2022,5,22
前記事の続き。
記事のきっかけは、ヤマトタケルの『サカオリ』を見つけるために、山梨市富士吉田市大明見を探索していたら、鎌倉氏族『鎌倉神社』をみつけたわけだ。そこから私は、この太神宮神職家系・鎌倉氏族古屋氏という存在に興味をもった。
まさか...ご先祖様を探して、こんな大冒険になるとは思わなかった(´(ェ)`)。
また鎌倉権五郎景政が主役の、歌舞伎演目『暫』についても面白いことがわかってきたので、ご紹介する。
~目次~
源頼朝と東国氏族カンパの富士朝再興計画、北条に狙われた和田・三浦・畠山氏滅亡の後先。 - セキホツ熊の謎を追え!
梶原景時がピンチの源頼朝を見逃した理由、鎌倉氏族は隼總別皇子副司家系・古屋氏?。 - セキホツ熊の謎を追え!
鎌倉氏族古屋氏…、実はアメノコヤネの子孫だった?。
古屋氏族は甲斐国内に多系統あり、現在の山梨県でも7番目に多い姓。一般的には平姓鎌倉氏族といわれており、大明見古屋敷の鎌倉神社の権正氏や、山梨市連方屋敷(後屋敷郷)の武田氏蔵前衆・古屋氏などに繋がるとみられる。
他地域にも『降矢氏』『振屋氏』『古家氏』…などがおり、源義家の家臣、頼朝の家臣、または塩見足尼(甲斐国造家)の甥から出たなど諸説あり。『蜂城天神社』など周辺神社の宮司家系は、甲斐一宮浅間神社の神主家が伴直姓で、その子孫ともいわれている。
〜古屋氏族~
▲通説
桓武系平氏→鎌倉氏→古屋氏→権正氏?
(三浦氏や畠山氏らと同じ平氏)
▲宮下文書的には
応神天皇→隼總別皇子→福地家→古屋氏へ養子
(宮下氏族と婚姻関係を重ねている)
前記事の富士朝避難300余人の出処は、先住民系阿族を中心とした太神宮神職集団『阿祖谷36神戸』が大半と思われる。阿祖山太神宮の神職の一員として、宮下家大宮司に伴い、平安京視察に同行していた。元宮麿が養子となった古屋氏も、太神宮神職と何かしら接点があったハズと睨んでいたのだが…、やはりというか、300余人リストにそれらしき氏族をみつけた。
『社家物取扱役 古屋半太夫春信一族郎党二十人。春信は天兒屋根命の遠孫。』
宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』202ページより。
〜太神宮二代目時代~
- タマノオヤ =2代守護司長、ニニギ弟
- アメノコヤネ=右臣にして、副司長
- フトダマ =左臣にして、 副宮司
なんと…アメノコヤネの子孫であった。
アメノコヤネはもともと、阿祖山太神宮の二代目副司頭長であった。『古屋』とは、アメノコヤネの『児屋(こや)』から命名されているとみられる。太神宮神職には欠かせない家系であるがゆえ、仮冒せざる得ない状況にあったようだ。当然、その子孫古屋氏は、桓武平氏誕生の遥か以前からの古豪であり、平姓仮冒なのは明白だろう…。少なくとも、男系アメノコヤネ流派と、男系隼總別皇子流派の派生がいることが確認できた。
〜複数の古屋氏?~
▲男系アメノコヤネ子孫・古屋氏
▲男系隼總別皇子子孫・古屋氏
▽男系平姓鎌倉氏子孫・古屋氏…?
※まだ、他系統があるのかもしれないので注意。
延暦噴火の折、福地元宮麿は八代郡方面へと太神宮御神霊を避難したハズだったが、山梨郡郡境線が南下して淘汰されてしまった。そして、この地域の豪族であった古屋氏族に養子となる。副宮司家系同士の婚姻関係、災害緊急時の応急処置的な養子縁組ではあったものの、実にこれほど相応しい遺伝子の結びつきもないのかもしれない…。
福地元宮麿を家祖とする新生『古屋氏』は、神部山『山宮神社』を里宮として兼務しつつ、806年(大同元年)前後に副司家職務に本格復帰、富士朝二所明神(古原長江館)を拠点としている。以後の福地家は、古屋氏族が本流となる。
平安期以降は副宮司家系を継承してゆくものの、鎌倉時代には清和源氏柏木氏が副司家に代わり、古屋氏族は山梨郡八代郡境の山宮宮司として専念していたようだ。このとき大明見36神戸に残った古屋一門が、権正氏なのだろうか…?。しかし、これら後世一般的に、平姓鎌倉氏族とみなされているのはどういうわけだ?。
上地図は以前紹介した『大山寒川鎌倉レイライン』。山宮神社と寒川神社はそれぞれ、800年延暦火山時に誕生した阿祖山太神宮『里宮』という共通項をもつ。さらに、鎌倉氏族古屋氏の山宮と、鎌倉氏族の大庭御厨は同線上に存在する。これが意図的なのか、偶然なのかは不明だが...、まるで鎌倉氏族の軌跡を辿るかのようなレイラインだ。彼らの意識の先には、常に鎌倉があったという事か?。
どちらにせよ、神がかりすぎている。
〜鎌倉寒川大山レイライン〜
- 由比若宮(旧鶴岡八幡宮)
- 鵠沼皇大神宮(烏森神社・大庭御厨の伊勢鎮護)
- 熊野神社(大庭神社の旧跡説あり)
- 岡田遺跡
- 菅谷神社(富士朝300余人避難地・高座郡岡田原)
- 相模一宮・寒川神社(太神宮里宮)
- 太田道灌の首塚
- 太田道灌の胴塚
- 比比多神社(子易明神)
- 大山阿夫利神社
- 大室山
- 山宮神社(太神宮里宮、現在の笛吹一宮浅間神社の摂社)
- 甲斐奈神社(笛吹市)
- 山梨岡神社(笛吹市)
- 御室山(大蔵経寺山・かつての山梨岡神社所在地)
- 武田信玄の墓
- 武田神社
※因みに、宮下文書における伴氏は、富士朝神官ら太田氏と羽田氏(どちらか)のこと。806年(大同元年)までに滅亡した大伴氏と、大規模に富士朝氏族が仮冒されてスリ替えられていたわけだ。西国天皇勢力が、東国氏族に無理やり仮冒をさせていたよい前例となる。また宮下文書では明記されていないが、上記の太田道願も富士朝太田氏(15代応神天皇・根鳥皇子子孫)とみられる。
鎌倉レイライン上、山梨岡が山宮に見せつけるような笈形焼き。
御室山『笈形焼き』と勝沼『鳥居焼き』の対立。
古屋氏族に関係した山宮神社の鳥居からは、御室山『笈形焼き』跡が一望できる。平安期の甲府盆地東部には、勝沼『鳥居焼き』と、御室山『笈形焼き』が対象的に行われる。これらは、京都・五山送り火などに由来するものではなく、この地域の宗教対立の形跡なのだ。これが富士朝と、どう関係があるのかは不明であるが、背後には平清盛の政治的介入が見え隠れしている。
しかし…この件に関して、厳密な理由を誰も覚えていないという(苦笑)。まあ、政治的に口止めされていたのかもしれないが。
この地域には、『菩提山長谷寺』と『梶尾山大善寺』という2つの大伽藍があった。ともに開基を行基、真言宗としつつ、1176年(安元2年)には派閥争いで衝突し合い、騒動にまで発展した。ことの発端は、御室山を御神体とする山梨岡神社の神官が、御室山麓の長谷寺に加担したことで、大善寺僧徒を憤慨させたという。大善寺側が暴徒と化し、山梨岡神社の『鳥居』を壊して燃やした。長谷寺側がこれに対抗し、大善寺の『笈』を燃やした。このときの騒動で大善寺は伽藍もろとも焼失してしまう。
しかし1177年、何故か検非違使・平清盛の上奏で、高倉天皇により再興の命が下る。こののち平清盛や源頼朝から寺領の寄進を受け、1286年鎌倉執権・北条貞時が薬師堂を再建した。
後世、この騒動だけが伝承され、御室山『笈形焼き』と勝沼『鳥居焼き』として恒例行事となる。またこれが理由となり、山梨岡神社には現在も鳥居がない。さらに山宮神社のすぐ隣の大久保山664mでは、江戸時代からの甲斐一宮『大文字焼き』が行われるようになり、現代では楽しい花火大会も催されている。個人的に気になるのは、宮下文書における大久保氏は、2代宮下源太夫明政の第四王子・吉田四奈摩古男の派生氏族であり、やはり山宮神社は宮下氏族と関係があるのだろうか?と...。
さらにその南東、レイライン近くに、『神領山』なる866mほどの山があるのも気になるところ。
◯『山梨岡神社』(山梨県笛吹市春日居町鎮目)
〜御祭神~
- 大山祇神
- 高龗神
- 別雷神
- 虁神
10代崇神天皇時代創建、御室山を『日光山高千穂の峰』として祀り始め、もともとは山中に鎮座していたという。山梨岡の『岡』はこの御室山を指すとの説あり、『神の籠もる山』という意味。大和国三輪山『御諸山(みもろやま)』に起因するという説もある。今までにも紹介したが、この御室山は複数レイラインのクロスポイントとなっている。
また謎の神獣『虁(き)』を祀る神社としても知られる。虁の声は雷で、風雨を起こす水神であり雷神。2017年参拝時点で私は宮下文書は未読であり、全く気づかなかったが…。今思えば、これは高確率で、別雷命ことカモサワヒメの神社であろう。
また山梨岡神社の境外摂社『吾妻屋宮』は、現在の長谷寺近くの山腹にあり、ヤマトタケルを祀る。前記事でも紹介した、熱田神宮〜酒折宮〜新治神社?レイライン上に存在する。茨城県黒部市生地の『新治神社』は、創建は不詳ながら天智天皇の時代には存在していた。日月神示でも紹介されている重要神?大加牟豆身命(オオカムツミ)が配祀されている。
〈レイラインの美学⑰〉酒折宮連歌に隠された真実、日本武尊と山県大弐は新治・熱田の架け橋。 - セキホツ熊の謎を追え!
◯『五所大神社』(甲州市勝沼町勝沼)
〜御祭神~
- 家津日子神
- 速玉男神
- 事解男神
- 箱根大神
- 伊豆山大神
勝沼『大善寺』すぐ東南180mにある神社、今までも二回ほど参拝させていただいているお社。ここからの甲府盆地の眺望がよい。
前記事でも紹介したが、家津日子神≒タマノオヤ、速玉男神≒ウサミ、伊豆山大神=イワナガヒメではないかと見ている。ここはタマノオヤ・ファミリーの神社ではないか?と…。まさかこの神社を紹介するとは思わなかったので、画像を消してしまった。
◯『山梨岡神社』(山梨県山梨市下石森)
〜御祭神~
- 伊弉冉尊
- 事解男命
- 速玉男命
- 国常立尊
- 大国主命
- 少彦名命
山梨市にも同名社があるので注意、こちらも山梨岡神社の論社(自称)となる。社伝によれば、111年(景行年間41年)ヤマトタケルの創建し、768年(神護景雲2年)坂上苅田丸が社殿造営したとのこと。気になるのは、周辺後屋敷郷に古屋氏族の拠点があったことと、境内末社に『大神宮』なるお社があることか…。境内奉納額にも宮下文書ではおなじみの、古屋さん、天野さん、和田さんとあった。かつては庭園も観光地化され、さぞかし賑わっていたのだろう…。現在は経路にある休憩小屋の柱が腐敗しており、大神宮に近づくには注意が必要、残念な状況になっている…。
鎌倉権五郎景政『暫』のホントの意味?、福地家の陰謀説浮上???。
鎌倉権五郎景政は、歌舞伎演目『暫』の主人公。
彼は霊力によって悪霊を退散させる能力をもっており、代々の團十郎はそれを『にらみ』として表現してきた。考えてみれば鎌倉権五郎景政の武勇伝は、右目を矢で射られている。
ただ、もともとは無名のヒーローで、特定の人名ではなかったという。明治28年(1895年)、福地桜痴(ふくちおうち)によってシナリオは一幕物として改訂される。それを九代目市川團十郎が上演以降、脚本がなぜだか『鎌倉権五郎景政』にされて現在に至るのだという…。
あらすじは、賀茂次郎義綱が加茂家伝来の名刀『雷丸』を悪公卿・清原武衡に奪われてしまう。それを鎌倉権五郎景政が奪還して、賀茂次郎は『家の再興もかなう』と喜ぶというお話。※参考にした動画から聞き取ったセリフなので、うまく聞き取れず恐縮だが。。。
武衡『雷丸の名剣は。。。雷を仕留めた故、雷丸と名づけた』
景政『その仕留めたる雷は、水神なりか?火神なりか?、水神なりなら他意もなく何を目当てに切ったるぞ、また火神なりにてあるならば、刃はただれ物の役には立たざるはず。。。』
まさに水神・雷神カモサワヒメのことではないかと。。。
また賀茂次郎子孫は、宮下家へ婿入りしており、三浦氏の男系祖先でもある。。。
やはり全般的に見ても…、鎌倉権五郎景政が、賀茂次郎義綱を救出するというシナリオは、あまりにも出来すぎてないか?。少なくとも福地桜痴は、火水の仕組みという基本原理と、宮下文書の内容を事前に知っていたようにしか思えないのだ。
また繰り返すが...宮下文書版福地家とは、延暦噴火の折に、副宮司家系『古屋氏』に養子となっており、その古屋氏族がその後の太神宮副宮司を継承しているわけだ。そしてこの古屋氏は、一般的に鎌倉氏族を称している。
クンクン…富士朝の匂いがするぞ(´(ェ)`)
福地桜痴こと福地源一郎は、長崎の儒医・福地苟庵の息子で、薩長による明治新政府を非難して逮捕され、徳川宗家と一緒に静岡移住に追従した経歴を持つ。その後は、ジャーナリストや衆議院議員として活動していた。
福地さん…(笑)。
1877年(明治10年)、山縣有朋を書記役とし、西南戦争の従軍記者として参陣。前記事でも紹介したが、…この山縣(山県)氏族というのは、宮下文書によると、宮下氏族の可能性あり。
山縣さん…(笑)。
ここまで当ブログを読んできた方々には、この福地さんと山県さんの怪しさがわかるハズだ。この福地桜痴…、富士朝・隼總別皇子の副宮司家系『福地家』の可能性はないだろうか?(妄想)。
地図はクラフトマップ使用。