セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

エタモヒ大伴武日は武蔵国でシンクロする、富士太神宮鳴門阿蘇のレイライン大交差点。

 

 

 

エタモヒの祭祀場『人見稲荷神社』
今気づいたのだが…所在地が若松という。

 

 

2025,3,24

また人見稲荷ネタです(´(ェ)`)。

さらに驚愕の事実です(´(ェ)`)。

マイナー神社をゴリ押しすぎると読者の方々から叱られそうなのですが、熊オッサンが人見稲荷神社に驚かされたのはこれで3度目になる。

一回目は、高千穂峰〜富士山のレイライン上に、小野神社(多摩)・大國魂神社・人見稲荷神社と、小野大神を富士山へ3箇所祀っているという点…。

二回目は、大國魂神社修造とともに、熊オッサンの推定ご先祖さま武藤資頼が創建していた点…。

そして三回目。今回の記事なんですけれども…やはりガツンと打ちのめされた感あり、しばらく立ち直れそうもないほど...。

 

結論から言うと人見稲荷は…。①阿祖山太神宮古宮跡〜鳴門〜忌部大神宮〜阿蘇神社のレイラインと、②富士山高千穂峰レイラインのクロスポイントとなっている。そして小野神社と人見稲荷神社に関与したと思われる、出雲族武蔵国造エタモヒ(兄多毛比命)。彼は果たしてアメノオシヒ系大伴武日なのか?、結局彼らが武蔵国でやりたかったこととは何なのか?...を深掘りしてみる。

 

 

 

 

~目次~

 



宮下文書で妹背解明、飽波神社の瀬織津姫・ヒルコをそれぞれ夫神たちが見守っていた?。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈東国祖家大国〉瀬織津姫・稚日女命・丹生都姫も祖家女系だった?。忌部は隠蔽された皇族史を祀っていた。 - セキホツ熊の謎を追え!





 

 

見てしまった武蔵国府の究極形態???

以前からご紹介してきた『富士山高千穂峰レイライン』だが、実はもう一つのラインが確認できる。厳密にいうと以前紹介しているのだが、当時は勉強不足のため阿波忌部氏や阿波皇祖神マゴコロタケルの重要性にまったく気づいていなかった。今回式内社名神大社論社『山崎忌部神社』がライン上にドンピシャなのが判明。中世近隣は伊勢神宮を凌ぐ広大な神領の社で、現代でも論社論争が残る。

結局これが武蔵国に託された大きな祭祀テーマとも思われ、大伴武日・エタモヒ・武藤資頼・歴代武蔵国造たちが究極的にやりたかったことなのかもしれない。



①太神宮・鳴門・阿蘇レイライン

〜5月5日朝日の方角?〜

 

  • 常陸一宮鹿島神宮明石浜鳥居
  • 常陸一宮鹿島神宮坂戸神社
  • 熱田神社(日本武尊由来、806年社殿造営)
  • 蛟蝄神社奥の宮(関東最古の水神説)
  • 香取鳥見両神社
  • 松戸神社(日本武尊・大伴武日待ち合わせ)
  • 王子・平塚神社(義家・義綱・義光)
  • 井の頭弁財天大盛寺(源経基創建、頼朝建立)
  • 都立多磨霊園(三島由紀夫ら著名人の墓)
  • 人見稲荷神社(瀬織津姫命、エタモヒ祀場)
  • 大國魂神社神社(大國魂神、東殿小野大神)
  • 小野神社(府中市、瀬織津姫命、シタハル)
  • 真慈悲寺旧跡
  • 平山季重神社(平山八幡奥宮日奉神社、アメノオシヒ日奉連)
  • 阿祖山太神宮古宮跡
  • 北東本宮小室浅間神社(阿曾谷宮守神社)
  • 北口本宮富士浅間神社
  • 新屋山神社
  • 身延山久遠寺(1kmズレ)
  • 和志取神社 (三河国式内社)

 

  • 彌尼布理神社(806年創建、伊勢国式内社)
  • 比佐豆知菅原神社(伊勢国式内社)
  • 大村神社(タケミカヅチ、要石、地震の神)
  • 城之越遺跡(国名勝・史跡、祭祀場跡)
  • 日朝山弥勒寺
  • 毛原廃寺跡
  • 都祁水分神社(大和国水分四社)
  • 石上神宮(1.5kmズレ)
  • 大和神社(日本大国魂大神)
  • 夜都岐神社(春日四神)
  • 行燈山古墳(崇神天皇陵、2.5kmズレ)
  • 鏡作坐天照御魂神社(10代崇神時代創建)
  • 鏡作伊多神社(宮古)
  • 葛木倭文坐天羽雷命神社
  • 二上山(大津皇子二上山陵墓)
  • 叡福寺(聖徳太子御廟、600mズレ)
  • 春日向山古墳(用明天皇河内磯長原陵)
  • 山田高塚古墳(推古天皇陵・竹田皇子墓)
  • 太子西山古墳(敏達天皇河内磯長中尾陵)
  • 錦織神社(河内国三水分)

 

  • 由良湊神社(速開都姫命、500mズレ)
  • 諭鶴羽山(淡路島最高峰)
  • 鳴門渦潮(4.5kmズレ)
  • 事代主神社(鳴門えびす、蛭子前)
  • 山崎忌部神社(式内社名神大社論社、忌部大神宮、800mズレ)
  • 高越寺(山崎忌部神社別当、2kmズレ)
  • 御所神社 (つるぎ町、忌部神社論社論争)
  • 清頭岡磐座(磐座祭祀場)
  • 摩尼珠山吉祥院多聞寺(空海開基)
  • 早吸日女神社(ヤソマガツヒ、2kmズレ)
  • 久住神社(式内社、くじゅう山上宮)
  • 肥後一宮阿蘇神社(式内社名神大社)
  • 熊本城加藤神社(加藤清正、阿蘇神社崇敬)
  • 加藤神社(天草郡富岡城跡北)

※人見稲荷と阿蘇神社を基軸にしたライン



 

 

②富士山高千穂峰レイライン

〜7月17日朝日の方角?〜

 

  • 女化神社(保食神、1kmズレ)
  • 柏神社(月読尊)
  • 西新井大師總持寺(空海開基)
  • 井草八幡宮(頼朝・道灌崇敬)
  • 武蔵八幡宮(坂上田村麿勧請)
  • 都立多磨霊園(三島由紀夫ら著名人の墓)
  • 人見稲荷神社(瀬織津姫命、エタモヒ祀場)
  • 大國魂神社神社(大國魂神、東殿小野大神)
  • 大國魂神社坪宮(エタモヒ)
  • 武蔵一宮小野神社(多摩市、瀬織津姫命、シタハル)
  • 勝五郎の道(平田篤胤・勝五郎再生記聞)
  • 新屋山神社奥宮
  • 富士山
  • 白糸の滝熊野神社(瀬織津姫命)
  • 秋葉山奥の院・八尺坊(1.8kmズレ)
  • 三河一宮砥鹿神社(大国主命)
  • 豊川稲荷
  • 御船・牟弥乃神社(伊勢国寒川、寒川神)
  • 天の川・弥山川
  • 弥山神社(天河大辨財天社奥宮2.5kmズレ)
  • 塩屋王子神社
  • 月山神社(大月町『旧守月山月光院南照寺』、月弓大神・役小角・空海伝承)
  • 日向二宮都萬神社(桜川伝承、1kmズレ)
  • 無戸室・児湯の池
  • 日向総社三宅神社(1.5kmズレ)
  • 狭野神社
  • 皇子原神社(狭野元宮)
  • 高千穂峰(霧島神宮元宮)
  • 霧島神宮(天孫降臨伝承)
  • 帖佐八幡神社(元寇直後、弘安5年創建)

※人見稲荷と高千穂峰を基軸としたライン。

 

 

 

 

 


注目すべきは、宮下文書版健磐龍命の関係地『阿蘇神社』、スクナビコナ御子・久延仁毘古命とオオクニヌシ御子・下照姫命のあいだに生まれた阿曾武命のこと。蛭子命玄孫・海那毘女命を娶り海軍総大将として西征、大賊数万の軍勢を消滅させて戦死した。しかしその活躍のおかげで、九州ウガヤフキアエズ神都が無事遷都され、夫妻は切枝間山(霧島山)の西の大山に埋葬されたとある。実際は…霧島山西というか北なので疑問も残るが、肥後一宮阿蘇神社とも関係があると思われる。

安土桃山時代加藤清正は熊本城を拠点とし、健磐龍命末裔を称する古豪阿蘇氏を再興を認め阿蘇神社を再建した。朝鮮出兵『文禄の役』では二番隊主将で少弐氏流鍋島直茂が従っていたようだ。もしかしたら熊オッサンの母方祖母の系統かも…(桔梗紋だが諸説あり)。


(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

 

 

 

境内には槻(つき)が多い、東京都多摩市一ノ宮『小野神社』

 

 

 

2つの小野神社と人見稲荷神社に、祖家大伴の影?

 

前記事でもご紹介したように…。『北多摩神社誌』p31府中市小野神社項曰く、『視二井諸忍野神狭命十世兄武日命がこの県の国造となった時、御祖神として、この地に勧請奉斎したと伝わる』。情報ソースは境内の古碑小野宮廟碑と思われ、その内容からエタモヒと大伴武日のシルエットが重なってくるようだ(後述)。

さらに御祭神シタハルが兄武日命の祖と明記されており、ネット上でも大伴武日命だとの声をよく見かける。まずは小野神社と祖家(宮下文書版蘇我大伴系統)の関係を浮き彫りにしたいところ。



◯一宮論社?『小野神社』(東京都府中市住吉町)

〜御祭神〜

  • 天下春命
  • 瀬織津比賣命

 

武蔵国多摩郡式内論社、小野神社所在地は一ノ宮(多摩)と小野宮(府中)にあるので注意。大國魂神社くらやみ祭では一之宮から小野宮を経由し大國魂神社へ入り、ともに一之宮の神輿を担ぐ。由緒書には、創建者兄武日命の祖神シタハルが関係しているものの、江戸名所図会には瀬織津比咩一座と記載されているという。

 

 

 

◯一宮論社?『小野神社』(東京都多摩市一ノ宮)

〜主祭神〜

  • 天下春命
  • 瀬織津比咩命
  • 伊弉諾尊
  • 素盞嗚尊
  • 大己貴大神
  • 瓊々杵尊
  • 彦火火出見尊
  • 倉稲魂命

※周辺は宮下家派生関戸氏の領地であった。鎌倉時代武蔵七党の小野氏族横山党(梶原景時母方)と、アメノオシヒ大伴連末裔の西党日奉氏(平山氏)の勢力範囲だった。17世紀以降の太田家記録によると、太田氏・新田氏で神主を継承してきた(両家ともに本姓源氏を称している)。つまり富士朝色がめちゃくちゃ強いわけで、武蔵一宮の座をスルーされ始めたのも結局これが原因ではないかと…。

 

〜wikipedia〜

△兄・天足彦国押人命(天押帯日子命、小野氏祖、小野神社と関係あり?)

◆弟・日本足彦国押人尊(孝安天皇、皇后押媛)

 

〜宮下文書三輪本現代訳神皇紀p145〜

△皇兄・日本武彦眞仁命(富士朝と東北諸国奉幣使)

◆神皇・日本足彦国押人尊(孝安天皇、皇后押日媛命)

▽皇弟・政彌武彦太命(南西諸国奉幣使)

 

 

※通説の和邇氏流小野氏は天押帯日子命末裔を称しているので注意。

 

 

またWikipedia小野神社によると当社はかつては小野氏祖の6代孝安皇兄・天押帯日子命を祀っていたというが、天押帯日子命が存在する前からある訳で、和邇小野氏族とは無縁の可能性が高い。となれば…どこかトリックを感じてしまう。

宮下文書によると、6代孝安皇兄・日本武彦眞仁命と皇弟・政彌武彦太命による大規模な東西祷祀があったようだ。武蔵国要衝であった小野神社もこれに関係していた可能性が高く、東征祈願所を担っていた感がある。奇しくも武蔵一宮小野神社と備後総社小野神社が、比叡山文殊楼を挟んで、神田明神と日月神示麻賀多神社(台方)への強力レイラインを形成している。備後國総社小野神社の御祭神が押姫命で、武蔵国小野大神の本地垂迹説は文殊菩薩である。

 

 







皇兄・天足彦国押人命は小野氏祖として知られるが宮下文書に登場せず、孝安皇后押日媛命というのは宮下文書版祖家でありアメノオシヒの語源ではないのだろうか?。

つまり祖家系統を表しているわけで、やっぱり当社と祖家大伴との関係が浮き彫りとなる。小野大神シタハルが大伴連祖であればあれば、宮下文書における祖家(蘇我大伴系統)と考えるのが妥当かなと…。

785年藤原種継暗殺事件以降に大伴氏族は全国的に衰退したために、彼らの東国での痕跡を無くすために、小野氏族が一時的にその役割を担った感がある。さらには鎌倉時代、武蔵七党西党アメノオシヒ日奉氏連平山氏の勢力範囲も近い。となるとこの地で大伴武日とエタモヒが混同されてもおかしくはない。

 

東西『小野神社』と天足彦国押人命、武蔵国蘇我大伴と小野氏族の関係とは? - セキホツ熊の謎を追え!

日月神示×出口王仁三郎生誕地、成田山×平将門、月読命×瀬織津姫のレイライン。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

◯『人見稲荷神社』(東京都府中市若松)

〜御祭神〜

  • 天下春命
  • 瀬織都比咩命
  • 倉稲魂命

 

〜祓戸神社〜

  • 瀬織都比咩命
  • 速開都比咩命
  • 気吹戸主命
  • 速佐須良比咩命



※鎌倉時代1232年に武藤資頼が『三所之宮』として創建、1597年(慶長2年)稲荷社合祀。富士山方面へ小野大神を祀る小野神社・大國魂神社・当社が3つ並んでおり、境内摂社は祓戸神社がある。

北多摩神社誌p27人見稲荷神社項によると『武蔵国造兄武比命の祀られた社であり、六所宮客来三所之神と称される』とあり、創建以前からエタモヒ祭祀場として認識されていた。同時期に行われた小野神社(府中)への関与を鑑みても彼らがこの武蔵府中を重要視していたことは明白。ただ当社御祭神としてエタモヒは祀られておらず、エタモヒが祀っていたのか?、エタモヒを祀っていたのか?…解釈が分かれるところ。







 

 

 

 

兄武日命の偽装説。

 

上述した北多摩神社誌p31における兄武日命の情報ソースは、江戸期1795年に建てられた『小野宮廟碑』と思われる。とりあえず確認のため府中小野神社へ向かい本殿裏の奥まったところに古碑をみつけた。エタモヒの表記は兄多毛比か?、兄武日か?はたまた兄武比か?…。ところが意外過ぎた、日と思いきや…まさかの『月』。

 

▲兄多毛比命(大國魂神社・坪宮)

△兄武日命(北多摩神社誌の府中小野神社項?)

△兄武比命(人見稲荷神社)

 

実際は…兄武月命でした?(´(ェ)`)。

期待していたのとまったく違う、やはりこういうのは原物をみないと判断は難しいんだなぁ~。しかしながら神主や石工が日と月を誤植したと考えるのも無理がある。ニュアンス的には、『武日』の記載を誤魔化したいのか、あるいは月神をなんとか後世に伝えたいとの思惑も受けた…。

 

 

〜小野宮廟碑釋文〜

 

小埜宮廟碑

 

小野宮者、在武藏州多麻縣小野村、在昔 安寧天皇使兄武月命國造此州、兄武建府於此縣、置祖廟於此地、兄武者下春大神之後、二井諸忍野神狭命九世孫、下春者天孫隨駕三十二神之一、而威靈之最也、遂稱縣日縣府中、號廟一宮、 時謂州爲國、謂守爲造、謂廟爲宮、謂創爲一皆古言也、小野元縣名府中日顯小野月隱地属多麻縣、而名僅存於村落耳、蓋上古質朴無廟號、獨依地而稱矣、今也小祠存羊、亦其名見於延喜式神名帳、爲古廟也明矣、旁有枯株 、周囲十尋許、其上可坐百人、葉枝高聳摩天、殆乎有二千餘歲之想、爲故地也明矣、創降建置莫古焉、舊制威靈鍾於此、宜也四方祈福隨應有驗、内藤子章名重喬好古善醫、今茲傷其衰、修廟勒碑使余銘焉、長島侯援筆篆碑面、銘日、

鍾靈創祠 二千餘年 志士勒碑 不朽是傳

 

寛政七年九月望日、出雲國下大夫江都鳩谷孔平信敏撰、男信龍渉筆、次信鳳修約、長島侯人藤原巖恭書、内藤重喬肅

 

※府中小野神社の小野宮廟碑

 

 

神狭命とは通説アメノホヒ曾孫・出雲臣祖二井之宇迦諸忍之神狭。つまりアメノホヒやタケヒラトリ系出雲族を示している。ただこれが3代安寧朝だと…、未だ大伴武日命や兄多毛比命すら存在しない時代であり、大國魂神社も創建されていないハズ。ではこの兄武月命とは一体誰のことなんだろうか?。

もしかして武蔵国出雲族というのは...宮下文書3代安寧朝申食国政大夫(左臣)・出雲色命から来ているのか???。因みに宮下文書版安寧天皇時代BC536年にも国賊蜂起がおこり、安房武正命・香取太良太命・鹿島武雄命・貫前政男命の四将に討伐させており、個人的にはこれが小野神社の創建理由ではないかとみている。また7代孝霊朝太正国政大夫・蘇我武日命の存在も気になる所、8代孝元皇后・鬱色謎媛命の父であり5世孫にあたる大伴武日と同名であるようだ。

 

 

※宮下文書版ウマシマジは物部連祖ではなく、祖家(蘇我大伴)系統なので注意。

 

 

ややこしいことに、アメノオシヒとアメノホヒはホツマ版九頭竜モチコと深い関係があり、通説大伴氏祖アメノオシヒの別名を神狭という。さらにややこしいことに宮下文書祖家家系図はもはや異次元レベルの代物だ。宮下文書を正史と置くならばアメノオシヒとアメノホヒは登場せず、アメノオシヒ系大伴武日とアメノホヒ系エタモヒの出自は疑われて当然となる。

いずれにせよ、ホツマ・記紀によって欠史八代までの各神系図が滅茶苦茶にされている状況だ。既成概念を越える発想がなければ真相が見えてこないレベル。

 

(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

 

 

日本武尊・大伴武日の東征目的。

 

結局、ヤマトタケルは東国への領土拡張に興味がなかった。

とにかく富士山祖霊神の祟りが怖いので、富士朝神道からは脱却し、西国に都合の良い新しい神道大系を造り出したかったのだ。東征完了後、高天原に副将大伴武日を目付役として残留させ、富士朝大宮司家に国造を任せ、即刻尾張へ逃げ帰った。

歴史改竄の実行役は大伴武日であった。ただその工程すら消す必要があった。同時に出雲族エタモヒなる人物を創出する必要もあった。そうすることによって武蔵氷川などの出雲信仰ルーツを、中国地方由来に転化させ紐付ける効果が生まれた。氷川神スサノオは信州出雲からではなく、中国地方出雲からやってきた事にする必要があったのだ。

 

 

〜日本武尊・大伴武日の歴史改竄?〜

 

①東国を黙らせる。

②大伴武日に東国史を改竄させる。

③自分の痕跡を消す。

④吾嬬惣国を建国、国造を富士朝大宮司に任せる。

⑤祟りが怖いので、ヤマトタケルが尾張に帰還。

⑥西国天皇勢力に有利な、新しい神道大系を成立させる。

 

 

これが武蔵国にて広く、12代景行時代と13代成務時代の二重性として確認される。

例えば氷川神社では、ホツマツタヱ版ヤマトタケルがスサノオを祀り始めたと明記されているものの、Wikipediaでは成務時代出雲からやってきたエタモヒが氏神として祀っていたという。要は二重性が確認されるのだ。思うに武蔵国出雲族というのは、オリジナル出雲の所在地がバレないように、成務時代エタモヒという附会の人物を使って、景行時代の大伴武日の痕跡を撹乱しているのだろう。

 

 





 

 

東京都府中市住吉町『小野神社』

 

府中日顯・小野月隱とは何だ...?。

 

上記の小野宮廟碑釋文から興味深いワードが出てきた。『小野村の元縣名は、府中日顯、そして小野月隱…。地図上確認すると周辺に日新町があり谷保天満宮発祥地なのだという。さらには近隣にてアマテラスを祀る三社宮神明社には、太神宮ら三社合祀されているとのこと。あくまで状況から察するに、本来この地域は日神・月神に分かれて奉祀していたのかもしれない。

 

考えられるのは妹背の日月祭祀?。



前記事で述べたようにマゴコロ夫妻は世継ぎに恵まれず、御子アメノオシホミミの母神がイマイチ定かではないのだ...。他神の説明文では御子・一子とかの言及があるが、マゴコロタケル事件に関しては皇家のデリケートな問題故に記録上でも明言を避けている節がある。これが古来から皇祖祭祀上のネックとなっていた可能性はある。

仮に第三者による代理出産であれば、正后・松島毘女命に一番近い遺伝子を持つ姉・月桜田毘女命が浮上するわけだ。神道=祖霊信仰であり途絶えさせることはできず、祭祀的に不明な箇所があれば姉・月桜田毘女命と妹・松島毘女命を並祀するしかなかったのであろう。

つまり瀬織津姫命に比定される女神が、クニサツチ女系ツクヨミ(月神)、クニトコタチ男系マゴコロタケル(日神)の二柱ともに関係を持っていたことを暗に示していた…?。そんな謎の女神が皇家男系祖であり、皇家女系祖でもありうるのか?。もしそんな存在がいるとしたら…とてつもない神威を持つことになる。

いずれにせよ日神と月神を並祀して日嗣(ひつぐ)とするのがホツマツタヱ版の妹背的流儀とみられ、伊勢神宮に影響を与えたと思われる。もしかしたらこの武蔵国でも行われていたのか?。

 

(´(ェ)`)
















5月5日『くらやみ祭』の意味。

次に上記の5月5日レイラインの意味を考えてみよう。

宮下文書三輪本現代訳神皇紀p150を要約すると、10代崇神天皇は中央集権を達成させるため、富士朝太神宮を貶めてその権威を削ぎ落とそうと画策していた。彼はまず高天原麻呂山からアマテラスを大和国笠縫の里へ遷座、三品の大御宝とともに祀った。

そこに飢餓・疫病・盗賊蜂起が立て続けに起こり、その神威を恐れる事態となった。そこで皇女の豊鍬入媛命・渟名城入媛命に命じて、アマテラス御神前にて大國魂神祭を行わせた。さらに吉備彦命(のち四道将軍)を富士高天原へ遣わしてあらためて阿祖山太神宮と各七廟を祀らせた。以降5月5日の太神宮大祭日には、崇神天皇・皇后が自ら高天原へ行幸し、四季の大祭には奉幣使を遣わした。欠史八代中でも彼の富士朝帰依はかなり興味深いが、最終的に三品の大御宝が返還されることはなかった。

この大國魂神祭とは現在の奈良県天理市『大和神社』の日本大國魂神と思われる。ホツマツタヱ比定の大和国魂神クシヒコ、宮下文書比定では尾張・大和・伊勢を領していた地主神スクナビコナ(諡・大國御魂命)と思われる。現在武蔵国大國魂神社境外摂社・天神社にもスクナビコナが祀られている。こうして崇神は富士朝アマテラスと大和国地主神祭祀を重視していたわけだ。

 

奇しくもこれが5月5日朝日のレイラインによって、大和神社→高天原太神宮→武蔵国大國魂神社に連携されていたわけだ…。だとすれば5月5日武蔵国大國魂神社の奇祭『くらやみ祭り』の意味も浮き彫りとなる。結局は富士朝・ウガヤ朝・阿波皇祖神を一括して武蔵国府で祀っていたのではないかと…。大國魂神社のシンボルはクニサツチの愛した霊鳥カラスであり、本来は高天原で行うべき大祭を、富士朝から人々の目を逸らさせるために武蔵国で継承してきたともいえる。

 

(´(ェ)`)








 

7月17日とは?

 

当ブログではタカミムスビ以前の歴史についてはなるべく触れないようにしている。阿族のルーツは岩間本と三輪本でかなり違い、原書を読まない限り何とも言えないのだ。それに最も慎重であるべき箇所だと考えている。ただ彼らが海外から来たのは間違いなく、日ユ同祖論を否定しきれない部分でもある。

そして上記の富士山高千穂峡レイラインは、7月17日の朝日のラインであり、これが京都祇園祭の山鉾巡行やユダヤ教のシオン祭日と重なる。つまりノアの方舟が陸地に漂着して陸地に到達して、その新天地の門出を祝う記念日となる。

 

熊オッサンは専門ではないので恐縮ですが…。

アメリカの自動書記で有名な『オアスペ』によると、創造主は初めての人間アスを作った。そして天使とアスとの間にイヒンが生まれ、パン大陸で興亡を繰り返した。日本人は25000年前の大洪水によりパンから残島ザ・パンに漂着したイヒンの末裔だという。斯様なわけでノアの方舟伝承は、日本人と深い関係があるとの指摘もある。

そう言われると…現在も山梨県富士吉田市の阿祖山太神宮古宮跡には大明見(オオアスミ)や明見という地名が残っている。直訳するとアスミとは人見(ヒトミ)と同義なんだよね…。

(´(ェ)`)

奇しくも…熊オッサンは2023年7月17日富士山に登頂して、日の出を拝んできたわけだ。奇しくもドラゴンヘッド移動日前日、新月前日であった。

 

 

 

偶然なんでしょうか…(´(ェ)`)

 






 

 

おわりに。

 

東京都府中市若松付近は、子供の頃拾って飼っていた雑種犬の共同墓地。職場への通勤路ともなっており、ほぼ毎日参道前を横切っていた時期もある。人見街道沿い消防団のとなりに鳥居があるのは知っていた、それが人見稲荷というお社のものだと知ったのはずいぶん後になってからである。2018年秋頃この神社で『ブログ始めます、頑張ります』と宣誓した、その瞬間突風が拝殿前を吹き抜けたのを覚えている。

瀬織津姫命を知らなければ、知らないなりの生活をいまでも送れていたのだろうか?。知らなかったとは言え…とんでもないところで、とんでもないこと言っちゃったんだな〜。

まいっか…(´(ェ)`)

 

 

いつも後々気付くタイプの熊オッサン、日頃から何も考えていない分ショックも大きいのだが…。最近思うのは、知識を増やすことって考え方も変えてゆくことなんだなと…。そろそろ新しいことをしようかなと考えております。

 

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※地図はクラフトマップ使用

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