2024,7,28
前回は、柿本人麻呂の歌に登場する『鴨山』『岩』『根』を考察してみた。
『鴨山の 岩根しまける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ 』
今回こそは彼の核心に迫ってみようとおもっていたのだが…。その前にどうしてもこの妹が気になって仕方がなかった。
そこで今回はちょっと予定を変更して、妹の語源ともいわれる『妹背』について焦点を当ててみた。これがなんと伊勢神宮の存在意義とドンピシャだった。
(´(ェ)`)
~目次~
石見安曇族と柿本人麻呂と、水底の女神・速佐須良姫を結ぶ『鴨山×鴨川レイライン』① - セキホツ熊の謎を追え!
〈日月神示✕宮下文書〉日月の統合?、クニトコタチ男系とクニサツチ女系遺伝子の関係。 - セキホツ熊の謎を追え!
妹背とは?
宮下文書には記載がなく、ホツマツタヱが初見とみられる。なんとなく『現代人には馴染めない言葉だなぁ』と思っていたが、その意味が分かったような気がする。
妹背(いもせ)とは、親しい男女の仲を示す言葉。恋人であり、兄弟と姉妹、陰と陽の天地を知る道。妹は女性、背は男性を表す。柿本人麻呂ら歌人が多用する『妹』の語源とも言われる。広義には、夫婦や兄弟姉妹の道徳観、子孫繁栄のための家族のあり方とか結束を示していると思われる。ホツマツタヱ研究家の間では、これが伊勢の語源ではないかとも言われている。
ただ日本書紀の24代仁賢天皇紀では、異母兄弟姉妹婚の家庭で、妻が夫をを『兄(せ)』と表現していた事例があり。となると…妹背という言葉自体に、夫婦と兄弟姉妹という意味がはじめから同居していた可能性もありそうだ。
だとすると、もう現代では失われた価値観・概念であると言わざる得ないわけだ。
なるほど現代人には馴染めないわけだ(´(ェ)`)。
〜ホツマツタヱ28文〜
『また、后(セオリツヒメ)、ヒロタに行きてワカヒメ(ヒルコ)と共にヰココロ(妹心)守るべし、我はトヨケ(豊受大神)と背(妹背のおせ)を守る、妹背(いせ)の道なり…』
そしてこれが、ホツマツタヱ版伊勢神宮の核心をつくテーマともいえそうなのだ。 上記アマテルの遺言からも、伊勢祭祀と強い繋がりがあることは明白である。
ワカ姫というのは、ホツマツタヱ版アマテルの姉ヒルコのこと。アマテラスの後継者オシホミミを養育しており、アメノオシホミミからみれば義母ともなる存在。他方でアメノオシホミミ実母の瀬織津姫命ホノコは、家出した九頭竜モチコ御子アメノホヒを養育することになる。ここでは、父母や夫婦だけではなく、兄弟姉妹の関係にも及んでいる点に注目。なるほど夫婦であり、兄弟姉妹の意味でもあるのはホントなんだな…。兄弟姉妹であり、父母であり、ピンチのために近親婚を繰り返し、一族総出で子孫繁栄を支えていたのが浮き彫りとなる。これが妹背のホントのところなのだろう。
因みに、宮下文書版アメノオシホミミは幼い頃に父母を失くしたため、尾茂太留尊の娘でコトシロヌシやアメノウズメらの妹・青木比女命が養育した。これもホツマに似た妹背価値観に入りそうだ。現在でも伊勢参りは夫婦で行う習慣が残っており、二見興玉神社には夫婦岩などもある。この伊勢の理念が、男女=妹背と重なってくるのがわかる。
ただ宮下文書版の伊勢はアマテラス朝が名付けた南陽波の小名『伊瀬(いせ)』(現代訳p59)。もともとは地名が先であり、あとあと強引に『妹背(いもせ)』と紐づけられた造語の可能性も拭えない。『妹背』という言葉が生まれた背景を考えれば、そう単純な問題でもなさそうだ。ホツマツタヱが、伊勢神宮創建とほぼ同時期の10代崇神~12代景行時代に編纂されたことをお忘れなく…。
宮下文書視点から見れば、ホツマツタヱの本質は富士朝をスルーして、伊勢神宮を遍く世に知らしめるための宣伝書でもあるのだ。伊勢神宮とは11代垂仁天皇以降の一つの西国の政治的シンボルでもあった。当然、富士朝〜ウガヤフキアエズ朝史から目を逸らすためのプロパガンダも含まれているのだろう。ホツマツタヱしか知らない方々には、伊勢=妹背であると勘違いするのは当然かなと思う…。
さらに平安時代中期からは同父異母の兄弟姉妹婚も見られなくなり、妹背=兄弟姉妹の意味が分離して夫婦の意味合いが強くなった。世間的には『廃太子』という制度が生まれ、皇位継承権をもつ皇兄皇弟は互いにライバル視するようになり、命を奪われるケースもあった。皇族たちは互いに傷つけあう、血塗られた時代に巻き込まれていった。
(´(ェ)`)
皇(スメラギ)とは兄弟で順番に回すものだった!?
ここで宮下文書の神話を遡る必要がありそうだ。
今まで説明するのがややこしくて、極力避けてきたのだが…。やっぱり説明しなければダメみたい(苦笑)。
おそらくみなさんも大混乱するだろう(´(ェ)`)。
本ブログでは何度も紹介している四季島統治だが、その実態は二尊御子兄弟により神皇を同時進行的に回していた。といっても...具体的な記載がないので、素人オッサンがなんとも言えないのだが。状況分析的にいうと、同時代に生存していた兄弟が、それぞれ同時並行的に、各地拠点にて政権を展開している…。
まあ、そう言わざるを得ない状況なのだ。
とくに法律のようなものの記載もみられないために、唯一明確なルールが、大自然と家族愛だったとみられる。国を運営してゆくためには、一族が一丸となり、ピンチのときには他兄弟と力を合わせる必要があった。おそらくはライオンのコミュニティのように、複数地域で分散して開拓拠点を持っていた可能性あり。なにぶん日本全国どこも開拓期なので、その展開法の方がむしろ効率が良かった。
宮下文書ではこの状況を、天神七代と時代区分している。
〜宮下文書版・天神七代〜
▲初代クニトコタチ
▲2代クニサツチ
▲3代ウイジニ
▲4代オオトノヂ
▲5代オモタル(面足尊)
▲6代トヨクムヌ
▲7代オモタル(茂太留尊)
※岩間本p16参照のこと、三輪本現代訳と微妙に異なる。
※※下系図オモタル2とは、農田比古尊(尾茂太留尊)のこと。西国丹波を拠点としたクニトコタチ系統は短命に加え、子宝に恵まれなかったようだ。御子トヨクムヌが后・白瀧毘女尊を残し早世、そのためクニサツチ四子・尾茂太留尊を養子とし、残された后と再婚させた。実質的には彼の子はクニサツチ男系となるので注意。クニトコタチ夫妻の残された遺伝子はイザナミと甥マゴコロタケルだけとなる。
このように、宮下文書の天つ神は従兄弟同士の婚姻が多くみられる。
例えば…イザナギ・イザナミはタカミムスビの従兄弟同士。ヱビスと白糸比女命、サルタヒコとアメノウズメ、スクナビコナと武彌雄毘女命、コトシロヌシとタカテルヒメはタカミムスビの曾孫同士。ツクヨミと月桜田毘女命はクニサツチの孫同士。宮下文書では、このクニトコタチとクニサツチ子孫を天つ神という(三輪本現代訳p50)。
その目的は、やはりクニトコタチとクニサツチ一族の横の繋がりを強固なものにしたかったのであろう。
しかしこの一族近親婚状態を、ホツマツタヱでは不都合と見なされ、親子関係に改めている。確かに中央集権制や封建制度でこれを実践したらめちゃくちゃになるだろう。あくまで縦の繋がりの一子相伝でなくてはならなかったのだ。
〜ホツマツタヱの天神七代親子化〜
①クニサツチ→②トヨクムヌ→③ウヒチニ→④ツノクヰ→⑤オモタル
※ホツマツタヱ版クニトコタチは別格、クニサツチ以前の男女の性別ができるまで神々は一人神と呼ばれており、それらの総称をクニトコタチ八元神『ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メ』という。
皮肉なことに、当時の混沌を現代人が理解できるレベルまで落とし込んで秩序立てたのは、後世の天皇家子孫による歴史修正行為であった。つまり天神七代とは、利権関係や争い事が極めて少ない縄文時代だからこそ成立できた、原始的な家族統治体制でもあったろう。これはそれで先祖のありのままの姿であり、ホツマ編纂者がこの近親婚体制をただ封じるにはあまりに忍びないと…。教義のほとんどない神道において、『妹背』という言葉に変換されて残されたことになる。
この国にはどこか愛着がある価値観だったのではないか?と想像する。
ただし、天神七代後期のイザナギ・イザナミは別格であった。
というのもこれは、クニサツチ五子とクニトコタチ二子の婚姻であり、他の天つ神カップルより明らかに優遇されている節がある。イザナミのクニトコタチ女系遺伝子の特異性・希少性を考えれば当然のこと。
夫妻は全国を巡狩しており、阿祖北からスタートして四方の州々に現れ四海を平定した。その痕跡の一つが石川の『白山比咩神社』だった。イザナミはクニトコタチ夫妻が残した天下唯一の女系遺伝子でもあり、それを末代子孫にまで広めた遺伝子的『括り』であった。おそらくは白山比咩神社のククリヒメとは彼女の事。
こうして阿族シンボル高天原に帰還して、日向の穴宮の大御宮(高天原小室の日向の穴宮=現在の山梨県富士吉田市大明見周辺)に拠点を据えた。高天原では毎晩怠りなく灯火を捧げ、阿族の神祖神宗を奉祀。崩御後は高燈大神と号された。具体的な記載がないものの、阿族霊的中枢高天原を守護していたクニサツチの正統なる後継者とみてよい。
いうなれば夫妻は天地開闢の、ドロドロの泥沼から国土を形成する『国生み』のような存在であった。このあたり中央集権化の前兆すら感じる。
アマテラスとツクヨミに何があった?
つぎにこの宮下文書版アマテラスを調べることによって、伊勢祭祀がわかってきそうなのだ。まずアマテラスとツクヨミに一体何があったのか?。
〜伊勢神キーワード〜
▲アマテラス(神皇システムの改革者)
▲豊受大神(宮下文書版クニトコタチ夫妻)
▲ツクヨミ(内宮外宮それぞれの別宮)
▲瀬織津姫(アマテラス荒魂・ツクヨミ妃か?)
※本ブログでは、瀬織津姫命=月桜田毘女命とみている。もしそうなら瀬織津姫命は、ツクヨミ朝皇后になる予定だった人物となる。
イザナギ・イザナミが崩御した。
その遺言として月峰尊と月桜田毘女尊に高天原を継がせるハズだった。しかし理由は不明なのだが、結果としてツクヨミ夫妻はそれを拒んだ。『初長子の姉さんがやればいい』と月桜田毘女命を連れ立って、西古農里原家司の里?白玉池畔(富士宮市浅間大社比定)へ逃げてしまった。それに加えて、次男ヱビスは体が不自由なために伊豆半島の淡島へ隠棲しており、結局高天原に独り残されたアマテラスが継承するしかなかった。
そこに朝鮮半島からはとこのスサノオが乱入してくる。『俺の妃になれ』と強迫され、アマテラスが岩窟に閉じ籠もる事件が発生。彼女にとっても、高天原臣民にとっても、大きな心傷となった。それを察したのか?ヱビスもツクヨミも高天原へ戻り、姉政権をサポートするようになった。
〜アマテラスの補佐?〜
▲ヱビス=オオワダツミ(全国海の統治)
▲ツクヨミ御子=オオヤマツミ(山の統治)
※具体的な権限などは記載なし。
ここまで読んで皆さんも気付くとおもうが…。
どうやらこのお話には身内の痴話も含まれており、当時周囲がハッキリさせることを避けたのではないかと思われる。いうなればグレーゾーンにならざる得なかった。姉弟は表面上は仲良しに見えても、水面下では互いの不満をつのらせていた。周囲からしてみれば、家族にしか解らないデリケートな問題である。臣民らはとりあえず姉弟の仲の良い協力関係だけを祈って、その成り行きに任せた。
宮下文書的にも、やはり神皇としての女神アマテラスの独身性は異例としか言いようがない。当のアマテラスも多くの国内改革に着手しているものの、どこか…自らの配偶者を決めかねていた節がある。神皇となるであろう夫を持つこと...、それは見方をかえれば先代遺言に対するクーデターにも見えてしまうだろう。彼女は高天原の臣民を混乱させることは避けたかったのではないかと。故に自ら神皇へなることは、とりあえず当面は摂政を目指し、躊躇を示さねばならなかった状況とみる…。
だとすればアマテラスはかなりの犠牲を払っていたのだろうか???。少なくとも内心、将来への不安で押し潰されそうになっていたのではないかと…。結局、あくまで彼女は摂政をに留まる努力をする必要があった。最終的にはツクヨミの心変わりを待つしかなかった…。
オシホミミ養子入りが事態を変えた?。
そこに、天下唯一のクニトコタチ男系遺伝子、マゴコロタケルの後継者問題が持ち上がる。今や国祖クニトコタチ男系遺伝子は絶滅危惧であり、彼の唯一の忘れ形見アメノオシホミミを、いっそのこと未婚義子として迎えてみては?という声が挙がる。
彼女自身も、イザナミを介したクニトコタチ女系の娘であり、それは富士朝祖霊信仰の観点からもクニトコタチ男系の遺伝子は何としても途絶えさせるわけにはいかなかった。同時にアマテラスは、行き詰まった四季島統治体制と、今後の神皇システムへの打開策を示さねばならない立場にもあった。
これを境にアマテラスとツクヨミは、この国の行く末について対話するようになった…。偶然にもアメノオシホミミ実母・松島毘女命はツクヨミ妃月桜田毘女命の妹でもあったので、ツクヨミも大きな関心をよせていたハズだ。今や天つ神は絶滅の道を歩んでいると...、そして日と月は、姉と弟であり、男と女であり、互いに協力していくことが肝心なのではないかと。。。。(妄想)
こうして、クニトコタチ男系ニニギとクニサツチ女系コノハナサクヤヒメの婚姻が決定された。
〜アマテラス義孫のニニギ両親〜
▲正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
▲万幡あきつ姫命(栲幡千千姫命)
※因みにホツマツタヱ12文では、このアメノオシホミミとタクハタチヂヒメの婚姻での添酒を、『妹背のささ祝い』としている。男(ヨオ)は太陽、嫁(ヨメ)は月、月は日の光で輝く。
〜ツクヨミ孫のコノハナサクヤ両親〜
▲正哉山住命(大山祇命)
▲速あきつ姫命(加茂澤毘女命比定?)
※あきつ州=日本の意味。ホツマツタヱでは栲幡千千姫命にアマガツを贈り、その習慣が後世ホツマ成立時期の天皇家まで残っていたという。宮下文書版加茂澤毘女命=別雷命=三島神=寒川毘女命
ズバリ伊勢と妹背の接点は、この辺にあるのではないかとみている。
神皇がピンチのときの家族への接し方...。日と月、陰と陽、男と女の統合…。そして前記事でご紹介した勾玉(マガタマ)の形状のホントの意味なのではないかと…。荒祭宮に瀬織津姫命が祀られていた状況や、内宮外宮それぞれの別宮『月読宮』と『月夜見神社』があることも合点がゆく。歴代斎王が斎(いつき)を奉祀していた理由も見えてくる。
さらには、伊勢祭祀の由来が妹背にあるとするならば、クニトコタチ男系を養子にしたアマテラスを、豊受大神クニトコタチと並ぶ最高神と据えた理由もわかるような気がする。彼女こそがこの国の瀕死の時を救ったのだ。
〜イザナギ・イザナミ三貴神〜
▲アマテラス(初長子・長女・第一子)
▲ツクヨミ(第一皇子・長男・第二子)
▲ヱビス(第二皇子・次男・第三子)
※スサノオとアマテラスは、タカミムスビ起点の『はとこ』同士。岩窟事件の謝意を表したので、アマテラスの義弟となり誓約を結んだ。
※謝罪と訂正。前記事ではヱビスを次男としておりましたが、三輪本現代訳を改めて見たところツクヨミが次男です。根本的に次男と二子を混同させていたみたいです。重ね重ね間違えてしまったことをお詫びします。
m(_ _)m
ニニギ・コノハナサクヤは『兄妹婚』。
アマテラス発案の神皇システムが本格始動したのが、孫世代ニニギ朝以降ということになる…。
先代二尊の四季島統治体制の各地の神領は、ニニギ朝へと接収された模様。その上で外寇親征の役の戦論功行賞末に、ニニギ勅定十七軍神へ再分配された。そして霊的・政治中枢を高天原『家基都』に一本化、名実ともに中央集権化が整ったわけだ。過去の四季島統治協約を反故に出来たかと言うと、それはやはりニニギとコノハナサクヤが二尊体制を継承した特別なカップルだとも言えるだろう。
どれもこれも、アマテラスとツクヨミの協力のもとに、初めて実現できた改革であった。
※皇祖クニトコタチとクニサツチの兄弟は、国土を四分割して統治した。
※ニニギ朝により、四季島統治四分割は十七軍神に割譲された。今も各地域の地主神としてその痕跡は見られる。
つまり記紀における『ニニギ天孫降臨』伝承の実体は、ニニギが何処かから何処かへ遠征して、どこかを攻撃して、どこかを平定したわけではない…。あくまで行き詰まった四季島統治体制をヴァージョンアップしたに過ぎず、後世の天皇制がここに確立されたことを示しているだけだ。その後宮下文書記述では、ニニギによる東国からの海外勢力攻防戦と、タマノオヤの東国からの西征による国内平定があったために、それらが記紀では天界からの遠征を演出する必要もあったと思われる。ただすべては富士朝の痕跡を抹消し、富士山から目を逸らする為である事をお忘れなく。
その後のニニギの神話は広く語られている。
記紀版ニニギはどういう訳か、コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの二柱を一旦娶ったことになっている。確かに現代的な感覚で見れば、年の功として、ニニギとイワナガヒメが結ばれてもよかったのではないかと?。これが新たな誤解を生み、コノハナサクヤは美人でイワナガヒメはそうではなく、ニニギは優柔不断の浮気者とのレッテルが貼られた。これを『バナナ型神話』と呼ぶそうだが...。
いやいや。。。いま現代人が留意しておくべきことは、富士山が抹消されて、富士朝大宮司タマノオヤが消されていることだろう。
〜クニトコタチ男系〜
▲兄ニニギ(神皇)
▲弟タマノオヤ(富士朝大宮司)
〜クニサツチ女系〜
▲姉イワナガヒメ(タマノオヤ妃)
▲妹コノハナサクヤヒメ(ニニギ皇后)
だとすると疑問なのは…。なんで宮下文書版の彼らは、兄妹✕弟姉という互い違いのような特異な婚姻体型を選んだのだろうという新たな疑問も生まれる。これってもしかして兄妹婚なのではないかと...。
wikipedia兄弟姉妹婚によると、兄妹✕弟姉の筋違いの特殊な婚姻形態をすることによって、宗教上や、遺伝子上の強固な繋がりを復興できると考えらてきたようだ。世界史的にも、異母兄と異母妹の政略結婚が間々みられるという。だとするとニニギとタマノオヤの遺伝子を、政治と大宮司が互い違いのように、アマテラス男系にツクヨミ女系遺伝子がサポートするように綿密に計画されていた姿が浮き彫りになるのだ。
しかしニニギには遣る瀬無さも残していることもお忘れなく。最近熊オッサン的には、ニニギさまならこの現状をどう考えるのかな?と思うことがある。
彼の少年期は天資勇武で心荒く、猛々しく、一度も徳を修めたことがなかった不良少年であった(p62)。これにはアマテラスもお手上げ状態で、ニニギの外祖父スサノオに教育を頼ったこともある。さらには、この姉アマテラスと弟ツクヨミがお膳立てした男女協定関係を、ニニギは対立へ極限までエスカレートさせて、妻を最悪な形で失うこととなる。これは一つの現代に残る男女和合のためのカルマなのかな?とも思う。
ニニギさま的にもタマノオヤさま的にも、この『バナナ型神話』をなんとかしたいと...思っているのかもしれない(妄想)。
日月まとめ
宮下文書によれば、もともとこの国は近親婚の国だった。
ホツマツタヱでは、それを妹背と呼んだ。
それを知らなければ伊勢の語源も日本神話もその解明は難しいだろう。ただ今となってはそれは死語であり、現代人の私が困惑したのもあたりまえなのかもしれない。
宮下文書によれば、初代神武〜12代景行天皇時代まで、天皇家は武部家(もののべ)と祖家(そが)を交えて三つ巴婚をしてきた。
飛鳥時代に、大改革者といわれる聖徳太子が登場、31代用明天皇と異母妹穴穂部間人皇女の御子であったといわれる。押坂彦人大兄皇子と異母妹糠手姫皇女の御子・34代舒明天皇も異母兄妹婚とされる。
そして38代天智天皇と40代天武天皇の大改革があった。天智天皇の妃・額田王は、天武天皇の前妻だったともいわれる(諸説あり)。柿本人麻呂が仕えた天武天皇皇后である41代持統天皇も、もともと天智天皇御子となるわけだ。先代の39代弘文天皇の姉。兄妹婚の拡大解釈といえそうだ。これら柿本人麻呂の活躍した時代にドンピシャなのわけで、妹背の古代政治哲学に官人・歌人が関心を寄せていたのは容易に想像できるだろう。その影響は歌にも表れているのではないだろうか?(次回検証)。
※因みに1668年宮下家も、67代宮下甚太夫宗忠の斬首により宗家が途絶え欠けたが、大宮司妹・豊女を先代宗忠の従弟・義信と婚姻させ復興を遂げている。これもある種の妹背の道と言えそうだ。
アマテラス朝の当時、皇家は瀕死の危機を迎えていた。そして時間は限られていた。
そこでアマテラスとツクヨミは、ひとまず互いの立場を乗り越え、男女の和合を試みたようだ。女であり姉という立場、男であり弟という立場。互いを見つめ尊重したうえで歩み寄りを画策した。
その回答が、現在まで続く神皇システムの根幹をなしているのは明白である。そこには男女という永遠のテーマが丹念に織り込まれており、子孫繁栄のためにはどちらの歩み寄りが欠けても実現不可能となる。その戒めまでも計算され尽くして後世に残されている感すらある…。いうなれば、神皇とは男女和合の達成した上に成立する。それが血肉となり子孫繁栄は繁栄し、ピンチのときには結束を生み出す。
この国への姉弟の想いが、次世代の夫婦男女の道標となっている。これが妹背のホントの意味なのではないかと…。まさに原始時代の厳しい環境下における、家族愛のカタチだった。風の時代にそれが女性天皇制や、あらゆる社会的問題として噴出しているようにも見える。
(´(ェ)`)
※地図はクラフトマップ使用。