セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

3週目の建国記念日。富士朝と御祖霊信仰。

f:id:sekihotu:20220211144800p:plain

『桜田神社』(東京都港区西麻布)


2022,2,11建国記念日。

毎週毎週休日返上でブログもここまで来ましたが...、年末年始から身内の退院だの引っ越しだのいろいろありまして、体力的に追い付かず完全にダウン状態です。

しばらくブログは休みがちになりますm(__)m。

毎年2月11日は、フツーにお喋りをしております。何を書くか迷ったんですが…、前記事で私が小野寺氏・黒沢氏を知った経緯の補足を…、思い出を混じりにお喋りしたいと…。

前記事とおり。私の父方は武藤・少弐氏族男系養子の家で、本家は地元でも比較的大きな家だったらしく、ある程度信じられるかと思っているのですが…。しかし母方には『本家』というものもなく、ありふれた苗字なので断言はできない。家系図の判別というのは非常に難しい世界なのだそうだ。

今回のテーマはご祖霊探しです(´(ェ)`)。

~目次~

 




私のご祖霊探しのスタート

私の母方伯父は旅行会社に勤めており、全国役所を周りつつ、趣味で祖先の戸籍謄本を調べていた。いわゆる家系図マニアで、実物をお見せ出来ないのが残念だが、かなり緻密な調査をしている。法律的なことはよくわからないのだが、現在でも戸籍謄本の写しがなくとも『除籍』を辿れば、最長でも江戸時期まで遡って家系図を作ることは可能なのだそうだ。

 

2年ほど前、伯父さんは抗がん剤で藻掻き苦しみながら死んだ。末期闘病中に伊豆の母の家を訪れており、自ら作成した家系図コピーを母に託し、それが最終的に母への形見となってしまった。同年、奥さん(私の伯母さん)も後を追うように病死した。伯父と年子であった母はとても動揺していて、『次は私だ…』『私もスグに逝く…』と、妄言を漏らすようになった。今考えると、母が衰弱して病院に入院したのは、これがきっかけだったのかもしれない…。癌ではないのだが…結構ヤバイ状態だったらしい。

 

母が入院したのは伊豆の某病院。入院中は、病院側からコロ◯騒動の影響で面会謝絶とされ、事実上の隔離状態に入った。特に東京からの面会希望者には、厳戒レベルの警戒をしていたようだ。私も父も家族は、どうして良いのかわからず、茫然自失の宙ぶらりん状態であった…。父は、東京都在住の私に『なるべく伊豆に来るな』と警告してきた。衰弱した母にコロ◯感染したら、どうするんだ?と…。

結局、宮下文書もコロ◯も同じ、世の中に疑念を持たない人には、言っても仕方がない側面がある。みんなが私のことを非常識だというのなら…、私はマスクだってするし、みんなをイライラさせるのならば、伊豆に行くことも自粛する…(笑)。

川の流れのように、熊オッサンはいきたい…

(´(ェ)`)

 

ご存知のように、私は神社大好き人間なのだが…。2〜3年前から、御神前で個人的なお願いをすることは慎むことにしていた。別に『しちゃダメ』とか言うつもりもなく、母のことが心配でないわけでもないのだが…。神社めぐりをしていると、なんとなく『運を天に任せる』習慣が身につくのだ(苦笑)。ま、そもそも、『生きているだけでホント幸せ』『神さまには感謝の言葉しかない』というのが、母親の口癖だったような気がするのだが…。

そんなゴタゴタがあって…私は実家から、伯父さんの家系図を引っ張り出し、母方の祖先をさらに遡って調べてみることにした。素人に何ができるわけでもないが、なんとなく、母に対する非力な時間を紛らわす目的もあった…。

f:id:sekihotu:20220211153132p:plain

※多分、巫女さんアルバイトの祖母?。場所は不明。

黒沢道家

家系図を紐解いて調べてみると、小野寺庶流・黒沢氏にたどり着いた。

母方(以降オカン)の祖先が武士家系なのは、昔から事あるごとに聞いていた。秋田県横手市『山内黒沢城』の小さな集落に生まれて、黒澤を称していた。おそらくオカンは黒澤道家の末裔と考えるのが自然ではないか?と…。重ねて言うが、全く関係ない可能性もあるので注意(苦笑)。

黒澤道家は小野寺氏旗本の家系で、東方の和賀氏に対する押さえとして旧『黒沢城』(秋田県横手市山内黒沢)を任されていた。『黒沢家譜』によると、実父は小野寺某で実母は黒沢氏、さらに本人は黒沢長門守の娘を娶っている。それ以前の出自は不明だが、葛西氏男系と千葉氏女系子孫の『陸奥黒澤氏』と関係が浮上する。かつて登米小野寺氏と深い関係にあった葛西氏の派生氏族…、関係ないのだろうかと…?。

※但し黒沢氏には様々な系統があり、安倍氏や清和源氏にも同姓がおり、和賀氏庶流に『黒澤尻氏』という氏族がいる。

黒沢道家の経歴を調べてみると、和賀氏との岩崎反抗で活躍し、18歳にして先陣を切り、周囲を圧倒していた。奥羽永慶軍記によると、『其勢ひ諸人目を驚かしぬ』とある。もともとは血の気の多い人物だったようだ。

1595年(文禄元年)主君小野寺義道が、隣国の戦国大名・最上義光の虚言(讒言)を真に受けて、小野寺の名軍師・八柏道為に謀反の疑いをかける。彼は小野寺氏の最大の立役者、それを黒沢道家に命じて、横手城前にて殺害させた。小野寺家臣の心境はいかなるものだったのか?…、いずれにせよ軍事力は一気に衰退、まんまと最上氏勢力の術中にハマったわけだ。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの小野寺氏は…、その大嫌いなライバル最上氏に一矢報いたいがために西軍につく。これが運の尽きで…、結果は周知のとおり西軍が大敗北。小野寺氏は戦後に改易され、『石見国』へ転封(強制的な国替え)。家臣・庶流である黒澤氏は、秋田仙北に取り残されてしまう。

その後、敵であった最上氏から黒沢道家へ、家臣への打診があったものの、小野寺氏忠臣義士として断る。すると、最上氏に逆ギレされて殺害されそうになる…。そんなときに、突如江戸幕府より入封させられて来たのが…、なんと常陸国古豪『佐竹氏』だった。

 

黒沢道家は仙北にて佐竹氏の入国を案内し、家臣団に召し抱えられることを許可された。佐竹氏側の思惑としては、入封するにあたり、地元の知識人が絶対的に必要だったのだろう。道家の性格は外柔内剛で寡黙、それを百戦錬磨の佐竹家臣団からは無能で怯懦な田舎サムライと嘲笑されていたという。

1614年(慶長19年)の大坂冬の陣に参戦。『私を臆病者と嘲るなら、明日の戦を見るがいい!』と、ついにブチ切れたのか?、普段とは全く違う口調で突然名乗りあげた。戦の中で、敵軍になだれ込み手打ち寸前の味方を救出しつつ、短刀で敵8人を相手に周囲を啞然とさせたという。後日、将軍徳川秀忠より感状を受け、知行500石の旗本50人隊の将となり、久保田藩にある国内屈指の院内銀山奉行・惣山奉行に任命される。ただし、資料によっては矛盾点も指摘されているので注意。

※YouTubeで『黒沢道家』と検索すると動画が出てくるので、見てみるとおもしろい。

(´(ェ)`)

また戦国時代の当主、小野寺景道・義道の正室が大宝寺の娘…、2代続けて武藤氏族の嫁を娶っている。大宝寺義氏(出羽国武藤氏)は小野寺氏と盟友、一時期庄内地方に逃亡せざる得なかった小野寺景道を匿った恩人で、さらに小野寺氏族全盛期をバックアップした立役者、武藤氏族がいなければ小野寺氏は滅亡していたかもしれない。このあたり歴史の因縁というか…世の中ホントに狭いなあ…と感じる。私の父方武藤氏も母方小野寺氏も、藤原秀郷子孫が九州と東北に分かれるが…、結局は、オトンもオカンも同じ穴のムジナだったのかも…。

(´(ェ)`)



◯『沼の柵(沼館)八幡神社』(秋田県横手市雄物川町沼館)

〜御祭神〜

・誉田別命

・軻遇突智命

・玉依比女命

・白山比女命

・天照皇大神

・稲倉魂命

※ 988年(永延2年)、『男山八幡宮』(石清水八幡宮)の分霊、納豆の発祥の地を主張している。

f:id:sekihotu:20220123103117p:plain

また、前記事で紹介した『小野小町レイライン』上の『沼の柵八幡神社』(秋田県横手市雄物川町沼館沼館)は、15世紀初頭小野寺氏の拠点であったようだ。つまり、寒川神社〜院内銀山レイラインはかつての12世紀の拠点『下野国小野寺郷』を突き抜け、新しい拠点『沼の柵』に到達する。まさに小野寺氏族の『新・旧拠点レイライン』といっても過言ではない。いずれにせよこのレイライン、異常なほどにわたしの祖先に関係ありすぎるのだ。

  • 栃木県栃木市岩舟町小野寺
  • 秋田県横手市雄物川町沼館

レイライン上すぐ南、秋田県横手市雄物川町『首塚神社』は、東征中の敵方斬首を、坂上田村麿(首級1000本)八幡太郎義家(首級890本)が この沼館に埋葬したとのこと。東征者にとっては、なにかよほどの重要な場所なのか?と思える。

※因みにオカン家系図にて、確認が取れた最古の戸籍は、寛政年間(1790年代)の下吉田村の人物で、娘が『沼館』の同族?に嫁いでいるようだ。

<レイラインの美学⑯>坂上田村麿807年鎮火祭と、小野小町望郷の院内銀山レイライン - セキホツ熊の謎を追え!

武士制度の崩壊

明治時代に入ると武家制度は崩壊、東北のサムライたちは突然職業をなくしたわけで、どん底の貧乏生活を強いられる。やむを得ず、出稼ぎ労働者となって、多くが北海道開拓へと向かった。オカンも一時的に北海道で生活していて、今も親戚が残っている。母方祖父は東京へ上京して建設会社を起こし、いっときは成功したらしいのだが…、部下に資金をもち逃げされて会社を手放すしかなくなった(苦笑)。その後家族は、職を転々として祖父も早世してしまった。因みにオカンは、流転生活の忙しい最中、東京麻布『桜田神社』の近くに生まれた。まあ、馴染みの故郷とは言えないが、たぶん母の産土神ではないだろうかと…。

 

◯『桜田神社』(東京都港区西麻布)

〜御祭神~

・豊宇迦能賣神

※表紙写真↑

※1180年(治承4年)、源頼朝の命により秩父平氏・渋谷重国が、現在の霞ヶ関桜田門外周辺に創建、室町時代に太田道灌により守護神として再興された。江戸時代に大名屋敷などの御用地取得のため、現在地に遷座を余儀なくされる。

※明治神社明細帳によると、天照大御神・大宮女神・天御柱神・国御柱神・加茂大神を相殿が祀られていた痕跡あり。

 

こうして私は去年の暮、小野寺氏の拠点である小野寺郷へたどり着くことができた。今考えると、そこではさらに驚きの連鎖があり、数々のレイラインと三毳山クロスポイントを知ることができた。小野寺通綱のお墓参りもできた。別にどこで御祖先や神様に回復祈願をしたわけでもないのだが、結果的に母親は退院することができた。

…振り返ってみれば、父方母方の祖先や遺伝子こそが私のガイドだったのかな?と。さらにこの『小野小町レイライン』も、家系図の推定祖先とつながってしまうとは思わなかった(笑)。ぜ〜んぶ偶然なのかもしれないが、運命も感じるし、いろいろ考えさせられたのは事実だ。

(´(ェ)`)

 

f:id:sekihotu:20220211152725p:plain

※イワナガヒメを祀る伊豆国伊東の大室山。そしてオトンとオカン↑

神道ってなんだろう?。

今回熊オッサンが、なんでこんなにも祖先にこだわっているかといえば、富士朝神道=御祖霊信仰だからだ。さらには寒川神社からの『小野小町レイライン』から、御祖先たちの繋がりの重要性までを学んだようなきもするのだ…。宮下文書によると、富士山の本当の名前は『阿祖山』、阿族の祖であり、日本人は祖先を祀ることからスタートしている。神道の神々をざっくり説明すれば…私達日本人の遺伝子提供者、子々孫々ずーっと見守ってきた、私達の大祖父ちゃん・大祖母ちゃんなのだ。

歴史の改竄の流れは、歴代権力者が意図して御祖霊を独占し、一般庶民から御祖霊を遠ざけたことに起因している。彼らは、その御祖霊をコントロールしようと画策していたが、することができず、逆にあまりの恐ろしさに神名・神系・氏族の仮冒・由緒を変えて、封じ込めてしまった。後世、これが太陽信仰・本地垂迹・森羅万象の事象に片付けられてしまい、神道自体が本来どういうものか説明できる者がいなくなってしまった。

現在、私を含め多くの日本人が『仮冒』により、祖先と繋がることが困難な状況にある。専門家たちは『素人では祖先・家系図の判別は不可能だ』というが…、まさにそのとおりだろう。ただ、そもそも正確に把握できている日本人がどれだけいるのか?、という言い方も出来る...(苦笑)。宮下文書によると、藤原鎌足や不比等ですら、天津神国津神の神系、自らの出自を把握できていなかった可能性があり。とくに源・平・藤・橘に関わる多くの系図はかなり怪しい。…残念ながら、宮下文書を読んでない専門家には、不可能といわざるを得ない。

<驚愕>蘇我蝦夷が自殺前に燃やしたものは、宮下文書コピー本だった?。 - セキホツ熊の謎を追え!

私達も、大きく歴史認識を変えて行かねばならない岐路に立たされているのだろう。

(´(ェ)`)

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

 

※地図はクラフトマップ使用。

www.craftmap.box-i.net