2025,6,2
前記事では和歌山県新宮市『浜王子』をご紹介した。ここから勧請された武蔵国王子神社のレイラインを調べていたのだが…、偶然すんごい空海807年聖地を発見した。関東圏というのは富士朝大宮司家『吾嬬惣国』の地、どんな古神道がでてきてもおかしくはない土地ではある。とくに中世〜戦国、古豪佐竹氏によって隔離状況が保たれてきた常陸国。
2024年11月熊オッサンが気まぐれに筑波山へ行ったのだが…、そのとき足を伸ばして水戸巡りへ向かった。これが今回のレイライン発見への布石だったようで、芋づる式に水戸市内に張り巡らされた結界?が浮き彫りとなる(苦笑)。
なんかいろいろ予定変更しておりますが、風まかせの神社歴史ブログです。
m(_ _)m
本日は常陸国をクローズアップします(´(ェ)`)。
~目次~
熊野灘に消された稲飯命・三毛入野命の神武東征武勇伝と、『神風』を呼ぶ謎の大海神?。 - セキホツ熊の謎を追え!
常陸〜王子〜淡島のレイライン。
まずご紹介するのが、常陸〜王子〜淡島のレイライン。紀伊国浜王子は武蔵国『王子神社』へ勧請された。さらに王子大権現を勧請されたのが、前述のワカヒルメを祀る相模国『栗原神社』方面へレイラインとなっていることが判明。奇しくもこれらが常陸〜王子〜淡島へ、水戸市内を貫通するラインとなっている。この詳細はまた次回?予定。
〜御根磯淡島レイライン〜
- 御根磯(大甕神社祭祀場)
- 東海第二原子力発電所
- 阿漕ヶ浦(伊勢祭祀由来?)
- 村松大神宮(1.3kmズレ、708年内宮勧請)
- 豊受皇大神宮(709年外宮勧請)
- 村松虚空蔵尊(807年空海創建)
- 熊オッサンが磯前参拝で泊まったホテル
- 水戸城跡
- 常陸三宮吉田神社(日本武尊伝承)
- 茨城県庁
- 常陸国分寺跡
- 常陸國總社宮(600mズレ)
- 桜川・水天宮
- 熊オッサンが筑波山巡りで泊まったホテル。
- 西新井大師總持寺(800mズレ、空海開基)
- 王子稲荷神社(太田道灌崇敬)
- 王子神社(太田道灌雨宿り伝承)
- 中野氷川神社(源頼信創建、太田道灌伝承)
- 大宮八幡宮(700mズレ)
- 熊オッサンの母方墓所
- 和泉熊野神社
- 宗源寺(富士吉田の秩父平氏畠山氏末裔・吉田宗利)
- 長津田・王子神社(1.7kmズレ)
- 栗原神社(王子神社勧請、ワカヒルメ)
- 有鹿中宮
- 相模五宮有鹿神社
- 愛甲石田(宮下氏流愛甲氏、三浦氏流石田氏)
- 高部屋神社(式内社)
- 太田道灌首塚
- 伊勢原大神宮(700mズレ)
- 鴨宮・加茂神社(北条政子安産祈願)
- 小田原城(700mズレ)
- 寶船山高源寺(頼朝と文覚伝承)
- 冷川神社
- 雷電神社(旧伊豆山大鳥居跡)
- 初姫神社(式内社)
- 肥田神社(ひた王子、阿波命?)
- 伊豆淡島(宮下文書版ヱビス拠点)
- 鮑玉白珠比咩命神社(式内社、鮑=阿波毘)
大甕神社の祭祀場『御根磯』とは?。
当記事で何回かご紹介した『大甕神社』をおさらいすると。
創建は皇紀元年(紀元前660年)。
日本書紀にも記載されており、大甕山上に陣取り強大なる勢力をふるっていた天津甕星の荒魂を、巨岩に封じて創建。柳田国男『日本の伝説』などによると、石名坂の峠の巨石を静の神(常陸二宮・静神社)が鉄の靴で巨石を蹴った。巨石は分裂して、破片の一つが河原子(茨城県日立市)や石神(茨城県東海村)たどの地域へ飛ばされた。
神社はもともと大甕山に存在していたが、1689年(元禄2年)徳川光圀によって大甕神社内にある現在地宿魂石の上に遷座された。
◯『大甕神社(大甕倭文神宮)』(茨城県日立市大みか町)
〜主祭神〜
- 建葉槌命
〜地主神〜
- 甕星香々背男命
△節分祭(2月3日)
△例大祭(5月5日)
△甕星祭(7月7日)
※祭事日からも富士朝信仰と関係が深いことがわかる。
この巨石を静の神が蹴り飛ばし、四方へ飛び散ったものの一つが、太平洋日立沖レイライン上『御根磯』といわれる。その他の場所にも神社が残っているという。
▲東海村石神『石神社』天手力雄命(創建不明)
▲城里石塚『風隼神社』武甕槌命(806年創建)
▲笠間石井『石井神社』建葉槌命(807年再建)
※風隼神社は後述する水戸レイライン上にある。
建葉槌命と香々背男命
宮下文書研究家加茂喜三著『日本の神朝時代』p289によると。初代ウガヤフキアエズ即位後の九州遷都計画は、高天原の天つ神国つ神八百万の神々(臣民のこと)の議論を分断させた。
当時星読みで吉凶を占っていた星山の天香々背男が、『西征(ウガヤフキアエズ九州遷都)は豊阿始原ノ国を二分にする結末となる』と予言した。これを聞いた反対派が結集して、神皇ウガヤフキアエズの富士朝から九州への出陣を妨害したという。このため常陸国タケミカヅチが健羽雷命を当地に派遣してこれを鎮圧し、ウガヤフキアエズの西征を促した。健羽雷命はそのまま星山に棲みつき織物・製紙を生業とした。
星山とは現在の静岡県富士宮市星山の式内社『倭文神社』のことで、境内由緒書にも酷似した伝承が記載されている。周辺には星山黒田遺跡群があり、神社は浅間大社社家の富士氏を祀っていた。宮下文書における富士氏は二所明神(阿祖山太神宮)副司家系と見られる。富士朝祭祀が非常に強かったと見ている。
◯『倭文神社(浅間大社旧摂社)』(静岡県富士宮市星山)
〜御祭神〜
- 健羽雷神
〜合祀〜
- 大屋毘古神
- 大山祇神
- 熊王山神
- 高皇産靈神
- 伊邪那岐神
※御祭神は下照姫命・拷幡千々姫命という説あり?
※※ホツマ版シタテルヒメ=ヒルコ
日本書紀によると、644年(皇極天皇3年)不尽河(富士川)沿いの大生部多にて。常世の神として虫を祀り、歌や踊りに興じて仕事もしない民がおり、秦造河勝がこれを討伐したという。どこか天香々背男命と健羽雷命を彷彿とさせるエピソードである…。
まとめると…。常陸国地主神タケミカヅチの命令で健羽雷命が、常陸国大甕山から駿河国星山へ派遣されたと推測。九州遷都が大和朝廷となり、富士朝旧勢力無視→弾圧の6000年?の歴史の流れを考えれば、天香々背男の星読は間違っていなかったのかもしれない…。
807年成立忌部氏末裔が編纂した『古語拾遺』では健羽雷命が天羽槌雄神と比定される。『日本書紀』では倭文神・建葉槌命、『安房国忌部家系』では天羽雷雄命、または武羽槌命、止与波豆知命とある。倭文神・棚機姫命とともに忌部氏が関係していた点にも注目する、天羽槌雄神の末裔を称する倭文氏が祀っていた。
当ブログでは何度も触れているが、宮下文書版空海と坂上田村麿は800年延暦噴火以降の富士朝復興と各地鎮魂祭祀を、朝廷側から任されていた節がある。これが大同元年(806年)創建の常陸二宮・静神社の伝承にもシンクロするわけで、東国広域がその対象範囲となっていた可能性はある。
※因みに。前述のようにホツマツタヱにおけるワカヒルメ(ヒルコ・ワカヒメ)の生誕地が筑波となる。前記事でも述べたように常陸国筑波山南麓『蠶影神社(蚕影山神社)』は国内蚕業発祥地としてワクムスビを祀る。筑波山を挟んだ北麓には『歌姫神社』にワカヒルメを祀っている。これら御祭神が日月神示発祥『麻賀多神社』のコンビネーションと一致している(後述)。
東海第二原発にあった常陸国807年大聖地。
当ブログでご紹介してきた各レイライン。何処もなぜか軍事基地とか研究機関、大学が多いような印象も受ける。そして今回、東海第二原発が807年空海聖地なのをはじめて知った。
◯『村松大神宮』(茨城県那珂郡東海村村松)
〜御祭神〜
- 天照皇大神
- 天手力男命(静神社、戸隠神社の御祭神)
- 萬幡豊秋津命(アメノオシホミミ皇后)
◯『豊受皇大神宮』
〜御祭神〜
- 豊受大御神
38代天智天皇と蘇我姪娘の娘43代元明天皇の時代。和銅元年は大きな政治改革があり、平城京造営開始や、日本最初と見られる和同開珎の鋳造が開始された時代。このとき東国に多くの祭祀権をもっていた蘇我氏の影響力も拡大していたと見られる。
村松大神宮社伝によると和銅元年(西暦708年)4月7日、ちょっとした怪奇事件があったようだ。平磯前浦の巨巌が怪光を発し、その光は眞崎の浦に留まったという。住民が占ってみると伊勢の神という。垂示に従ってこれを奉斎、祀職を伊勢から呼んで奉仕したという。これら聖地が前述した大甕神社祭祀と関係があるのならば、宮下氏族那珂氏が拠点としていた久慈川河口域一帯の大聖地が浮上してくるわけだ(那珂氏については後述する)。
因みに…ここでいう伊勢の神というのは、宮下文書における伊勢地主神スクナビコナの可能性もありそうだ。現在の大洗磯前神社と酒列磯前神社の御祭神である。
・708年(和銅元年)10月 伊勢神宮に平城宮造営を告げる
・708年村松大神宮創建(内宮分霊)
・709年豊受大神宮創建(外宮分霊)
つまり平城京遷都計画への布石だったのか…?
延暦噴火後806年(大同元年)、50代桓武天皇謎の崩御、これにより一時的な平安京→平城京へ回帰主義が発生する。これは800年延暦噴火が山城国オオヤマクイ・カモサワヒメらの逆鱗ではないか?という人々の憶測によるだろう。常陸国では51代平城天皇より村松五所大明神の勅号を賜り、伊勢・加茂・祗園・稲荷・春日神を祀ったという。
和同708年と大同807年のシンクロニシティ?。
(´(ェ)`)
続いて『村松虚空蔵尊』伝承によると。
807年(大同2年)に空海が、大神宮隣りに虚空蔵尊菩薩を開基、光る老木から虚空蔵尊菩薩の等身座像を彫り上げたという。51代平城天皇から村松山神宮寺の勅額を賜る。
1060年(康平3年)源頼義・義家父子が奥州討伐の折に戦勝祈願、社殿の造営・神領の寄進した。
その後平安末期から約500年間、常陸国を治めていた佐竹氏の庇護を受け、近世には徳川家康公から朱印地が寄進され、徳川光圀(水戸黄門)が神鏡を奉納し、伊勢豊受皇大神宮を奉遷した。
そしてなんの因果か…現在この聖地には東海第二発電所が存在している。
(´(ェ)`)
常陸国那珂郡とは?
宮下文書三輪本現代訳p251によると。そもそも那珂郡は宮下氏族那珂氏の拠点だった。宮下家2代目宮下源太夫明政の第三王子・吉田三摩古彦が日太地国県主となり、この吉田氏がいつからか那珂氏を称す。つまり高天原比定地の山梨県富士吉田市と語源は同じ。
ただ通説では諸説あり。平安時代末期藤原秀郷流公通が太田太夫となって、久慈郡太田郷を拠点とし、那珂川北部と久慈川南部に挟まれた当地を領して那珂氏を称したということになっている。この那珂郡南部が吉田郡として分離し、この付近が奥州(東北圏)と坂東(関東圏)の境目とされる。平安期から南北朝まで清和源氏佐竹氏と争うことになるが、婚姻関係もあった。
那珂川流域水戸市付近には式内社名神大社・常陸三宮吉田神社があり、久慈川流域久慈郡大子町池田には807年創建八幡宮旧跡に吉田神社がある。
◯常陸三宮『吉田神社』(茨城県水戸市宮内町)
〜御祭神〜
- 日本武尊
※式内社名神大社
神社伝承によると、ヤマトタケル東征の折に朝日山(三角山)で兵を休ませた。ただ常陸国風土記には那賀郡における東征説話が見えない。因みにホツマツタヱ版朝日神とはトヨケの諡のことで、宮下文書では豊受大神=クニトコタチに比定できる。
当地は古代からの富士朝影響力が強かったとみている。
吉田大掾氏(常陸吉田氏)も佐竹氏と婚姻関係あり。通説(wikipedia大掾資幹)によると諸説ある。常陸平氏惣領が大掾職を継承、1193年(建久4年)常陸政変より多気氏→吉田氏(馬場氏)惣領・大掾職の交替があったと考えられている。ただこれを裏付ける文献はないようだ。
その後江戸時代、常陸を治めていた佐竹氏は、出羽国久保田藩へ転封される。その後2代目水戸藩主徳川光圀は水戸藩内八幡潰しを敢行、古来からの八幡信仰を潰し回ったという。これも彼らが宮下氏族吉田氏や那珂氏、応神天皇末裔による古神道の影響力を恐れていたと考えると辻褄が合う。因みに光圀には、有名禁足地『八幡の藪知らず』に単身入り込んで八幡神の逆鱗に触れ、やっとの思いで生還できたという意味深なエピソードがある。
熊オッサン的には、本来は富士朝宮下氏族吉田家なのではないか?と見ている…。だからこそ古来から富士朝祭祀色が強く、朝廷・鎌倉〜徳川幕府も迂闊に介入できなかった地域なのではないか?と…。
(´(ェ)`)
水戸は徳川光圀の結界都市だった?
今回分かったのは…水戸には少なくとも3本のレイライン交差があること。
〜松島鴨川レイライン(北から)〜
- 松島蓬莱島
- 瑞巌寺五大堂(1.2kmズレ、田村麿、円仁伝承)
- 多祁神社奥宮(田村麿伝承)
- 花園神社(奥の院峰、807年田村麿、円仁伝承)
- 松岩寺(徳川光圀本寺替え)
- 黒前神社(竪破山、田村麿霊夢、円仁伝承)
- 馬場八幡宮(900mズレ、源頼義勧請、馬場大掾氏?)
- 稲村神社(式内社、ニギハヤヒ、日本武尊伝承)
- 妙福山佐竹寺(807年開基、佐竹氏の由来)
- 水戸八幡宮(佐竹氏による馬場八幡宮勧請)
- 別神皇太神(関東三雷神)
- 偕楽園
- 常磐神社(徳川光圀・徳川斉昭を祀る)
- 茨城県庁
- 麻賀多神社(ワクムスビ・ワカヒルメ船形奥宮)
- 麻賀多神社(ワクムスビ・ワカヒルメ台方里宮)
- 皇産霊神社(佐倉飯塚)
- 高瀧神社(ニニギ・別雷命、京都賀茂神社勧請)
- 鴨川富士
- 鴨川松島(2.3kmズレ、円仁が厳島神社創建)
- 鴨川・金剛院(2.3kmズレ円仁と弁天伝承)
- 九頭竜稲荷神社
華園山縁起によれば、763年(延暦2年)坂上田村麿が奥州征伐の帰路霊夢を見て、五つの峰(東金砂・西金砂・真弓・竪破・花園)に祠を建てたという。これを常陸五山という。つづいて861年(貞観3年)に円仁こと慈覚大師によって堂が建てられ比叡山(山王権現)が勧請された。
黒前神社(竪破山)
↓
東金砂神社
↓
西金砂神社
が
西金砂神社
↓
真弓神社
↓
泉神社
↓
御根磯(大甕祭祀場)
と『くの字』のレイラインとなっている。
日月神示発祥地『麻賀多神社』御祭神がワクムスビ・ワカヒルメ。当ブログでは宮下文書版淡津佐国(上総・下総・安房)地主神マゴコロ夫妻ではないかと見ている。后マゴコロアイヒメの諱が松島毘女命であり、鴨川松島にて円仁の前に出現して弁財天なのではないかと見ている。比叡山延暦寺第3代天台座主円仁が、東国で何をやっていたのかが浮き彫りとなるだろう…。
〜那珂川沿いレイライン(南から)〜
- 華光山蓮乗寺(元吉田町)
- 常陸三宮吉田神社(上記レイライン交差点)
- 水戸東照宮
- 水戸八幡宮(上記レイライン交差点)
- 二十三夜尊桂岸寺
- 水戸愛宕神社(大掾氏祖・平国香勧請)
- 風隼神社(前述の大甕神社巨石伝承の一社)
- 石船神社(式内社)
- 赤沢富士(道鏡が住んでいた伝承?)
- 伊勢畑・吉田神社(600mズレ、旧若宮八幡)
- 吉田富士山古墳
- 那須八幡塚古墳
- 御霊神社(那須与一宗隆の分骨伝承)
- 乃木神社 (那須塩原市)
- 白山神社(式内社、新潟総鎮守)
もう一つのラインがおおよそ常陸国那珂川に沿って存在する。
特筆すべきは那珂氏族末裔といわれている江戸氏の存在で、大掾氏(平国香流馬場氏)によって築城された馬場城(水戸城)主であった。ここからも佐竹氏と那珂氏と馬場氏(大掾氏)の三つ巴の因縁関係が垣間見れる。ライン上『華光山蓮乗寺』は那珂氏流江戸氏が、大本山中山法華経寺から正覚院日慈上人を招き開基した。
因みにこの大本山中山法華経寺は下総国総鎮守葛飾八幡宮の西1.6kmで、葛飾八幡宮には前述した『八幡の藪知らず』がある。
ライン上『赤沢富士』も興味深い。なんと769年『宇佐八幡宮神託事件』の首謀者・道鏡(弓削道鏡)が配流伝承があり。ホントかウソかなんと熱愛関係にあった48代称徳天皇も隠棲していたというのだ。通説では称徳天皇崩御後に下野国薬師寺別当に任じられ左遷され、下野国(栃木県下野市)で没している。奇しくも円仁生誕地伝承のある壬生寺に近い…。
結局、宇佐八幡宮神託事件って…富士朝信仰が絡んでいたのではないだろうか?と。東国信仰勢力が西国政治勢力にスケープゴートされた可能性もあるんじゃないのかなと…妄想。
(´(ェ)`)
…何故東国に伊勢地主神スクナビコナを祀るのか?わかったような気もする。
おわりに
正直、東海村にこんな大きな聖地があるなんて知らなかった…。虚空蔵尊菩薩すぐ隣には1999年9月臨界事故で有名な東海第二原発がある。古代からの聖なる海と大地は放射能で汚染された可能性あり。
熊オッサン的には、別に日本人カルマに拘っているわけでもないのだが…。地図上で聖地を辿っていくうちに日本人の業の深さも目についてしまう。
かといって原子力発電所は地域の生活に根ざしており、那珂郡東海村の人々も好きでこうなったわけではないだろう…。私たちは欠史の犠牲の上に成り立っており『知らなかった』という一言が何を意味しているのか理解し始めていると思う。だから様々な視点をもつことで、昔から知っている地元の人々の苦労にはじめて気づくわけだ…。それは富士朝で宮下文書を必死で守ってきた人々にも言えることなのだろう。
結局カルマというのは『私には関係ない』『知らなかった』『どうしようもない』というのが原因になるのではないかと…。少なくとも熊オッサンは、歴史に対してはありのまま、目の前の真相を真摯に受け止めて、伝えていこうと思っております。
次回へつづく(´(ェ)`)
x始めたんですけど...。
そもそも宮下文書自体がセンシティブな内容なので、いつシャドウバンになってもおかしくはありません。ただいま言える事は、宮下文書研究者が世間的にどういう扱いにされているかを伝えるよい実例かと...。
↓
※地図はクラフトマップ使用