2022,3,6
宮下文書では、武蔵国の坂東平氏一強ではなく、清和源氏色の強さを浮き彫りにする。
一般的にも言われているのは...。もともと西国は平家の影響力が強く、東国は清和源氏勢力が強かった。これは源頼義・義家らの東征者に従った主従関係に起因しており、彼らが東征に成功すると、恩賞として土地を与えられてきたからだ。特に八幡太郎義家という人物は、自分自身の分け前さえも兵たちに分け与えたとの伝説が残っており、武家の棟梁・清和源氏に対する信頼は厚かった。現在の武蔵国でも、彼らの痕跡は多く残されている。
武蔵国司(武蔵権守)には、武蔵介・源経基や武蔵権守・多田満仲・満政・満季・頼貞・頼平・義家などの名前が残されている。しかし氏族としては土着は少なかった様で、その後の桓武系平氏の秩父氏・畠山氏などの台頭に押されて、その多くは西国へと消え失せたと思われているようだ。
※前記事のように、個人的には秩父氏・畠山氏≒富士朝系の可能性もあると思っている。
~目次~
<宮下氏族まとめ①>全国拡散された富士朝氏族の行方検証、金子・井出・誉田・土方・狩野・波多野・山県・蒲原・葛西氏。 - セキホツ熊の謎を追え!
<宮下氏族まとめ②>宮下氏族『吉田氏』とは?、都賀・塩谷・関戸・大久保・高井・宮本・西瑳・和田・真浦・愛甲氏ほか。 - セキホツ熊の謎を追え!
富士朝改革と、武蔵国の半分を領した柏木氏。
ただ…宮下文書を紐解くと、東国はホントに清和源氏の影響力が強かったんだと納得できる。
この平安末期に、富士朝は大規模改革を着手しており、清和源氏になった三浦氏を宮下家に婿入りさせた。三浦(源)義明の孫、源甚吾重成は49代宮下源太夫義仁を襲名し、父方賀茂次郎義綱、母方八幡太郎義家の遺伝子を併せ持っていた。実質的には、富士朝宮司=清和源氏の大宮司。これが鎌倉時代への幕開けと言っても過言ではないだろう。
一方で武蔵国に目を向けると、通説どおり、武蔵国は多田(源)満仲ファミリーの影響力が強かったようだ。ただ満仲の4子・源頼信以降は、通説とかなり違いが現れてくる…。
〜宮下文書版・源頼信の三子〜
- 頼義(八幡太郎・賀茂次郎・新羅三郎の父)
- 頼清
- 義季(柏木氏祖)
※wikipedia頼清では山県氏の祖とされ、宮下文書版山県氏は宮下氏族となる。
三男義季は、一般的には『頼季』の表記で知られるので注意。彼は、信濃国高井郡(上高井郡・下高井郡)井上氏の祖とされている。前記事のとおり、宮下文書版高井氏は宮下氏族となる。現在の長野県長野市豊野町『伊豆毛神社』から、千曲川を挟み南にあたる付近。9世紀の32代宮下記太明照の時代、富士朝伴氏の太田長太夫貞正と次男?・太田伴二郎真仁が信濃国へ移住、高井郡水内群の大領となっている。いずれにせよ、信州出雲があったと思われるこの地域が、とても富士朝色が強いのがわかる。
1051年以降、源義季が『前九年の役』に参戦、兄である頼義に従い東征する。その功績により武蔵国半分を賜る活躍をし、柏木右衛門佐義季を称した。
〜宮下文書版・源義季の三子~
①隼人正義長
久良岐(横浜市付近)・都築・多摩・橘樹・入間・前玉(行田市付近)を領する…武藤氏・首藤山内氏・比企氏(いずれも秀郷流)の所領とカブる?。
②二郎太輔頼盛
秩父・児玉を領する…秩父氏・児玉氏の所領とカブる?。
③三郎兵衛頼高
足立・豊島を領する…葛西氏・江戸氏・安達氏の所領とカブる?。
1083年頃、柏木義季の子・柏木義長は『後三年の役』に参戦、従兄弟にあたる八幡太郎義家に従い東征する。しかし敢なく戦死。義長一女の小桜姫と、八幡太郎義家・末子の義隆を結婚させ、武蔵国柏木氏を立て直し、名跡を継がせた。
程なく…小桜姫が病死、このとき小桜姫自身の子を残していたかは不明。義家の嫡流孫・為義の七女柏姫を後妻とし、改めて名跡を継ぐ。つまりこの時点で柏木氏は実質的に、八幡太郎義家の支流となっていたようだ。
1156年、柏木義隆は老いて『保元の乱』に参戦。通説では、ここで源為義と子の義朝が、両陣営に別れ対立しているのだが…。宮下文書では、どちらが後白河天皇軍か?崇徳上皇軍か?の記載がない。但し、南部の僧兵を討伐した功績により、従五位下伊予守に昇格しているようだ。義隆は甥の源為義軍に従軍しつづけ、敗走を繰り返し近江国に潜伏していた。敗走中に流れ矢に当たり戦死した。
wikipedia源義隆によると、義家の子では、一番の長寿で尊崇されていたという。
〜宮下文書版・柏木義隆の三子~
- 元若丸(山本前兵衛尉義経)
- 時若丸(大田中忠七郎・柏木忠七郎義政)
- 柏木冠者義兼
柏木義隆の嫡男・元若丸と三男は、そのまま近江国に残り、隠匿生活を送った。次男・時若丸は、母柏姫と、同軍・三浦義顕とその妻子と共に、近江佐々木秀義の館→熱田大神宮→東駿河菅沼村→富士朝・小室大多和の館へと逃れた。こうして三浦義顕(賀茂次郎義綱の孫)と妻(八幡太郎の孫・為義の娘)の子・源甚吾重成は、富士朝宮下家へ婿養子され、49代宮下源太夫義仁を称する。
時若丸は、49代義仁を烏帽子親として元服、柏木忠七郎義政を称して、のちの阿祖山太神宮・副宮司に取り立てられた。先代48代政仁の二女・小春を妻とする。
柏木義政は、密かに近江国の『山本の館』(滋賀県長浜市湖北町山本)に戻り、兄・山本義経を訪ねた。しかし運悪く、そこに平知盛が兵数千騎で攻め込んできていた。三兄弟は山本山城にて防戦(1180年)するも、結局は敗走して兄弟と別れ、義政のみが密かに富士谷へと戻ってきたという。残念ながら、山本山城に取り残された山本兄弟の行方は、記載されていない。
清和源氏の通説では、八幡太郎義家vs.賀茂次郎義綱、源為義vs.源義朝は、同族家族にして仲が悪く、対立していたハズなのだが…。宮下文書では、八幡太郎義家と賀茂次郎義綱の子孫はそれぞれ、互いに仲違いすることなく、婚姻関係もあり、支え続けていた。その証拠が義家と義綱の、遺伝子と愛の結晶として誕生した、富士朝49代義仁にあたるわけだ(苦笑)。こうして新生富士朝は、清和源氏に基軸をおくことになる。
…このあたりの矛盾点も、新たな研究の課題となりそうだ。
今回、かなり複雑な記述を、足早に纏めたものなので、素人オッサンでは説明しにくい部分もある。皆さんも、信じられないとお思いなら是非、宮下文書現代訳216〜217ページでご確認ください。
m(_ _;)m
近江国秦氏、瀬織津姫と気吹戸主の聖地。
次に、この琵琶湖東岸はどんな地域なのだろうか?…。前記事でも何度か触れたが、琵琶湖の北東岸は、古来から秦氏の影響力が強い地域であった。
◯『伊豆神社』(滋賀県長浜市湖北町速水)
〜御祭神~
- 天津日高日子番能邇邇芸能命
- 八重事代主命
- 波多八大宿禰波美臣命(羽田矢代宿彌)
〜境内社~
- 波彌神社(延喜式内社論社)
室町時代(延文年間)の創建。
山本山城東の河毛(カモではなく、カワケ)地区には、ニニギを祀る『伊豆神社』がある。速水地区や泉地区には加茂神社もあり、ホツマツタヱ版ニニギは『別雷命』とされている。
境内の延喜式内社論社・波彌神社には、波美臣の祖神・波多八代宿禰命が祀られている。これは宮下文書における富士朝副宮司の家系・羽田氏の祖で、武内宿彌子孫の羽田矢代宿彌のことで、古事記では、林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部之君は羽田矢代の子孫とされる。
◯『湯次神社』(長浜市湯次町)
〜御祭神~
- 建御名方命(健御名方命)
- 瀬織津比咩神
〜配祀~
- 弓月君
※長浜市大路町地区にも、御祭神が同じ同社が存在するので注意、どちらも遷座歴あり。大路町では例大祭が一日遅く、弓月君は配祀されていない。
式内社論社で、もともとは湯次神(弓月君のこと)を祀る神社とされた。弓月君は秦氏の祖神だが、中世には秦氏の氏神日吉神を合祀して、日吉社を称していたという。しかし、タケミナカタと瀬織津姫のコンビネーションは長野県松本市大野川『梓水神社』を彷彿とさせる…。
また、この地域で外せないのが、鎌倉〜 富士山〜伊吹山〜竹生島〜日御碕神社はレイライン。『伊吹山』と琵琶湖『竹生島』の関係性ではないだろうか?。ホツマツタヱのイフキヌシ(気吹戸主)はツクヨミの子とされる。『都久夫須麻神社』(滋賀県竹生島)の浅井比売命は、伊夫岐神社や伊富岐神社に祀られる多々美比古命の姪とされる。
さらには、近江国や尾張国から逃げてきた三浦義顕一行が、48代政仁に発見されるまで潜んでいた東駿河菅沼地区とは、現在の静岡県駿東郡小山町。…奇しくも鎌倉〜日御碕レイライン上である。まるで神に監視されているような…、熊オッサンがブログをサボりたくない理由の一つである。
みんな〜ご先祖さま見てるぞぉ(´(ェ)`)
山本義経と柏木義兼とは?。
話を山本義経に戻して…。
正直、山本義経を知ったのは宮下文書が始めてだった(苦笑)。本姓源氏、一般的にも源頼朝挙兵と同時期に並行して、近江国にて平氏に対して挙兵していたという清和源氏サイドストーリーがあるようだ。事実上は源義経と同名でもあり、第二の『義経』とも囁やかれている存在らしい。
wikipedia山本義経によると。新羅三郎義光の流れから派生した、近江源氏(清和源氏)と考えられており、甲斐源氏を背後にしたゲリラ的武将にも見える。彼らが近江国で暴れることにより、京都と越後平氏との物流を分断することが出来た。因みに越後平氏城氏は、常陸平氏・吉田大掾氏の傍系となる。これが関東勢と連携していたのか?は疑わしいが、結果として頼朝挙兵を後押したわけで、鎌倉幕府成立の影の功労者ともいえる。
吾妻鏡では山本義経は近江国から逃れることに成功し、土肥実平の手引により源頼朝に拝謁し厚遇をうけ、関東祗候を許されたとのこと。記述の日付に矛盾点があるので注意。山本義経の子供・錦部(錦織)義高は、宇治川の戦いにて義仲軍に従い戦死したとのこと。
この山本氏の解明は、とき同じく清和源氏義光流と言われている甲斐国武田氏・常陸国佐竹氏の成立にも繋がる部分があり。何かしら手掛かりがあるかもしれない。山本義経の系図は諸説あり、長男は箕浦義明という。
▲箕浦義明(ミのウラヨシアキ)
▽三浦義明(ミ ウラヨシアキ)
気のせいかな…???(笑)。
この義明が『箕浦冠者』を号していたというのだ。wikipedia太郎冠者によると、そもそも『冠者(かじゃ・かざ・かんざ)』という称号は、武士などに仕える従者・使用人トップを意味する通称、或いは元服して冠をつけた若者、弱輩者のこと。しかしなぜだか、この山本義経の系譜にはよく利用されている気がするのだ。詰まるところは、その地域のお頭のようなニュアンスだと考えるのだが…。宮下文書においては源義隆の三男・柏木冠者義兼にみられる称号。
因みに『近江源氏』とは、往々にして宇多源氏佐々木氏流のことを指しているが、wikipediaによると清和源氏版近江源氏は源満政や満季といった、源経基ルーツの氏族を指すこともあるようだ。奇しくもこの満政と満季は、多田満仲の兄弟にあたり、どちらも『武蔵守』経験者でもあるわけだ。やはり、バックグラウンドに武蔵国をチラつかせているのが興味深い。もしかしたら、鎌倉時代までに、武家の棟梁たる清和源氏子孫が、武蔵国の何処かに残っていた可能性もあるわけだ。
…権力者は、武蔵国に何か隠し事がある???。
振り返れば、柏木三兄弟の本拠地は武蔵国だったわけだ。一般的に武蔵国は桓武系平氏が大半を占めていたと言われているが、その洗脳を解く鍵が、この柏木氏にあるといえる。この時代の武蔵国にて、武家の統領・清和源氏の動向を探るには、実に欠かせない人物なのである。
しかしなぜだか、現代武蔵国には『柏木氏』に関係する伝承が殆ど無い…。ネット検索で唯一ヒットしたのが、早稲田大学図書館にて、『武蔵国柏木右衛門桜物語』なる江戸時代の小説が所蔵されている件。残念ながら出版者、出版時期は不明であるとのことだが、注目すべきは大田家蔵書とのこと。まあ、偶然なのかもしれないが…気になるところ。
また前記事のように、東京都杉並区下高井戸『下高井戸浜田山八幡神社』には、1457年(長禄元年)太田道灌が家臣・柏木左衛門に命じて創建した由緒がある。
藤原秀郷や平知盛も武蔵守経験者だが…。平清盛も武蔵国の知行国主説あり。鎌倉時代頼朝も大國魂神社経由で鎌倉入りしており、北条執権が代々武蔵守をしている。江戸時代も徳川直轄地になっており、家康御神体は大國魂神社を経由して日光入りしている。
今回思うに…武家社会における武蔵国や武蔵国府大國魂神社は、ちょっと過小評価されすぎていないだろうか?。
※地図はクラフトマップ使用。