セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

源頼朝と東国氏族カンパの富士朝再興計画、北条に狙われた和田・三浦・畠山氏滅亡の後先。

f:id:sekihotu:20220402132217j:plain

北東本宮小室浅間神社古宮境内『泰山府君大神』(山梨県富士吉田大明見)

 

2022,4,2

今回は、源頼朝による『阿祖山太神宮』の具体的な再建内容を纏めた。

(´(ェ)`)

~目次~

<宮下氏族まとめ①>全国拡散された富士朝氏族の行方検証、金子・井出・誉田・土方・狩野・波多野・山県・蒲原・葛西氏。 - セキホツ熊の謎を追え!

<宮下氏族まとめ②>宮下氏族『吉田氏』とは?、都賀・塩谷・関戸・大久保・高井・宮本・西瑳・和田・真浦・愛甲氏ほか。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

東国氏族たちの悲願達成へ。

まず、おさらいすると。

そもそも宮下文書における神代、クニトコタチ・クニサツチ兄弟には、日本全国の四季島統治『東西分治』という盟約をもっていた。この踏襲を目指して、2世紀ヤマトタケルと、4世紀応神皇子・大山守皇子孫宮下氏族らの尽力により、段階的な東西分治時代、富士山以東『吾嬬惣国』が爆誕していた経歴がある。

800年延暦噴火以降、多くの富士朝氏族が関東圏へ避難・拡散していった。平安末期までに、富士朝由来の仮冒氏族が大勢潜んでおり、10世紀の平将門はこの状況を利用して、『東西分治』を再現させようと画策していた。しかし結果として、腐敗しきった貴族政治に失望しながら、西国天皇勢力の従属の道を選んできた。

1180年源頼朝は挙兵協力の見返りとして、東国氏族たちに、800年延暦噴火を歴て衰退しきった富士朝再興を約束した。これが、坂東武士たちの心を捉える事が出来たのではないかと…。なかでも、宮下氏族の同族であり、清和源氏+桓武平氏の遺伝子を併せ持つ三浦氏族の説得力は大きかった。当初は、それぞれの所領個別の利害・思惑から衝突していた東国氏族たち、畠山氏・上総氏・梶原氏・大庭氏・武藤氏らの心をも掴み、富士朝信仰のもとで大合流を果たす。時代の大きなうねりとなる。

1185年壇ノ浦の戦い後、仇敵であった平家が滅亡。頼朝が、関東圏内に独自政権を樹立、国政を整えたのち、予てから約束されていた富士朝再興計画に着手する。

f:id:sekihotu:20190303182055j:plain

二所明神・阿祖山太神宮比定地とされる『北東本宮小室浅間神社・古宮』



源頼朝による富士朝再興計画とは?。

神奈川徐福研究会、三輪本現代訳『神皇紀』218ページ以降参照。

 

1188年1月16日、源頼朝による富士朝再興、『二所明神』の精進が開始される。

1188年1月22日、頼朝二所明神を参詣。警護は甲斐・駿河・伊豆の家人。25日帰府。

1190年1月20日、頼朝二所明神を参詣、富士谷一宿、21日帰府する。

1190年2月22日、三浦介義澄による諸願成就の礼参。富士大菩薩立願の依頼状を届ける。

1191年2月22日、頼朝二所明神を参詣、24日帰府。

1192年8月17日、御台所平朝臣政子(北条政子)、二所明神を参詣、満願成就の参礼。

平家討伐完了を感謝する『富士山諸大菩薩立願はたし事』書状を、49代義仁に届ける。

 

1193年5月8日、富士谷小室加吉駅の三浦寺を頼朝本陣、萬蔵寺を息子・源頼家の本陣とし、12日より『巻狩』をはじめる。14日午の刻の相模河原、頼家は大鹿を射止め、仁田四郎忠常が大将軍に馳せ参じて報告した。昼食中であった頼朝が駆けつけ、御祖代山桃沢奥にて頼家と会う。息子の成果を称賛して出迎え、鎌倉にいる北条政子に急報、翌日15日は祝宴を張った。三輪本現代訳によると、『…文を書いた泉水を頼朝の硯水と唱え、相模河原を鹿留河原と唱えた』とあり。これが山梨県富士吉田市大明見『硯水不動尊』であり、都留市鹿留『鹿留川』に比定される。さらに、周辺都留市に『夏狩』という地名が残っているようだが...、関係は不明。

1193年5月15日、先日の巻狩の成功の為、江間小四郎義時(2代北条義時)を太神宮への使者として神餅奉納し、家人たちもこれを分ち賜われる。頼朝は『井手の館』へ入る。

1193年6月10日、頼朝は家人護衛を連れ、大多和館へ入る。阿祖山太神宮を参拝、その後は小室館へ入り、阿祖湖で釣りをする。日々、周辺の名所旧跡を視察して、21日に帰府。

1193年8月3日、頼朝は太神宮神領を追加制定するため、79代宮下義仁らに周辺の由緒地を調査させた。その上で、太神宮神領・社家領の富士山東西南北二十里四方を『免賜』し、その区画を定めるように命じる。このとき三浦寺と萬蔵寺の寺領も、追加制定されている。

 

〜富士十二郷〜

〈表五郷〉

  • 御原郷(後の村田郷)
  • 富士郷
  • 木原郷
  • 御殿郷
  • 駿河郷(後の加茂郷)

〈裏七郷〉

  • 都留郷
  • 宇津郷
  • 鳴沢郷
  • 福地郷
  • 大原郷
  • 河口郷
  • 太田和郷

 

〜免賜対象者~

  • 太神宮大宮司・49代宮下源太夫義仁とその三兄弟
  • 柏木伊予守(源)義隆の次男・柏木忠七郎義政
  • 渡部美濃守綱広の嫡男・庄太郎綱高
  • 大森駿河守頼茂の嫡男・茂二郎頼重
  • 天野遠江守景信の三子・源太郎景国
  • 武内紀助蔵長定の次男・兵三郎長貫
  • 長田藤七郎資家の嫡男・源二郎忠利

 

〜書状の署名(花押あり)~

1193年8月3日

  • 北条遠江守時政
  • 因幡守大江広元
  • 三浦荒二郎義澄
  • 畠山二郎 重忠

武蔵国清和源氏はどこに消えた?、富士朝副宮司柏木氏と山本義経と柏木義兼。 - セキホツ熊の謎を追え!

源頼朝父『義朝湯殿襲撃事件』、長田忠致は冤罪?。子孫は富士朝太神宮の宮伴だった。 - セキホツ熊の謎を追え!

 1194年3月15日、前述の富士山東西南北二十里四方を、さらに12郷に区画し、さらに38庄に区分するよう命じる。この郷に郷司、庄に庄司を置き、統括者として総地頭(大地頭)を置く。これは『君の仰せ』により、政所、問注所が免定を申し付けるものとする。

 

〜書状の署名(花押あり)~

1194年3月15日

  • 政所別当

前因幡守中原朝臣広元(大江広元)

前下総守源朝臣 那政(?)

令民部少蒸藤原 行政(二階堂 行政)

  • 案主

鎌田新藤次   俊長(鎌田政清の子)

  • 知家事

岩平小中太中原 光家(中原光家)

  • 問注所執事

中宮太夫属三善康法師(三善康信)

  • 侍所別当

左衛門少尉平朝臣義盛(和田義盛)

  • 所司

梶原平三朝臣 平景時(梶原景時)

f:id:sekihotu:20220402133024j:plain



富士朝再興に、カンパを募る。

同日1194年3月15日、頼朝の命令により、和田太郎義盛畠山二郎重忠が、二所七廟明神再造営の普請奉行(造営責任者)に任命される。

また、江間(北条)小四郎義時三浦介義澄が寄付奉行に任命され、将軍・夫人・御家人国司291名から、寄付金品を集めさせた。東国氏族にとって、いかに富士朝再興が望まれていたかが伺える。

▲源頼朝  砂金36両 白米三石

△北条政子 砂金7両 白布12反

 

  • 武蔵守義信朝臣(平賀義信)
  • 参河守範頼朝臣(源範頼)
  • 遠江守義定朝臣(安田義定)
  • 相模守維義朝臣(大内惟義)
  • 信濃守遠光朝臣(加賀美遠光)

各砂金8両づつ。以下国司・家人が等級に従い寄付。

 

さらに、和田義盛と畠山重忠の両名が、表参道となる新道『鎌倉往還源氏通』を整備した。コースは、太神宮から阿祖山峠仁王門〜山中駅(水口駅)〜古沢駅(駿河駅)〜酒匂駅〜大磯駅〜鎌倉までの全長20里。さらに、三浦義澄(三浦義顕の弟、49代義仁の伯父)と畠山重忠が祭典奉行となり、上古からの由緒ある日にしたがって、阿祖山太神宮の季節の五大祭を制定した。

 

〜大祭五箇日~

  • 4月1日『久摩晴れ祭り』
  • 4月25日『桃沢桜谷の花見祭』
  • 5月25日『富士山鎮火祭』
  • 9月9日『山野菊里の花見祭』
  • 12月9日『寒梅青木神宮の現れ祭』

 

こうしてみると、やはり畠山重忠のポジションが気になるところ…、富士朝祭祀のスペシャリストだったのだろうか?、それとも単なるビジネスライクな関与なのだろうか?…。前記事でも紹介したように、彼らの祖は秩父平氏だが、秩父吉田郷を本貫にしており、宮下氏族吉田家の可能性あり。同族とされる葛西氏族は宮下氏族、大山守皇子の第10王子益田日高彦の子孫と明記されている。注目すべきは…前述書状に『平姓』がつかないところか…。wikipediaによると彼は、勇敢で、清廉潔白、『坂東武士の鑑』と称されていたという。

 

f:id:sekihotu:20220402132540j:plain

現在も古宮の入り口には『古屋川』が流れている。

富士朝『二所明神』とは?

まず、wikipedia等と宮下文書では全く違うので注意、『二所詣(もうで)』『二所参詣』とはなにか?。

一般的には、毎年正月に鎌倉幕府将軍が、伊豆山権現と箱根権現を参拝することで、これに三嶋大社を加える場合もある。伊豆国に配流されていた頼朝が、これらを崇敬していたことは確かであろう。しかし、これを『二所』と限定しているのは、富士朝阿祖山太神宮の所在地を隠すためのカムフラージュではないかとみている。

宮下文書における『二所明神』、または『二所七廟明神』とは、阿祖山太神宮そのものを指し、参詣は将軍家の正月恒例行事であった。800年延暦噴火後、高天原の古屋川を挟んで、阿祖山太神宮大宮司(大山守皇子子孫)と副宮司(隼總別皇子子孫)の館があり、世間ではこれを『ニ所明神』と呼び周知されていた。

 

〜二所明神の呼称の由来~

▲大宮司かつ寒川神官の館『大多和の館』

△副司かつ神部山神官の館『古原長江館』

 

古屋川というのは、現在でも山梨県富士吉田市大明見『北東本宮小室浅間神社』旧跡の前を流れている小川のこと。この大多和の館と、のちの57代富士三浦左京亮義勝が育った『大多和城』が、はたして同一なのかは不明。宮下氏族である三浦義勝は、幼名として『大多和六左衛門』を称していたが、由来が富士朝なのは確かであろう。因みに、富士朝色が強い、栃木県栃木市『三毳山(みかもやま)』の南麓にも、藤岡町大田和という地名が残っている。

『富士の巻狩り』『曾我兄弟の仇討ち』の関係とは?

一般的に『富士の巻狩り』は、1193年(建久4年)5月8日に行われた大規模な夏狩と言われている。頼朝が権威向上のため多くの御家人を集め、吾妻鏡曰く『富士野藍澤の夏狩を覧んがために駿河国に赴かしめたまふ』とあり。結局『藍沢』地区だけで、5月15日〜6月7日滞在し、5月28日には富士野神野(現在の富士宮市)にて、日本三大仇討ちの一つ『曾我兄弟の仇討ち』事件が発生している。

宮下文書における『巻狩』は、8日に駿河藍沢地区をスタート→加後坂峠→宇津野→御祖代山(杓子山)に狩り込み、阿祖谷へ入っていった。12日以降、頼朝は三浦寺(西都留郡西桂町・福善寺)を本陣とし、頼家は萬蔵寺(?)を本陣とした。14日には頼家が、鹿留地区にて、大鹿を仕留めて終了している。

以降6月21日までは、実質的に頼朝による富士朝視察となる。

 

『曾我兄弟の仇討ち』については、宮下文書記載は一切なし。『夜討曽我』では、当事者の伊東(工藤)氏族の兄弟を、畠山重忠と和田義盛が支援しており、静岡県富士宮市狩宿『旧井出館跡(伊出の屋形)』にて発生したと推測されている。宮下文書のスケジュールで当て嵌めると、やはり宮下文書版『井手の館』滞在中に発生したと思われるのだが...。ただ富士山西麓(現在の富士宮市)に、頼朝が長期滞在していた理由がイマイチ判らず。長田忠致による『義朝湯殿襲撃事件』と同様に、後世の創作の可能性も十分ありうるだろう…。

 

※因みに、富士朝氏族で大山守皇子第3王子で、宮下氏族副宮司・井出畑志津治の子孫・井手氏は、後世南北朝時代の楠木正成の母方に当たる。

※因みに、一般的に伊東(工藤)氏同族とされる狩野氏は、大山守皇子の第6王子・榛原須留賀彦の子孫であり、宮下氏族となる。

楠木正成は本姓橘氏、母方は宮下家派生の富士朝神官・井出氏だった!!。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

f:id:sekihotu:20220402134252j:plain

『巻狩』に関係がある、山梨県富士吉田市大明見『硯見不動尊』

 

3代将軍・実朝以降の『将軍家代参』とは?

初代頼朝についての記録はこれ以上ない。しかし3代目以降も、将軍家による『二所明神』参拝が継承されたことが確認できる。1212年(建暦2年)3代実朝は二所明神精進を開始、毎年正月の参拝をしていた。1215年については確認が取れないが、前年1214年には9月22日〜10月3日の2回目の秋参拝を実施している。1219年(建保7年)1月27日、3代実朝が八幡宮参拝中に襲撃され死去。日時において宮下文書とおおよそ一致している。



〜2代実朝の最後、以降の将軍家代参〜

1217年(五丁丑年)正月28日、実朝二所明神を参詣、2月5日までの長期滞在先をしていた。

1218年(六戌寅年)正月16日、実朝二所明神を参詣、29日帰府した。途中理由もなく御馬一頭がにわかに死んだ。

1219(建保7年)正月大将軍は襲撃され、なくなった。実行犯等の記載なし。

 

この事件以降の二所明神参拝は、主に藤原将軍家参拝や将軍家代参としての名義となる。ただ、北条氏の厳しい監視下にあった事は間違いないであろうと...。

1244正月17日、5代征夷大将軍・藤原頼嗣による二所明神参詣 、北条左親が警護をし、2月3日帰府する。

1244年5月22日、駿河式部太夫家村(三浦家村)が将軍家奉幣使として二所明神代参。

1245年12月、能登前司光村(三浦光村)が、将軍家代参使として二所明神参拝。

1246年、三浦介盛時、新田参河前司頼氏(新田または世良田頼氏)が、二所明神代参。

1247年三浦宗家が滅ぶ(宝治合戦)

1252年8月17日、征夷大将軍宗曾親王が、祈願使三浦輔盛時を代参、神馬を奉納する。宝治合戦以降は将軍家参詣は、基本的に中止。富士朝再興をリードしてきた、和田義盛・三浦義澄・畠山重忠の家系が途絶えたことも影響しているのではないか?。

1252年8月25日、祈願使武藤左衛門尉景時?なる人物(元寇氏族の少弐氏?)が代参。御剣と神馬を奉納する。

1253年正月26日、奉幣使武蔵守朝臣?なる人物が代参する。

1253年2月1日、陸奥守掃部助実時(北条実時)と武蔵守朝臣?が代参する。

1256年、奉幣使右近太夫将監時定朝臣(北条時定)が代参する。

1257年、正月16日奉幣使遠江守陸直朝臣?が代参する。

以下略、『代参』を中心に鎌倉時代末期まで続く…。




こうしてみると、富士朝『阿祖山太神宮』が国政の表舞台に返り咲いた期間は、とても短いものだった。後世に示された北条氏の編纂物『吾妻鏡』と、『宮下文書』を対比させれば、北条氏が富士朝を隠そうとしていたスタンスが浮き彫りとなる。彼らはこれらの富士朝参拝を、後世に語り継ぐつもりは毛頭無かったのだ。

1333年、鎌倉幕府が消滅、大宮司57代富士三浦左京亮義勝が新田義貞妹を娶り、ゲリラ的に尹良親王ら南朝軍を支援していた。しかし、これを北朝と足利幕府の知るところとなる。

1404年2月2日、足利軍3度の総攻撃の末、富士朝は陥落する。

1408年、富士十二郷始め太神宮領は千葉兼胤に没収され、上杉民部太輔顕憲(上杉憲顕のことか?)にあたえられる。

結果として富士朝は、北条得宗家と足利将軍家という2つの時代を通じて、政府から徹底的に隠蔽・弾圧されてきた。以降の富士朝宮下家は、権力者たちに見てみぬふりをされ、アンダーグラウンド的な存在として、生きながらえてきたようだ…。

奇しくも、このあと日本は戦国時代を迎える…。

f:id:sekihotu:20200704154112j:plain

富士朝は、南朝皇子の隠れ家でもあった。古宮にある『南朝英霊神社』。

<南北朝時代>三浦義勝と足利直義、富士朝ゲリラ戦の悲しい末路。 - セキホツ熊の謎を追え!

室町幕府は見えない敵の富士朝に攪乱されていた、尹良親王『田貫の長者』の真相。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

『和田合戦』のホントの理由?。

1213年(建暦3年)に和田合戦が起こるのだが、和田義盛は敗北、義盛の子供である兄・常盛と弟・朝盛が難を逃れ、富士朝へ逃亡したという。wikipediaでは、朝盛は常盛の『子』とされているので注意、甲斐国へ逃れ小野氏族横山氏と自害しているハズの人物だ。

補足すると、宮下文書版和田氏は平姓三浦氏族ではなく、宮下氏族吉田家子孫。2代宮下源太夫明政の第5王子で、不佐国県主・吉田五男摩古彦の子孫となる。彼らが富士朝に逃亡したのも必然なのかもしれない。しかし前述した書状には、『平朝臣』を称しているわけで、…正直困惑している。

(´(ェ)`)

1228年(安貞2年)親鸞上人が阿祖谷を訪れ、三浦寺にて修行されたとのこと。この前後に、和田新兵衛尉朝盛や新座衛門尉常盛らが、萬蔵寺寺領・草庵阿弥陀堂に潜んでいたという。宮下文書には、なんと…和田常盛が、親鸞上人に打ち明けたという貴重な証言が記載されている。

 

〜三輪本現代訳『神皇紀』p230要約〜

『私の父・和田義盛は、頼朝将軍家を守護しようと努めた』

『将軍家子孫に天下を治めさせるには、北条一族を滅ぼさなければならなかった』

『遂に、鎌倉で挙兵した』

 

親鸞はこれに深く同情して、常盛を弟子とし入道させた。これらの証言をかけ合わせてみると、やはり源氏滅亡と、北条氏の他氏排斥による台頭は無関係ではあるまい…。梶原氏・和田氏・畠山氏・三浦氏、北条に潰された氏族たちの共通項は、頼朝の信任厚く、富士朝再興と関係深い『親派』であった。前記事でも紹介した、長田氏・鎌田氏も加えるべきだろうか…?。

源頼朝父『義朝湯殿襲撃事件』、長田忠致は冤罪?。子孫は富士朝太神宮の宮伴だった。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

〜個人的な妄想~

◯梶原氏…祖先鎌倉氏族は宮下氏族大森氏と婚姻関係があり、富士朝氏族の多くが移住してきた高座寒川に屋敷を構えていた。前述した書状には『平景時』の花押があり。

◯和田氏…平姓三浦氏族ではない、宮下文書における宮下氏族と記載されているのだが…。ちょっと不安...。

◯三浦氏…男系清和源氏、宮下氏族とは婚姻を重ね、遺伝子的に非常に近い。

◯畠山氏…前記事のように、なんか…富士朝氏族っぽい気配を感じる。

おわりに

宮下文書を読んでから、ホツマツタヱや吾妻鏡を読んでみると、祖霊信仰と富士朝なき世をめざして描こうとしているのが、ありありとわかる。現在までの権力者たちは、富士朝を後世に伝える気持ちなど毛頭ないのだ。むしろ祖霊信仰に無礼な行いをし、『蝦夷』として撃退してきた。自らのルーツに感謝を捧げる祖霊信仰である性質上、都合の悪さが露呈するだけだろう。wikipediaによると、『吾妻鏡』とは北条得宗家主体の編纂物であって、日記ではないとのこと。北条家を正当化する曲筆が多く、ファンタジー的な描写が鼻に付く場合もある。しかし現在の状況下では、歴史家が鎌倉時代を知る上では、この吾妻鏡に頼らざる得ない状況なのだという。記紀や吾妻鏡を疑う人たちは決して少数派ではない、そんな中、宮下文書の役割は大きいと思うのだが...?。


悔しいのは…、『福善寺(三浦寺)』の写真を無くしてしまった。フォルダーとクラウドとSDカードに、もう何万枚と画像があるので正直どこにあるのか見当もつかず、ストレージもパンク状態。時間が取れればパソコンの画像整理をしないと...。

(´(ェ)`)

f:id:sekihotu:20220402144528p:plain

古宮周辺には、今も小さな神社が点在する。

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

 

www.sekihotu.com

 

www.sekihotu.com

 

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com