2025,1,5
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m。
今回もほぼ思いつきの旅です。年末記事で飽波神社300m北にある『若一王子神社』をご紹介しましたが、この目で確かめたくなり旅にでた。当ブログ『妹背論』を裏付ける驚愕の真実を見つけてしまった(別記事にて)。
今回はさらに足を伸ばして、以前から行きたかった遠江一宮小国神社『奥磐戸神社』へ。本ブログで何度もご紹介しておりますが、宮下文書における阿祖山太神宮初代大宮司オオクニヌシ系統本貫地に比定される重要社。
(´(ェ)`)
〜遠江駿河めぐり〜
- 遠江一宮事任八幡宮(己等乃麻知比売)
- 事任八幡宮本宮磐座(己等乃麻知比売)
- 阿波々神社(式内社、阿波比売命=己等乃麻知比売和魂)
- 飽波神社(瀬織津姫・蛭子・アメノオシホミミ)
- 若一王子神社(源義家、千歳の松伝承)
- 月夜見神社・八幡神社(ツクヨミ・アマテラス)
〜遠江めぐり〜
- 香勝寺(武藤氏関係)
- 真田城跡(武藤氏拠点、別名一ノ宮城)
- 遠江一宮小国神社(武藤氏が武家神主だった?)
- 西宮神社(ハイキングコース分岐点)
- 奥磐戸神社(オオクニヌシ降臨地、奥宮)
- 天宮神社(小国神社と対関係?)
- 賀茂神社
~目次~
遠江一宮『小国神社』とは
創建不詳。社伝によると、555年(欽明16年)、現在地から6km北東・標高480mの本宮山に創建され正一位を賜る(諸説あり)。本宮山は現在も奥宮を称しておりオオクニヌシ降臨地伝承が残っている。古名として許当麻知(ことのまち=ことを待つ)神社、または事任(ことのまま=事のままに)神社と呼ばれている。『小国(おぐに)』というのは出雲大社に対する美称とされている。
◯『小国神社』(静岡県周智郡森町一宮)
〜御祭神〜
- 大己貴命
〜摂社〜
- 奥磐戸神社
- 並宮
- 八王子社(宮下文書版クニサツチの八王子と推測)
- 宗像社
- 飯王子社(ウケモチ≒飯縄権現オオトノヂ・オオクニヌシ父神と推測)
- 塩井神社
- 瀧宮
- 愛宕社
- 白山社
遠江一宮は2社あるので注意。もう一社の静岡県掛川市八坂『事任(ことのまま)八幡宮』はホツマツタヱ神道大系と思われる成務天皇年間の創建。言わずもがな中国地方出雲の歴史改竄が始まった同時代とみられ、自ずと遠江国の富士朝とオオクニヌシの歴史から目を逸らせる必要があったわけだ。
ただ事任八幡宮にも本宮山があり磐座があり、尚且つ戸隠山~諏訪湖のレイライン上にある。古代祭祀場が残っているのでどちらが重要かは断定できない。御祭神は己等乃麻知媛命でアメノコヤネの母神だが、『ことのまま』の名称から考えても小国神社と何かしらの呼応関係が考えられそうだが…。
宮下文書におけるオオクニヌシとは?。
宮下文書におけるオオクニヌシとは、出雲国出雲大社とは全く関係ない。
アマテラスが創建した阿祖山太神宮の初代大宮司であり、全国の農民・職業の師の大祖神。クニサツチ御子オオトノヂの長男、サルタヒコの兄、アマテラス・ツクヨミ・スクナビコナ・コトシロヌシ・タカテルヒメ・月桜田毘女命の従兄弟にあたる。
因みに小国神社入口にある摂社『飯王子社』は、飯綱神社里宮と同じくウケモチを祀る。飯綱権現ではもともと飯綱山に農作の租オオトノヂを祀っていた経緯があり、ウケモチ=オオトノヂの可能性が高い。だとすればオオクニヌシとサルタヒコの父神。
アマテラスは大己貴命に命じて、四方州々を回り農民神に諸々の職業を指導させ、大槌と大熊の大袋を与えた。全国を巡り巡って高天原に帰還した大己貴命は、諱として『大国主命』を賜る。オオクニヌシとヱビスが四方州々から牛・馬・鹿を取り立てて、アマテラスに貢いたことから租税の祖ともみられる。
スサノオ(多加王)が朝鮮半島から高天原にやってきて、アマテラスに強引な求婚をした折、彼女に安全な岩戸に隠れているように奏上したのはオオクニヌシだった。つまり岩戸事件を解決した一番の功労者。スサノオは、アマテラスとオオクニヌシのタカミムスビ系はとこにあたると見られ、スサノオが信州出雲(比定地戸隠山)に配流された折に、彼のお目付け役となったとみられる。
ニニギ時代、外寇親征の役論功行賞にて、オオクニヌシとコトシロヌシ子孫一族を北国守護司頭長の家と定める(戸隠を含んでいた可能性あり)。
因みにこれがホツマツタヱにおいて、ホツマ版・初代大物主オオナムチが北方へ退いたことを暗示させている。ホツマ版出雲八重垣事件にて高天原から嫌疑をかけられ、日隅国 (津軽一宮岩木山神社) に国替えされたと歴史改竄している。これが現代までに語られる出雲神話『国譲り』の原型となっていると推測。
ヒコホホデミ時代、オオクニヌシは遠久見(遠江国)の国造となり、佐野原に佐野宮(古麻の宮?)を建てて拠点とした。因みに明治時代まで掛川〜森町周辺(事任八幡宮付近)を佐野郡と呼んでいたようだ。
彼にとっては実質大宮司からの隠居生活であった。弟サルタヒコはアマテラス〜ヒコホホデミの四代に仕え、御年十六万三千日(446歳)のご長寿。同時代生きた兄オオクニヌシもご長寿であったのは間違いない。
神武東征時代、九州ウガヤフキアエズ朝からやってきた神武天皇挙兵に早期段階で応じたのがオオクニヌシ57代豊徳知貴命。宮下文書版三輪氏祖とみられ、彼の五人の息子たちが大活躍した。祖神オオクニヌシが租税の祖であることから、戦後は三輪の里で諸税収納役(税務監督者?)と商法担当に抜擢されたようだ。
〜オオクニヌシ『三輪氏』とは?〜
※豊徳知貴命と5人の息子たち(三輪本現代訳p126)
▲大太力命(嫡男、租税・商法の官職を継ぐ)
▲佐野男命(遠久見・三川の県令)
▲尾羽喰男命(古麻の宮を継ぐ)
※この三子を三勇士とよび、総じて『三輪家』と呼んだ。
△天香護山命(コトシロヌシ御子と同名別神、越後国造)
△萱野世諾命(佐渡県令)
つまり宮下文書視点からいうと、オオクニヌシと出雲国出雲大社は直接的な歴史が全くないということだ。そもそも宮下文書における地祇や国津神というのは、全く意味が異なっている。明治時代になると、信州出雲戸隠『顕光寺』が明治政府により焼き討ちにあった。奇しくも明治初年にこの小国神社も焼失したという。wikipedia出雲大神宮によると、江戸時代まで出雲の神といえば丹波一宮で、出雲大社は杵築大社と称していた。
出雲大神宮・戸隠神社・小国神社は、宮下文書『出雲大神』とその変遷を裏付けている貴重な存在なのである。言い換えれば、海外ユダヤ勢力と結託し開国を迫った長州率いる明治政府にとっては、都合が悪い存在であった。昨今ネット上でも、忌部日ユ同祖論・出雲口伝・出雲王朝説がゴリ押しされて、宮下文書がタブー視されている理由も頷けるであろう。
出雲王朝なんてないよ(´(ェ)`)。
小国神社に交差する五本のレイライン
〜①富士山氷川小国レイライン〜
- 筑波山六所皇大神宮霊跡(前記事参照)
- 蠶影神社(前記事参照ワクムスビ、800mズレ)
- 国王神社(平将門公)
- 春日部八幡神社
- 久伊豆神社
- 武蔵三宮氷川神社(現一宮)
- 北野天神社(小手指、ニギハヤヒ)
- 武蔵二宮二宮神社(クニトコタチ)
- 石楯尾神社(式内論社、名倉権現)
- 御正体山
- 新屋山神社奥宮(500mズレ)
- 富士山
- 大石寺(◯◯学会関係?)
- 大洞院
- 遠江一宮小国神社
- 鷺之宮八坂神社(アメノオシホミミ)
- 有玉神社(坂上田村麿伝承)
- 潮岬出雲
- 朝貴神社(大己貴命、1.8kmズレ)
- 本州最南端の地
※熊野那智〜熊野速玉〜阿祖山太神宮古宮跡〜筑波山〜大甕神社・泉神社にほとんど平行している。
〜②戸隠小国レイライン〜
- 戸隠山
- 戸隠奥社
- 日本中心の標(長野県辰野)
- 松島神社(伊那松島、ニニギ)
- 小国奥宮奥磐戸神社(600mズレ)
- 小国神社三ツ石(牓示石)
- 遠江一宮小国神社
- 真田城(遠州武藤氏拠点)
- 鎌田神明宮
※『日本中心』は定義・条件により全国アチラコチラにある。
〜③籠津島熱田小国レイライン〜
- 眞氣命神社(隠岐)
- 隠岐神社
- 俵野廃寺跡(丹後最古の寺院?)
- 籠神社(元伊勢説)
- 多禰寺(聖徳太子弟・麻呂子親王開基)
- 佐伎治神社(式内社、オオクニヌシ)
- 本光山馬居寺(聖徳太子開基)
- 礒崎神社(ヤマトタケル死亡地説)
- 臥龍山行基寺(行基開基)
- 津島神社(宮下文書版日本総社)
- 国玉神社・八剣社合殿
- 熱田神宮
- 富士浅間神社(愛知県東郷、式内社)
- トヨタ本社工場
- 本田宗一郎旧宅跡(生誕地)
- 遠江一宮小国神社
- 加茂荘花鳥園
- 遠江一宮事任八幡宮本宮山磐座
- 遠江一宮事任八幡宮
〜④出雲小国レイライン〜
- 出雲大社
- 阿須伎神社(出雲大社摂社)
- 菅原天満宮(日本四社)
- 八雲山・須佐之男命御磐座
- 出雲一宮熊野大社
- 都々古和気神社(京都府南丹市)
- 比叡山横川中堂
- 三上山(2kmズレ)
- 三上神社
- 鏡山
- 苗村神社
- 至恩郷・山神社(岡本天明、1kmズレ)
- 三河一宮砥鹿奥宮(本宮山、オオクニヌシ)
- 遠江一宮小国神社
- 伊古奈比咩命神社(白濱神社)
※少し気になることである。静岡県浜松市天竜区春野町に同名神社『小國神社』があるが、由緒書きによると磐田市二之宮の遠江二宮『鹿苑神社』がかつて881年(元慶3年)までその地にあったという。
九州大宰少弐がなんで、遠江一宮にいたのか?。
で…本題に入るが。
この小国神社に、なんと熊オッサンの推定?ご先祖さまである武藤氏(少弐氏)分家が関与していたようなのだ。元寇の折に大宰府実務トップとして日本軍総大将を務めた九州名門であるが、戦国時代までに以降興亡を繰り返して嫡流家系は滅亡している。
森町教育委員会によると。
武藤氏は既に鎌倉時代以前からこの地に関与しており、遠江守護安田義定の五奉行・遠江目代に武藤頼高(少弐資頼の弟)の名が記録されている。安田守護職に代わって見附国府や一ノ宮周辺を実行支配していたと思われる。
吾妻鏡によると、1181年(治承5年)に武藤五郎なる人物が遠江から鎌倉に参じたと記されている。御前落居記録によると一宮代官職と記されている。つまり後世にこの地を支配した今川氏よりも歴史は古い。
鎌倉時代の武藤少弐氏は、大宰府少弐として北九州の大部分を任されていた。『筑紫古文書追加』によると、室町時代1336年5代当主少弐貞経が子・資経に遠江一宮太田郷内一藤名地頭職を譲ったと記されている。
市丸昭太郎著『少弐氏の興亡と一族』によると、室町時代1370年となると。足利氏庶流・今川了俊が九州探題の実権を握る。8代当主少弐冬資はこれらに不満を示しており来陣をボイコット、その後宴の席にて謀殺されたという。つまり今川氏からライバル視されていたために殺害されたとみられる。1387年(嘉慶元年)10代当主少弐貞頼は今川了俊と和睦して筑前国守護職に復帰、以降は主従関係となる。
こうして駿河・遠江の今川勢力に従わざる得ない状況となってゆく。
同上『筑紫古文書追加』によると、11代当主少弐満貞の時代に、同族である武藤白幡?に伝領が確認されるという。1432(永享四年)武藤用定が一宮荘代官職を安堵され幕府奉公衆となる。これは幕府が反幕運動を取り続ける少弐氏を牽制するもので、九州のパワーバランスが影響したもの。幕府による少弐氏族分断と封じ込め政策の一つと考えられる。
結局...九州本家と縁を切り、在地の道を選ばざる得なかった遠江武藤氏。ここから本格的に遠江一宮小国神社側と関係を深めていったようだ。
戦国時代には今川氏が衰退。そもそも彼らは今川に憎しみを持っていた経緯もあり、武田方へ靡いたのは自然な成り行きだろう。その背後にはやはり、かつての富士朝に愛着があり、富士朝関係氏族との関係復帰を望んでいたフシもあるのではないかと…。宮下文書によると、武藤氏には1250年(建長2年)将軍家代参の記録もあり。武藤氏外祖父系にあたる梶原氏は、梶原刑部亮朝景・梶原七郎景氏らは、1222年(安貞2年)富士朝を訪れていた親鸞上人のもとで出家している。1252年頼朝幕府に由来する東国氏族が富士朝回帰を願うのは必然、今川・徳川よりは武田に親しみを抱いていたのではないかと…。
この時代にこの地を領していたのが武藤刑部丞氏定、小国神社の武家神主(神職)と見られる。しかし戦国時代1572年(元亀3年)徳川と武田の対立に巻き込まれ、徳川軍の展開があまりにも速すぎて一時甲斐国へ避難したようだ。現在山梨県内には武藤姓が多い、なにか関係があるかもしれない...。
彼らは最終的に、戦国時代屈指の激戦区高天神城に一族籠もり戦死、生き残った子孫は帰農し土方村に土着した。結局この地域自体が非常に富士朝色が強く、四世紀ころに宮下始祖大山守皇子の第五王子土形遠栄彦は遠久見留国造となっている。同国小笠原土形に拠点を置き土形氏の祖となる。諸説あるが、土方氏(土方歳三の祖先?)ではないかと見られる。武藤氏と土方氏に接点は確認できない。
ん...。小笠原ってまさか...。
※Xにて武藤氏自害と書きましたが、激戦の高天神城に籠り討死の誤りです。ゴメンナサイ。
m(_ _)m
社殿炎上、徳川家康による再建
1572年(元亀3年)徳川氏目代・武藤氏定が武田信玄に寝返り、武田の軍勢を遠江国に招き寄せた。それに反して神主・小國豊前重勝は、自らの霊夢に従って子・千松麻呂を人質に徳川方の保護を求めた。この時武田軍から守るために、自ら宮に火を放ったとのこと…。御神霊は別所に遷し、三条小鍛冶宗近作の太刀を奉納し祀ったという。
1575年(天正3年)家康は家臣本多重次に命じて、本社を造営に着手。ほどなく再建に向かった。
〜日光二荒山大神〜
▲大己貴命
▲田心姫命
▲味耜高彦根命
〜徳川家康崇敬神の宮下文書解釈〜
▲オオクニヌシ…遠久見地主神
▲カモサワヒメ…別雷命、三嶋神、寒川毘女命、宗像三女神田心姫命?(下野国寒川郷田心姫命信仰)。
前記事にて、徳川家康がオオクニヌシと別雷命カモサワヒメを祀っている節があると、ご紹介したのを覚えているだろうか?。通説徳川家康は清和源氏を称しているが、実際のところはわかっていない。葵紋に執着を残し、三河賀茂郡松平郷の賀茂神社神官家系(賀茂氏?)という説もあるようだが…。
根本的に彼が何故この二柱にこだわるのかを考えると、その秘密は駿府城にありそうなのだ。地図上の事実として小国・三嶋のレイライン上には、なんと家康の因縁の駿府城がある。つまり別雷命=三嶋神カモサワヒメ=寒川毘女命、宮下文書の裏付けにもなるわけだ。
さらに武藤氏外祖父梶原氏との痕跡までもが刻まれている。神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋の土肥椙山巌窟(しとどの窟)は、梶原景時が源頼朝とはじめて接触した場所といわれている。景時は相模一宮寒川神社付近を領している。さらに静岡県静岡市清水区岡町『下清水八幡神社』は梶原景時が八幡神を勧請した地、西5キロ先には梶原景時の終演の地『梶原山』がある。さらに下清水八幡の北隣には『御浜御殿跡』があり、徳川家康の休養所があったという。ヤマトタケル東征『草薙神社』『橘樹神社』にも繋がっている。
無論、彼らがこのラインを知っていたのかは不明だが…、やはり強力なご守護があったと考えるのが妥当かと…。
(´(ェ)`)
〜⑤小国三嶋レイライン〜
- 上総二宮橘樹神社(ヤマトタケル)
- 神武寺(頼朝父・源義朝の屋敷)
- 土肥椙山巌窟(頼朝と梶原景時の出会の地)
- 瀧川神社(伊勢遷宮古材の社殿、瀬織津姫命)
- 伊豆一宮三嶋大社
- 御浜御殿跡(家康の御殿あと)
- 下清水八幡神社(梶原景時による八幡神合祀)
- 草薙神社(ヤマトタケル)
- 静岡神社庁
- 駿河総社・静岡浅間神社
- 駿府城(徳川家康拠点)
- 遠江一宮小国神社
- 太刀山愛宕神社奥宮(論社・曽許乃御立神社)
- 狭田国生神社(内宮摂社さたくなり神社、速川比古命・速川比女命、旧寒河社)
次回は。
それにしてもなんで推定ご先祖さまがでてくるのか…。
よりによってこの遠江一宮に…。
戦国時代の善悪を語るつもりはないが、一宮を燃やしたというのは武家神主としても最悪の事態を招いたことになるわけだ。それは当然氏族のカルマとして残るであろう。ただこの地域の重要性は、宮下文書を読んでいなければ把握できないだろうし...。ここまで偶然が続くと、自分がホントに少弐氏末裔であることを信じざる得なくなる。
まるでオオクニヌシさまに、熊オッサンの宮下文書理解が試されているかのような(苦笑)。なにより彼は宮下文書版『アマテラス岩戸事件』のキープレイヤーでもあるのだ。
これは偶然なのだろうか?
なにを意図されているのだろうか?
ま...考えていても仕方がない、奥宮『奥磐戸神社』へ行って確かめるしかないと思った…。
次回は神社巡り記事。本宮山へのハイキングの道のりをご紹介しますm(_ _)m。
x始めたんですけど...。
そもそも宮下文書自体がセンシティブな内容なので、いつシャドウバンになってもおかしくはありません。彼らはネット上の数値で集合意識の分断を狙っているようですね。ただいま言える事は、宮下文書研究者が世間的にどういう扱いにされているかを伝えるよい実例かと...。
当ブログは純粋に宮下文書を研究しているのであり、組織的バックボーンが全くない事を証明しております↓。
※地図はクラフトマップ使用。