セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<神社めぐり>藤原秀郷と富士朝神の関係性、京路戸山周辺に浮上する別雷命の巨大聖地?。

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栃木県佐野市富士町・唐沢山城址『足尾山神社』

2022,1,10

今回は、だいぶプライベートな神社めぐりネタとなるかもしれない。去年の秋頃から佐野市地域の神社めぐりを始め、かれこれ5回くらい訪問したか…藤原秀郷の地を神社巡りしてきた。基本的には同日中に東武佐野線田沼駅→唐澤山神社→京路戸山→小野寺郷→東武佐野駅までフラフラ歩いて抜けた。記事にした順番は前後しているトコあり、『朝日森天満宮』『一瓶塚稲荷神社』などなど、紹介したい神社は山ほどあるのだが...今回もムリそうである。それでも…記事2回記事に分けることになる。

(´(ェ)`)

~目次~

 

藤原秀郷とは?

一般的に藤原秀郷は、関東圏に拡散された藤姓の祖『藤原北家・魚名流』とされている。ウチの系譜は父方武藤少弐氏も母方小野寺氏も、秀郷がスタートとなる。然るに秀郷の存在を知ったときから、唐澤山神社はいつか参拝してみたい神社の一つであった。ただ秀郷も将門も、調べれば調べるほど富士朝色が強いのが気にかかる(笑)。これは一体、どういうことか…?。

〜東国の藤姓~

  • 藤原秀郷(藤原北家)…関東圏藤姓の殆ど。
  • 藤原為憲(藤原南家)…伊東氏や工藤氏祖。

 

939年(天慶2年)『将門の乱』に、突如として歴史の表舞台に登場した藤原秀郷は、別名俵藤太(田原藤太)という藤原北家出自。彼は平貞盛や藤原為憲らとともに、平将門を討伐した側の人物として知られる。結果として、下野・武蔵国司と鎮守府将軍に任命され、下野国押領使として唐沢山に築城し、その子孫・佐野氏が居城した。その子・藤原千常は970年に鎮守府将軍となり、小山荘寒河御厨(寒川七郷)を本領としたようだ。なんとまあ、下野国寒川七郷はご先祖様の領地だったことを知った。。。貧乏人子孫がフラフラ汗だく泥まみれになって神社めぐりしていたわけだ(苦笑)。因みに寒河御厨は、現在の栃木県小山市から下都賀郡野木町にかけての思川流域とされる。鎌倉時代には秀郷流太田氏小山氏派生して拠点とする地域だ。

 

宮下文書研究家・加茂喜三著『富士朝の滅亡』288ページによれば、藤原秀郷の孫(系図によっては子)の、藤原千方が富士朝氏族に担がれて朝敵・旗頭として反抗したと述べている。残念ながら詳細不明としているが、現在の静岡県駿東郡清水町に『智方神社』に祀られていた。この伊豆半島北部三嶋大社や柿田川湧水地付近では、歴史的に東西衝突を繰り返していた地域だともいう。いずれにしても藤原秀郷が従四位下の鎮守府将軍の功績のわりに、子孫系図が曖昧にされているのはこういった背景があるのかもしれない。

このように藤原秀郷子孫には、富士朝気配がチラつくのだ。

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栃木県佐野市富士町『唐沢山神社』

◯『唐澤山神社』栃木県佐野市富士町

〜御祭神~

  • 藤原秀郷公

※諸説あるが…、唐澤山西麓の秋山川を挟んで秀郷墓所あり、現在も神社の飛び地とされる(佐野市新吉水町)。唐澤山神社の所在地が『富士町』というように、展望台から富士山が拝める。巷では、平将門子孫は参拝しないほうがよいというジンクスがあるらしく、例えて言えば『神田明神』と『成田山新勝寺』みたいな対立構図なのかもしれない。ま、個人的にはそういう分断的思考は、気にはしない…。何度も繰り返すが、藤原秀郷+平国香+平貞盛陣営も、火雷神を奉る平将門陣営も富士朝を崇敬していた節があるのだから…。

前記事のように、宮下文書における『那珂氏』は宮下氏族、ほぼ確定。さらに全国各地の『吉田氏』とは、大山守皇子第9王子の子孫、あるいは宮下源太夫明政の子孫の可能性あり。例えば、平将門と対立した叔父の平国香、一般的に彼らの系統は『吉田大掾氏』の系統だ。彼らはもともと常陸国那珂郡吉田郷にて、常陸三宮『吉田神社』を中心とし『吉田神』を祀る『吉田氏』を称していた。これが常陸平氏国香流で平家の本流となり、のちの伊勢平氏・平清盛と繋がる。子・貞盛からは北条氏(鎌倉執権)が派生している。宮下文書論拠で、桓武平氏にチラついてきた富士朝の影…。これ前記事ではあっさり記事にしたが、あとあと事の重大さに気づいてしまった。素人オッサンが、トンデモない事書いているのがおわかりだろうか?(笑)。

つまり、もし仮に…平国香や平貞盛が富士朝勢力とズブズブだったら?、関東圏のゴタゴタの影響が、源平合戦や北条得宗家までグダグダ引き摺ってる可能性あり?。やはり富士朝絡み?。もう私が手に負えないくらい、今までの常識がひっくり返る可能性がある。

常陸国佐竹氏と天香々背男命『天津甕星』の真相?、三毳山と星宮神社レイライン。 - セキホツ熊の謎を追え!

単純に考えて、山城国平安京に794年遷都したのは50代桓武天皇勅命、つまり山城国の主・賀茂別雷神社カモサワヒメ=富士朝神を総鎮守として崇敬していたのならば道理に合う。現に800年(延暦19年)噴火の折には、桓武天皇が富士朝神官ら首脳陣349名を新都見学に招待している最中であり、富士朝とは良好な関係であった。彼は延暦噴火を経験しつつも崩御後まで『遷都は断じてならぬ』と遺言、結果として京は千年の都となり継承された。つまり平安京は常にカモサワヒメと共にあれと…。今までは清和源氏と富士朝との繋がりばかりを述べてきたが、桓武平氏とて富士朝を恨む理由は特にない。個人的には『将門の乱』とは、関東圏に拡散された富士朝氏族の内ゲバに、朝廷が乗っかった状況なのではないか?とみる…。

※但しwikipedia常陸平氏では、これは『常陸大掾系図』によるあくまで吉田氏(大掾氏)の自称であり、実態を示していないとの注釈もあるので注意。



秀郷とアメノコヤネ

藤原秀郷はこの地域に多くの神社を残しており、ホントに坂東の田舎武将なのか?と思えるほど知識も豊富だ。さらには宮下文書と創建理念が合致しており、富士朝先住民信仰に精通している様子も伺える。例えば、佐野市山菅町『安蘇澤神社』では別雷命カモサワヒメを、富士山の『澤』の水神して正体を見抜いている。これは富士朝氏族でなくてはムリだろうと。。。

もし仮に、彼の出自が藤原北家ならば、藤原祖神アメノコヤネを祀るのは至極当然のこと。ただあくまでアメノコヤネ主体の信仰であり、何故か、春日大社における『春日四神』を祀る神社の気配が殆どないとの指摘もある。※岩舟地区にタケミカヅチを祀る鹿島神社があり、細かく探せば出てくるが。。。

◯『根古屋神社』(栃木県佐野市栃木町)

〜主祭神〜

  • 天乃児屋根命

〜配祀神〜

  • 天乃太玉命

 

〜天孫降臨神話『五伴緒』とは〜

  • アメノコヤネ
  • フトダマ
  • アメノウズメ
  • イシコリドメ
  • タマノオヤ

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左右対称に鳥居のごとく刈り込まれているのが面白い。
『根古屋神社』(栃木県佐野市栃本町)

そもそも藤原氏がなぜ蘇我系統タケミカヅチ・フツヌシを祀るのか?。個人的には、飛鳥時代に蘇我氏(祖家)を滅ぼした鎮魂の意味合いも深いと思っており、本来であれば蘇我氏の権力的象徴フトダマを祀るべきであろうと…。それがいつの頃かフトダマ=忌部氏祖(後に斎部氏)、占いの神とされてしまい、祀る意味合いが変えられてしまっている印象あり。宮下文書版忌部氏の出自はよくわからないが…、一般的には天櫛玉命、賀茂建角身命の父神とされてしまっている場合もあるようだ。

『根古屋神社』の場合、931年(承平元年)秀郷が唐澤山守護のために『避来矢神社』としてアメノコヤネとフトダマを祀る。もともとは城内西方山頂に創建されていたが、江戸時代に現在地西麓に遷座した。ここではフトダマか配祀される点に注目したい。秀郷はタケミカヅチ・フツヌシが蘇我祖神なのを見抜いており、祭祀から敢えて外しているのではないかと…(妄想)。大切な城の『矢が飛んで来るのを避ける神』として、左臣蘇我祖神フトダマを祀っているのだ。藤原氏族としては尋常ではない。。。

この二柱は、一般的にはニニギ天孫降臨神話に従った五伴緒として知られている。ホツマツタヱにおける『剣・右臣』『鏡・左臣』の対関係、加えて宮下文書ではヒコホホデミ政権の両臣であり、阿祖山太神宮守護司長タマノオヤの補佐役で副司長のこと。つまりこの並祀は藤原祖神というよりも、富士朝象徴の意味のほうが強いと感じる。彼は蘇我祖神フトダマを並祀することの意味を熟知しており、二柱共に祖神以外の目的で祀っていたんじゃないかと…(妄想)。

 

『京路戸山』と『寒澤山神社』跡地に浮上する巨大聖地?。

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唐澤山神社から1時間ほど尾根伝いを歩くと標高244メートル『京路戸山』に到着、別名を『中村富士』という。低いが形状がとてもユニークというか、可愛らしい団子山というか…見方によってはまぁまぁ富士山にも見えないこともない(苦笑)。山頂からは特に絶景が見えるわけでもなく、採石場と化してしまった周辺山々の全体像が目に飛び込んでくる。現在、『葛生駅』周辺は『富士見町』といい、命名由来はこの中村富士を眺めることができる位置にあるからだという…。

 

◯菊澤山『賀茂別雷神社』(栃木県佐野市多田町)

〜御祭神~

  • 賀茂別雷命

〜奥宮~

  • 賀茂別雷命



〜境内社〜

  • 産泰神社機姫神社(天棚機姫神)
  • 猿田彦新宮
  • 夕日森天満宮(菅原道真公)
  • 浅間神社(木花之佐久夜毘売命)
  • 寒澤山神社(オオヤマツミ)

 

◯菊水山『加茂別雷神社』(栃木県佐野市山越町)

〜御祭神〜

  • 別雷命
  • 天児屋根命
  • 菅原道真公

807年(大同2年)創建、下写真↓

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〜宮下文書版カモサワヒメとは〜

別雷命=寒川毘女=三嶋神のこと。

コトシロヌシとタカテルヒメの娘

オオヤマツミの妃

コノハナサクヤとイワナガヒメ母

※同地域に賀茂別雷神社が2つあるので注意。因みに宮下文書版コノハナサクヤの幼名が『菊里毘女』といい、『菊水山』や『菊澤山』は、暗に親子関係を示しているのではないかと見る。

 

ここで前記事を振り返ってみよう。明治時代まではこの京路戸山頂に、オオヤマツミを祀る『寒澤山神社』が存在していた。それを多田町菊澤山『賀茂別雷神社』の先代?神職さんが、賀茂別雷神社の境内社として遷座させたのだという。

多田町すぐ南には、山越町菊水山『加茂別雷神社』あり、こちらの創建は807年(大同2年)だ。胎蔵院杉本坊が北2キロにある菊水山(菊澤山とは違う山らしい)にて、『菊水神社雷大権現』として祀り、藤原秀郷も信仰していた。しかし境内由緒書によると、昭和25年に制定された鉱業法により、鉱山化された地域の神社を強制移設させることが決められたという。これにより遷座を余儀なくされたという。

二社ともに、聖地にとってはネガティブな過去を引きずっている。

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京路戸山から丸嶽山神社方面を望む。鉱山化が進む聖地。

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<緊急続報>三毳山はとんでもないクロスポイントで、今までのすべてが繋がった件。 - セキホツ熊の謎を追え!

<緊急続報>将門レイラインの秘密判った!!。『寒澤山神社』を祀る日本列島の中心線だった。 - セキホツ熊の謎を追え!

こうして考えると…、丸嶽山神社と安蘇澤神社〜多田町賀茂別雷神社〜山越町加茂別雷神社と…。とくに旗川と秋山川に囲まれた山塊は、オオヤマツミ・カモサワヒメ(別雷命)の巨大聖地に見えてくるわけだ。京路戸山をクロスポイントとして、三毳山こと『安蘇山』〜佐野市山菅町『安蘇澤神社』のレイラインが跨がる。また京路戸山は『将門中心点レイライン』と重なり、さらには寒川七郷『網戸神社』と『金村別雷神社』と『多田賀茂別雷神社』奥宮と別雷命レイラインが重なる。このあたりは無数のレイラインで結ばれるの結界のような場所だ。

その自然環境が激変しつつある。。。

丸嶽山神社や菊水山は鉱山化され採石場となって、京路戸山の寒澤山神社は明治時代に遷座させられてしまい、麓はソーラーパネルで埋め尽くされている。グーグルマップの衛星写真モードを見ればその惨状は一目瞭然、土地神さまもかなり困っている状況ではないかと思われる…(妄想)。ま、現代社会においてこんな光景は日本中どこでも見れるだろう。地元の神社や経済活動に口を出すわけではないのだが、ただ、なんか秀郷子孫である私に『なんとかしてちょーだい』と言われているようで、後ろめたさで一杯となる(泣)。

※因みに日光・中禅寺湖南に位置する『足尾山』にも、安蘇澤と呼ばれる水源があるようだ。葛生の『安蘇澤神社』とは離れているので注意。足尾山信仰は茨城県中心と思っていたが…、公害病で有名な栃木県内足尾銅山(栃木県上都賀郡足尾町)が本場なのだろうか…?。

 

現在『京路戸山』は祠の一つもない、地元信仰の対象から外されている感もあり。ただ山頂には、どこぞの宗教団体かはわからないが張り紙あり。アマテラスや豊受大神に対して、謝意・懺悔・祈りの神仏習合的な文言が並べられる…。

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なんじゃこりゃ…。ぶっちゃけ不気味でもあるのだが…。ま、かつて寒澤山神社が存在していたわけだし、ひょっとしたら、かつての氏子中子孫なのかもしれないなぁと…。

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京路戸山の山頂にある、『参拝方法』

読者の方ならご存知のように…、カモサワヒメ様は私が日頃大変お世話になっている神様であり、せっかく寒澤山神社跡地へ来たのに、そのまま帰るのも申し訳ないので…。簡単なお祈りしたm(_ _)m。

オオヤマツミ様、カモサワヒメ様…

『いつも人間を守っていただきありがとうございます』

『いつも人間が申し訳ありません…』

『富士山の歴史を伝えられますように頑張ります』

 

このときは、なにも起こらなかった…。

次回へ続く↓(´(ェ)`)。

<神社めぐり>小野寺氏から見えてきた陸奥宮下氏族『葛西氏』、かつて蝦夷は貴種であった。 - セキホツ熊の謎を追え!

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