セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈まとめ〉東夷征討のメカニズム、景行天皇は御祖霊が故に隠蔽せざる得なかった。

日本武尊が大山祇命を祀る、埼玉県児玉郡神川町『満所大神宮』

偶然、バイクで通りがかった『大神宮』。
畠山氏本貫地の秩父『吉田郷』の椋神社から、8キロほど北。

2022,11,13

前記事からの流れで、今回はよい機会なので12代景行天皇のまとめてみる。西国勢力が富士朝御祖霊を攻撃する心理状態を分析してみた。一部前記事と内容が被るが、最近わかってきたことも多いので読んでいただきたい。

素人オッサンの地味ブログながら…、読んでいただける方がいる限り、宮下文書を歴史初心者にもわかりやすく語り継いでゆくつもりです。

(´(ェ)`)

~目次~

ウガヤ朝vs.富士朝、『津島神社』は信州出雲スサノオ子孫の平定シンボルだった。 - セキホツ熊の謎を追え!

12代景行天皇とは

その実在性は定かではない。しかしホツマツタヱの編纂により、結果的には富士朝を欠史に導いた人物。すなわち、史学的に解明されれば、大きな富士朝解明にも繋がる超重要人物。なかでもホツマツタヱは、祓戸四柱・宗像三女神イトウ・ニギハヤヒらを誕生させており、日本史屈指のターニングポイントだったのではないかとみている。中国地方出雲という概念が形成され始めたのも、このホツマツタヱがきっかけではないか?と…。結局、ホツマ編纂に携わった人々が一番恐れていた存在を突き詰めれば…、その元ネタとして富士山御祖霊が浮上すると期待しているわけだ(苦笑)。

さらには、比叡山東麓、琵琶湖畔の景行天皇晩年の宮『志賀高穴穂宮』の意味合いもわかってきそうだ。古代日本国内の地政学研究もガラリと変わるかも?。

 

12代景行天皇(大足彦忍代別天皇)は、11代垂仁天皇の第3皇子、宮下文書岩間本によると、景行4年、倭国纒向かいにて、『日代宮』を称した。

初代神武天皇〜12代景行天皇の歴代皇后の出自は、悉く改竄されている可能性があるので注意。通説とはかなり違ってくる。母は通説どおり日葉酢媛命だが…、宮下文書では、兄の謀反により?沈病となった前皇后・狭穂媛命の実妹。右臣藤原物部系統・武部伊莒命の7女となるので注意。

皇后は同じく右臣藤原物部系統・平群水菟命(改めて吉備武彦命)の5女、播磨稲日大郎姫。通説では、小碓命(ヤマトタケル)の実母。東征副将であった吉備武彦命の母方祖父となる可能性が大きい。ただ…宮下文書三輪本現代訳では、ヤマトタケルの実母か明かされてないのでなんとも言えず。

この播磨稲日大郎姫は、宮下文書のみにみられる特異な近親婚システム、初代神武天皇からの左右大神婚姻の最後の正后となる。

 

※一般的に吉備臣(吉備氏)は、7代孝霊天皇の皇子で。宮下文書では、吉備・平群・物部(武部)・藤原(中臣)は同祖、アメノコヤネや大物主命の直系となるので注意。

<欠史八代の家系図>繰り返される近親婚、彼らは両臣という遺伝子防御システムであった。中臣・物部・藤原編。 - セキホツ熊の謎を追え!

<欠史八代の家系図>繰り返される近親婚、彼らは両臣という遺伝子防御システムであった②。中臣・蘇我・大伴編 - セキホツ熊の謎を追え!







歴代天皇が、東国蝦夷を怒らせた経緯。

歴代人皇は、富士朝阿祖山太神宮の三種の神器の御前にて即位式を挙行してきた(東征中による神武即位式は例外)。これは、三種神器が富士朝由来に他ならない。

しかし10代崇神天皇は、太神宮大宮司・吉田彦命に命じて、富士朝から大和国へ三品の大御宝を運ばせ...、挙げ句に複製させて返還しなかった。それでも富士朝大宮司と東国勢力は、崇神天皇を疑うことなくビミョーな追随を続けた。この富士朝とのビミョーな距離感がわかりにくいのだが…、この時期の崇神天皇と富士朝は、意外にも良好だったようだ。

三輪本現代訳『神皇紀』によると。確かに、崇神天皇は三種神器を巧妙に奪うことに成功した。しかし皮肉なことに、それが天災人災の原因であると悪い噂となった。これにより崇神天皇は徳を修めることに専念し、富士朝信仰に帰依することで、政権の信頼を取り戻そうとした。彼の崇敬はむしろ厚く、詔により毎年5月5日阿祖山太神宮の例大祭には、天皇皇后が揃って祭典へ臨席していた(三輪本現代訳187ページ要約)。

11代垂仁天皇も、即位から紆余曲折あり、受難が続いていた。ただ富士朝秦氏族に信頼感があるようで、彼らを様々な方面で積極的に起用していた。富士朝阿祖山太神宮に代わる伊勢神宮創建を命じた張本人ではあるが、富士朝御祖霊を疎かにすることはなかったのではないか?とみている。

 

しかしながら、三種神器が阿祖山太神宮へ返還されることはなかった。富士朝は、天皇の信仰の実践を目にすることで、伝統・祭祀が継承される事を願っていたのか?。いずれは…、西国勢力から裏切られ、完全無視される事態となるとは、誰も予想がつかなかった。





来るべき時が来たというか…。12代景行天皇は、富士朝即位式を初っ端からスルーした。三種の神器はすでに宮中の複製と、笠縫から伊勢へ遷宮したオリジナルの2セットがあり。つまり、富士朝の介在なしに即位式をした初の人皇であった。123年(景行52年)東国巡幸まで、富士高天原に踏み入れることすらしなかった。富士朝側からすれば…、青天の霹靂。このときになってはじめて、西国天皇勢力の腹の内を理解したのかもしれない。

宮下文書版『三品の御神宝』は2セットあった。熱田神宮の草薙剣の真偽とは?。 - セキホツ熊の謎を追え!

同時に、この頃の西国情勢は激変していた。

12代景行天皇の女性好きもあり、側室が激増(通説)。これに伴い、豪族たちの利権が一気に複雑化し、小競り合いが増えたのではないかと見られる。宮下文書には、九州にて、熊襲の二女の姉に父親を殺害させ、妹にその国を賜った。女あそびが、国盗りゲームに発展した悲劇が描かれている。

このように統治のバランスが崩れれば、皇室に中央集権化させる必要もあるだろう。故に、神武天皇からの左右臣三つ巴近親婚システムを廃絶させ、既得権益や争いごとを封じるため、主要豪族たちの家系図を木っ端微塵に改竄した。三種神器は西国の手の届く場所に管理しておく必要性があった。

前記事と重複するが…。加茂喜三著『富士王朝の滅亡』を要約すれば、『三種神器という権力の象徴が、富士朝にあった事実こそが、天皇家にとって都合がわるかった』というわけだ。その後の三種神器を奪われた富士朝は、情報操作による意図的なスルーをされることになる。この状況は現代まで続いているようだが。。。(苦笑)

折しも、富士朝の決起が、熊襲(九州)の反乱とつづいたわけだが…。加茂喜三氏の見解では、熊襲と蝦夷が連携を図って、好戦的な景行天皇の打倒を目指したと述べている。しかし、両勢力の蜂起にはかなり時間差があり、宮下文書記述からも連携はみられない。富士朝関係者たちは、西国熊襲が平定されれば、明日は東国の我が身だと悟ったのであろう。このような危機感から、あくまで自主的に『神都復旧』を唱え、天皇へ反旗を翻したのだろうとみている。

静岡県静岡市清水区草薙『草薙神社』

※因みに。『草薙神社』の古宮は静岡鉄道『草薙駅』近くにあり、もともとは東海道に面していた。遷座の経緯は不明だが、1590年(天正18年)徳川家康が社殿を造営している記録があるという。久能山東照宮の北の守護にしていたのだろうか?。






ホツマツタヱは、激ヤバ文書だった?。

富士朝を激怒させた理由は、もっと他にもあるのではないか?と…。個人的に妄想するに、ホツマツタヱの存在がバレた可能性はないだろうか…。

補足すると、ホツマツタヱの編纂時期は不明であるが、第一編集者オオタタネコが、存命していたと思われる10代崇神天皇時代から始まっていたとの説もある。最終章の記述からすると、ヤマトタケル東征後であるはずなので、近江へ拠点を移した12代景行天皇や13代成務天皇の頃には、第二期編集版を成立させていたのではないだろうか?。



これがどんなにヤバイことか?。

簡単に言えば、情報操作である。西国天皇勢力の中央集権化で、富士朝高天原時代と全51代ウガヤフキアエズ時代(加茂喜三氏の見立てでは2600年間ほど)が、ゴッソリと欠史されたわけだ。挙げ句には、『朕こそが全て…、これからは富士山ではなく、伊勢と出雲と天皇家を崇めよ』というわけだ。熊オッサン的には、ホツマツタヱのエンターテインメント性が大好きなのだが...、宮下文書の観点から言わせていただければヤバいといわざる得ない。

もし仮に…。全国の富士朝御祖霊子孫らが、この文書の存在を知っていたら...。発狂するのは当たり前。蝦夷(富士山以東)と熊襲(九州)の蜂起も当然のこと、起こるべくして起きたのではないかと…。逆を言えば、西国天皇勢力は、このような禁じ手をせざる得ない状況に陥っていたワケだ。









目的は利権?、『神殺し』のつもりはない。

…意外にも、富士朝の造反の動きに慌てたのは、景行天皇サイドであった。

『な、なんで…怒ってんの?』(妄想)

これが実際のところの東西の温度差であろう。少なくとも彼らは利権を優先してきたまでで、御祖霊を侮辱し貶めるつもりはなかったのだ。いつの時代も、目先のお金が、社会全体を狂わせてゆく(苦笑)。

 

〜岩間本『開闢神代暦代記』p263〜

この企図を聞いた朝廷は、天皇始め諸公、容易ならざる事として、大評議を開き、如何に処置すべ きかを合議したが、意見が一致せず、徒らに時を過すのみであった。事件は、余りにも重大であり、 其の真相を把握するに困難であったからである。然し、何れにしても、かかる企ては、容認する事は出来ない。然らば、この陰謀は、断乎粉砕するの一途あるのみである。

 

このように岩間本では、東国の不穏な動きに対して、西国天皇勢力が右往左往していた様子が描かれている。彼らには富士朝=御祖霊という認識がしっかり残っており、未だ恐ろしい存在として脳裏に刻まれていた。対応を罷り間違えば、富士山御祖霊の朝敵行為となり、家臣や兵の御祖霊でもあり、『神殺し』は人々の動揺を誘う。かと言って看過すれば、統治者として示しがつかない。

結局、西国天皇勢力は、なし崩し的に軍の招集を始める。その間に武内宿彌とヤマトタケルは、伊勢神宮にて戦勝祈願と、叢雲の剣(草薙の剣)を賜っている。こうして景行天皇の皇子、ヤマトタケルによる東夷征討が始まった。

 

一般的にも、景行天皇は好戦的にみられているようだが…。日本の政治環境そのものが変遷してきており、世間が今までなかった、新しいタイプの人皇を誕生させたのかもしれない。ただ岩間尹著『開闢神代暦代記』の記述は新鮮で、東夷征討における西国の駆け引きと焦りが、リアルに感じられて面白い。御祖霊を恐れつつも、決起した東国を平定するために否応なく決議されたものだとおもわれる。

 

 

宮下文書によるこれらの情報は、東征後、阿祖山太神宮大宮司(7代福地記太夫)が、サカオリ宮での慰め合い、深い絆で結ばれたヤマトタケルから齎された記録であろう。…世間的には、宮下文書=偽書というレッテルを貼られているわけだが、信憑性は高いのではないかとみている。

〈レイラインの美学⑰〉酒折宮連歌に隠された真実、日本武尊と山県大弐は新治・熱田の架け橋。 - セキホツ熊の謎を追え!





※因みに、西国天皇勢力が東国へ軍事行動するのは初めてではない。これはBC536年(安寧13年)3代安寧天皇が、東国勢力タケミカヅチ・フツヌシ子孫らに勅命して、賊を平定させたようだ。武蔵一宮『小野神社』はこの後・安寧18年の創建なので、なにか関係がありそうだ。

対・富士朝への軍事侵攻が確認されるのは、このヤマトタケル東征、16代仁徳天皇東征、1404年(応永11年)将軍足利義持による富士朝陥落の3度ほど。因みに、平安初期800年の延暦噴火以降の坂上田村麿による軍事行動は、名目上は『災害支援』となる。富士朝は天皇家の直系御祖であり、朝敵行為に値することは明らかであった。統治者が神を恐れていた時代、景行天皇をはじめ東征者たちが、不安を抱えていたことは間違いない。

※※因みに。平安時代の清和源氏頼義・義家親子による東征は、富士朝と富士朝氏族との関係を密にしていたようだ。もともと864年貞観噴火の迅速な対応により、富士朝氏族たちは56代清和天皇に好感を持っていた。こうして清和源氏の地盤を固め、賀茂次郎子孫三浦氏族の富士朝大宮司婿入り、鎌倉時代の源頼朝による富士朝再興への大きな足がかりとなる。




静岡県の名勝『日本平』も、日本武尊が由来とされる。





だけど西国は、東国をコントロールしきれなかった。

ヤマトタケル東征の記録は関東のほぼ全域に広がるが、不思議なことに、メインは神社や名勝、山岳地帯であり、大きな古戦場があるわけではない。いかに、この東征が効率的であり、景行40年〜43年(岩間本曰く3年5ヶ月28日)と短期間であったのかも理解できる。三輪本現代訳『神皇紀』p155を要約すると、ヤマトタケルは佐賀見の出先?から、船で房総半島『阿津佐国』へ渡り、最終的には奥羽へ攻め入った。東国勢力は海路より不意に背後を突かれたため、各要衝にて戦意喪失し、すぐに帰順してしまったという。このように、おそらくは小さな小競り合いはあった…。しかし、ヤマトタケルと富士朝が連携を表明さえすれば、東国勢力が蜂起する理由も消滅するのだ(推測)。

 

〜三輪本現代訳p156〜

そして皇子は美夜受媛母子守護の功に依って、記太夫(7代福地記太夫)に吾嬬惣国の国造とした。 吾嬬惣国とは、佐加見・伊須・住留賀・海伊・武佐志・上毛・下毛・阿津佐・阿波土海、日下地・尾久・出羽の十二国である。

また奈良田彦(火照須命61代孫)を以て再び海伊の国造とした。

※阿津佐国の馬来田国の国造には、オトタチバナヒメの櫛を回収した深河意弥命とした。

 

さらに戦後の論功行賞は、景行天皇が国と国造を置いたと記載されている。ただ、これが富士朝大宮司国造の『吾嬬惣国』にも及んでいたのかは不明…。想像するに、国造の任命権は天皇にあっても、ほとんど地域を富士朝大宮司家が独占していることに注目。残念ながら…宮下文書による記述だけでは、戦後の東西パワーバランスがよく分からない。東征の結末は、おそらく痛み分けのような形で終戦し、不明な点も多い。そもそも全制圧を前提にした軍事行動ではなかったので、東国に勝利したとて、その広大な領地を統治できるだけの余力は西国勢力にはなかった。首謀犯だけを処分して、あとはヤマトタケルの娘・福地媛を富士朝大宮司家に残し、東国を自主管理させることしかできなかったようだ。このような宙ぶらりんの状況だからこそ、富士朝阿祖山太神宮大宮司が統括する、日本列島本州東半分以上、『吾嬬惣国』が爆誕したとも言える。

現在の駿河〜東海地方は富士朝秦氏が多く残っていたので、この勢力的な実質的境界線が、おそらく尾張三宮『熱田神宮』あたりまで及んでいたのではないかと…。

 

天皇側も家臣を前にして、これ以上東国において『朝敵』行為を指摘されたくはないし、統治は大宮司にマル投げしたほうが、政治的にも祭祀的にも無難だったのだろう。貢献してきた皇軍らに恩賞として土地は与えず、現地住民とは接触を控え、速やかに西国へ撤収させたのではないかと。

本当に奇妙な戦争だ...(´(ェ)`)。



〜岩間本p262〜

巡幸の成果は、小室(富士高天原)に、都督を置いて、東国の乱の如きを、再び繰り返えさぬ備えとした。亦新たに、国造を設けて、諸皇子をこれに配して、国政の充実を図った。

国を設けて、諸皇子をこれに配して、国の充実を図った天皇は、晩年は、近江の、高穴穂の宮に遷り住まわれたが、これは、東国の方の国情を知るに便していたためと伝えられる。

即位六十庚午年、崩御、寿一百六歳、大和国、山辺道上の陵に葬る。諡、景行天皇(人皇十二代記)

※補足すると。景行天皇の晩年(景気53年〜54年)、父に尽くしたヤマトタケルを懐かしみ、彼の軌跡を確認すべく東国巡幸を行っている。このとき、富士朝大宮司家に残された宮下文書版ヤマトタケルの愛娘・『福地媛』との初対面も果たされたであろう…。ただ、これがホツマツタヱ編纂の総仕上げの旅だったのではないかと…。新しい神道体系の既成事実を作るため、東国各地でホツマツタヱ伝承に基づいた神社創建が為されていとみる。

 

 

 

 

 

西国人は東を恐れて神社を建てた。
景行天皇巡幸伝承がある、千葉県印西市大森『大森鳥見神社』

 


西国天皇勢力、蝦夷の東北神鎮魂の理由。

西国は確かに勝利した。ただ日本初の富士朝討伐であり、その先末代まで続くであろう東国神の祟りの方が遥かに恐ろしいのだ。12代景行天皇が、富士山の見立て比叡山東麓『志賀高穴穂宮』に籠り、東国を気にかけていた理由も頷ける。また何故『蝦夷』という文化圏が、長きに渡り西国に染まらず、独自性を保って来られたのかも頷ける。

一方でヤマトタケルの役割は、討伐よりも、巫覡となることへ専念していった。スサノオの転生を称しつつ、東国鎮護のために新生させた『氷川神社』と信州出雲『坂の神(古事記)』の封印をした。東征というよりは、聖地巡礼である。なによりこの東北神の鎮魂は、三浦半島沖で入水自殺を遂げた、亡き妻オトタチバナこと『大妃橘媛命』たっての願いでもあった。ヤマトタケルは東北神に祈り続け、東国方々で『吾嬬はや』と叫び続け、いつしかこの地は『吾嬬惣国』と呼ばれるようになった。

その後『空白の4世記』となると、ヤマトタケルと15代応神天皇遺伝子が融合して、大山守皇子『宮下家』の遺伝子が拡散されたわけだ。ヤマトタケルが建国した吾嬬惣国を母体として、東西は『東西分治』の時代に突入していたと思われる(期間不明)。

(´(ェ)`)

 










前記事の田光八幡社の秘密。

前記事の、大碓命子孫守部氏族が創建した『田光八幡社』。グーグルマップで、熱田神宮と富士山の間にあることがわかった。守部氏族が、富士朝を意識していた証拠ではないかと…。

wikipedia田光八幡社によると、かつては熱田神宮の遙拝所といわれ、守部氏族が神事に関与していたという。かつては創建時代は、田光八幡社と熱田神宮との間は、伊勢湾が入り組んで隔てられていたようだが…。ただ、距離的には1キロ先で近いし...、何に対して遥拝する必要があるのか?と疑問に思っていた。

これは守部氏族が草薙神剣を通じて、西の熱田神宮を遥拝していたのではなく、もっと東の富士山に対して遥拝していたのではないだろうか?。…ということは、背景的に応神天皇子孫の富士朝大山守皇子『宮下家』や、それを討伐しようとした仁徳天皇との平定もを感じる。さらに拡大してみると、伏見稲荷大社と富士山のレイラインのようだ。



〜富士山・熱田神宮・伏見稲荷レイライン〜

  • 五井大宮神社(千葉県市原市五井)ヤマトタケル東征時代の創建伝承
  • 五社神社(神奈川県綾瀬市早川)ヤマトタケル東征時代の創建伝承と腰掛石
  • 小野神社(神奈川県厚木市小野)ホツマツタヱ・サカムのオノ比定地。ホツマ版ヤマトタケルとオトタチバナが出会った場所。
  • 高部屋神社元宮(神奈川県伊勢原市下糟屋)
  • 富士山
  • 田光八幡社(愛知県名古屋市瑞穂区)大碓命の子孫、熱田神宮神官守部氏の創建
  • 熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)ヤマトタケル御子・長田王の創建
  • 建部大社(滋賀県大津市神領)1.3kmズレ、主祭神ヤマトタケルと相殿神タマノオヤ
  • 稲荷山
  • 伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区)

※多少ズレあり。

 

※サガムノオノとは、ホツマツタヱにおけるホツマ国造?のタチバナモトヒコが、娘の子オトタチバナヒメを、ヤマトタケルに嫁がせた土地。ただし宮下文書では経路的に矛盾がある。また厚木市小野神社は、宮下文書における宮下氏族愛甲氏の土地。通説の愛甲氏は小野氏族横山氏の派生といわれているので注意。

※※御食津神は、秦氏が崇敬した富士朝御祖霊とみている。ミケツ=家基都、オオゲツ=大月留男命(ツクヨミ)、ホツマツタヱ版ウケモチ=クニサツチの子。つまりツクヨミに殺害されたウケモチは、富士朝の自滅を暗示していると思われる。





先週は、棚ぼたの連休が取れたので…、ここぞとばかりに静岡県内の神社を『レイラインめぐり』させていただきました。また近いうちに記事にできればと思っています。最近歩く苦痛と、神社めぐりの快感を覚える熊オッサンです。

 

ムフフ。。。クセになりそう(´(ェ)`)

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※地図はクラフトマップ使用。

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