2024,9,8
前記事の続き、マゴコロ夫妻について。
伊勢遥拝所であり、日月神示発祥地『麻賀多神社』が、淡津佐国に僅かに残る地主神マゴコロタケル夫妻の痕跡なのではないか?と考察した。
~ホツマツタヱ妹背の宮下文書解釈?~
- アマテラス
- 豊受大神 →クニトコタチ?男系男遺伝子
- 瀬織津姫 →月桜田毘女命?女系女遺伝子
- ワカヒルメ →マゴコロヒメ?男系男遺伝子
▲マゴコロタケル→ワクムスビ?
▲マゴコロヒメ→ワカヒルメ?
だとしたら周辺にマゴコロタケルの痕跡がもっと残っていても良いはずだなと…。神道は基本的に祖霊信仰であり、地主神を大切にする傾向があるからだ。現状千葉県内では地主神マゴコロタケルに代わり、東征者ヤマトタケル信仰が多い事だけはわかっているのだが…。
ん…まてよ?
ヤマトタケル…
マゴコロタケル…
あ…(´(ェ)`)
今回は、ヤマトタケル伝承に埋没しているマゴコロ信仰を探ってみる。
~目次~
- 〈おさらい〉ヤマトタケルの動機と覚悟
- 〈おさらい〉天皇は富士山が怖かった。
- 〈おさらい〉ヤマトタケル女遺伝子が新しい東国秩序を作った?。
- あがつま・あわ
- 今明かされる『吾嬬』の真相
- 相模国における、ヤマトタケルとマゴコロタケルの重なり?。
- おわりに
〈宮下文書〉妹と伊勢の語源?、ホツマツタヱ『妹背の道』から紐解く伊勢神宮の日月祭祀。 - セキホツ熊の謎を追え!
〈日月神示✕宮下文書〉淡津佐地主神マゴコロタケル夫妻と、麻賀多神社の御祭神の真相。 - セキホツ熊の謎を追え!
〈おさらい〉ヤマトタケルの動機と覚悟
そもそも、ヤマトタケル東征の動機とは?。
宮下文書における神武天皇〜欠史八代までの歴代神皇は、富士朝信仰を恙無くおこなっていた。それ故に旧勢力富士朝+ウガヤフキアエズ朝も、同祖の古豪たちは大和天皇勢力に協力を惜しまなかった。全国的には阿族同士の共同歩調が続いていたとみられる。
しかし10代崇神天皇により三種神器が富士朝阿祖山太神宮から奪取された。さらに11代垂仁天皇時代に伊勢神宮が創建され、続く12代景行天皇以降の政治と祭祀が狂ってゆくさまが克明に記されている。そのドタバタでホツマツタヱが編纂されており、これらどういう因果関係なのかは簡単に察しがつくだろう…。
つまり彼らは大和国周辺に都合の良い政治をし、権益を増大させるため、日本全国の歴史を改竄することを思いついたのだ。
伊勢神宮を宗廟とする新しい神道にてアマテラスを最高神と奉祀する以上は、アマテラス以前の歴史を簡略化or消去させる必要があった。それに伴い『富士山なしの神道体系』という…大規模な神道改革に迫られていた。それまでの宗廟であった富士朝阿祖山太神宮は、祟りが怖いために否定も肯定もされず、スルーされはじめた。
西国天皇勢力は中央集権化が急務であり、旧勢力古豪の既得権益を封じる必要が出てきた。とくに融通が利かない頑固な九州・東国旧勢力の切り捨ても視野に入れていた。無論その際は、富士山と高千穂峰に関する黒歴史を、西国史上から全て抹消しなければならなかった。つまり大和朝廷による全国統治はまだまだ過渡期であり、その強制力は東国や九州へは遠く及ばなかった。大和周辺の一握りの権力者を優先させるため、旧勢力との反抗は起こるべくして起こったのだ。
ここに、東国へ乗り込んできたヤマトタケルの覚悟が垣間見れるだろう。
日本武尊のミッションとしては、まず富士朝を黙らせ、その上でホツマツタヱ神道体系を踏襲し広める。具体的にいうと信州出雲を戸隠してネ国へ移し、神武天皇時代からの安房忌部や大宮司タマノオヤ子孫(安曇族?)らが祭祀してきた東国古代神を封じる。
すべては父・12代景行天皇の権益のために…、そして新しい神道の宗廟『伊勢神宮』を確立させるため…。
〈おさらい〉天皇は富士山が怖かった。
しかし…これはあくまで建て前で、そう簡単に実現化できるものではなかった。このあたりが歴史の面白いところなのだろう。厄介なことに権力者や兵たちの深層心理には、まだまだご先祖さまへの畏敬の念が強く残っていたのだ。
時代が前後するが、16代仁徳天皇軍東征が背景説明のよい例となる…。
富士山は日本人の発祥地、同族同祖の宗廟であることはこの時代まで知られていたとみる。ヤマトタケル東征と16代仁徳天皇東征の類似点は、歴史改竄のための富士朝神道からの脱却だった。ただそのためには東征兵士たちの動揺を誘うことは必須だった。
『神殺し』
『天に唾を吐く行為』
『先祖殺しなんて嫌だ』
『オラには絶対ムリだ…許しておくれ』
『いくら天皇さまの命令でも、それだけは勘弁しておくれ』などと…、兵たちは内心は葛藤していたと想像する。
(´(ェ)`)
結果は16代仁徳天皇軍が圧勝、反乱分子を一掃した時点で即時停戦へ持ち込んだのは何故か?。それは自軍の足元がグラついていたからに他ならず、先達ヤマトタケルが封じた東国神をいかに恐れていたかを裏付けるものだった。東国の祟られた土地や戦利品などは必要ない。その代わりに『俺たちは俺たちの新しい神道にいく』『もう俺たち大和を放っといてくれ』『こっち見んな』と言わんばかりに…、協定線となった富士川から脱兎のごとく逃げていった。結果的に得た東国の独立を、大敗したハズの富士朝大宮司大山守皇子軍が大喜びした記述が残っている…。
つまりどちらが『朝敵』の汚名を背負っていたのか?ということ。
実に西国の兵士たちは…、室町時代1444年2月2日北朝足利軍により富士朝が陥落させられるまで...、このジレンマにずーっと悩まされてきたと推測する。西国で生き残るのに仕方がなかったとはいえ、東国のご先祖さまを裏切ってきたわけである。結果としてこのような東国縁切りのトラウマを未だに信仰として抱えており、それが現在に残る天満宮・火雷天神・御霊信仰など『祟り神』信仰の本質だとみている。皮肉なことに、祟りがコワいからこそ長年に渡り信仰として成立できたわけで、それら神社群が富士朝研究の大ヒントとなって現代までに残っているわけだ。東国人と西国人も同じ阿族として同じ祖霊を祀っているハズなのだ。
そんな背景にあって、先達ヤマトタケルは覚悟を決めて乗り込んできたわけである。西国天皇勢力の開放と権益を守るため…、さらに富士朝を黙らせ東国神を封印するために…。
(´(ェ)`)
〈おさらい〉ヤマトタケル女遺伝子が新しい東国秩序を作った?。
それとは裏腹に、ヤマトタケルは富士朝大宮司家に同情していた節がある。
ヤマトタケルは富士朝を黙らせたのち駐留、さらに関東圏に根強く残る反乱分子の遠征にでた。ホツマツタヱにおける『ホツマの国』とはこの富士朝+関東圏の事を指す。その際にどういう訳か、富士朝スサノオ74代孫7代大宮司・福地記太夫命をに同行させており、いつの頃からか意気投合していったという。このあたりも東国主導で解決させたいというスタンスが垣間見えており、やはり根底には東国に対する畏敬の念があったのだろう。
岩間本におけるヤマトタケル妃・美夜受媛は、側女・妾と記載されており、ホアカリ61世孫建稲種命(通説尾張氏)の妹で、諱を岩戸毘女という。一方で大宮司福地記太夫命の妻が、熱田神宮宮司のホアカリ系・尾羽張中島松子島の記太夫神心雄命の長女で、ヤマトタケル妃・美夜受媛の叔母(伯母とも両記載されている)となる。美夜受媛はこのような環境故に戦地でも福地媛を出産でき、これを8代福地佐太夫の妃とした。
さらに佐太夫夫妻の御子が、応神天皇第二皇子の大山守皇子妃・菊野媛になり、以降の大宮司宮下家を誕生させる流れとなる。最終的にヤマトタケルは、富士朝7代大宮司・福地記太夫命に『吾嬬惣国』国造職を任せて、自らは尾張へと帰還していった。
その後16代仁徳時代になると、前述のように富士川にて東国と不可侵条約を結んだ。つまり宮下家配下惣国十二国は、西国と完全に分離していた可能性あり。通説でも『空白の四世紀』『空白の150年』などとよばれており、東西が2つに分離していたという大疑惑が浮上する。皮肉なことに…この機運を作ったのは東征者ヤマトタケルと、富士朝回帰を促した15代応神天皇であることも忘れてはならない。
〜12代景行年間以降?・吾嬬惣国十二ヵ国〜
- 佐加見(相模)
- 伊須(伊豆)
- 住留賀(駿河)
- 海伊(甲斐)
- 武佐志(武蔵)
- 上毛(上野)
- 下毛(下野)
- 阿津佐(あづさ上総下総?)
- 阿波土海(安房?)
- 日下地(常陸)
- 尾久(陸奥)
- 出羽(出羽)
ちょっと気になる点は、この東征がきっかけで東国に移住した西国部族は殆どおらず。しいて言えば、お目付け役として富士朝高天原に残留した副将・大伴武日ぐらいであろう。13代成務天皇時代までに関東各地に点在する、エタモヒ出雲族が流れて武蔵国造祖となったとする伝承も疑わしい。もともと古来からの権益を有していた、富士朝関係氏族や東国氏族を無視するための附会もありそうだ。故に兄武日命≒大伴武日勢力説が出てくるわけだが...(いつかまた別記事にて)。
後世平安期の源頼義と義家の東征は、西国より富士朝経由で東国入りしており、その際に河内国近くの石清水八幡宮を拡散させたともいわれる。しかしホントのところは、ヤマトタケルや応神天皇が富士朝大宮司家の遺伝子となっており、それが東西に残された子孫の架け橋となっているようだ。実際に彼らが東国の新秩序を牽引してきたわけであり、歴史改竄者ヤマトタケルが単なる『悪』として語れないポイントとなっている。
関東圏に多いヤマトタケル系と応神天皇系神社神社は、自身が彼らの子孫である証であり、西国から流れてきた信仰ではないハズなのだ。祖霊信仰的にみれば自然なことであった。
あがつま・あわ
前記事でも述べたように、宮下文書における全国地域での祭祀の優先順位は、まず地主神やニニギ勅定17軍神にあると思われる。千葉県内で言えばフツヌシを祀る下総一宮『香取神宮』がそれに該当する。しかしながらフツヌシ統治時代よりも先達のマゴコロタケル祭祀が、全く見当たらないのも奇妙だなと。おそらくは同圏内に多くあるヤマトタケル・オトタチバナ信仰に埋もれてしまっているのではないかと睨んだ…。
〜ホツマツタヱ7文〜
かくのき かれてもにほゆ
しほれてもよや あがつま あわ
あがつままあわや
しほれてもよや あがつま あわ
▲天=あ
▲地=わ
▲人=や
例えば上の歌は、ホツマ7文のウズメ『常世の踊り』として紹介されているが…。
おおよその訳としては『愛しい人は逝ってしまった。でもその痕跡は、私を幸福にしてくれる…』。この歌が、吾嬬と安房の掛け言葉となっている点にお気づきだろうか?。
上の歌で、カク=カグ(橘)の木とは、オトタチバナに掛けられていると思われる。ホツマ版オトタチバナはタヂマモリの実娘となる。
ホツマツタヱにおけるこの時代、日本で橘が大量に枯れてタヂマモリが大陸へ採取に派遣された。タヂマモリが大陸から戻ると11代垂仁天皇は崩御しており、これに追随して殉死した。それに感銘を受けた12代景行天皇は、残された娘を穂積臣オシヤマに養育させ『オトタチバナ』の名を贈った。後日サカム(相武=相模+武蔵)の小野のオトタチバナ実祖父タチバナモトヒコの屋敷にて、皇子ヤマトタケルに紹介されたようだ。これを足柄峠から煙が見える相模原厚木市『小野神社』と見る説もある。
いずれにせよホツマツタヱ編纂者は、ヤマトタケル一行の『ホツマ国』、つまり『吾嬬惣国』建国への功績をかなり意識していたと思われる。これが本来の安房国祭祀に変わられゆく存在であると、アピールしているかのようにも見える。
今明かされる『吾嬬』の真相
宮下文書版ヤマトタケル東征軍は、海路で相模国→房総半島を目指したようだ。それを阻むかのように嵐が発生しオトタチバナヒメがその海神を鎮めるべく殉死した。この辺りは小さな差異はあれ各地伝承どおりとなる。ただ宮下文書はその殉死の動機をこう記している。
〜岩間本『開闢神代暦代記』三版p266〜
…阿津佐(あづさ)の出崎に近づいたところ、暴風俄に起り、舟は三浦ヶ崎に吹きつけられた。風、濤?愈々はげしく、陸に上るもならず、亦、進もならず、『妃の橘姫は、これ東北の悪神海神の祟なるべし』と海神を祈り、命に代り海に投じた。姫の念願天に通じたものか、風は休み浪は静まり、阿津佐の出崎に着するを得たのである。
※悪=本来は『突出した』『強い』の意味。
では、ここに出てくる東北神とは誰のことだろうか?。
淡水門から房総半島へ渡るオトタチバナが東国神を恐れていたのであれば、シチュエーション的に阿津佐地主神と考えるのが妥当であろう。それは悲哀を遂げたヤマトタケルの祖先、マゴコロタケル夫妻に他ならないのである。
つまり彼女は、夫が祖先に祟られるのならば、自らが捧げ身となり犠牲になろうと考えていたようだ。夫妻神へのマゴコロを捧げたことになる。
ヤマトタケルにとってこれが涙腺破壊のトリガーとなり、関東甲信越の各地に残る吾妻伝説へと尾を引いているのがわかる。各地伝承曰く、その後の彼が事ある如く『吾妻はや』『アガツマはやと〜』と嘆き回っていたという。彼にとってこの事件が受け入れられないのは理解できる…。壊れたように涙が止まらなかったことも解る…。しかしこれらの伝承にはどこか尋常ではない、執着というか...、美談にするには違和感を禁じ得なかった。
まず国名に妻を記すのは、よくも悪くもフツーの日本人の感覚ではない。ここまで各地の歴史をいろいろみてきたが、どんな理由であれ夫婦を誇示するような名称は日本の風土に馴染まないようだ。そもそも戦争中なので犠牲となっているのはオトタチバナだけではないし、東奔西走して百戦錬磨を率いてきた指揮者であれば、周囲の困惑を察して個人的な悲しみを押し殺すのではないかと...。この記述を読む限りは、その軍人の鉄則を無視したヤマトタケルはかなり情熱的な御人だったとしか言いようがない。余程の悲劇だったのだろうと心中お察しするしかなかった。
でも果たしてそれだけなのかなと…。
しかし…今ならばわかる!(´(ェ)`)
それはズバリ愛なのだと!(´(ェ)`)
つまり『吾妻』とは、オトタチバナヒメだけを指しているのではない。吾嬬という言葉の裏には、オトタチバナヒメのみならず、祖霊マゴコロタケル夫妻と東国史への哀悼の意も込められていたのではないか?と…。
この夫妻神は東国アヅサ・アワの開拓者で、彼にとっても祖先なわけで、夫妻神の絆を世に示した偉人であった。夫妻神の神話にも同情も寄せていた。しかし西国が現在進行形で主導している伊勢神宮祭祀にとっては、邪魔な存在でしかなかった。東征者の立場上はそれを封印しなくてはならず、彼には祟られてもそれを一人背負うだけの覚悟は持っていたのだと思われる。
それをオトタチバナが察し、夫が一人祟られるのであれば、夫妻へのマゴコロを示すしかないと考えていた。だからこそ尚更二人は悲しかった…。
そしてその代償の如く、妻は入水自殺を選んだ。
本来であれば、全ての日本人とその子孫が語り継ぐべき御神名である。ヤマトタケルにとっても妻の死のためには、この因縁関係だけは必ずや後世に残したかった。しかし東征者の立場上その神名が明かされることはなかった。彼も『吾妻はやと』と叫ぶしかなかった。これが夫妻神とオトタチバナへの精一杯の手向けだったのであろう…。
宮下文書岩間本曰く、以来東国を吾嬬(オレの妻?)国と称したという…。そしてこれが、アヅサからアガツマ・アズマへと変遷していったのではないか?と思われる。
それが今も、謎の伝承として関東甲信越に残っているわけだ。
(´(ェ)`)
相模国における、ヤマトタケルとマゴコロタケルの重なり?。
ホツマ版オトタチバナの出自は、アメノヒボコ三宅連タヂマモリ実娘。
宮下文書版オトタチバナヒメは詳しい出自はわかっていない。ただ『大妃橘媛命』と表記されており、美夜受媛が側女・妾とされているので、単純に考えてヤマトタケルの本妻ではないか?と思われる。
さらに宮下文書岩間本p271では驚くべきことにことに14代仲哀天皇の『実母』と記載されており、15代応神天皇から大山守皇子宮下家へ女遺伝子として継承されていることになる。宮下文書版大山守皇子には、徐福の血が入っているとされている。
当ブログでアメノヒボコ三宅連とは、三宅=宮下(ミヤケ)の日本全国に散らばった富士朝信仰の痕跡ではないか?ともみている。これがホツマツタヱのサカムの小野のタチバナモトヒコから推測するに、富士朝関連の東国氏族または秦氏ではないか?と思われる。これがもしかしたら『梅宮大社』にて酒解神オオヤマツミを祀る、後世の県犬養系橘氏とも関係があるかもしれない…。
神奈川県伊勢原市内には太田道灌首塚もあり、富士朝関係氏族や秦氏の拠点が多いことから、オトタチバナも秦氏系であったのではないか?と推測している。
◯相模三宮『比々多神社』(神奈川県伊勢原市三ノ宮)
〜主祭神 〜
- 豊国主尊(トヨクムヌ)
- 天明玉命(タマノオヤ同神と解釈される)
- 雅日女尊(ワカヒルメ)
- 日本武尊
〜相殿神 〜
▲大酒解神(大山祇神、橘氏の氏神)
▲小酒解神(木花咲耶姫)
※丹沢山系大山を御神体とした神奈川県内最古級の神社。神武天皇時代創建だが、縄文遺跡群あり。
※※元宮あり、御祭神不明。
※※※1.5キロ北に同名社があるので注意、御祭神はコノハナサクヤヒメ。
この神社…今考えるとどうしてもマゴコロタケルを感じてしまうのだ。
ここで御祭神ラインナップをみてみると、トヨクムヌはマゴコロタケルの実父。前記事のようにワカヒルメはマゴコロヒメ(松島毘女命)と比定できそうなわけで…、ヤマトタケルとマゴコロタケルが入れ替わってないだろうか?とも推測できそうなのだ。
〜御祭神の宮下文書解釈?〜
▲豊国主尊→マゴコロタケル父
▲天明玉命→マゴコロタケル孫
▲雅日女尊→マゴコロタケル妃???
▲日本武尊→???
比々多神社は、クニサツチ勢力富士山とクニトコタチ勢力丹波出雲を結んだレイラインの延長線上にあり。
このレイライン自体は過去何度もご紹介しているが、ライン上の橘樹神社・姉埼神社・足柄峠・萱津神社にはヤマトタケル伝承地となる。彼が東国軍に火攻めに遭い草薙剣を使用したのが火神信仰本宮『愛宕山』の延長線あたりにある点も興味深い(苦笑)。
愛知県あま市『萱津神社』には面白い伝承がある。伊吹山で負傷したヤマトタケルが伊勢国へ向かう途上萱津へ立ち寄った。これを知った尾羽張中島松子島の美夜受媛が馳せ参じたが、夫は既に伊勢国能褒野へ立ち去っており、このことから阿波手の杜という伝承があるという。御祭神はオオヤマツミ妃カヤノヒメで、宮下文書比定カモサワヒメと思われる。
前記事でご紹介したようにヤマトタケルは信州出雲戸隠を封印した張本人の可能性あり。最終的には信州戸隠山→日本総社津島神社レイライン延長線、『能褒野墓』にて埋葬されたという。
前記事のとおり、熊オッサンの神社めぐりが見えない存在にコントロールされている『自動神社めぐり説』を提唱したわけだが...(苦笑)。最近思うのだが...このヤマトタケルもその可能性高いのではないかと?。
なんでこんなにも、レイライン上の意味深なポイントに伝承地が残るのか?
ホントに偶然なのか...?(´(ェ)`)
~富士山・出雲大神宮レイライン~
▲丹波出雲=クニトコタチ勢力拠点
▲富士朝高天原=クニサツチ勢力拠点
- 上総二宮・橘樹神社(オトタチバナ)
- 建市神社奥宮(旧跡)
- 姉埼神社(ヤマトタケル創建)
- 袖ヶ浦(オトタチバナの袖が漂着した地)
- 水天宮・太田杉山神社
- 弘明寺(行基開基・高野山真言宗)
- 高部屋神社(式内論社)
- 太田道灌首塚
- 伊勢原大神宮
- 比々多神社元宮
- 東口本宮・須走浅間神社
- 富士山
- 月瀬の大杉(月瀬神社旧跡)
- 大目神社(式内社、アメノオシホミミら八王子神)
- 萱津神社(阿波手の杜伝承)
- 日本総社津島神社(宮下文書版・出雲天獄の里宮比定)
- 瓦屋禅寺(聖徳太子開基、蘇我馬子・小野妹子の関与?)
- 太郎坊宮・阿賀神社(アメノオシホミミ降臨伝承)
- 神山(京都賀茂別雷神社・別雷命降臨地伝承)
- 愛宕山(愛宕神社御神体)
- 丹波一宮出雲大神宮(御蔭山磐座)
- 日本ヘソ公園(兵庫県西脇市、北緯35度・東経135度)
- 稚桜祖霊社???(島根県益田市柏原町・詳細不明)
- 津島国分寺
- 嚴原八幡宮神社(石清水八幡宮の起源説)
また式内社『大目神社』と『太郎坊阿賀神社』の御祭神が、マゴコロタケル御子アメノオシホミミである点も見逃せない。
あくまで個人的妄想として。
神奈川県海老名市『有鹿神社』も…、マゴコロ夫妻神を匂わせる神社だなと思っている。相模川の一宮・寒川神社よりも先達で、太陽神の夫妻、安房忌部祖神フトダマが祀られていた形跡があるという…。現在オオヒルメも本殿に祀られている。かつては広大な社地を有していた。
おわりに
そういえば…。
平安末期1180年伊豆挙兵後に、通説安房へと落ち延びたといわれる源頼朝も、八重姫と北条政子というパートナーへの悩みを持っていた…。
これらは古臭いロマンスであり、殉死を夫婦の美徳にするなんてとんでもないと解釈される方もおられよう。この先の未来はもっともっと歴史が理解されない社会となる可能性もあるが...。それでも古代の愛が遺伝子となり、この国の礎となっている点は、誰にも否定できない事である。
(´(ェ)`)
※宮下文書における源頼朝は房総半島へ行かず、和氏三浦氏と別動隊となっていた可能性があるが…。その場合の源頼朝は、石橋山から箱根経由で富士朝に隠れていた可能性もあるだろう…。
※地図はクラフトマップ使用。