2025,3,9
前記事でご紹介した阿波々神社。そこから阿波×安房レイライン上を東へ向かうと、瀬戸川沿いに瀬織津姫命・蛭子神・アメノオシホミミを祀る大変珍しい飽波神社がある。
この地で『妹背の道』の痕跡をたどっていたら、そのエリアを見守っているかのように若一王子神とツクヨミが祀られているのを発見した。まるで熊オッサンの妹背論を裏付けるかのように…。
これも偶然なのかな?(´(ェ)`)
~目次~
- ホツマツタヱにおける『妹背の道』のおさらい。
- 宮下文書からみた伊勢祭祀の歴史と、妹背関係神比定。
- 藤枝市の飽波神社と若一王子神社の関係。
- 若一王子神社とは。
- アメノホヒとアメノオシヒ、神狭命と神狭日命の似て非なる理由。
- 健熊御命とはタケヒラトリ?
- なぜ藤枝にツクヨミが祀られているのか?
九頭竜・ヒルコ・ワカサクラヒメは同一神ではないのか?、阿波✕安房あわわ神社レイライン - セキホツ熊の謎を追え!
天忍日命は九頭竜神の手先、天つ神系出雲族・天穂日命と似て非なるワケ? - セキホツ熊の謎を追え!
ホツマツタヱにおける『妹背の道』のおさらい。
妹背(いもせ)とは?。
諸説あるが、和歌世界では恋人愛・兄妹愛などを指すといわれており、伊勢の語源とも言われる。歌人らは妹背を詠んでおり、宮下文書的にはこのワカ(若・稚・和歌)がマゴコロ夫妻に深く関係しているように思えてならない。ホツマツタヱでは紀州玉津島の縁起として、ワカ姫ヒルコ=ワカヒルメに言及されている点にも注目。和歌山湾から阿波国鳴門渦潮を望むこの地は、後世多くの歌人たちにこよなく愛された景勝地となる。
現在のところ妹背初見はホツマツタヱと思われ、その編纂期に誕生した伊勢神宮との関わりが指摘される。神代伊勢は、男神アマテラス(アマテル)と内宮瀬織津姫の本拠点であった。アマテルが辞世する神上がりに際して遺言を残し、アマテル・トヨケ・瀬織津姫・ヒルコを祀り妹背の祭祀に徹するように周囲に伝えた。つまり後世に紡がれるであろう歴代神皇たちへの、民を治めるための教えの一つでもあった。
ここで編纂者たちが一番やりたかったのは、クニサツチ系統アマテラスがクニトコタチの男系遺伝子を継いでいるように演出したかったのであろう。言い換えればクニトコタチ男系遺伝子を継ぐことこそがこの国のアイデンティティと理解した上で、神系譜のリストラを断行していた。つまり皇家のクニトコタチ男系遺伝子信仰は最低限、確保していたわけだ。
ホツマツタヱ神道大系ではこの祭祀フォーメーションが非常に重視されており、編纂成立期に創建されている『伊勢神宮』をかなり意識していると思われる。だとすれば妹背とは、アマテル・ヒルコ(ワカヒルメ)・瀬織津姫の関係性に重大ヒントがあると睨んだ…。
宮下文書にて徹底的に比定神を洗い出してみた。
〜背の道(籠神社真名井奥宮?)〜
▲外宮トヨケ(クニトコタチ夫妻)
▲内宮アマテル(女神アマテラス、マゴコロタケルを内包?)
〜妹心(廣田神社)〜
▲瀬織津姫命(ツクヨミ妃・月桜田毘女命?)
▲ヒルコ(マゴコロアイヒメ?、ヱビス 信仰を内包?)
〜ホツマツタヱ28文〜
『また后 ヒロタ(廣田神社)に行きて ワカ姫(ヒルコ)と 共に妹心(ゐこころ) 守るべし 我はトヨケと 背(をせ)を守る 妹背(ゐせ)の道なり』
『御幸の神輿 マナヰ(籠神社奥宮)にて アマテル神は 内つ宮 トヨケは外宮』
※男神アマテルの真名とは斎名ワカヒトを指していると思われる。神道ではよく使用される『眞名井』とは、クニトコタチ夫妻の拠点丹波国の宮下文書表記『田場国真井原』から転じた造語であろう。
瀬織津姫命を祀っていた説有。
宮下文書からみた伊勢祭祀の歴史と、妹背関係神比定。
宮下文書における伊勢とは。
51代ウガヤフキアエズ・弥真都男王尊は、九州高千穂の宮から国中を巡幸して、精力的に農法を伝授していた。しかし渡来勢力白木人・ナガスネヒコらに急襲され崩御、遺体は伊瀬山田の合野山に埋葬される。第四皇子・日高佐野王が皇位継承権を継ぎ、皇軍を立て直してナガスネヒコ勢力を撃退。そのまま大和国を都にして神武天皇として即位する。おそらくは父・弥真都男(やまとお)王尊の功績を称えて、大和国の語源とした模様。
初代神武〜10代崇神時代の伊瀬はウガヤフキアエズ朝霊廟となっていたが、ホツマツタヱがウガヤフキアエズ朝全51代を欠史にしたため、その存在意義が危うくなっていた。そこで11代垂仁時代、ホツマツタヱ神道大系に則った新たな役割が課せられる。通説では垂仁皇女・倭姫命が霊能力で選定したことになっているが、もともと皇家にとっては記念碑的な聖地であった。宮下文書においては、10代崇神朝に阿祖山太神宮七廟『麻呂山』よりアマテラスが御霊分けされおり、伊勢に祀られているのは確実であろう。ただその思惑は富士山から人々の目を背けさせるためであり、歴史改竄・鎮魂という祭祀テーマも見え隠れしている。
で…。宮下文書には妹背という概念は登場しない、ただホツマツタヱの元ネタ本なので何かしらヒントはあるはずだ。
宮下文書から伊勢祭祀の目的を推測すると。まずは歴史・系譜の改竄と鎮魂が目的であり、クニトコタチ・クニサツチ兄弟の四季島統治統一に主眼が置かれている感がある。また古来から男神=太陽と女神=月を役割分担していたが、ホツマツタヱ神代ではアマテルのみが一夫多妻制をとっており、『和つ日月』つまり『日嗣ぎ』の役割にて、日と月を兼任する形態に移行しているのだ。これらは暗に天皇家の一夫多妻制を肯定するものであり、唯一無二の太陽神信仰による封建制度、富士朝由来の男女火水信仰からの脱却、男性優位社会の到来を表しているのかもしれない。
※因みに宮下文書版ウガヤ神皇は、記述上は皇后のみを娶っていたようだ。なぜか大和へ遷都した神武天皇以降側室が急増した。
〜宮下文書における妹背神比定?〜
▲豊受大神
宮下文書版クニトコタチ夫妻
ホツマ版トヨケ
※ホツマツタヱ版クニトコタチとトヨケ(豊受大神)とは別神なので注意。
▲阿和武男命
宮下文書版クニトコタチ嫡男トヨクムヌ嫡男
諡マゴコロタケル、松島毘女命夫
アメノオシホミミ実父?
ホツマ版男神アマテラス(アマテル)?
▲女神アマテラス
宮下文書版クニサツチ御子イザナギ娘
アメノオシホミミを未婚養子とする。
ホツマ版男神アマテラス(アマテル)を内包?
▲一女・月桜田毘女命
宮下文書版クニサツチ嫡男ウイジニ娘。
ツクヨミ妃、オオヤマツミ母、アマテラス従姉妹。
ホツマにおける瀬織津姫比定?
▲九女・松島毘女命
宮下文書版クニサツチ嫡男ウイジニ娘。
マゴコロタケルの妃マゴコロアイヒメ。
ホツマにおけるヒルコ・ワカヒルメ・ワカザクラヒメ・九頭竜神比定???
アメノオシホミミの系譜上の母。
藤枝市の飽波神社と若一王子神社の関係。
藤枝市『飽波神社』は、瀬織津姫命・蛭子命・アメノオシホミミを主祭神格として祀る非常に稀な神社。318年(仁徳年間6年)創建の志太平野最古の社、延喜式内社であり別名『川関大明神』。戦国時代1560年(永禄3年)武田軍の戦火により焼失したが、江戸期1715年(正徳5年)に再建された。
ここで思い出していただきたいのが粟島神スクナビコナの立ち位置。宮下文書においては尾張・大和・伊勢の地主神となるわけで、飽波神社がまさに伊勢を語らんとしているのが見えてくるわけだ…。
◯『飽波神社』(静岡県藤枝市藤枝)
〜主祭神〜
- 少彦名命(伊勢地主神)
- 瀬織津姫命
- 蛭子命
- 天忍穂耳命
〜ホツマツタヱにおける『妹背の道』〜
▲瀬織津姫命(アメノオシホミミの実母)
▲ヒルコ(アメノオシホミミの養母)
~宮下文書における比定神~
▲月桜田毘女命(アメノオシホミミの???)
▲松島毘女命(アメノオシホミミの系譜上の母)
付近の歴史を宮下文書視点で説明すると。
15代応神天皇崩御後に福地川(富士川)を挟んで仁徳天皇軍と大山守皇子軍が対立、その後講和し停戦合意を結んだ。西国天皇勢力の狙いは富士朝神道からの完全脱却であり、以降日本が東西に分断されていた時代に突入する。このとき阿祖山太神宮大宮司家を継いだ大山守皇子が『宮下』を名乗り始め、通説でも『空白の四世紀』と言われており、お互い分離状態を歓迎していた在り様である。東国の古墳文化にも独自性が見られた。後世の全国八幡系神社に応神天皇を祀るのは、この東西分断の気運を再統合させる目的があったと思われる。
藤枝付近は、大山守皇子第五王子土形遠栄彦が遠久見留(遠江)国造を称し、第六王子榛原須留賀彦が須留賀(駿河)国造を称しているので富士朝配下にあった。
ただ遠江一宮小国神社周辺は三輪氏族の本貫地であり、古来から大和国と太いパイプを維持し続けたとみている。高草山麓の式内社で三輪氏族が宮司を継承してきた『三輪神社(神神社)』もその影響力の一つではないかと…。
実は...、もともと飽波神社も静岡県藤枝市岡部町岡部『高草山』に元宮が鎮座していたという説あり。これがなんと…阿祖山太神宮古宮〜富士山〜富士山本宮浅間大社〜静岡浅間神社のレイライン上にドンピシャ。ただ飽波神社は瀬戸川の水神祭祀なので、なんで山の上にあったのかは疑問の声もあるようだ。それもどうやら後述する若一王子神社健御熊命に関係がありそうなのだが…。
〜阿祖山太神宮富士山レイライン〜
- 金華山金山神社(4kmズレ)
- 那須神社(仁徳時代創建、坂上田村麿伝承)
- 磯山神社(鹿沼市)
- 大慈寺(円仁慈覚大師伝承、小野小町墓)
- 小野寺城跡(小野寺氏)
- 下野三宮村檜神社(小野寺氏崇敬)
- 村檜神社旧跡(807年、皆川村小野口より遷座)
- 佐野厄除け大師
- 長良神社(ヒルコ合祀、境内に大きな摂社織姫神社)
- 鬼鎮神社(武蔵嵐山、ウシトラ鬼神信仰)
- 数馬・九頭竜神社(東京都檜原村600mズレ)
- 大月市街地
- 福善寺(三浦寺、太神宮別当1.7kmズレ)
- 阿祖山太神宮古宮
- 富士山
- 山宮浅間神社
- 富士山本宮浅間大社(ツクヨミ拠点、白玉池)
- 梶原山公園(梶原景時終焉之地)
- 静岡浅間神社(駿河総社)
- 駿府城(小国三嶋レイライン交差点)
- 丸子富士(蔵王権現神社)
- 高草山大権現神社(飽波神社元宮説あり)
- 月夜見神社・八幡神社(藤枝市高洲)
- 高松神社(遠州の熊野三山、頼朝伝承あり)
- 池宮神社桜ヶ池(瀬織津姫命、4kmズレ)
※梶原氏と小野寺氏は熊オッサン推定ご先祖さま(´(ェ)`)。
若一王子神社とは。
飽波神社の次に向かったのが北へ300m『若一王子神社』、晦日前の正月飾りの日の丸が大歓迎してくれた感がある。この若一王子神は太古の昔から人知れずこの国を守ってきたわけで、ちょっと込み上げてくるものがあった。そしてこの神社にホツマ版九頭竜御子アメノホヒが祀られている点で、飽波神社と対になっていることを確信した。
◯『若一王子神社』(静岡県藤枝市藤枝)
〜御祭神〜
- 夫王子者?(天神、菅原道真公と解釈されている?)
- 天穂日命(ホツマ九頭竜神の御子)
- 健御熊命(天穂日命の御子、タケヒラトリと同神)
後730年(天平2年)、菅原道真祖と言われるアメノホヒ系出雲族土師氏が創建。当時729年『長屋王の変』を経て大納言・多治比池守らの薨去から、大官が次々と死去したことで、政情不安が一気に増大したようだ。この神社にはそのような政治的鎮魂祭祀の意味合いがあるのかもしれない。由緒書には菅原道真公を『天神さま』として祀ったと書いてあるが、創建時点で菅原道真公は未だ誕生しておらず。やはり当初は熊野若一王子を祀っていたと考えるのが妥当であろう。
因みに宮下文書における野見宿祢や菅原道真はサルタヒコ子孫となる。出雲の歴史がスリ替えられているようだ…。
若一王子大権現社伝記によると、後三年の役(1083年~1087年)の折に源義家が戦勝祈願をしている。松に藤の蔓がかかって花が咲いているのを詠んで、『松に花咲く藤枝の一王子 宮居ゆたかに幾千代を経ん』と和歌を奉納をした。老樹は『千歳の松』と慕われ明治7〜8年頃まで存在して、藤枝の街の語源となったという。
宮下文書における源頼義・義家は八幡信仰拡散の立役者。富士朝をはじめとする東国氏族と太い繋がりを持っており、マゴコロタケル夫妻がいかなる存在かをある程度理解していたハズである。この場合は松=松島毘女命、藤=富士を暗示しているようにも思える。
アメノホヒとアメノオシヒ、神狭命と神狭日命の似て非なる理由。
そして若一王子神社に、ホツマ版九頭竜御子アメノホヒが祀られている点に注目。
ヒルコ・九頭竜・アメノホヒ・アメノオシヒは宮下文書には登場せず。正確に言うと、アメノホヒとサルタヒコ子孫野見宿禰・菅原道真が同じ神系というのはあり得ない。アメノオシヒが大伴連祖神(祖家)というのもあり得ない。宮下文書を読むと、通説はめちゃくちゃとしか言いようがない。では...なんで混同されているのかを考えねばならないわけだ。ましてや、ホツマツタヱでは両者ともに九頭竜モチコに深く関係している重要人物なわけで、系図が似てくるのも頷けるわけだ。
通説で重視されているのは系譜上の政治的『こじつけ』である。
(´(ェ)`)
▲アメノホヒ=出雲族エタモヒ祖、通説アマテラスとスサノオの八王子神、アメノオシホミミの弟で、タケヒラトリ父神。
ホツマツタヱにおけるアマテルと九頭竜モチコの御子、アメノオシホミミ義兄。瀬織津姫命の祀る六甲山に磐座がある。宮下文書では全く異なり、アメノホヒ子孫とされる野見宿禰や菅原道真はサルタヒコ子孫となるので注意。
アメノホヒとは出雲祭祀に関与してきた富士朝影響力の動向を象徴しているようだ。部分的にサルタヒコ子孫も含まれるが、これは伊勢における豊受大神クニトコタチ(出雲大神宮)の影響力を示しているとみる。またサルタヒコ子孫同族の坂上田村麿が信州出雲を拠点としていた経緯を暗示しているのかもしれない。
〜アメノホヒ系図〜
天穂日命
↓
武夷鳥命(建比良鳥命)
↓
伊勢津彦命(出雲建子命、櫛玉命)
↓
神狭命
↓
身狭耳命
↓
五十根彦命
↓
美都呂岐命
↓
忍立化多比命
↓
兄多毛比命(武蔵国造)
忍立毛比命
弟武彦命(相武国造)
※三兄弟
△アメノオシヒ=大伴連祖神、古語拾遺や先代旧事本紀系図では、タカミムスビ四世孫・天石門別安国玉主命の御子。別名神狭日命(カンサヒ)だが、ホツマではトヨケの孫カンサヒのさらに御子にあたり、九頭竜モチコにいいように操られ六ハタレ蜂起の原因をひき起こす。つまり日本武尊副将・大伴武日の祖。信州→中国地方へ出雲改竄工作をしてきた祖家(7代孝霊天皇母・押日媛命の出自である蘇我大伴系統)を暗示している気がする。
※ホツマツタヱではクニトコタチとトヨケは別神なので注意。
〜アメノオシヒ系図〜
安牟須比命
↓
香都知命
↓
天雷命
↓
天石門別安国玉主命(天津石門別神社の古名が九頭神社)
↓
天忍日命(神狭日命)
↓
天忍人命
↓
天日咋命
↓
刺田比古命(刺田比古神社の古名が九頭神社)
↓
道臣命
↓
味日命
↓
稚日臣命
↓
大日命
↓
角日命
↓
豊日命
↓
武日命(大伴武日)
乎多氐命(大伴武日弟)
※事任八幡宮ホームページによると、御祭神の己等乃麻知比売命は忌部祖『玉主命』の娘。これが天石門別安国玉主命を指しているのであれば宮下文書祖家系統に比定できそうだ。奈良県高市郡高取町越智『天津石門別神社』 と、和歌山県和歌山市片岡町『刺田比古神社』の古名・九頭神社で一致する。古屋家家譜註釈によると、天石門別安国玉主命が天手力男神(天大刀辛雄命)と同神であるという…。因みに宮下文書祖家蘇我大伴系統もかつては中臣を称していた。
※※神狭命と神狭日命は似ているが、一応別神なので注意。宮下文書には登場せず、わざと似ているようにも思える。
ここで思い出していただきたいのが、出雲族武蔵国造兄多毛比命(エタモヒ)。
前記事でもお伝えしてように、北多摩神社誌の東京都府中市小野神社項p31兄武日命(エタモヒ)≒大伴武日(タケヒ)説が成り立つ。さらに人見稲荷神社項p27には、当社は兄武比命の祀られる社であったと明記されている。
だとすれば、アメノホヒとアメノオシヒのシルエットが重なって見えてくるのにお気づきであろう。つまり小野神社とは、九頭竜を祖先と崇めていた武蔵国造が、瀬織津姫を奉祀していた?とも解釈できるのだ...。
(´(ェ)`)
健熊御命とはタケヒラトリ?
つづいて、御祭神健熊御命とは、タケヒラトリの別名のようだ。
日本書紀曰く、アメノホヒは葦原中国の平定のため高天原から派遣されるも、大国主命に取り込まれて三年経っても帰還しなかった。故にその御子・大背飯三熊大人を遣わした。これが古事記では建比良鳥命(タケヒラトリ)や武日照命らに比定される。
ホツマツタヱ曰く、オホナムチがイズモからツガルに左遷されたあと、後任としてアメノホヒが引き継いだ。御子をオオセイイミクマノという。
結局熊というのは、タマノオヤ熊野信仰(出雲一宮)を表している気もする。つまり出雲における大国主出雲信仰と熊野信仰の辻褄を合わせる附会の存在なのだろう。御正体として、考えられるのが熊野若一王子かもしれない…。
〜タケヒラトリ=健熊御命の同神?〜
- 建比良鳥命
- 天之夷鳥命
- 建比良鳥命
- 武日照命
- 武夷鳥
- 大背飯三熊大人
- 健熊御命
※大背飯三熊大人(阿太賀都健御熊命神)は因幡国高草郡鎮座式内社『阿太賀都健御熊命神社』(鳥取県鳥取市御熊)の御祭神で、奇しくも飽波神社の元宮を示す高草山と一致する。
▲日本書紀曰く、タケヒラトリは出雲国造。无邪志(武蔵)の国造、上菟上(上総中部)の国造、下菟上(下総東部)の国造、伊自牟(上総東部)の国造、津島県直(対馬)そして遠江国造の祖。つまり宮下文書におけるアメノオシヒ系大伴武日が、東国を監視していたエリアと合致する。
▲ホツマツタヱでは、ヤマトタケル東征前に大伴武日(タケヒ)が東国統治していたエリアがサカオリ宮とされている。東国を預かるタケヒが不穏な動きを察知して、朝廷に東征を要請したことになっており、ヤマトタケルが富士山朝敵になることを避ける意図が垣間見える。宮下文書とは時系列がひっくり返っているので注意。
△宮下文書では、ヤマトタケル東征後は『吾嬬惣国』が成立しており、勢力内の国造は宮下家が担っていたハズだ。そもそもこの時代の自治権は殆ど富士朝7代大宮司・福地記太夫命に帰属していたわけで、西国天皇勢力から国造が派遣されることは考えにくい。
このように西国天皇勢力は、富士朝を隠すため、出雲所在地の撹乱を促すためにあの手この手で工作しており、アメノホヒとアメノオシヒも附会の神系の可能性がある。だとすれば、エタモヒが大伴武日であっても全くおかしくはないし、タケヒラトリも大伴武日の影響を受けていても驚かない自信がある。アメノホヒ・出雲族・大伴連・サルタヒコ子孫らの各地伝承が、実体もなくバラバラであることも説明がつく。現在認識されている出雲神話がいかにめちゃくちゃであるかがおわかりいただけただろうか?。
※誤解されないように書くとこれらの神社が虚構というわけではない。当然現代までに信仰を残す大神であれば、その御正体は古来から各地に隠されているハズである。とくに菅原道真公を祀る神社は富士朝阿族由来の古代信仰を内包していると思われる。
藤枝市『月夜見神社・八幡神社』
なぜ藤枝にツクヨミが祀られているのか?
藤枝市『鬼岩寺』は726年(神亀3年)行基の開山。平安期には弘法大師空海が当地を苦しめていた鬼を退治した伝承あり、裏山の大岩に封じたという。その裏山の奥地には若王子古墳群があり、3〜7世紀とおもわれる23基の木棺直葬墳と5基石室墳が発掘されている。鬼を封じた巨石や岩穴も残っているという。この鬼岩寺の門前にあるのが月見里(やまなし)神社で周囲に山がなく月が見通せるという意味。東海道藤枝宿西の鬼岩寺門前にあり、鬼岩寺村が形成された室町時代には創建されていたと思われる。
因みに飽波神社も若一王子神社も山を背にしている。
◯『月見里神社』(藤枝市藤枝)
〜御祭神〜
- 月読命
室町時代1388年3代将軍足利義満が富士山遊覧しており、この遊覧に際して当寺にて宿泊している。これは南朝に与していた富士朝への権力示威行為であった。1404年2月2日富士朝陥落、5代将軍足利義持の代であるが、個人的には先代義満の影響力によるものだと見ている。結局鬼というのは阿族祖霊神のことであり、やまなしというのは富士朝陥落により調伏された山の神のことではないのだろうか…?。
宮下文書におけるツクヨミはクニサツチ富士朝の神皇、月桜田毘女命は神后となる予定の人物であった。それが理由は不明ながらツクヨミの頑な意思により、姉アマテラスにその座を譲って逃避行したという。古来より一子相伝の皇位継承権には、兄弟支流によるクーデターの危険性を孕んでおり、継承権を持たない皇兄弟は弾圧される傾向にあった。それがツクヨミが記紀から消されてしまった一番の理由ではないかと思われる。
しかし伊勢神宮を参拝した時にも感じていたわけだが。それぞれ内宮別宮『月讀宮』・外宮別宮『月夜見宮』にはツクヨミがしっかり祀られており、何か特殊な御役があるようにも思える。それはアマテラスと妹背神となってしまった月桜田毘女命を、いまも見守っているのではないかと…。
マゴコロタケル事件とは子宝に恵まれなかった皇家の世継ぎ問題。どんな王国にも想定されうる危機だが、結局このようなハプニングに際しては夫婦・家族の団結が問われることとなる。そこで高天原のアマテラスをはじめとする阿族天神族が知恵を持ち寄って、立場を超えて、国と子孫を思うが故のブレイクスルーを起こした。後世に兄ニニギ・妹コノハナサクヤヒメの兄妹婚として、または四季島統治統合として体現された。これが『妹背の道』の極意ではないかとみている。
しかし歴史改竄と共に、信仰上歪曲された節がある。
宮下文書における祖霊信仰の観点からみれば、いまの伊勢は権力者が作り上げた不自然なものと云わざるをえない。果たしてそれが子孫たちにとって健全なことだろうか?、令和時代にこの国は子孫たちは岐路に立たされていると感じた。妹背の捻じれは解消する必要があると…。
ふと思うところがあって、先述の太神宮→富士山のレイライン上に存在する『月夜見神社・八幡神社』へ向かった。
(´(ェ)`)
◯『月夜見神社・八幡神社』(藤枝市高洲)
〜月夜見神社〜
- 月夜見命
〜八幡神社〜
- 品陀和氣命
- 天照皇大神
- 弥都波能売命(大井川鎮護の水神?、大井神社?)
かぐや姫は月の王朝へ帰還した…。日と月がうまく統合される日がくるのであれば瀬織津姫さまも帰還を望まれていることであろう…。普段から神社巡りでお願い事をすることは殆どないのだが。子供っぽい願い事で恐縮であるが、ツクヨミさまと月桜田毘女命さまが結ばれますように♥とお願いさせていただいた。
m(__)m。
x始めたんですけど...。
そもそも宮下文書自体がセンシティブな内容なので、いつシャドウバンになってもおかしくはありません。ただいま言える事は、宮下文書研究者が世間的にどういう扱いにされているかを伝えるよい実例かと...。
※地図はクラフトマップ使用。