セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈レイラインの美学⑰〉酒折宮連歌に隠された真実、日本武尊と山県大弐は新治・熱田の架け橋。

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ヤマトタケル伝承地、埼玉県秩父市吉田石間『城峰山』から甲斐吉田を望む。


2022,4,17

前記事より。ヤマトタケルや源頼朝による富士朝再興の影には、尾張国との遺伝子的な繋がりがあった。そこで今回は、尾張と富士朝との接点をいろいろ調べていたのだが…。結論からいうと、尾張〜酒折宮〜新治はレイライン上にある(笑)。

ヒントは『酒折宮連歌』、キーワードは新治・酒折宮・熱田だ。

(´(ェ)`)

~目次~

源頼朝と東国氏族カンパの富士朝再興計画、北条に狙われた和田・三浦・畠山氏滅亡の後先。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈前記事補足〉鎌倉幕府と富士朝再興の舞台裏、富士朝から尾張ルートの重要性。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

富士朝大宮司家と尾張の変遷

 

宮下文書によると、富士朝と尾張の繋がりは、神代から。

紀元前241年、7代孝霊天皇任命の区分時代、尾羽張国から初代大宮司に任命されたのが、スサノオ68代孫の尾羽張田彦命であった。奇しくもこの時代徐福勢力が来訪し、富士朝高天原に客人勢力として迎えられた。

尾張はもともと、日本総社(津島のこと)のスサノオ子孫の影響力が強く、ホツマツタヱ版ヤマトタケルはスサノオの転生を称し、草薙の剣を所持していたわけだ。その後170年(成務40年)7代富士朝大宮司まではスサノオ系統が継承し、オオヤマツミ系統が神職をサポートしていたようだ。8代大宮司は、一旦オオヤマツミ系統に戻っているが…、その後の3〜4世紀から応神天皇大山守皇子系統『宮下家』に淘汰されてゆく。



富士朝と尾張のコンビネーションが、東国改革を始動させる。

 

1〜2世紀景行年間は、欠史8代からの仕来りが総じて崩壊した時期であり、藤原物部系統と蘇我大伴系統の両臣システムもこの時期終焉を迎えた。異例なことに宮下文書には、12代景行天皇の女性絡みの非道な振る舞いの記載まであり、諸国が不信感を募らせていたのが伺える。

そこで東国阿族らは、『神都復旧の議』を計画、新たなる四季島統治『東西分治』という東国独立をめざした。太神宮副司であるオオヤマツミ72世孫・阿祖彦王命を総元帥として、タケミカヅチ・フツヌシ・前玉命らの東国子孫阿族48将たちが決起した。

…結果は、西国ヤマトタケルと尾張勢力の東征により、惨敗となる。

 

〜東征後の東国の変化〜

  • 『吾嬬惣国』の誕生
  • 先住民勢力『阿族』支配の衰退
  • 客人勢力『秦氏』の権力拡大
  • 阿祖山太神宮大宮司による直接統治

 

しかしこうして見ると、東国民の悲願『東西分治』が達成されているわけで、内心喜んだ阿族もいたのではないだろうか?。

阿祖彦王命ら首謀者は処刑されたが、その阿祖彦王命の七子は、スサノオ76世孫で7代福地記太夫の婿養子に受け入れられ、8代福地佐太夫命を大宮司を継いでいる。このあたり、処罰の甘さが目立つ…。実は、7代福地記太夫の妻が、尾羽張中島松子島の記太夫神心雄命の長女『中島根媛命』であり、ヤマトタケルの妃の美夜受媛(宮簀媛)の叔母にあたる。東征中には、彼女の娘の福地媛の分娩・子育ての世話役となっていた。

宮下文書における尾張氏は、男系ヤマトタケル、女系ウガヤフキアエズの弟・天別天之火明命の家系。ウガヤフキアエズ朝にも何度か立后される名家であった。前記事のように、後世鎌倉時代の源頼朝の台頭まで、この尾張との絆は連綿と続いていたことになる。

また興味深いのが、平安末期48代宮下記太夫政仁が、源甚吾重成を養子に向かえた時のシチュエーションと酷似している。政仁の妻も尾張勢力・熱田大宮司尾張源太夫忠住の七女を嫁としたうえで、養子をとっていた。

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富士朝8代大宮司は首謀者・阿祖彦王の息子だった。

 

甲斐国造・塩海宿彌とは?

この時代、海伊国造は何をしていたかというと。

宮下文書における甲斐国造・塩海宿彌は、ヒコホホデミの兄・火照須(ほてり)命61世孫で、子々孫々海伊国造の家系であった。かつて甲府盆地に存在していたという巨大湖『底大湖』を、甲斐国竜王に住まう国造家が先祖代々掘り下げ、塩を製造し、干拓地を拡大させた功績をもつ。東夷征討では東国首謀者側につくものの、これらの先代からの功績が評価され免罪されている。結局、東征後も塩海宿彌が国造を留任しており、大伴武日がお目付け役として甲斐国に駐留するものの、やはり処罰の甘さは拭えない…。

その後の4世紀には、大山守皇子『宮下家』第8王子・香古坂海井彦(前記の山県氏の祖)が海伊国造家に就任しており、火照須命子孫国造家がどうなったのかは不明。

 

このように、戦後の太神宮宮司家も、海伊国造家も、ヤマトタケルの処罰の甘さが垣間見られ、その背後には尾張勢力の権益も見え隠れしている。

また前記事でも紹介したが、オトタチバナが富士朝客人勢力の秦氏族の可能性も高く、富士朝を崇敬する秦氏たちの要望も聞かなくてはならなかったのだろう。

※ホツマツタヱによると、オトタチバナの出自は三宅連タヂマモリの娘、外祖父はホツマ国造タチバナモトヒコ。宮下文書には記載なし。

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山梨県甲府市酒折『酒折宮』

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月見山酒折宮旧跡、右が『坂折古天神』、左が『酒折宮旧跡』



酒折宮とは?(おさらい)

次に、『酒折宮』の真相に移るが…。

前記事のおさらいとなるが、もともと甲府市『酒折宮』は、御室山(月見山または酒折山)の300メートル北の『古天神』の横に鎮座していた。前記事でも述べたが、この古天神の御正体はスクナビコナ(宮下文書における諡・大国御魂命)と考えており、甲斐三宮・玉諸神社の國魂大神命や、金櫻神社の御祭神と同神だと思われる。さらに、東京都台東区『五條天神社』・京都市下京区『五條天神宮』・大阪市天王寺区『五條宮』、これらはヤマトタケル東征とスクナビコナと甲斐国金峰山五丈岩に起因していると推測する。

よくよく考えてみれば…、宮下文書版スクナビコナは尾張国祖神で、尾張国祖神『尾張大國霊神社(国府宮)』の御神霊なのだ。これもまた尾張との繋がりが深そうだ…。

 

◯『酒折宮』(山梨県甲府市酒折)

〜御祭神~

  • 日本武尊

凶変がある時は鳴動して里人に告げる謎山。幻しの甲府盆地『底大湖』と国玉大明神『御室山』の繋がり。 - セキホツ熊の謎を追え!

wikipediaによると。東征の帰路に際して、ヤマトタケルが前述の塩海宿彌(足尼)を甲斐国造に任命し、自身が『行末はここに鎮座しよう』と述べ、火打ち袋を御神体として祀るよう指示した。しかし、江戸中期1784年(明和4年)頃までに古天神から分離され、現在地である旧酒折八幡宮の境内に間借りした状態だったという。現在も東参道の鳥居には、『八幡宮』の神額が残されている。1762年(宝暦12年)に、国学者の山県大弐と加賀美光章が、突然この地がサカオリ旧址であると主張しだし、社殿を造営したという…。



※因みに山県氏とは、甲斐武田氏譜代家臣・山県昌景の子孫。但し、宮下文書における『山県姓』は宮下氏族、大山守皇子第8王子で海伊国造・香古坂海井彦の子孫の可能性が高い(山県大弐は野沢氏の出自)。現在でも、山梨県甲斐市篠原にある『山県神社』は、山県大弐を御祭神としている。なお、これが清和源氏を称する美濃国山県氏と関係があるかは不明なのだが…。

…最近思うに、18世紀は宮下宗家が、宮下文書を隠している時代であり、富士朝延命のカムフラージュのために、酒折宮を他地域に見せかけ、撹乱した可能性はないのかな?と…(妄想)。

 

一方で、宮下文書版の富士吉田市『坂下(サカオリ)の宮』は、阿祖山太神宮の近くの東阿田都山麓、南加茂坂、現在の富士吉田市にあったハズ。そうなると、現在の甲府市側の酒折宮には違和感を感じざる得ない。ヤマトタケルの行宮という役割以上に、この甲府市酒折地区の古墳群には違う目的・祭祀があったのでは?と考えてしまう。仮にこれを甲府市酒折宮側が、宮下文書の記述を認めてしまえば、現在比定地が異なる矛盾を認めることにもなる。だとしたら…、一体、この甲府市『酒折宮』の役割とは何なのだろうか?。

ヒントは次の連歌と尾張にあった。

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酒折宮境内『山県大弐・酒折祠碑』

 

古事記と連歌

その前に『新治』を説明。

この酒折宮は、連歌発祥の地としても伝承されており、ヤマトタケルが焚き火をともして、御火焼老人と連歌のやり取りをしたという古事記エピソードに基づく。

 

〜境内には連歌石碑より〜

『新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる』

『かがなべて(日々並て) 夜には九夜 日には十日を』

 

連歌とは、複数人一つの歌をかけ合わせて、合作する技法。5・7・7の片歌で問答する。酒折宮ではこれを4・7・7の片歌を5・7・7の片歌で回答している。

ヤマトタケルの『新治・筑波(茨城県)から、幾晩泊まった?』との問いかけに対し、火守りをしていた御火焼老人なる人物が、『計算すると9泊10日です』と答えた。

お恥ずかしながら…、これだけだと…、何がスゴイのかわからない…。

(´(ェ)`)

しかしヤマトタケルは、この人物の才能を褒め称え、『東国造』の称号を賜われた。つまり、よくわからん素人オッサンに、東国を授けたわけだから…、このへんは流石にスゴイと思う。

先に述べたように、ヤマトタケルは塩海宿彌(足尼)に甲斐国造を留任させており、それがこの老人の可能性もあるだろう。一般的には、これが深河意弥命の父親・建許呂命とも混同されている(後述)。

 

ホツマツタヱと連歌

『酒折の連歌』に似たシチュエーションはホツマツタヱにもみられ、他文献と比較ができる数少ないチャンスとなる。

ホツマツタヱ版ツヅ歌というのは、神武天皇時代にタギシミミがユリヒメに求婚した折、拒絶を和らげるために歌にした。一連の物事の展開状況を見越して詠まなければならず、高度なテクニックを要する。ホツマツタヱ自体の文体も、この5と7の繰り返しなので、何かしら影響があったかもしれない。



〜ホツマツタヱ39文〜

※ホツマ討ちツヅ歌のアヤ

 

つずはつね うたみにそめて

かえせよと なかえたまはる

 

ニヰハリツツクバオ

スギテイクヨカネツル

 

もろなさず ひとぼしよすな

きみのうた かえしもふさく

 

カガナエテヨニハココ

ノヨヒニハトオカオ

 

やまとだけ ひとぼしほめて

たけだむら ほかははなふり

たけひおば ゆきべおかねて

かひするが ふたくにかみと

ことおほむ

 

ホツマ版・東国パラレルワールドを説明すると。もともとホツマ国(富士山+関東圏)があり、大伴武日が諏訪サカオリを賜って、東国監視をしていた。富士山以東の蛮族に反乱の動きがあり、景行天皇にエミシ討伐を奏上して、ヤマトタケル東征という流れになっている。つまり甲斐国や駿河国は、絶対的に西国天皇勢力下であり、富士朝なんてものは端から存在してはならないのだ。

こうして蛮族たちの『蝦夷討伐』が完了し、ヤマトタケル一行がサカオリに帰還すると、焚き火を囲いおもむろに連歌をはじめる。火灯しのヨスナ(ソロリ)という人物が応対して、その絶妙な返歌を褒められ、タケダ村(茨城県ひたちなか市武田?)を賜る。

因みに…タケダ村とは。これは甲斐国の清和源氏義光流・武田氏が登場する遥か昔のお話である。一般的には平安時代・武田氏祖は罪に問われ、常陸国那珂川『吉田神社』付近・武田から配流されて、甲斐国へ土着した設定にされている。常陸国に残った同族が佐竹氏。

つまり一般的には、武田氏の発祥が何故か常陸国にされているのだ。みなさん…前記事で、私が佐竹氏の出自が怪しいといったのを覚えているだろうか?。というか…武田氏も怪しい。宮下文書には清和源氏を称する佐竹氏・武田氏の出自は記載されておらず、このあたりは現在調査中。分かり次第記事にしたい。

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阿祖山太神宮旧跡周辺、このあたりに『坂下の宮』があったと思われるが。。。?

宮下文書とホツマツタヱの比較。見えてきた連歌に隠された本当の意味。

 

最後に、宮下文書の記載はあるのか?。

ヤマトタケルは『東夷征討』を完了させ、富士朝に帰還する。その間は富士朝にて、7代福地記太夫が美夜受媛と娘を擁護していた。この館が東阿田都山麓南加茂坂にある宮下文書版『坂下(さかおり)の宮』。

富士朝帰還7日後、阿津佐浜において入水自殺したオトタチバナの櫛が漂着、建許呂命の息子、海知男が拾ってヤマトタケルに献上した。ヤマトタケルらはこれを阿田都山の大森に祀って、『吾嬬の森』と称した(後世の宮下氏族支流大森氏の名前の由縁と見られる)。この功績により海知男は、阿津佐国・馬来田国造、現在の千葉県木更津市付近に任命され、深河意弥命と称した。因みに、『常陸国風土記』では茨城国造とされている。

その夜、阿祖山太神宮・7代福地記太夫が焚き火を囲み、ヤマトタケルを慰めた。12代景行天皇の命令とはいえ、九州熊襲征伐から東奔西走して来た彼は、おそらくボロボロであった。

 

▼ヤマトタケル:『新治、筑波を過ぎて幾夜寝たことであろうか?』

▲7代福地記太夫:『これを数えてみると夜は九夜、昼は十日でございます』

※宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』156ページより。

 

このときヤマトタケルは、7代記太夫に、東征中に正后・美夜受媛と福地媛を守護したことに謝意を伝えたことであろう。さらにその功績により、駿河・甲斐以東の十二カ国国造を命じた。これが東西分治『吾嬬惣国』の爆誕である。

ただやはり、ヤマトタケルの甘い処罰と心変わりの根底には、オトタチバナを失った悲しみがあったのではないか?と…。彼女は東北神鎮魂を掲げて、東西の架け橋となって死んだ。これには、ヤマトタケルも景行天皇らも変心せざるえなかった。宮下文書岩間本においては、オトタチバナの子である14代仲哀天皇に皇位継承が譲られたわけで…、いかに『大妃』が西国人たちにインパクトを与えたかが伝わってくる。もしかしたらオトタチバナは正妻だったのかもしれない…。

そして景行年間成立ホツマツタヱには、ほんの僅かな富士朝の痕跡『ホツマ(≒真実)国』が書き残されることが許可されたのだろう。

<驚愕>14代仲哀天皇の生母は、オトタチバナヒメだった!!。橘氏との繋がりは? - セキホツ熊の謎を追え!

アメノヒボコに富士朝の影①、タジマモリ・オトタチバナ・神功皇后は徐福末裔? - セキホツ熊の謎を追え!

 

つまり、この『酒折の連歌』の真相は、吾嬬惣国の爆誕秘話だったのだ。これをホツマツタヱで比定してみると、ソロリ≒7代記太夫になるが、そもそも連歌などという高尚な趣向ではなく、傷心しきった男二人が、焚き火を囲んだだけの何気ない慰め合いであった…。

そこに、全く関係ない建許呂命の息子・深河意弥命が巻き込まれ…。たまたま、同時期に別件で関与した人物が、利用され、混同されているのがおわかりだろうか?。…こうして歴史書を並べて比較するだけでも、歴史改竄と人間の愚かさを目の当たりにできるのだ。



では、『新治』『酒折宮』『尾張』に何か意味があるのかと...。これが奇しくも、レイラインで一直線上になっているのだ(笑)。気づいたときは思わず笑ってしまったが…、ヤマトタケルの連歌の超人的才能がお解りいただけたと思う。…それとも、甲府市『酒折宮』を主張し出した山県大弐が凄いのか?。いずれにしても神憑りすぎている。

(´(ェ)`)

 

 

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〜新治・酒折宮・熱田レイライン~

  • 新治運動公園?(茨城県土浦市)
  • 金村別雷神社(茨城県つくば市)
  • 川越氷川神社(太田道灌の由来)
  • 加茂神社(山梨県北都留郡鴨沢)
  • 神部神社(山梨県甲州市)
  • 吾妻屋宮(山梨県笛吹市)
  • 大蔵経寺山(三宮・玉諸神社旧跡)
  • 酒折宮(山梨県甲府市)
  • 甲斐市竜王(ホテリ子孫の海伊国造発祥地)
  • 八事山興正寺(名古屋市昭和区)
  • 熱田神宮(名古屋市熱田区)
  • 椿大神社(三重県鈴鹿市)
  • 火頭古神社(クニサツチを祀る)
  • 五條宮(四天王寺北・スクナビコナを祀る)
  • 四天王寺(大阪市四天王寺)
  • 大船山と九重連山(大分県竹田市)

※死亡地の三重県『能褒野王塚古墳』にも近い。

 

前記事で紹介した『スサノオ重心点レイライン』同様に、彼の軌跡そのものが架け橋となり、レイラインとなっている。最近個人的には、スピリチュアル用語で…、『グリッドワーカー』という言葉を知った。簡単に言うと、聖地に『行く』のではなく、無意識的に『呼ばれる』のだそうだ。

個人的にも、こういう経験は度々あるのだが…、案外自分では気づいていなかったりする。あとあと、グーグルマップで確認して顔面蒼白となるのである。

あるある(´(ェ)`)。

 

 

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※地図はクラフトマップ使用

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