セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<宮下氏族まとめ②>宮下氏族『吉田氏』とは?、都賀・塩谷・関戸・大久保・高井・宮本・西瑳・和田・真浦・愛甲氏ほか。

 

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東京都調布市富士見町『下石原八幡神社』
太田道願の甥・太田資忠のさらに子孫、太田善右衛門が創建。

2022,2,26
前記事の宮下家に続き、東国の氏族が諸事情により仮冒だらけだった件…。今回も埋もれた富士朝氏族の『洗いざらい』を試してみる。

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~目次~

 

吉田家を名乗る血筋と覚悟…?。

全国的に『吉田』さんは11番目に多い氏名だそうで、『きった』『きちだ』など様々なバリエーションがある。もちろん全て富士朝氏族ではないだろうが…、吉田家のルーツ・分布図を追うことこそ、富士朝解明の鍵と言えるのではないか?。

古神道の正統を意味するような『富士』『宮下』『吉田』姓、他氏族らが名乗れる氏名ではないことは容易に想像がつくわけだが、少なくとも神職者が、吉田姓を名乗るには、それだけの血筋と覚悟がいるのだろう。個人的に『吉田神道』と関係しているのではないか?と思う…漠然とした理由でもある(妄想)。

ただ吉田神道の場合、富士朝が陥落した室町時代15世紀後半頃に台頭しており、むしろ富士朝神道とは相容れない存在となるだろう。意図して、本家『富士朝神道』から目を逸らす為の、カムフラージュ的な側面を拭えない…。それだけ富士朝の複雑な歴史を示している。

2月2日富士朝陥落、宮下氏族吉田氏と吉田神道の『節分』鬼退治の謎?。 - セキホツ熊の謎を追え!

例えば、埼玉県さいたま市浦和区『調(つき)神社』は代々宮司職が吉田さんであり、境内には元宮司吉田英一像がある。この方々が、富士朝なのか?、吉田神道なのか?、偶然なのか?は不明だが、宮下文書研究的には非常に興味深いものを感じる。wikipediaによると、調神社は月侍信仰として知られており、御祭神はツクヨミや瀬織津姫との説もあり。

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埼玉県さいたま市浦和区岸町『調(つき)神社』

 

そもそも富士朝氏族・吉田家とは?

宮下氏族吉田氏は、2代宮下家大宮司・宮下源太夫明政の、5人の子どもたちから派生した氏族。4世紀〜5世紀仁徳天皇時代以降、西国支配が弱まった東国『吾嬬惣国』にて、5子ともに『吉田』を称して県主などとして拡散された。おそらく富士朝の所在地であった、甲斐国吉田郷(現在の山梨県富士吉田市)の地名は同義であろう。かつて10代崇神時代の宮守司長で、祖佐男命74世孫『吉田彦命』に関係ありそうだが…詳細不明。

▲宮守司長・吉田彦命 スサノオ74世孫

△副司長・太田川彦命   オオヤマツミ69世孫

因みに、吉田彦命とは。10代崇神天皇時代、三種神器『三品の大御宝』を大和国笠縫へ持ち出した際に、護衛していた張本人。皮肉にもこのとき、西国天皇勢力は富士朝を欺くかの如く、三種神器のレプリカを作り出しており、吉田彦命がそれを承諾していたのかは怪しいところ。ただ不思議なことに、三輪本現代訳中の歴代宮司のリストには記載されておらず、何か任期中にトラブルが発生していたのだろうか???と、憶測も呼ぶ…。もしかしたら、吉田彦命=5代真田八代良男命、同一人物なのかもしれない。

 

2代宮下家大宮司・宮下源太夫明政。(?〜367年)

大山守皇子の第一王子であり、隼総別皇子の第一王女・小室姫を娶り、5人の王子を生む。

①不ニ田一摩古彦

②吉田ニ摩古彦

③吉田三摩古彦

④吉田四奈摩古男

⑤吉田五男摩古彦

※4男・5男は微妙に違うので注意。

 

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①不ニ田一摩古彦

宮下家嫡流として明政を継ぎ、宮下記太夫仁忠を襲名。3代目の大宮司長となる。

 

②吉田ニ摩古彦グループ『都賀・塩谷諸氏』

毛野(上野・下野)国県主、吉田を称し、都賀・塩谷諸氏の祖とされる。

前記事と被るので簡単に紹介すると、かつての都賀郡域は広大で、現在は栃木県栃木市藤岡都賀や栃木市都賀町家中に地名が残る。また栃木県下野市本吉田や、小山市寒川などの地名が残る点にも注目すべきだろう。

塩谷は諸説あるが、八幡太郎義家の次男・義親の子・堀江頼純が下野国塩谷郡にて塩谷(しおのや)氏を称したのが始まりとされている。現在の栃木県矢板市『堀江山城』付近を拠点とし、現在でも 『岩戸別神社』(栃木県塩谷郡塩谷町)付近に地名が残っている。また、藤姓宇都宮氏や児玉氏支流にも同名『塩谷氏』が登場している。

さらに、日光を開山した勝道上人の生母が、豪族・吉田連氏の娘・明寿という人物で、出流(伊豆留・いずる)観音にて懐妊祈願をしている。

日光田心姫信仰と富士朝信仰、富士山鎮火の朝廷と空海の思惑とは。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

③吉田三摩古彦グループ『那珂氏』

日太地(常陸)国県主、吉田を称し、那珂の祖、現在の茨城県を拠点としていたグループ。

一般的には吉田大掾氏=常陸平氏、那珂氏=藤原秀郷流と別氏族とされている。ただ清和源氏?佐竹氏を交えて、婚姻関係はあるようだ。

▲吉田大掾氏=桓武系平氏

△那珂氏  =藤姓秀郷流

 

那珂氏は、藤原秀郷五世孫・公道の子通直を祖とする。通直の子通資が那珂川から北の『那珂郷』にて那珂氏を称する。14世紀に那珂通高が北朝方に従い、足利尊氏から常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、常陸国『江戸氏』が派生している。通高は佐竹義篤の娘を娶っていた。15世紀には江戸氏・佐竹氏と大掾氏の間で対立・抗争が続いていたようだ。

※秩父氏族『江戸氏』とは違うので注意。ただ秩父氏も秩父吉田郷を本貫としており、一般的には葛西氏の祖ともされている。宮下文書では、葛西氏は宮下氏族。2つの江戸氏は、どちらも富士朝接点が見られる氏族かなと…思われる。両氏がごちゃ混ぜにされている可能性もあるだろう。

 

吉田大掾氏は平将門と対立した平国香子孫常陸平氏、平繁幹の次男・清幹が常陸国那珂郡吉田郷にて吉田氏を称したのに始まる。常陸二宮吉田神社を拠点としていた吉田大掾家から、佐竹氏初代当主・昌義の母方となる。

伝承では、常陸平氏嫡流が代々、大掾氏を世襲したとされるが、実在性に乏しく、実質的には鎌倉初期の馬場(大掾)資幹が祖とみられている。

鎌倉時代には、この大掾氏系から鹿島氏が派生し、常陸一宮『鹿島神宮』にも関与していく。源頼朝に惣追捕使に任命され、鹿島神宮の経営にまで入り込む。こうして、藤原秀郷の母方であったという中臣系は、鹿島神宮への影響力を失ってゆく。

また、大掾氏一門の東條氏流太田氏が派生している。この東條氏は、大掾氏惣領家多気氏から派生した、常陸国信太郡東條を本貫とした氏族。子孫は南部(盛岡)藩御抱寳生流能樂者の家?、太平洋戦争中の40代内閣総理大臣・東條英機の祖とされる。

このように、あくまで宮下文書的な見地からみれば、藤姓那珂氏と平氏吉田大掾氏は同祖の可能性が高い。こうなると、富士朝氏族が大々的に、常陸平氏や秩父平氏にすり替えられていると見るのが自然であろう…。

 

④吉田四摩古彦グループ『関戸・大久保・高井諸氏』

陸佐志(武蔵)国県主、吉田を称す。小多摩(小玉)関戸・大久保・高井の祖で、現在の東京都を中心としているグループ。

関戸氏については詳細不明、おそらくは武蔵国多摩郡関戸にあった武蔵一宮・小野神社周辺の氏族ではないだろうか?。小野神社周辺には、古墳時代の渡来系先進的な技術痕跡が強い、『落川一宮遺跡』がある。現在の関戸姓は、神奈川県相模原市に多いようだ。

大久保氏は詳細不明。藤原北家宇都宮氏庶流とされるが仮冒説もあり、本貫は三河国碧海郡上和田とされる。徳川政権に譜代大名として召し抱えられつつも、興亡を繰り返していた。東京都新宿区の大久保と関係がありそうだが...、特に情報は無かった。

高井氏も詳細不明。一般的には越後三浦氏または、越後和田氏に分類されていたとみられ、前記事で紹介した出羽国にまで勢力圏を広めていた。

安土桃山時代の高井氏は下総相馬氏の分家とされ、相馬胤永が高井氏を継いだという説もあり。この下総『不佐国』自体が、宮下文書版和田氏の本貫の可能性があり、非常に富士朝色が強い地域ではある。相馬高井氏は兄・下総相馬氏に従って後北条氏方につき、佐竹氏らと交戦した。奇しくもその子孫は、先述の『大久保氏』に重臣として仕えている。

一般的に和田氏は、桓武平氏三浦氏の派生とされており、和田義茂から越後和田氏『高井氏』が誕生している。故に、三浦氏姓や和田氏族を名乗ることも多かったようだ。さらには、富士朝が陥落した室町時代1404年2月2日以降、彼らは北朝足利勢力から生き残るために素性を隠していたのであろう。

※和田氏の本貫は諸説あり、相模国三浦郡和田、和泉国和田、安房国和田など。千葉県我孫子市布佐にあった『布佐城』は、別名『和田城』ともいい、現在近隣から和田氏が造立したとみられる武蔵型板碑が出土している。

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◯『下高井戸・浜田山八幡神社』(東京都杉並区下高井戸)

〜御祭神~

  • 応神天皇

 

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東京都杉並区下高井戸『下高井戸八幡神社』

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別当『宗源寺』由緒書。甲斐国吉田郷に住する吉田宗利の子孫・光伯院日善による開山。

1457年(長禄元年)、太田道灌による江戸城築城の折、彼の家臣・柏木左衛門に鶴岡八幡宮を勧請させたという。因みに宮下氏族版『柏木氏』は清和源氏・多田満仲の三男・柏木右衛門佐義季の家系のことで、前九年の役の功績により武蔵国の半分を賜っている。1180年源頼朝挙兵に呼応し参陣するも、すぐに敗走して富士朝へ逃げ込み、宮下家48代政仁の二女を娶り太神宮副宮司となった家系。また太田家の由緒書(文政10年)によると、太田道灌の弟資忠の子孫・太田対島守盛久が東京都調布市下石原『源正寺』付近に居住していたという。一般的には、清和源氏頼光流太田氏とされている。

上記八幡神社の別当『宗源寺』は、光伯院日善による開山。彼の祖先は吉田宗利で、吉田郷平姓秩父氏・畠山重忠(母が三浦義明の娘)と同じ一族。江戸遠江守太郎判官重永の孫に当たり、甲斐国吉田郷(旧富士朝の所在地)に住していたという。但し、鎌倉時代1205年に『畠山重忠の乱』で、平姓畠山氏は消滅したはずなので注意…、この一族とは平姓畠山氏の名跡を継いだ源姓足利系畠山氏なのだろうか?。

高井堂の名称から地名『高井戸』が生まれたとされ、別当ともに富士朝要素が強い寺社である。また近くの杉並区久我山地区は秦氏の影響力が多く残り、玉川上水開削に貢献したとのこと。秩父地方を含めた武蔵国広域の秦氏伝承の中に、富士朝氏族が隠されていると考えると、合点がいくのだが…。




⑤吉田五摩古彦グループ『宮本・西瑳・和田・真浦諸氏の祖』

不佐(下総)国県主、宮本・西瑳・和田・真浦の祖、現在の千葉県広域に拡散されていたグループ。

宮本氏は多氏族であるが、下総国香取郡宮本村をルーツとし、山内首藤氏の一族。小野寺義寛と兄弟関係の相模国鎌倉郡山内荘を領していた山内首藤俊通から、山内首藤俊宗(土佐吉田氏)が派生している。

また関連性は不明であるが、吾妻鏡に46年(寛元4)、海賊追捕の功労者として記載されている、讃岐国御家人藤左衛門尉(香川郡司家資)の子孫が島年寄宮本氏、吉田氏の祖と記されるという。

 

西瑳氏は不明なのだが…。もしかしたら『匝瑳(そうさ)氏』ではないか???と…。匝瑳氏には物部匝瑳氏と平姓匝瑳氏に分かれる。千葉県匝瑳市宮本という地名があり、式内社『老尾神社』や806年(大同元年)創建した『熊野神社』がある。物部匝瑳連、匝瑳宿禰時代を通じて、鎮守府の高官を多く輩出している。また、弘仁2年(811年)の蝦夷征討後の『日本後紀』・『続日本後紀』記載の歴代鎮守将軍も匝瑳氏から3名出ている。

後世に、平常澄の子常成が匝瑳郡を領して匝瑳氏を称しており、匝瑳南条荘を所領とし荘園領主の紀伊熊野山領の下司職をしていた。ただし、平姓匝瑳氏族は仮冒であり、実質的には上記の物部系と同系との説もある。

 

真浦氏族も詳細不明。長崎県に多い氏姓とされるが…、千葉県南房総市和田町真浦に『真浦神社』がある。

ホツマツタヱ系図では、瀬織津姫の甥オオヤマツミ継承者で、イワナガヒメとコノハナサクヤヒメの父が、『マウラ』という。サガムの小野にて橘を植え、タチバナの君と称された。おそらくは富士朝オオヤマツミが、相模国に居住していた秦氏族勢力に、すり替えられた?のではないかとみている。サガムの小野の比定地は現在の神奈川県厚木市小野ともいわれているが、武蔵国多摩市小野神社付近も上記・吉田四摩古彦末裔の拠点であり、可能性は高い。また、マウラは『三浦』の語源ではないか?ともいわれている。

 

所変わって房総半島南端『朝夷郡』は、三浦氏・朝夷(朝比奈)三郎義秀の生まれ育った土地とされる。旧千倉町・旧和田町など、和田義盛あるいは三浦氏の所領とみられている。さらに15世紀では真田氏(三浦義明の甥・佐奈田与一の子孫)の存在もチラつく。朝夷郡三原郷にある正木氏の菩提寺『正文寺』(南房総市和田町中三原)は、もとは真田氏の菩提寺であったという伝承あり。その他にも三浦氏や和田氏族である、真田氏(佐奈田)・佐久間氏・薦野氏(多々良)・正木氏の痕跡が多くみられるという。

前記事でも書いたが、1404年(応永11年)2月2日富士朝陥落以降、富士朝氏族は自らの出自を誤魔化すために、三浦氏や和田氏の名前を語っていた。たとえこれらが三浦氏や和田氏の仮冒だとしても、やはり房総半島が富士朝色が強かったことを表している。





『源平合戦』最大のパラドックス、なぜ坂東平氏は西国の平清盛ではなく、東国の源頼朝に従った?。

 

さて、ここで余談となるが…、富士朝再興を成し遂げた源頼朝のお話を少々すると…。

41代三浦氏宗家・岩間尹氏をはじめ、多くの史家が頭を抱えてきた問題がある…。それは頼朝の挙兵後、どうやって源氏が坂東平氏を結束させたの?かだ。大河ドラマのように『打倒平家』とか『坂東独立』では動機が薄すぎるし、そもそも平家撲滅のためになんで同族平氏が、源氏の軍門に下るのだろうか?と…。宮下文書研究家でもある岩間尹氏は、この問題で富士古文書に長年の答えを見出した。答えは非常にシンプルで、東国の蓋を開けてみれば、宮下文書版・清和源氏三浦氏をはじめ、あちらこちらに富士朝関係氏族や秦氏が潜んでいたわけだ…(苦笑)。勿論東国全てとは言わないが…。

 

となると…、源頼朝挙兵後の珍行動が見えてくる。石橋山の戦いのあと、なんで相模国真鶴半島から房総半島最果て安房国へ船で逃げたのか?。一般的には房総半島〜武蔵国まで、坂東平氏たちを口説き、神社で必勝祈願をしていたとされる。これも、単にこの地域が富士朝氏族の割合が高かったからに他ならないだろう。頼朝には、短時間に多くの富士朝氏族を巻き込む必要があった。さらに源氏×平氏の遺伝子を併せ持つ、三浦氏族が頼朝との説得に立ち会った。このとき頼朝は、東国の信仰拠点である『富士朝再興』を約束した為に、強敵・畠山重忠(秩父平氏といわれるが、富士朝氏族の可能性も高い)も味方につける事ができたのではないか?ということだ。つまり彼らのバックボーンを考えれば、富士朝信仰で繋がることができるのだ。

こうして、平将門ができなかった四季島統治『東西分治』を、頼朝は成し遂げた。

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佐奈田与一義忠を祀る神仏習合の霊社、『佐奈田霊社』(神奈川県小田原市石橋)

◯追記・愛甲氏

前記事、宮下氏族『金子氏』項目で書き忘れてしまったので、追記すると。

相模国の横山党愛甲氏は宮下氏族。1193年?、寒川神社副宮司・金子国太夫政家の三男秀隆が、木曽義仲と平家討伐の恩賞として、相模国愛甲郡一帯を頼朝から賜る。一般的には、小野氏族・横山資孝からの派生氏族とされているので注意。

愛甲村を拠点としていた愛甲三郎季隆は、『小野神社』(神奈川県厚木市小野)を崇敬していたという。厚木小野神社ではヤマトタケルや天下春命を祀っており、どこかで小野氏族と婚姻関係があったのかなと…(未確認)。

※因みに秩父平氏・秩父重綱の正妻が、横山党・小野氏女とされる。秩父は和同開珎のふるさと『和同遺跡』があり、秦氏をはじめ多くの渡来系の関与も指摘される。

※前記事で紹介した、梶原景時母方の横山氏にも小野氏族仮冒説あるので注意。

※前記事に追記しておきます。



ご先祖さまへの道は、相変わらず険しい。

以上、宮下文書視点で富士朝氏族の解明がどこまでできるのか?、東国氏族の『洗いざらい』を試みてきたわけだが、仮冒の謎がさらにカオスな状況になってしまった感もあり…。

まとめると

髙井氏や和田氏族が、平姓三浦氏の派生とされてしまっているように、秩父平氏や常陸平氏なども、桓武平氏と富士朝氏族混合による『キメラ家系図』の可能性あり。何処から何処までとは断言できないが、現状この中に、多くの宮下家や吉田家が内包されていると見ていい。また相模国や武蔵国には秦氏伝承が多いが、西国に都合の悪い宮下氏族らが、秦氏一色単に扱われている感もあり。

 

こうしてみると、世間的に知られている系図とは一体何なのだろうか?と思わずにはいられない...。宮下文書解釈では、この神話家系図と氏族家系図のほとんどが木っ端微塵、めちゃくちゃであることは留意せねばなるまい。振り返れば、12代景行天皇時代の天津神と国津神が強制分離させられ、ミワとカモが強制合体させられ、飛鳥時代の中臣鎌足や藤原不比等ですら、自らの祖先を把握できなかったのだから…(苦笑)。

それに加えて、平安末期〜戦国時代の戦乱期では、同族争いも珍しくはなく、同族であることがむしろ不都合となって仮冒していくケースも多い。また権力者が支配力の強化すべく、家臣の家に、当主家から婿入りさせたケースも多い。平姓畠山氏→源姓畠山氏のように、別氏族が名跡のみを継いでいる『訳アリ氏族』も多いようだ。

ご先祖さまを信じたいのは山々なのだが…。現代人(私を含めて)が、ご先祖さまに正確性を求めることは難しそうである。




※仕事と私用でしばらくは、更新ペースが落ちてしまいます。ごめんなさいm(_ _;)m

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