2022,12,4
前記事をおさらいすると…。
2世紀の12代景行年間前後、人口増加や権益の複雑化もあり、歴史改変や政治の嘘が増えてしまった。その嘘の犠牲者も増えて禍いとなってしまった。人々はそれを穢として恐れ、『祓戸大神』なる新しいタイプの水神を必要とした。
前記事からつづく。祓戸四柱三神と宗像三女神は同神なのか?。だとしたら...祓い神なのか?。今回は、宗像三女神に焦点を合わせて解明してみよう。
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~目次~
- 宗像三女神とは?(通説)
- 玄界灘を舞台にした天孫降臨『外寇親征の役』
- 地名からみる玄界灘、伊豆+壱岐島+対馬の痕跡
- 伊都と伊豆と空海
- ホツマツタヱ『善知鳥』は祓い神?
- 対馬の帰化人?海人か?。
- 宗像三女神レイライン考察
〈祓戸四柱①〉歴史の嘘がもたらした近江遷都と祓戸神、伊吹山・鳴門・剣山のレイライン。 - セキホツ熊の謎を追え!
〈祓戸四柱②〉史上最大の禍が必要とした祓戸神、淀川の三島神の役割。 - セキホツ熊の謎を追え!
宗像三女神とは?(通説)
wikipedia宗像三女神によると、アマテラスとスサノオの誓約の子、5男3女八王子神、別名は道主貴、あらゆる道の最高神、海上の交通安全、国家鎮護・天皇家守護の神。
日本書紀によると、天孫降臨に先立ち、三女神が宗像の地に降臨した。アマテラスが神勅を出し『汝三神、宜しく道中に降居して、天孫を助け奉りて、天孫に祭かれよ』。簡単に言うと、『九州から大陸への海北道中、この地で歴代天皇を助ければ、歴代天皇が三神を守るだろう』という意味。ここでの天孫とは歴代天皇だが、どこかニニギの『外寇親征の役』を彷彿とさせるテーマでもある。
〜宗像三女神と別名〜
- 田心姫命 多紀理毘売命・奥津島比売命・田霧姫命
- 湍津姫命 多岐都比売命・高津姫神
- 市杵嶋姫命 中津島姫命・狭依毘売命
※出生順は諸説あり。
〜熊オッサンの予測〜
- 湍津姫命≒瀬織津姫命≒月桜田毘女命
- 田心姫命≒速開都姫命≒カモサワヒメ
- 市杵嶋姫命 ≒速佐須良姫命≒イワナガヒメ
※月桜田毘女の諱は葦津毘女命で、ツクヨミ妃、ウビチニ娘、オオヤマツミ母、ホノカグツチ妹?。
※カモサワヒメはオオヤマツミ妃、コトシロヌシ娘、三嶋神=寒川毘女命=別雷命、ナキサワメ?
※ホツマ版イワナガヒメ=速佐須良姫命の転生
宮下文書版イワナガヒメはタマノオヤ妃、オオヤマツミ娘、ウサミ母、クマノクスヒコの祖母にあたる。
玄界灘を舞台にした天孫降臨『外寇親征の役』
このブログでは何度も取り上げた、宮下文書版『外寇親征の役』とはこの国の根幹、記紀などの『ニニギ天孫降臨』伝承に比定すると思われる。
宮下文書研究家の加茂喜三氏の推測によると、時代は実に縄文期5000〜6000年位前。突然大陸からの敵襲があり、アマテラス義孫ニニギとコノハナサクヤヒメが、三品の大御宝を携え、富士朝高天原から降臨して53日かけて九州四国へ赴いた。この時代には剣や弓も鏡もあったが、基本的には石や木や火を投げる、殴り合いの原始的な大規模戦争であった。また、この時代の夫婦は運命共同体であり、男女揃って激戦地へ赴いた。
ニニギは辛くも勝利した。富士朝先住民により独立自治権を死守した功績は大きく、記紀においても天孫の意義を強調しているのはこの為。すなわち日本を建国したのはクニトコタチ・クニサツチ兄弟ではあるが、ニニギの勝利により始めて、対外的に独立を誇示することが出来、国家として成し得たわけだ。
『ニニギと日本ここにあり』と…。
ただ…この戦争によって失われた損失はあまりにも大きかった。ニニギは婦人であるコノハナサクヤヒメを自殺で失い、自身は衰弱死してしまう。コノハナサクヤ祖父のコトシロヌシとタカテルヒメ夫婦は、この時点で配偶者たちをほとんど失っていたが、ニニギを元気付けられなかった責任を感じて殉死(自殺)する。この夫妻の功績は、神武天皇以降〜欠史八代ころまで、国家鎮護・天皇守護の忠臣の象徴として重視され、大和国葛城山で賀茂氏を中心に信仰されていた。熊オッサン的に、この賀茂氏については実在性を疑っていたのだが...。どうやら、ヤタガラス神勅を富士朝高天原から賜ってきた、神武天皇の第二皇弟?・高座日多命(高座日本命?)の子孫ではないかと思い始めている。しかし記紀成立の時代には、既に信仰が衰えていったようだ。この辺りはまた別記事で考察したい。
別雷命カモサワヒメとは…。この忠義臣コトシロヌシ夫妻の娘であり、妻のために衰弱死したオオヤマツミの妻であり、自殺したコノハナサクヤヒメの母であった。彼女自身は病気のため、道半ば伊豆三島で死去してしまい、夫オオヤマツミはそれを哀れに思い、伊予愛媛にて衰弱死してしまう。
このような度重なる不条理により、彼女の御霊の悲しみがさらに深かまったのは容易に想像がつくだろう…。後世の人々は彼女に同情できるからこそ、逆に別雷命の怒りとその怨念を畏れ敬っていたのかもしれない。残念ながら熊オッサンは人間の立場でしか想像できないのだが…。
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※ホツマツタヱ版『別雷命』は、ニニキネ(ニニギ)に変えられており、一般的にも男神イメージが付き纏う。
この『外寇親征の役』とは、この国始まって以来の国難であり、国造り神話の礎となる大事件であった。そして玄界灘は、鎌倉時代までに多くの英霊たちが眠る場所になった。外寇や元寇ともに激戦の地となった壱岐島が、神社150社以上の密集地帯となっているのは、単なるパワースポットだからなのではない。統治者や政治家たちに無念な思いを残して死んでいった戦死者たちが、国の行末において禍とならぬように…。さらには天皇家らが葬り去った歴史を明かさぬように、国家を挙げて秘密裏のうちに鎮魂してきたのだ。
その後玄界灘を、大陸からの防衛の意味を込めて、水神女神の祓い神を祀って清めた。それを対元寇氏族の武藤少弐氏や、宗像大社の宗像氏、江戸時代の黒田氏らが崇敬してきたわけだ。少弐氏子孫?の素人オッサンがこんなことを書いているのも、なんか運命を感じてしまうところもある…。
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◯『天降神社』(静岡県田方郡函南町柏谷)
◯『天地神社』(静岡県田方郡函南町平井)
◯『天降神社』 (福岡県福岡市西区)
◯『天降神社』 (福岡県糸島市瀬戸)
◯『天降神社』 (福岡県糸島市新田)
◯『天降神社』 (福岡県糸島市飯原)
◯『天降天神社』(福岡県糸島市二丈波呂)
~御祭神~
- 瓊瓊杵尊
また興味深いことに、この出港地伊豆三島付近から戦地の福岡県糸島市には、ニニギを主祭神とする『天降神社』『天地神社』が複数存在する。これは宮下文書によるニニギ外寇戦線の痕跡とみてよいのではないかと。
地名からみる玄界灘、伊豆+壱岐島+対馬の痕跡
コトシロヌシの長子であり、カモサワヒメの兄?である天之手長命、 その妃手長比女命がは行島(壱岐島)で防戦虚しく戦死した。これがすなわち生島大明神である。
この天之手長命には三子あり、事武男命・事勇男命 ・事力男命も壱岐島と対馬防衛のために命を落とした。これが壱岐島の壱岐一宮『天手長男神社』に比定されるのは当然だろう…。対馬国延喜式で厳原町豆酘『高御魂神社』の高御魂男命とは、タカミムスビではなく事勇男命のこと。
また伊豆国『大瀬神社』『引手力男神社』もこの戦争に由来するとみられ、この玄界灘の戦争で犠牲者となっていたのは多くは伊豆神。この国の建国の礎となった証拠ではないかとみている。宮下文書研究家の加茂喜三氏曰く、戦地から帰還できたコトシロヌシらが、娘夫婦を弔って伊豆一宮『三嶋大社』の原型を創建したとのこと。ただ宮下文書には記載がないので注意。
また、クニサツチ五男・尾茂太留(オモダル)尊のさらに五子・武佐太毘古命が、壱岐島への玄関口である松浦の湊(現在の佐賀県東松浦郡や唐津市付近?)で大軍に立ち向かった。しかし多勢に無勢で戦死した。このオモダル尊のタル=足島大神なのではないかと…。
つまり、天皇守護の八神殿に祀られる神々のうち、コトシロヌシ+イクシマ+タルシマというのは、これらニニギ建国史の犠牲者に由来しているのではないか?ということになる…。前記事で紹介した大阪府高槻市『三島鴨神社』は17世紀までに、『幾島大明神』と名称変更していた時期がある。これはおそらく御祭神コトシロヌシに因んでのことであろう。
こうしてみると、英霊たちの鎮魂祭祀として、伊豆神カモサワヒメを祀る理由も見えてくるのだ…。この海はカモサワヒメこそ相応しいのかもしれない。
※当ブログでは、宗像大社沖津宮『田心姫命』をカモサワヒメと推測している。
また、ニニギ崩御後、南海と西海の諸州諸国が大いに乱れた。皇位継承権を持つヒコホホデミは未だ少年だったため、代役としてニニギ弟タマノオヤと家臣イシコリドメが西征している。そしてタマノオヤの御子ウサミ(宇佐見命)が、伊豆イトウの宮(静岡県伊東市)から西南地方の州国を平定した。この際、ウサミが祭り始めたのが、伊豆国熱海伊豆山にて若くして病死した母イワナガヒメではないかと。
<まとめ+追記>八幡神と比売大神イトウの正体わかった!宇佐神宮・伊豆山神社・天孫降臨・八王子権現のまとめ。 - セキホツ熊の謎を追え!
当ブログでは八幡神はウサミ父・タマノオヤ(阿祖山太神宮2代大宮司)ではないかと推測している。そして、このウサミによる宇佐神宮祭祀が、八幡信仰のスタートではないかと...。こうした経緯を考えれば、伊豆大神イワナガヒメが北九州の宮下文書表記『筑市島(ちくししま)』に祀られていたとしてもおかしくはないと。熊オッサン的には、これが宗像三女神『市杵島姫命(いちきしま)』ではないのかと推測している…。
〜建国を巡る大戦争の舞台の旧名〜
- 『伊須(伊豆)』富士朝軍の出港元
- 『附地見島(筑紫)』
- 『行島(壱岐島)』
- 『附島→津久島(対馬)』
- 『筑市島(筑紫)』
- 『津久始(筑紫)』
- 『南島(四国)』
伊都と伊豆と空海
これらキーワードを連ねた造語が『いつくしま』(古名・伊都岐島)ともリンクしてくる。つまり安芸一宮『厳島神社』であり、本来は建国の戦争で犠牲になった英霊たちを鎮魂する目的のために、水神女神『宗像三女神イトウ』を祀ったのではとみている。社伝では、593年(推古天皇元年)、当地方の有力豪族・佐伯鞍職が、市杵島姫命を祀る元宮をまず創建した。この『イツクシマ』という社名も、当初まつられていた市杵島姫命から転じているとする説あり。しかし、そもそも市杵島姫命自体が、これらの九州玄界灘周辺の古名から生み出された造語ではないかとみられる。もちろん御神霊は富士朝御祖霊信仰であり、九州平定に相応しいタマノオヤ西征時に祀られたイワナガヒメではないかと…(妄想)。
この厳島神社に関与していたのが弘法大師空海である。
彼は806年(大同元年)に厳島神社弥山『大聖院』を開基した。宗像三女神を崇敬し、八幡神の転生とも言われ、安芸国佐伯氏とは同族の讃岐佐伯氏といわれている。
しかしながら、空海には空白の7年間というものあり、その800年に、高野山を凌ぐ霊場として選んだ修行地は伊豆国松崎であった。807年(大同2年)『福地山修禅寺』を開基、808年(大同3年)静岡県賀茂郡松崎町『富貴野山宝蔵院』を開基。伊豆山神社別当『般若院』にも痕跡を残している。これは昔伊豆山神社資料館の館長さんにきいた話だが、うろ覚えなのでご了承を。もともと彼が開山したかったのは伊豆であった、しかしながら諸事情あり勅許がおりなかったようだ。以降は熊オッサンの考察だが...、しかるに宮下文書版ウサミが、八幡神タマノオヤを祀り創建した紀伊一宮『日前神宮』の上流である高野山を選び直したわけだ。その土地の名前は高野山領『伊都(いと)郡』…。
※ただし弥山や伊豆での活動は、史実的には確認できていないので注意。
奇しくも福岡県の『糸島市』も、三国志魏志倭人伝に記された『伊都(いと)国』ではないかと言われている。個人的には宇佐神宮の御祭神宗像三女神イトウに由来しているのではないかと…。やはり空海は聖地伊豆を特別視していたし、伊都=伊豆であると断言できる。
ま、世間的には笑われてるけどね〜(´(ェ)`)
↓
大祓詞について質問です「伊頭の千別き」の伊頭と伊豆半島の伊豆とは関係... - Yahoo!知恵袋
ホツマツタヱ『善知鳥』は祓い神?
国の重要局面に命を落とした戦死者たちの鎮魂祭祀は、古代史からあったようだ。宮下文書によると、本来の山城国竃山『貴船大神』も、神武東征によって命を落とした海軍皇族と将校兵卒の神霊を鎮魂祭祀する目的のため。このような鎮魂祭祀が古来からあるのであれば、激戦地であった玄界灘などで祀られている『宗像三女神』も、祓い神的要素があるのではないかと…。
前回は、宗像三女神イトウが祓い神要素ではないか?と考察したわけだが…。実はホツマツタヱにも、そのようなイメージを感じることはできるのだ。というか…そもそも祓戸四柱の一柱、速佐須良姫命から生まれた女神なのだから…。
ホツマツタヱにおける宗像三女神は成立は、アマテル天照大御神12妃(のちに13妃)の一柱であり、クラキネの娘ハヤコ『速佐須良姫命』を母として、三姉妹が誕生した。
母ハヤコは、アマテルへの仕返しに弟スサノオと不倫関係を持ち、12妃内宮・瀬織津姫ホノコの知るところとなる。瀬織津姫ホノコの命により、宇佐神宮へ三姉妹とともに謹慎処分されてしまう。そこでハヤコとモチコの姉妹は、瀬織津姫ホノコに反感を持ち、ハヤコはヤマタノオロチと化し悪神と化す。たまたまその騒動を聞きつけた、元不倫相手であったスサノオによって退治されてしまう。
このようにホツマツタヱ成立背景によって、本来宇佐で祀られていた速佐須良姫命(イワナガヒメ)にあたる御祭神から、宗像三女神へ変更されたのではないかと想像できるわけだ…(妄想)。
後日、スサノオにも供養の思いが湧いて来たのか?、ハヤコを『連り天引』のヤスカタ神として祭祀した。こうしてハヤコの御霊が浄化され、イハナガ(磐長姫命)として転生することができたという。ただし、前世御霊のカルマなのだろうか?、結局は、妹コノハナサクヤヒメをイジメる悪神的存在を通したわけだ。一方で、母が悪神と成り果てたことを恥じた宗像三女神タケコ・タキコ・タナコは、その供養のため日本全国を巡っていた。そしてついに、イトウ(慈愛・愛しみと同義)の心に目覚めたのだという。これぞまさに、宗像三女神の『祓い神』要素ではないのだろうかと…。
※ホツマツタヱ版アマテラスは男神となる。
〜速佐須良姫命ハヤコの娘・宗像三女神イトウ~
- タケコ(奥津島姫) オオナムチ妃
- タキコ(江島姫) カグヤマツミ妃
- タナコ(市杵島姫) イフキヌシ妃
◯『安羅(やすら)神社』(滋賀県草津市野村)
~御祭神~
- 速佐須良姫神
~配祀~
- 素戔嗚尊
滋賀県草津市の『安羅神社』は二社あり、穴村町にはアメノヒボコが、野村には速佐須良姫神が祀られている。滋賀県神社庁ホームページによると、704年(慶雲元年)にこの地に牛頭天王が降臨し当社を創建したという。さらに1344年(興国5年)速佐須良姫神と天満天神を勧請したとのこと。鈴鹿といえば鈴鹿権現・瀬織津姫命が有名だが...?、鈴鹿の何処なのかは不明。
前記事でも述べたように、瀬織津姫命・速開都姫命・速佐須良姫命は混同されている神社もあるのかも。。。となると湍津姫命・田心姫命・市杵嶋姫命も混同される神社もあるのかもしれない 。社伝には口伝もあるので、その辺りは仕方がないであろう。
あくまで目安で行こう!(´(ェ)`)
禍事を管理してきた水神女神たちは、忌み嫌われて、封印された。月桜田毘女やカモサワヒメやイワナガヒメのように。祓戸四柱や宗像三女神など神名が使い分けられたのではないかと…。
対馬の帰化人?海人か?。
宮下文書には阿曇氏や宗像氏や宗氏などは登場しないのだが…。その起源と思われる?面白い記述があるのでご紹介する。
33代ウガヤフキアエズ神皇・田仲雄男王尊の時代。田仲雄男王尊は津島神社を勅命で創建させた人物。奇しくも宮下文書三輪本現代語訳では、津島と対馬が同時代に話題となっている。
即位38根(BC1046年)の折りに、周の武王により殷の封辛王(おそらく紂王帝辛のことか?)が滅亡させられた。 討?辛王の三子であった『対馬王』は、臣の武丁に護衛されつつ、筑市島西北の附島に漂着した。対馬王が携えていた殷の暦の書をウガヤ朝へ献上し、このとき木火土金水の五行と、日夜12時間制、十二支などが日本へ伝来した。
33代ウガヤ神皇は、その附島(つくしま)を津久島の表記へ改め、対馬王を初世太記頭(諸区国の各令)とした。ここから後世には『対馬(つしま)』という当て字が発生したようだ。
宮下文書にはこれ以上の記載がないし、熊オッサンも詳しくはないのだが…(苦笑)、これがいわゆる海人族といわれる系譜なのか?は不明。因みに海人族とされる宗像氏は天皇家との関係も深く、40代天武天皇の妃の一人、宗形徳善(宗像大社神主)の娘尼子が産んだのが高市皇子となる。
※後世の宗像氏族は武藤少弐氏とも婚姻関係を持っており、熊オッサンにもその遺伝子が入っている可能性あり…。
宗像三女神レイライン考察
さて、おしまいにレイラインで宗像三女神を見てみよう。
富士山~比叡山~沖津宮レイラインは以前紹介しているのだが、こうしてみるとカモサワヒメ=別雷命=寒川毘女=三嶋神という公式に、宗像三女神とシンクロしてくるのがわかる。寒川石清水厳島レイラインは、前記事で紹介した重要スポットに加え、意外にも藤原鎌足の痕跡が多い。
◯富士山~比叡山~沖津宮レイライン
- 富士山
- 名古屋城
- 鏡神社(滋賀県蒲生郡竜王町鏡)
- 日吉大社(滋賀県大津市坂本)
- 比叡山
- 賀茂別雷神社
- 宗像大社沖津宮(福岡県宗像市大島沖ノ島)
- 対馬厳原町豆酘付近
※富士山〜出雲大神宮レイラインに近い。
◯寒川~佐久奈度~石清水~厳島レイライン
- 亀井神社(神奈川県藤沢市亀井野)
- 相模一宮寒川神社(神奈川県高座郡寒川町)
- 寒田神社(神奈川県足柄上郡)
- 鎌足神社(静岡県御殿場市小倉野)
- 天母山(静岡県富士宮市山宮)
- 挙母神社(愛知県豊田市挙母町)
- トヨタ自動車元町工場
- 尾張殿山(愛知県名古屋市緑区大高町殿山)
- 天武天皇御館頓宮(尾前神社跡)
- 伊勢一宮椿大神社奥宮(三重県鈴鹿市小岐須町)
- 佐久奈度神社(滋賀県大津市大石中)
- 宇治神社(京都府宇治市宇治山田)
- 宇治橋(京都府宇治市宇治乙方)
- 橋姫神社(京都府宇治市宇治蓮華)
- 平等院鳳凰堂(京都府宇治市宇治蓮華)
- 石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊)
- 武内神社(大阪府三島郡島本町)
- 大阪府三島郡
- 阿武山古墳(藤原鎌足墓所説あり)
- 阿爲神社(藤原鎌足創建伝承あり)
- 備前元一宮安仁神社(五瀬王命)
- 厳島神社(広島県廿日市市宮島町)
- 大頭神社(広島県廿日市市大野滝ノ下)
- 平清水八幡宮(山口県山口市吉田)
- 毛利秀就公生誕地(山口県宇部市小野)
- 清末八幡宮(山口県下関市清末中町)
- 壱岐神社(少弐資時公、昭和7年創建)
- 月讀神社(長崎県壱岐島)
因みに寒川石清水厳島レイラインは、なんと、当ブログ限定で話題沸騰中の尾張国殿山『オワリの十のヤマ』を通るのだ。これを前回の伊吹山鳴門レイラインと照合してみると上地図の緑線の区間。熱田神宮レイラインの美濃国外山から尾張国殿山が区切られるのがわかる…。というかこの区間、熊オッサンがゴールデンウィーク中に回った神社巡りが、線上エリアに該当するのだ。まあ特に、いつも計画して神社巡りをしているわけではなく、熊みたいにフラフラ歩いて、鳴海八幡宮あたりで日が暮れて、神社ウロウロしてたら通報されると思ったので帰京したわけだが(苦笑)。Googleマップ上で確認する限り、殿山地区には神社はなかった。
果たしてこれもシンクロニシティなのだろうか?(´(ェ)`)
残念ながら、これが日月神示オワリの十のヤマなのかは不明…。
※地図はクラフトマップ