セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

甲斐武田と武蔵徳川の架け橋、秦氏の天才・大久保長安。やはり大久保氏は宮下氏族か?

 

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大久保石見守長安陣屋跡のある、東京都八王子市小門町『産千代稲荷神社』



2022,3,26

前記事では、高井氏と大久保氏が宮下氏族である可能性を述べた。その後、この大久保氏をいろいろ調べていたら、興味深い人物を知ることになった。

大久保長安。

ああ…この人も『大久保さん』だなと…。

お恥ずかしながら、熊オッサンは今回初めて知ったのだが…、江戸時代の天下総代官と称されたかなりの有名人らしい(苦笑)。今回は、江戸時代初頭に武蔵国と甲斐国の架け橋となった大久保長安を、宮下文書の観点でご紹介する…。

(´(ェ)`)

 

〜目次~

 

大久保長安とは?。

大久保長安は甲斐武田の『地方巧者』であった。出自は、大和国春日大社で『金春(こんばる)流』という猿楽師をしていた家系。秦氏を宗家として大蔵流派・大蔵長安を称していた。後にも先にも猿楽師が代官頭となった先例は他にない。

当初は甲斐国武田氏に猿楽衆として親子で仕えるものの、譜代家老・土屋昌続の与力とされ、土屋長安を称する。治水事業や鉱山技術に関心を持ち、蔵前衆組頭田辺太郎左衛門に弟子入りして勉学に励んだ。こうして蔵前衆として取り立てられ、黒川金山などの鉱山開発や甲斐国税務に携わっていたという。補足すると、当時の甲斐武田の財政を支えていた『蔵前衆』『金山衆』『百足衆』の存在が大きかった。甲斐武田は鉱山が豊富であるが、そこには渡来系の鉱山系民族が開拓していった交流ルートがあるという。雁坂峠を越え、同じく鉱山が多い秩父や上野国にまで通じており、山国甲斐にとってはこの情報網や生命線(補給線)確保こそが急務であったからだ。

1582年(天正10年)武田氏が滅亡すると、『信玄衆誓詞(天正壬午甲信諸士起請文)』が濱松秋葉神社へ誓約奉納され、多くの甲斐武田遺臣が徳川勢力へと合流する。その中の甲斐国一の『地方巧者』として長安も、出頭を命じられる。この出頭に応対したのが、小田原藩二代目藩主大久保忠隣であった。これが縁となり長安の庇護を引き受け、大久保忠隣の与力に就任。忠隣が噂寄親となり、甲斐国一の地方巧者として徳川政権に従事していく。以降大久保姓を授けられて、大久保長安を称する。

甲斐武田時代に培った豊富なノウハウを駆使して、秩父・八王子で採った良質の石灰や建材を、江戸の開発のために供給していた。

 

小田原藩主・大久保氏の出自とは?

wikipediaにて大久保姓の出自を辿ると、宇都宮氏の庶流・武茂氏分流が、南北朝時代に武茂泰藤が三河国に移住し三河大久保氏となる。さらに宇都宮氏の祖は藤原宗円で、下野一宮『二荒山神社』においては神職者より上座の家系とも言われていた。大久保忠茂または大久保忠俊の代に、越前出身の武芸者にあやかり大窪(大久保)姓を称したという。

※これ...、もしかしたら木曽義仲に敗北した大窪鎌太の事であろうか?。また前記事で紹介した源義朝の第一郎党で、秀郷流山内首藤・小野寺氏と同族となる鎌田正家が、『大窪大窪鎌太館』(福井県丹生郡越前)に居館したとの説もあるようだが…。Wikipedia鎌田政清によると、彼の別名が正家という。

源頼朝父『義朝湯殿襲撃事件』、長田忠致は冤罪?。子孫は富士朝太神宮の宮伴だった。 - セキホツ熊の謎を追え!

前記事で述べてきたように、宮下文書版・大久保氏とは宮下氏族の可能性あり。4〜5世紀頃、陸佐志国県主となった、2代宮下源太夫明政の4王子・吉田四奈摩古男の子孫となる系統が何処かにいるハズなのだ。もし、この小田原藩・大久保氏がホントに宮下氏族であれば、宮下氏族と秦氏の強固な繋がりは江戸時代まで続いていたのかもしれない。さらには、全国の秦氏伝承の中に富士朝氏族が埋没してしまっている状態が浮き彫りとなる。宮下文書未読の歴史家たちは、『秦氏』と15代応神天皇子孫『宮下家』の区別すらつかないのだ。

宮下文書に記載の様にかつて三宅島は宮下島と表記されており、ウカノミタマ・ウケモチ・オオゲツヒメなど御饌津(みけつ)神による氏神的信仰をもち、日本全国の三宅(屯倉)に深く関わったとされる秦氏。彼らとアメノヒボコ子孫・三宅氏にも重複性が見えてくる。アメノヒボコ三宅氏=宮下(みやけ)氏族というのも、十分あり得る話だとおもうのだが…。

※但し、大久保氏にも多くの系統があるので注意。

<宮下氏族まとめ①>全国拡散された富士朝氏族の行方検証、金子・井出・誉田・土方・狩野・波多野・山県・蒲原・葛西氏。 - セキホツ熊の謎を追え!

<宮下氏族まとめ②>宮下氏族『吉田氏』とは?、都賀・塩谷・関戸・大久保・高井・宮本・西瑳・和田・真浦・愛甲氏ほか。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

長安と八王子権現七王子?

長安がまず着手したのが、武蔵国から甲斐方面の玄関口となる八王子のまちづくり計画であった。安土桃山時代1590年、北条氏照の留守中に豊臣軍が襲撃、城下町であった八王子周辺(現在の東京都八王子市元八王子付近)は歴史的残虐行為があり、荒廃した街と治安回復が急務であった。合戦時などに軍兵駐屯舎とすべく、甲州街道沿いの平地に『陣屋』化して引っ越しさせる計画が持ち上がる。具体的には、甲州街道を基軸として、千人同心屋敷・代官屋敷・寺町などを計画的に整備。甲州街道は朝日の登る真東へ江戸方面へ、八王子追分町にて35度南に屈折させ、高尾山と富士山の方角へ配された。さらには富士森(現在の八王子市台町・富士森公園南)に駿河国本宮浅間神社を勧請して、浅間神社と富士塚を建てる。

地図上で確認すると感動を覚える。追分町で『富士山』へと35度屈折させた甲州街道だが...。そのまま真っ直ぐ陣馬街道を西へ向かうと、信玄5女松姫(信松尼)が織田家に嫁げぬまま、和田峠を超えて脱出し、未婚のまま出家したとされる深沢山『心源院』がある。まるで...大久保長安の人生を体現しているかのような交差点ではないか(苦笑)。

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大久保長安の人生交差点?。

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現在の東京都八王子追分町、右側甲州街道と左側陣馬街道の交差点

 

さらに交差点近くには...、富士朝の象徴神クニサツチを祀る『日吉八王子神社』があるのだ。

◯『日吉八王子神社』(東京都八王子市日吉町)

〜御祭神〜

  • 国狭槌尊
  • 大山咋神
  • 八王子八柱神
  • 素戔鳴尊

 

境内由緒によると、創始は940年に弘法大師の御神像を造立して創始した。

1575年、北条氏照の命により滋賀県大津市の日吉山王七柱中・八王子権現(国狭槌尊と同神)を八王子城に勧請し『日吉山王』と称した。

1590年、豊臣軍により八王子城が落城。

1595年、旧北条方にいた嶋之坊俊盛(本山派修験者)は徳川家康の許諾を得て、現在地の嶋之坊宿(日吉町)に八王子城八王子権現を勧請し、日吉山王八王子神社の社殿を造営した。

宮下文書三輪本現代訳と比較してみると。宮下文書版タカミムスビは、『7人の御子』をもうけたと記載されている。

〜タカミムスビ7王子〜

△第5御子クニトコタチ(農立比古尊)

▲第7御子クニサツチ(農佐比古尊)

残念ながら他の王子は記載なしだが…、上記の神社由緒、日吉山王七柱中・八王子権現(国狭槌尊と同神)と一致する。でも、八王子なのになんで『7柱』なのだろうか...???。少なくとも、滋賀県大津市『日吉大社』の背後にある『八王子山』は、クニサツチ信仰を内包しているとも考えられそうだが…???。

実際、富士朝神には8人兄弟由来の神々も多く、ニニギ・タマノオヤ兄弟は5男3女八王子。山の統括オオヤマツミも末の妹・月結毘女命を除けば八兄弟となる。宇佐八幡と縁が深い、海の統括エビスのワダツミ系統嫡孫・豊玉男命御子も8子あった。最近思うに、八幡神や八王子権現は、特定の御神霊だけでは無く、皇祖の発祥である『8』という数字に託して、創生の意を持たせているのではないだろうか?。ニニギの教育係をアマテラスから任された牛頭天王(スサノオ=諡・八佐加毘古命)も、深層的な意味では同義であると見る。スサノオは宝剣八本と八太羽鏡(ヤタハノカガミ)を製作して、阿祖山太神宮に献上している。宮下文書記載を厳密に言うと、宝剣八本を製作して、8本を太神宮に奉り、一本を授けてもらい所持していたとのこと。つまり、7本奉納されている。

八幡神由来と深く関係しているオオヤマツミ系統の月結毘女命御子・豊玉男命8子も、宇佐の小高い岡に『日と月と波を描いた8本の白旗』を掲げた旨の記載がみられる。

 

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東京都八王子市日吉町『日吉八王子神社』

長安、その他の功績。

話が八王子権現に逸れたが、大久保長安にもどして…。

その後、富士山信仰を体現したような街づくりが徳川家康の目に止まり、非凡な才能の持ち主と称され大出世する。以降、家康の側近として一翼を担い、石見銀山をはじめとする全国の金銀山の統轄や、街道の整備、一里塚設置など大事業を任されていた。里程標・間尺を制定した張本人である。そもそも江戸期の多摩地域は、幕府の直轄領や旗本領で、八王子には関東各地直轄領の代官が18名駐在する特異な地域であった。地域の開発整備は実質、代官頭の大久保長安に一任されていたのだ。

 

〜里程標・間尺〜

  • 1里=36町
  • 1町=60間
  • 1間=6尺

 

さらに1590年徳川氏の関東入国に伴い、武田遺臣・小人頭ら250人を中核とした下級武士組織化にも尽力していた。これが1600年には数班にグループ分けされ10組1000人となる。これが幕末までに、『八王子千人同心』と呼ばれる由来となる。

リーダー千人頭は、槍奉行として八王子に居住し、同心らも多摩地区に土着した。結果、多摩地域には忠幕派が増え、幕末の新撰組誕生の基盤ともなった。彼らの目的は、武蔵国境警備、江戸火消役、日光火之番など様々にわたり、皮肉にも多摩地区の治安がみごと回復された。

 

『大久保長安事件』と関係者の処刑

ただ、やはり…金山銀山が絡むと人間はダメになるらしい。

甲斐武田時代に長安が関与した黒川金山にも、前時代の戦国時代に起きたとされる悲劇があり、『花魁淵』で遊女50人程が金山所在地の口止めのために惨殺されたとされる。現在も、大殺戮のあった八王子城とともに関東屈指の心霊スポットともいわれているが…(惨殺事件には長安は関与していないので注意)。

晩年の長安も、金欲が絡んでいたのか?。公的視察にも女性を同行させたり、出張先屋敷を贅沢に改装したり、庶民から反感を買ったこともあったようだ。彼の死後、生前の不正蓄財の罪状により、墓所から腐敗した遺体が掘り起こされ、死体から斬首され晒し首となる異例の大スキャンダルとなる。

腹心であった戸田藤左衛門、山田藤右衛門、米津正勝は阿波国配流の上処刑。かつて噂寄親であった大久保忠隣や石川康長らが連座して重い処罰(改易)を受けている。奇しくも、処刑されたのは家族7人の息子たちだ…(震え声)。

 

〜大久保長安の7子~

長男・大久保藤十郎

次男・大久保藤二郎

三男・青山成国

四男・大久保運十郎

五男・大久保藤五郎

六男・大久保権六郎

七男・大久保藤七郎

※このほか、家族家臣や下役が多数斬首された。

『藤(ふじ)』がすきなんだな。

大久保忠隣の改易については、本多正信の讒言という説もある。wikipedia本多正信によると、『大久保家留書』によると、家康後継者を巡って大きな対立があった。井伊直政は娘婿の松平忠吉を支持、大久保忠隣は秀忠を支持。一方で本多正信は結城秀康を支持していた。つまるところは、前時代の藤原政治・北条執権政治らによる他氏排斥と本質は同じ、ライバルを蹴落とすための讒言とも言われる。遺伝子や血筋のこだわりにも負の側面がある。

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東京都八王子市元八王子町『八王子神社』

権力者たちは、富士朝の影に怯える?。

長安は当然、故郷である甲斐国に哀愁を感じており、甲斐武田への恩返しもあったハズだ。信玄5女・松姫や、信玄孫である甲府長延寺2世住職の顕了(武田信道)を、八王子千人同心武田遺臣たちの精神的支柱として支え続けていた。ただ、そんな懐古主義が徳川政権の脅威となり、『もしかして、甲斐武田氏再興を企てているんじゃないか?』と、周囲に誤認させた可能性もありそうだ。

また宮下文書を知った上で、このスキャンダルを掘り下げて見れば…、着眼点がガラリと変わってくるのも面白い。熊オッサンが宮下文書補正フィルターで彼らをウォッチしてしまうと、秦氏や大久保氏に富士朝の影が付き纏ってくる。『もしかして、富士朝再興を企てているんじゃないか?』と、富士朝の復興を徳川は恐れていたのかもと妄想してしまう…。歴代権力者にとっては、それは甲斐武田氏再興よりも恐ろしいことを意味したかも。。

(´(ェ)`)

 

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