花窟神社と陰陽の関係にある。
2025,5,4
くま三山、くまの血騒ぐ、くま鼓動。
く〜まの〜(´(ェ)`)
xでも述べていますがGWは熊野三山を参拝しております。まず熊野若一王子さまにご挨拶したかったのと、タマノオヤ家族神の痕跡をこの目で見たかったわけです。宮下文書記述によると最低でも5000〜6000年前の創建、存在だけでも圧巻のレベル。ただ紀伊半島はとにかく広大、電車とバスを乗り継いであとはほとんど徒歩の貧乏旅行。玉置神社はじめ時間の都合上あきらめた神社も多いです。
そんな中にあって本州最南端『出雲』を目指した理由は、信州出雲~熱田神宮~速玉大社へのレイラインに導かれての事。さらについ先程もう一本出雲大社からのレイラインを見つけてしまった。位山レイライン記事より優先させていただきました。
玉置神社に呼ばれなかったが、紀州出雲には呼ばれたみたい。
(´(ェ)`)
~目次~
男神アマテルに内在するマゴコロタケル投影?、熊野最重要神『若宮』と忌部の関係。 - セキホツ熊の謎を追え!
熊野と出雲、タマノオヤとスサノオの関係
はじめての方もいらっしゃるのでおさらいすると。
そもそも出雲とは。
富士朝の警察・監獄・裁判所を併せた罪人の監視機関。阿祖北(富士山からみて北)の山陰、富士山へ悪雲が吹き出してくる方角であることから出雲国と呼んだ。阿祖山太神宮初代大宮司オオクニヌシを元帥、タヂカラオを副師として、罪人スサノオが収監された。加茂喜三氏はじめ多くの宮下文書研究者がこれを戸隠神社周辺だと認識している。
前記事で、スサノオの一族郎党が2000神いたと書いてしまった…。これはおそらくオオクニヌシとタヂカラオたちの一族郎党2000神が、罪人スサノオを警護して戸隠へ追放させたとの意味。
間違えましたゴメンナサイm(_ _)m。
そもそも熊野とは。
宮下文書熊野信仰はアマテラス義孫とスサノオ孫であり、アメノオシホミミ八王子神、ニニギ弟であるタマノオヤに由来している。事質的には富士朝二代目大宮司タマノオヤ家族神らが窓口となり、富士山祖霊信仰を祀っていると推測。
神代ヒコホホデミ西征の折に、西国を久眞(くま)なく治めた。戦後この地を拠点としたタマノオヤ御子ウサミが、久眞野山の麓に宮を造営したという。具体的な所在地は不明であるが、当初から三山三社が揃っていたわけではなさそうだ。この宮には高天原からイザナギ・イザナミ・アマテラス・アメノオシホミミを勧請し、父神タマノオヤを合祀した。ウサミ御子クマノクスヒコが継承した。
〜宮下文書研究家鈴木貞一、熊野三神の見解〜
▲家津美御子大神=天太眞祖命
▲熊野速玉雄命 =宇佐見命
▲熊野夫須美命 =久眞野久住比古命
一方、タマノオヤ最大拠点『穴門の宮(周防一宮玉祖神社)』を任された推定御子?が宇都志日金命(安曇族祖?)。さらに神武時代の53代孫が、穴門摂津県令の日鷲気留木彦命(忌部重要神・天日鷲命?)とみられる。また海人安曇族の影響で日本海側にも出雲一宮熊野大社をはじめとするタマノオヤ信仰が拡散されていたようだ。根拠として宮下文書版タマノオヤ妃イワナガヒメの前世が、ホツマツタヱでは根の国へ渡ったヤマタノオロチだったと語られている。
神武天皇時代、中国地方出雲は白木人(新羅人?)ら渡来系が終結しており、ウガヤフキアエズ朝旧皇族・眞佐勝彦命と結託して蜂起した。これが17年に渡り本州大乱として戦地が拡大、『闇黒の世』と称された。東征では北越惣国元帥であるスサノオ55孫・出雲大神主命が大活躍をし、戦後の論功行賞にて出雲・尾木国造を賜る。これは暗に東征の渡来系戦犯監視をスサノオ勢力が新しい出雲にて任された形となる。
後述するが入場料を払うと小さいお札がもらえた。
出雲と熊野が接近できた背景?。
まず中国地方出雲とは…。
神代からのタマノオヤ熊野信仰の土地に、神武東征以降からスサノオ出雲信仰が入り込んできたカタチとなる。同時にオオクニヌシが中国地方に直接関係ないことも明白である。これが後世にホツマツタヱ神道大系をきっかけとして、タマノオヤ信仰とスサノオ信仰が長い年月をかけてすり替わったようだ。そもそもタマノオヤ外祖父がスサノオなので、信仰が重なっても違和感がなかったのかもしれないが…。
ただ熊野で出雲神スサノオ信仰が認識された背景は、実に政治的事情もあったと思われる。熊野創建当時神代の富士朝阿祖山太神宮2代目大宮司がタマノオヤだったのに対して、ホツマツタヱが成立した12代景行天皇時代までにはスサノオ74代孫福地記太夫命が大宮司を継承していたことが挙げられる。西国側の一方的な歴史改竄にあたり、富士朝祭祀陣営を黙らせる口実ともなりそうだ。熊野神=スサノオを奉ることで、スサノオ系富士朝大宮司側は文句が言えなくなってしまうのだ。同時に西国天皇勢力の富士朝信仰脱却をも意味しており、福地記太夫命には東国吾嬬惣国国造を任せる事で東西分治を促進させることに専念させた。
因みに…熊野信仰のシンボル八咫烏とは、神武東征の折に高座日多命が富士朝から『布都の神剣』と共に、『八咫烏を皇軍の指導者とさせる』という神託を賜ったことに起因する。カラスはクニサツチが愛した霊鳥、熊野はあくまで富士朝ベースの祖霊信仰(とくに皇祖男系)である。とくに熊野の地は神武東征の激戦区となった経緯があり、東国と神武天皇軍の功績なくしては語れないであろう。
本州最南端の紀州出雲に2本の出雲レイライン合流。
で…、今回ご紹介するのが紀伊半島最南端『出雲』地区にある『朝貴神社』。当ブログでも2回以上ご紹介しているハズなのだが…(記憶が曖昧)。
では何故この地を、『出雲』というのだろう…。
地名の由来は諸説あり。出雲大社神官吉田氏が紀伊国へ移住して、朝貴神社を創建したことに由来するという。またスサノオを祀る出雲族が移住した説もある。いずれにせよ通説出雲神と熊野神の接点があるわけで、これが出雲神と熊野神スサノオに関係しているのではないか?との論調が強い。
しかし宮下文書から読み解くに、そもそもこの出雲族が何処の出雲から来ているのか?にによるだろうが…。
◯『朝貴神社』(東牟婁郡串本町出雲58番地)
〜主祭神〜
- 大己貴命
〜配祀神〜
- 天照大神
- 火々出見尊
- 火産霊神
- 蛭子命
- 熊野夫須美神
- 速玉男神
- 家津御子神
〜境内〜
- 若宮神社
※岬部の神社に対面して『恵比寿神社』があり。
※※紀伊続風土記によると、伊勢大神宮摂社である礒辺の神(伊勢部?具体的には不明)を祀っていたとのこと。
ではこの紀州出雲、信州出雲と中国地方出雲とどのような関係なのであろうか?。
結論を言うと、戸隠=オリジナル出雲『天獄』である根拠が浮き彫りとなるレイラインである。結局これはオリジナル出雲のすり替え、ホツマツタヱにおけるスサノオと九頭竜モチコの関係を示唆しているのではないかと…。そして部分的ではあるが熊野神イザナミの聖地がチラついてくることにも注目。
~①戸隠紀州出雲レイライン~
- 戸隠山(信州出雲)
- 瀬戸川神社(本州重心点から遷座)
- 本州重心点(氷川神社ラインクロスポイント)
- 若一王子神社(1.5kmズレ)
- 有明山神社(タヂカラオ・オモイカネ)
- 乗鞍岳大日岳(2.4kmズレ)
- 御嶽山剣ヶ峰(3.4kmズレ)
- 内々神社(式内社1.2kmズレ)
- 和爾良神社(式内社、和仁氏祖)
- 熱田神宮(ヤマタノオロチの尾=草薙の剣)
- 松坂神社
- 熊オッサンが伊勢参りに泊まったホテル(ドンピシャ)
- 皇大神宮別宮瀧原宮(2.2kmズレ)
- 頭之宮四方神社
- 尾鷲神社
- 大馬神社里宮
- 花窟神社(ほと穴は陰石、1.4kmズレ)
- 産田神社
- 熊野速玉大社
- 神倉神社(ゴトビキ岩は陽石、花窟と陰陽関係)
- 熊野三所大神社(1kmズレ)
- 浜の宮王子跡(1kmズレ)
- 補陀落山寺(1kmズレ)
- 朝貴神社(紀州出雲)
※戸隠山と朝貴神社を軸とした、本州重心点から最南端へのライン
~②出雲紀州出雲レイライン~
- 日御碕
- 日御碕神社(500mズレ)
- 出雲大社
- 塩治神社
- 出雲井神社(雲南市)
- 伊賀武神社(摂社八重垣神社)
- 八重垣神社跡(奥出雲町、ヤマタノオロチ伝承)
- 木野山神社奥宮
- 備前一宮吉備津彦神社
- 高島神社(岡山県南区)
- 神武天皇聖蹟高嶋宮
- 鳴門渦潮(4kmズレ)
- 御崎神社(日高郡美浜町、阿古師〜室古レイラインクロスポイント)
- 塩屋王子神社
- 朝貴神社(紀州出雲)
※日御碕から鳴門海峡、朝貴神社を軸としたライン。
~③戸隠出雲レイライン~
- 戸隠神社奥宮
- 雄山神社(前立社壇)
- 白山比咩神社
- 遣水観音山霊水堂
- 沖之御前
- 美保神社(1.3kmズレ)
- 宇美神社
- 出雲大社
※戸隠奥宮と出雲大社を軸としたライン。根の国から黄泉国へのレイライン?。
上記の①戸隠からのレイラインを説明すると。
・戸隠付近はオリジナル出雲の所在地。クニトコタチ男系マゴコロタケルが、阿波国から安房国へ移住し西国勢力が衰退すると、スサノオ娘ミホツヒメが丹波にて西国を統治し、生涯独身で政治・祭祀に専念したようだ。死後は出雲大神として祀られ『出雲』が移り、丹波一宮出雲大神宮が誕生した思われる。あくまで個人的に思うのは、九鬼文書や大本教を含むこの丹波地域のいう『出雲』とは、中国地方出雲ではなく丹波クニトコタチ祭祀を暗示しているのではないのかと…。
・本州重心点(本州のへそ)は、当ブログでは何度も紹介している氷川三社からのレイラインのクロスポイントで、かつては瀬戸川神社が存在していた。坂上田村麿の伝承を残している。
・熱田神宮は日本武尊と草薙の剣を祀る。ホツマツタヱ版ヤマトタケルは東征の際にこの草薙の剣を携え、自らをスサノオの転生であると称し氷川神社を創建した。前述スサノオ74代孫福地記太夫命妻が、尾羽張中島松子島の源太夫穂明男命の姉・中島根媛命。富士朝再興した源頼朝の母・由来御前も熱田神宮宮司家に関係しており、古来から富士朝との関係が非常に強い。
・花窟神社の『ほと穴』、速玉大社神倉神社の『ゴトビキ岩(表紙写真)』は陰陽の関係にあると云われる。
次に②日御碕からのレイラインを説明すると。
・日御碕神社は伊勢神宮と陰陽の対極にあり日本の『夜』を守護する神社。
・出雲大社は1871年(明治4年)まで出雲二宮杵築大社と呼ばれていた。杵築とは木と竹のことで、宮下文書における阿祖北の山陰、出雲谷に木と竹で作られた囚人監督の宮のことと思われる。
・八重垣神社(奥出雲)には八重垣神社(松江)元宮説あり。
・吉備津彦神社は備前国一宮。宮下文書における吉備氏(平群氏同族)は右臣武部(藤原物部系統)となる。吉備武彦命はヤマトタケルの外祖父。12代景行天皇時代に吉備彦命は東征に従った副将の一人だが、10代崇神天皇時代の四道将軍としても記載されている。このように似たような人物が時代をまたがって存在しており、これが同一人物なのか?誤植なのか?は断言できない。
・個人的には、レイライン近くに日月神示にでてくる鳴門渦潮があることも気になるところ。
<緊急続報>埼玉県八潮市中央一丁目交差点陥没事故、上潮とレイラインの交差点か?。 - セキホツ熊の謎を追え!
土砂降りだった。
<おまけ>紀州出雲の常世とは?、紀伊安房松島レイライン。
熊野三山では基本的に快晴、なのに紀州出雲のある潮岬に近づくほどに雨が強まってきた。ただこの紀州出雲に行ってみたいという衝動を抑えられなかった。というのもこの①レイライン付近は今日に至るまで私が参拝してきた神社ばかりだったからだ。戸隠神社→瀬戸川神社→若一王子神社→熱田神宮→花窟神社→産田神社→速玉大社…。この先に何があるのか?実際この目で何があるのか見てみたいと…。いつか行かなくてはならないのであれば、今日雨でも行こうと…。ただひたすらに先を急いだ。
◯『潮御崎神社』(和歌山県東牟婁郡串本町潮岬)
〜主祭神〜
- 少彦名命
〜配祀神〜
- 金山彦命
- 高皇産霊神
- 天照大神
- 大国主命
- 猿田彦命
※12代景行天皇時代、静之窟という場所に創建。
日本書紀神代記曰く、オオクニヌシとスクナビコナが協力して中津国を運営、その後スクナビコナが『熊野御崎に至りて常世国に渡った』という。全国粟島・淡島系信仰にも似たような伝承がある。
雨はどこか…宮下文書版紀伊半島東沖海戦を彷彿とさせる。神武東征の折、稲飯命と三毛入野命が、渡来人白木人をどうしても逃がすわけにはいかないと…水神に決戦祈願。最終的には船団ごと三木浦方面へながされて賊軍諸共に大海に没した。古事記ではこれを波頭を踏んで『常世の国』に渡ったとのみ記されている。私が対元寇氏族武藤少弐氏の末裔だからであろうか?、紀伊半島東沖で稲飯命と三毛入野命を嵐を巻き起こして海戦を呑み込んだこの水神こそに興味があった。ズバリこれは阿波から東国常世『安房』に渡った若一王子さまではないかと思っている…(妄想)。
※そういえば九鬼文書は、紀州熊野由来のアメノコヤネ末裔を称する九鬼家に纏わる古史古伝であるが…。九鬼家の拠点はこの三木浦北、①レイライン上の尾鷲神社付近である。
ところで常世とはなんであろうか?。ホツマツタヱにおける常世とは西国ヤマト政権の影響がなかなか及ばない管轄外のことであり、富士山関東圏ホツマ国や東北ヒタカミ国を指す場合が多い。奇しくも潮御崎神社の御祭神スクナビコナも似たような伝承を持っている。ただ宮下文書における伊勢地主神がなんで東国常世の『あわしま』なのだろうか?。
これは偶然か…(´(ェ)`)
△天上=高天原(富士山)
◇地上=葦原中国(中国地方出雲?)
▽地下=黄泉国・根の国(戸隠、熊野花窟?)
◯常世=海の果ての理想郷?
熊野や土佐といった太平洋側黒潮沿いには、補陀落渡海という苦行が多いという。語源はサンスクリット語『ポータラカ』、本場はインド南部の海沿いにあると云われ、これが日本に伝来し熊野那智山や日光山が擬せられた。行者が身動き取れない棺桶のような船に乗せられ、大海へ漕ぎ出し黒潮を彷徨う修行。観音菩薩の浄土『補陀落山』への往生を願い海へ入るが…、事実上自殺行為のようなものである。平安末期源平合戦に落ち延びた平維盛が、補陀落渡海に擬えて那智沖にて入水自殺をしたという伝承がある。熊野三山を参詣後に松の木に自らの名を記し、船を大海に漕ぎ出したという。興味深いことにお隣の紀伊勝浦港『紀の松島』の山成島にも彼の入水自殺説がある。
スタート地点は①レイライン近くに九十九王子の一つ『浜の宮王子』があったが宝永津波で流されて廃絶、廃仏毀釈後の現在でも地図上では『補陀洛山寺』と並んで『熊野三所大神社』がある。しかしその思いの果てが目指す先は…?。黒潮の流される方角であり、地図で言えば伊豆を超えて、房総半島の安房国あたりではないだろうかと…。
そう...『あわ』の国なのだ。
~紀伊安房松島レイライン~
- 誕生寺(日蓮聖人生誕地)
- 安房松島・厳島神社(円仁慈覚創建)
- 安房総社・鶴谷八幡宮
- 安房一宮・州崎神社御神石
- 伊古奈比咩命(白浜神社、元三嶋伝承1.2kmズレ)
- 紀の松島
- 青島神社(日向国、古事記の鴨就宮)
- 檍神社(神代創建説?、ヤソマガツヒほか)
- 桜島(10kmズレ)
奇しくも那智勝浦と上総勝浦がシンクロする、そもそも勝浦の地名はクニトコタチ御孫マゴコロ夫妻を奉祀した阿波・安房忌部『勝占忌部』に起因するという。それはかつての九州ウガヤフキアエズ朝の航路にも関係していたのかなと(妄想)。
左側が『補陀落山寺』
そして黒潮ともっとも近接しているのはこの潮岬のはずだ。
雨の中、なんとか潮御崎神社へたどり着いたが、コミュニティバスしか移動手段がなかった。とぼとぼ串本駅方面へ半島の半分以上歩くことになった。そこに地元の方が通りがかり、びしょびしょの小汚いオッサンを車に乗せてくれた。人の思いやりが涙が出るほど嬉しかった。
そのときポケットから午前中にいった那智大社『那智の滝』入り口でもらった小さなお札がでてきた。もしかしたらこれかなと…。そういえば朝一からJR那智駅前の補陀落山寺→浜の宮王子→熊野那智大社→紀の松島を巡礼したではないか!。
常世を探して先を急ぐオッサンが、行き急ぎすぎるのを止められたのかなと…。
く〜まの〜(´(ェ)`)
※地図はクラフトマップ使用。