳山は三鴨山と表記されていた。主祭神には鴨神であり、宮下文書比定『カモサワヒメ』の父神コトシロヌシを祀る。

※若狭彦命はどうやら宮下文書版『若武毘古命』のことで、ヒココホホデミとトヨタマヒメの三子、初代ウガヤフキアエズの弟。若狭(三道分岐)を平定し、父ヒココホホデミを祀ったという。これが若狭一宮『若狭彦神社』の由来と思われる。wikipediaには、その姿は唐人?…という。

富士朝史は全体的に、渡来人や帰化人や蝦夷にされている節があるので注意。またタマノオヤや天別火明命ら皇別神は、西国天皇勢力『皇位継承権』の脅威となるため、封じられる傾向にある。

 

〜宮下文書版カモサワヒメとは〜

加茂澤毘女=別雷命=寒川毘女=三嶋神

※オオヤマツミ妃

※コノハナサクヤヒメとイワナガヒメ母

※コトシロヌシとタカテルヒメ娘

 

三毳山の香香背男命とは?。

北関東のうち特に栃木県内は、とにかく『星宮神社』が多い。星宮神社の系統としては大まかに2系統に分類される。

 

〜『星宮神社』御祭神~

  • 磐裂根裂系
  • 香々背男命系

 

勿論例外も多く、栃木県足利市梁田町や佐野市の星宮神社は、なんと…ニニギが祀られている。さらには栃木県小山市羽川『橿原神社』はかつて星宮神社だったという。個人的な感触としては神仏習合的、また栃木県塩谷町『塩谷氏族』など富士朝色が強い地域にも多いようだ。

星宮神社が栃木県内にどれだけあるのかと…。お気楽な気分でサクッと調べてみようとしたのだが…これが苦業の始まりだった(笑)。グーグルマップで栃木県内の星宮神社を虱潰しに探そうとすると、出るわ…出るわ…。コンビニ並みに多いのも大変なのだが…栃木県内面積がでかい方のも大変…。

目がショボショボ。。。(´(ェ)`)

その結果が下記写真、感触的にまだまだある。

地図に表記されていない小さいお社も出てきそうだ。また、日光付近の磐裂根裂系統の神社はカウントしていないので注意…。

 

・青(栃木県内星宮神社)

・紫(三毳山周辺の星宮神社)

・オレンジ(三毳神社奥宮)

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奇しくも『群馬県 星宮神社』でグーグル検索すると、栃木県内三毳山南を境に東西レイライン状に配列されているのがみえてくる。実際は…群馬県ではなく栃木県内なのだが…???。イメージとしては筑波山〜結城方面から、寒川郷網戸神社〜古御門神社〜三毳山南・星宮神社〜足利富士山城へ抜けるようなレイラインにも見える。

また『栃木県 星宮神社』で検索すると、高椅神社北部の下野市本吉田『吉田八幡神社』付近に集中している。前記事でも紹介したが、吉田といえば宮下氏族『吉田氏』や『吉田神道』を彷彿とさせるのだが…。イメージとしてはやはり筑波山方面〜三王山〜日光男体山へと抜けるレイラインのようにも見える。

 

△磐裂命と根裂命について。

記紀版イザナミは、カグツチ(火神)を産んだことで焼死し、遺体は八雷神に支配される。イザナギは産まれたばかりのカグツチを刀で切り殺し、そのときの血液から磐裂命と根裂命が誕生した。

宮下文書では富士朝=『火』『御祖霊』信仰であり、イザナギ・イザナミは毎晩火を祀りそれを極め、『高燈大神』として祀られた。『火』信仰は富士朝神道の原点であり、西国天皇勢力が秦氏を利用して『日=太陽』信仰へとシフトさせたようだ。つまり記紀の火神に纏わる一連のグロテスクな描写は、西国天皇勢力の火信仰からの脱却を示唆しているとみる。

そんな中で、下野国・日光最古の神社を称する『磐裂神社』(栃木県日光市上鉢石町)は809年(大同4年)創建、またの名を『星の宮』と称する。神社由緒によると、開山の祖・勝道上人は、7歳のとき明星天子の霊夢をみて、そのお告げにより日光開山したとのこと。明治初期まで本尊として虚空蔵菩薩を安置していたが、廃仏毀釈の折に『磐裂神』とした。この地域の数多ある星宮神社も、修験道や神仏習合なくして語れない信仰ではないだろうか?と…。

また前記事で紹介した様に、勝道上人自体が富士朝色の強い家系に生まれたことも考慮すべきだろう…(母方が地元豪族・吉田氏という)。富士朝氏族たちも、神仏習合を逆手にとり、隠れて富士御祖霊を祀っていた姿が見え隠れする。

 

▲天香々背男命について。

天香々背男命とは別名『天津甕星』、日本書紀によると天津神(天神)の邪神とされており、倭文神である建葉槌命を遣わしてこれを懐柔したという。

天羽槌雄神(建葉槌命)とは倭文神で、経津主神・武甕槌命では服従しなかった星神香香背男を征した神とされる。ただこの『懐柔』『鎮圧』『平定』がなされた場所までは特定できない。単純に、天香々背男命=天津神とされるので高天原『内部』の抗争だったと想像できる。

関係神社には常陸国『大甕神社』があり、現在もその対立構造のままに祭祀されている。

 

◯『大甕神社』(茨城県日立市大みか町)

〜御祭神~

  • 建葉槌命

〜甕星香々背男社〜

  • 天香々背男命

※大甕山に創建、皇紀元年(紀元前660年)、元禄8年水戸藩主徳川光圀の命により現在地へ遷座。別名を『大甕倭文神宮』。光圀の母は佐野信吉家臣の谷重則の娘とされる。

 

◯常陸二宮『静神社』(茨城県那珂市静)

〜主祭神〜

  • 建葉槌命(倭文神)

〜相殿〜

  • 手力雄命
  • 高皇産霊命
  • 思兼命

※wikipediaによると古来から天葉槌命(建葉槌命)が祀られていたが、江戸時代末期には手力男命を主神としたようだ。『新編常陸国誌』では806年(大同元年)に創建。



宮下文書から察するに、神代から常陸国は富士朝信仰が強かったはず。なのに…上記『大甕神社』は那珂市静『静神社』の建羽雷神(建葉槌命)により封じ込められたとの伝承されているわけだ…。大甕神社は驚くほどの長い歴史を持ちながら、江戸期までの史実は殆ど語られていない…不思議な神社でもある。

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大甕神社境内『宿根石(天香々背男命)』の上に、主神・建葉槌命が鎮座する。

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大甕神社境内の地主神・甕星香香背男を祀る『甕星香香背男社』



天香々背男命を解く鍵は、常陸国佐竹氏にあり。

そして、天香々背男命を解く鍵は常陸国にありそうだ。

常陸国佐竹氏は、平安時代より常陸国500年以上支配していたという古豪、出自は清和源氏・八幡太郎義家の弟・義光の子孫とされる。興味深いのは、このあたりにも常陸太田という地名が残る。

しかし個人的には確証はないが…、これも関東に拡散された富士朝宮下氏族『吉田氏』と関係がありそうだ。宮下文書における2代宮下源太夫明政3王子、吉田三摩古彦子孫『那珂氏』と何かしら深い繋がりを持っていたのではないか?とみている。

一般的にも...常陸吉田氏と那珂氏ともに、直臣・陪臣として佐竹氏に仕えていた。とくに常陸吉田氏(大掾氏)は常陸平氏の惣領とされ、平繁幹の次男・清幹が常陸国那珂郡吉田郷にて吉田氏を称した。全国吉田氏は数多の系統があるので注意。常陸国と下野国の吉田氏の繋がりは不明だが、地理的には非常に近い。

那珂氏は大中臣姓藤姓秀郷流、藤原秀郷五世の曾孫通直を祖とする。常陸国奥7郡のうち北部5郡は佐竹氏一族、残りの那珂東西両郡は大中臣姓那珂氏の一族が元々居着いていた。那珂氏の居城は『那珂西城』(静神社から5キロほど南)。

佐竹氏は慶長7年に秋田久保田藩に移封されるまで、500年間常陸国の実質的支配者であった。まあ常識的に考えて…、いくら東国の僻地とて、どうしてそんなことが可能だったのか?と思うわけだ。藤原北家・常陸平氏・清和源氏が、呉越同舟の戦国乱世まで長期間共存できるのか?と…。

ただもし仮に、この吉田氏と那珂氏が宮下氏族であれば…、富士朝信仰の元に強固な基盤が浮き彫りとなる。佐竹氏は富士朝の強力なバックボーンを得ることができたのかもしれない、それが長期支配へと繋がったとも思えられる。

 

◯常陸三宮『吉田神社』(茨城県水戸市宮内町)

〜御祭神~

  • 日本武尊

『続日本後紀』によると、従五位下勲八等の名神・吉田神を祀る。吉田社は吉美候氏が祭祀し、彼らの出自は奈良時代初頭に帰属した蝦夷説あり。因みに富士朝『吉田氏』には、ヤマトタケル御子『福地媛』の女系遺伝子が入っている。

周辺には『吉田神社』が多く、常陸三宮を始め4社ほど確認した。 茨城県常陸大宮市小田野『吉田八幡神社』は江戸期には光圀が『吉田神社』へと改めていた。境内には、相模国・三浦義明所縁の巨木『三浦杉』がある。茨城県久慈郡大子町池田『吉田神社』は、807年(大同2年)創建された八幡宮跡地だったという。一般的にも佐竹氏は、八幡神と繋がりが深いと言われている。因みに、宮下家吉田氏祖は15代応神御子・大山守皇子で、高御久良神社として応神天皇を祀る。

※宮下文書版三浦義明は、清和源氏・賀茂次郎義綱の長男であり、49代宮下源太夫義仁の男系祖父にあたる。

 

江戸時代初頭、佐竹氏が久保田藩へ国替え(1602年出羽国へ転封)を強制されると、常陸国は徳川光圀(水戸黄門モデル)水戸藩となる。因みに、以降も佐竹氏には、下国河内郡・都賀郡の飛び地11か村分が認められており、これは前記事で下野国吉田氏の痕跡として紹介した本吉田『八幡宮』のすぐ近くである(笑)。

寛文3年(1663年)徳川光圀は藩領内の寺社改革に着手、村単位で『開基帳』を作成させる。つまり祭神を監視させ、神社へのチェック体制を強化したのだろう。さらには常陸二宮『静神社』(那珂市)、常陸三宮『吉田神社』(水戸市)などの修造に関与、神主を京にて神道を学ばせた。こうして500年以上に渡り佐竹ナイズされた寺社の修正・再教育が始まった…。茨城県常陸太田市『佐竹寺』周辺にはかつて、ヤマトタケルが間坂六か所に戦勝祈願として天神を祀っていたという。徳川光圀はこれを集約合祀させ、『七代天神宮』として鎮座させた。これも彼の寺社改革の一つであろう。

奇しくも、前述のとおり大甕神社もこの時代に大甕山から遷座している。創建2600年以上前、歴史が長い割には『中世』の謎が多く、佐竹氏のいた江戸期までの数百年は、地元神をしっかり祀っていたのではないか?…と思わずにはいられないのだ(妄想)。

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佐竹氏発祥地近く茨城県常陸太田市『稲村神社』、ヤマトタケル東征由来の式内社。
光圀により『七代天神宮』にされた。

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常陸二宮『静神社』(茨城県那珂市静)、宮司?さん曰く
『ここはもともとお寺だったんですよ~、おぼえて帰ってね~』とのこと。

天香々背男命は、富士朝『終わりの始まり』の神だった?。

さて話は、香々背男命に戻って…。

残念ながら宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』には、天香々背男命(天津甕星)も建羽雷神(建葉槌命)も登場しない。しかしながら、宮下文書研究家・加茂喜三著『日本の神朝時代』p289によると、富士朝の『星神』であるとしている。これが大きなのヒントになりそうだ…。

 

そもそも…宮下文書神代のウガヤフキアエズ政権がウガヤ朝(鹿児島県霧島付近)へ遷都した最大の理由は、大陸人襲来への警戒監視。富士山から派兵していたのでは初動が遅すぎる、故に九州遷都して派兵を迅速化しようとした。これはあくまで阿祖山太神宮の勅諚であり、天のお告げである。しかし、富士朝高天原は『天』の御先祖が選んだ聖地でもある。そこからの新天地遷都は、御祖霊信仰を蔑ろにした議論であると…高天原には賛否両論渦巻いていたようだ。こういうところからも、神道の正体が御先霊信仰ベースなのが浮き彫りとなる。

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天香々背男命は、富士山西南麓の岩本?付近(静岡県富士宮市星山)で星占いをしていた神であった。彼は、占いにより神都の混乱・衰退を予期していた。御先霊を反故にした議論は、禍根を残すと…。ウガヤフキアエズ西征は国論を二分にするだけの、不吉な兆候の現れだとし神々を糾合した。

これが反乱に発展した。

個人的にはパターンとして、この事件を鎮圧できたのは東国神タケミカヅチとフツヌシの兄弟子孫ではないかとみている。神武東征のときも、強固な団結力でスピード派兵できたのは東国であった。3代安寧天皇時代の東国の乱を沈静化したのも彼らだ。

しかし、後世の西国天皇勢力からしてみれば、これはアイデンティティに関わる問題だ。このウガヤフキアエズ西征がなければ、神武天皇東征も大和朝廷もなかったわけで、それを阻止した天香々背男命は邪神悪神の類いでしかなかった。

他方、後世の東国富士朝勢力からしてみれば、中世以来の富士朝衰退を目の当たりにしつつ、『やっぱり彼の警告どおりであった…』とウガヤ遷都を後悔したのかもしれない。

いずれにせよ天香々背男命は西国天皇勢力へのアンチテーゼとして祀られ、暗に東国人に富士朝回帰を偲ばせていた。それを西国天皇勢力が『高天原天津神の悪神』として、建羽雷神に封じ込めさせたとみる。残念ながら建羽雷神が実在していたのかは、宮下文書ではわからなかった…。

この倭文神ストーリー作成には、後世に富士朝へ来訪している聖徳太子近臣・秦河勝が見え隠れしているのだが…(長くなるので、いつか別記事にて)。いずれにせよ富士朝が色濃く残る北関東地区にて、星宮神社が多いのも納得せざる得まい。

 

◯『倭文神社』(静岡県富士宮市星山)

〜御祭神〜

  • 建羽雷神

〜合祀~

  • 熊王神
  • 高皇産霊神 
  • 伊邪那岐命 
  • 大山祇神

※延喜式内社で、富士郷三座に列した古社。江戸時代には星山大明神といわれた。中世には富士山本宮浅間大社の大宮司家『富士氏』が祭祀していた。一般的に富士氏は和邇部だが、宮下文書では和邇部豊麿の娘に宮下氏族が婿入りしているので、実質的に男系宮下氏族であった。

もしかして、上記の藤姓足利氏系『富士氏』と関係あったりして…(妄想)。

※『倭文神社』由緒よると、この天香々背男命の妨害を、タケミカヅチとフツヌシは建羽雷神を遣わし平定させたという。建羽雷神は『星山』に住まい、織物製紙業を興したという。



現在、この静岡県富士宮市『星山』にあるのは、『倭文神社』。御祭神は天香々背男命ではなく…、彼を封じた建羽雷神だ。現代茨城県の大甕神社と静神社と似た構図である。

そしてこの天香々背男命を祀る、影なる『富士朝回帰主義』???。富士山の投影とも言える三毳山(安蘇山)に、レイラインを形成して祀られていることが、意義深いと…、思えないだろうか…?。

宮下氏族女系にはヤマトタケルの遺伝子も入っている。奇しくも現在三毳山は...、ヤマトタケルとこの天香々背男命が守っている。

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