セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈風のサルタヒコ③〉伊勢出雲レイラインに浮かぶ、野見宿彌殉死と菅原道真噴死の真相。

菅家邸址・道真生誕地とされる『菅大臣神社』(京都府京都市下京区菅大臣町)




2023,8,5

前記事までを簡単に説明すると…。

宮下文書版・野見宿彌はサルタヒコ67または68世孫で、信州出雲からやって来た。宮下文書にはアメノホヒは登場せず、通説のアメノホヒ子孫・天津神系出雲族に比定できる。さらに…宮下文書版富士朝高天原における、サルタヒコ信仰(根元の大神)の大元が明見根元神社であり、現在の御祭神が天御柱命神になっている。すなわち龍田神シナトベと同神、サルタヒコ=シナトベ=天御柱命神という図式がチラついてくる。

(´(ェ)`)

~目次~

 

 

〈風神と武蔵①〉シナトベ=宮下文書版サルタヒコ説、出雲族『根の国』の根源か?。 - セキホツ熊の謎を追え!

ホツマ出雲史徹底解剖!、根国→サホコ国をすり替え、天皇はスサノオの罪を嘘で封じ込めようとした?。 - セキホツ熊の謎を追え!





野見宿彌の殉死、菅原道真公が畏敬された理由。

 

宮下文書における野見宿彌の生涯は、通説とはちょっと異なる。

 

まず通説の彼は、皇后・日葉酢媛命が薨じた時に埴輪を提案した人物として有名。当時は皇族の崩御に追随した従者たちの殉死が倫理問題になっていた。日本書紀垂仁紀28年条によると、その残酷さ故に殉死は勅命にて禁じられている。従者たちは命を粗末にするな、王族は多くの従者たちを巻き添えにしてまで死ぬべきではないと…。

埴輪は殉死者たちの身代わりであり、多くの命を救う画期的な発明であった。通説では出雲国から土部百人を呼び埴輪を作らせたという。この出雲というのは信州出雲の可能性もありそうだ。

一方で宮下文書における野見宿彌夫妻は、11代垂仁天皇の崩御とともに殉死している。

皮肉なことに数多くの殉死者を救った提案者の殉死…。詳しい理由は定かではないが、彼の信念ということなのであろうか...。夫妻は垂仁天皇陵菅原伏見付近に埋葬され、嫡男・出雲彦命が菅原宿彌を賜る。付近には、日本最古の天満宮を自称する『菅原天満宮』があり、境内には渡会神主こと渡会春彦の境内社がある(詳細後述)。

つまり菅原道真とは野見宿彌の子・菅原宿彌の嫡流であり、富士山を拝むことを止めた西国の人々に、彼らサルタヒコ子孫が何を期待されてきたが浮き彫りとなるわけだ。





浮上する、龍田大社『たつの』のキーワード。

 

しかし、野見宿彌の殉死の美談は政治ゲームにより抹消された。

野見宿彌の墓の痕跡を辿ると各地点在している事に気づく。死因と出自を誤魔化すため、子孫たちが自主的に撹乱させた可能性もあるのではないかと...。いずれにせよ彼らの痕跡が大きく歪められて来ており、子孫菅原道真が失脚の果てに噴死した理由も見えてくるのだ。

『播磨国風土記』揖保郡立野条の記述によると、野見宿彌は出雲国へ帰還の途上、日下部野の地にて病死したという。出雲から多くの人々が追悼にやってきて、野見宿彌の墓を建てた。この光景に因み、野に立つ人→立野→龍野となり、現在の兵庫県たつの市の語源となっているという。鳥取市『大野見宿禰命神社』と島根県松江市『菅原天満宮』ともに、龍野から分骨したと主張している。



◯『菅原天満宮』(島根県松江市宍道町上来待)

〜御祭神〜

  • 菅原道真公

※日本四社(菅原道真の飛梅伝承の四社)。後述する奈良市菅原町『菅原天満宮』と同名別宮なので混同注意。

※菅原天満宮ホームページによると、菅原道真公の生誕地・菅原の里(山田村)にある野見宿禰の墳墓の伝承地。菅原是善が出雲国に在任中、祖先にあたる野見宿禰の墓所を参拝。その時案内した乙女という女性と結ばれ、この菅原の地で誕生したのが菅原道真という。菅原道真・生誕地や生母については諸説あり、wikipediaによると伴真成の娘。宮下文書における富士朝伴氏は大伴系統ではなく、武内宿彌流羽田氏または応神天皇根鳥皇子流太田氏にあたる。朝廷側の彼への畏敬の念ぶりをみれば、富士朝伴氏の可能性も高そうだが…。

(´(ェ)`)



…これが奇しくも、前記事でご紹介した天御柱命≒シナトベを祀る『龍田大社』の所在地、奈良県生駒郡三郷町立野南と同じ地名なのだ。龍田大社南を流れる大和川の下流域には応神天皇陵と仁徳天皇陵があり、子孫の土師氏の活動域でもある。また野見宿彌が垂仁天皇より賜った當麻の地より10キロほど北にあり、それほど遠い距離でもない。wikipedia龍田大社によると、40代天武天皇4年(675年)4月10日、勅使を龍田立野の地に遣わして風神を祀るとされる。天御柱命=シナトベ=サルタヒコを証明するヒントになるかもしれない。

※因みに前記事でご紹介したように…、40代天武天皇という人物は、684年(天武13)信州鬼無里・東京に遷都を試みた人物であり、先行して鬼無里東京二条『加茂神社』と日影『白髭神社』を創建させた人物。日本書紀と古事記の編纂を命令し、歴史改竄に熱心であったが故に、白鳳地震がその御祖神の祟りであると恐れていた。とくに、富士朝や信州出雲への畏敬の念が強かったとみられる。





 

 

伊勢〜中国地方出雲『たつの』レイライン

たつのなんて偶然だろう?と思われるかもしれないが…、では菅原天満宮と龍田大社とレイラインで結んでみたらどうなるのか?。今回もいつものように直感的にレイラインを引いてみた。すると伊勢〜大和〜中国地方出雲を結ぶラインとなるのだ。しかもなんと...、宮下文書における野見宿彌と舟田彦命らサルタヒコ子孫活動域になっているのがわかる。

 

 



〜伊勢出雲大和レイライン(青線)〜

  • 三重県度会郡『野見坂峠』
  • 皇大神宮別宮 瀧原宮(倭姫伝承)
  • 都賀那岐神社(頬那芸神、式内社)
  • 十二神社(周辺にあった野見宿彌五輪塔を御移)
  • 桜井市出雲(野見宿彌伝承あり)
  • 三輪山
  • 檜原神社(大和国元伊勢)
  • 相撲神社(野見宿彌相撲伝承)
  • 景行天皇日代宮
  • 景行天皇陵
  • 鏡作坐天照御魂神社
  • 龍田大社(天御柱命・国御柱命・シナトベ)
  • 河内二宮恩智神社(大御食津彦大神夫妻)
  • 杭全神社(熊野神、坂上田村麿孫・坂上当道の勧請)
  • 弓弦羽神社(熊野神、神功皇后戦勝祈願)
  • 摩耶山天上寺(36代孝徳天皇の勅願)
  • 箕谷神社
  • 兵庫県たつの市
  • 美作二宮高野神社(鏡作命など)
  • 比婆山久米神社奥の宮
  • 出雲一宮熊野大社元宮斎場跡
  • 八雲山須佐之男命御磐座
  • 須我神社(自称・日本初之宮)
  • 菅原天満宮(島根県松江市穴道町・立野由来の野見宿彌墓)
  • 佐爲神社(延喜式内社、猿田彦命)
  • 斐伊川(通説、武蔵氷川神社の語源とされる)
  • 奥宇賀神社(延喜式内社)
  • 垂水神社(延喜式内社、瀧津姫命と垂水四郎)




〜伊勢内宮出雲大社レイライン(赤線)〜

  • 伊勢内宮
  • 蚊野神社・蚊野御前神社(倭姫命伝承)
  • 御船神社・牟弥乃神社(倭姫命伝承)
  • 宇流冨志禰神社(倭姫命伝承)
  • 元興寺
  • 平城京跡朱雀門
  • 西大寺鎮護八幡神社
  • 菅原天満宮 (奈良県奈良市菅原町)
  • 大隅神社(応神天皇大隅離宮付近)
  • 服部天神宮(道真の太宰府左遷に因縁?)
  • 伊和志津神社(延喜式神名帳・大社)
  • 宝塚神社
  • 西賀茂神社・三島神社(津山市杉宮)
  • 粟津稲生神社
  • 神魂伊能知奴志神社
  • 出雲大社

 




まず当レイラインを簡単に説明すると…。

当然ながら伊勢内宮〜出雲大社へのレイラインと近接したラインとなる。このレイラインは世間的にも知られているようで、平城京朱雀門をドンピシャで貫通している。ただ感想を言わせて頂ければ、それ以外は内容的に物足りないというか…、意図しすぎた人為的というか…。

…いまいち感(´(ェ)`)

気のせいか、カモ系の地名が多い(´(ェ)`)

 

続いて伊勢内宮別宮『瀧原宮』から、出雲国菅原神社にある野見宿彌の墓に至るまで、舟田彦命・野見宿禰兄弟の活動域を結ぶレイライン。こちらはかなり濃密で、古来から影響力がある三輪山や龍田大社や出雲一宮熊野大社奥宮や出雲族関係地をボリューミーにおさえているレイライン。

パワースポット多め(´(ェ)`)









 



伊勢プロジェクト、スタートは大和国の出雲族。



このレイライン上のサルタヒコ子孫活動域を伊勢方面へ擦っていく。伊勢は野見宿彌の兄・舟田彦命の子孫たちの活動域となる。

 

宮下文書をおさらいすると。

BC23年8月15日、信州出雲の人の野見宿彌が大和国当麻の当麻蹴速との相撲勝負に勝利、11代垂仁天皇の信頼を勝ち得た。サルタヒコ子孫が天皇に接近できるチャンスが生まれた。

このとき、たまたま朝廷は伊勢神宮創建の構想をもっていた。野見宿彌の兄が、富士朝阿祖山太神宮供物司長舟田彦命であったことが注目された模様。天皇が埴輪代用案を採用したのも、子孫土師氏が多くの古墳への関与できたのも、彼らが富士朝神職者家系であった影響がある。当初から祭祀のエキスパートとみなされていたのだ。もっと言えば、富士朝神職者が相撲で勝利をしたからこそ、天皇は吉兆を感じて彼に信頼を寄せていたのだ。そして富士朝の兄へ口添えに発展した可能性もある。いずれにせよ結果として舟田彦命が倭姫命のサポート役となって、伊勢プロジェクト『天照皇太神宮』の供物司長に大抜擢された。

 

 

 

 



興味深いことに、この相撲試合会場の比定地がレイライン上の奈良県桜井市穴師『相撲神社』とされる。さらにレイライン上『出雲』という地名には野見宿彌の墓所とされる五輪塔があり、相撲の聖地として知られていたという。明治16年には、この五輪塔が奈良県桜井市出雲『十二神社』に御移されている。三輪山に祀られている富士朝御祖神が出雲神にすり替えられた根本的理由は、出雲の人の地名が原因であった可能性さえある。

宮下文書によると、崇神5年に富士朝麻呂山(現在の山梨県富士吉田市向原・太神社付近)からアマテラス御神霊と、阿祖山太神宮の三品大御宝を大和国笠縫の里の新宮『天照皇太神宮』へ御移し祀ったと明記されている。奇しくもこのレイライン上にある三輪山麓に、アマテラスを祀る元伊勢『檜原(ひばら)神社』あり。神社由緒書によると、かつては当社は日原(ひばら)社呼ばれ、倭笠縫邑の元伊勢を称していた。このブログでは何度も指摘しているが、原というのはハラミ山(富士山)を指す。

これをどうやら、11代垂仁天皇の皇女倭姫命と舟田彦命(前述)により、伊勢神宮へ遷宮することにしたようだ。ただしそれは、人々の目を富士朝霊廟・阿祖山太神宮の真相から背けるためのものでもあったことは言うまでもない。


やはりこのレイラインはサルタヒコ子孫活動域を示しているようだ。





ついに伊勢神宮が誕生。

宮下文書をおさらいすると。

伊勢(伊瀬)国とは、ウガヤフキアエズ51代・弥真都男(やまとお)が、嫡男・海津彦五瀬王命の敵討ちの途上で崩御した地。同時に4男・日高佐野王命(神武天皇)が皇位継承権を持った土地。つまり大和天皇家にとってのスタート地点なのだ。

皇祖アマテラス祭祀が、伊勢の地に選ばれたのはこのため。宮下文書における伊勢神宮誕生は、ウガヤ51代・弥真都男王尊の陵墓所在地である伊瀬国渡會原五十六鈴川上に、阿祖山太神宮を遷宮したと明記されている。

ここで注目すべきは、伊勢内宮『皇大神宮別宮 風日祈宮』にはシナトベが祀られていること。下流1キロほど行くとサルタヒコを祀る『猿田彦神社』があり。シナトベもサルタヒコも伊勢祭祀の重要神とされているのは偶然ではないだろう。舟田彦命は倭田氏→山田氏、後に松木氏を称し、伊勢国造となっている。このサルタヒコ子孫が祭祀・国造を任され、伊勢の象徴にもなったわけだ。彼ら子孫が伊勢国中枢を担っていたことは明白だ。

さらに伊勢祭祀司長の倭姫命の墓陵は、現在の宇治山田駅ちかく三重県伊勢市倭町『宇治山田陵墓』とされ、サルタヒコ子孫山田氏(松木氏)の関与があったとみるのが自然だろう。

 

※宮下文書には度会氏の出自について記載がない。通説松木氏は、通説出雲族ではなくホノアカリ子孫度会氏の派生として語られているので注意。その中でも、鎌倉時代の宮下氏族・和田義盛が度会氏娘を娶っていたのは興味深い。両者は、伊勢神宮の大規模荘園・相模国大庭御厨と接点がありそうだ。



次に瀧原宮。

通説に従えば伊勢内宮の元宮というか別宮と称されており、ここから微調整が行われ現在の伊勢内宮へと辿り着いたようだ。wikipedia瀧原宮によると、倭姫はまず、アマテラス御神霊を瀧原宮へと遷座。奇しくも瀧原宮と伊勢外宮からみて、富士朝阿祖山太神宮と明見根元神社は、東から北30度強の朝日の方向にある。このあたりはまた別記事にてご紹介する…。さらに西へは、三輪山山麓の大和国元伊勢『檜原神社』から出雲一宮熊野大社奥宮が一直線で結ばれる。

宮下文書における瀧原宮は登場しないが、おそらくは三輪本現代訳p108『度会の宮』と『多気の宮』に関連がありそうだ。神武東征の折、4皇子の日高佐野王は、6皇子の高倉王命に命じて、武佐志(武蔵国フツヌシ子孫ら?)や遠久見(遠江国オオクニヌシ子孫)に援軍要請させる。彼らは多気の宮に集結した。これを要衝地として築城させ、その行宮を度会の宮と称した。『多気(たき)』というのは気を高揚させる意味か?、『度会(わたらい)』というのは東国からの援軍船の集結地の意味と思われる。ただし、三輪本現代訳の文脈からは、度会の宮=多気の宮という断定はできない。

つまり皇家にとって、多気という土地の重要性が見えてくる。瀧原宮wikipediaによると、11代垂仁天皇皇女・倭姫命が、内宮よりも先に天照大御神を祀った場所とされる。通説彼女は、類稀なる霊能力により伊勢内宮の選定地を決めたといわれるが、これは後世の人々がウガヤ朝史実を曖昧にするための言い訳のようにも聞こえる(苦笑)。伊勢における遷宮地選定は、富士古文書などによるしっかりとした歴史認識に根ざして行われたようだ

 



◯皇大神宮別宮『瀧原宮』(三重県度会郡大紀町滝原)

〜御祭神〜

  • 天照坐皇大御神

※倭姫命記では、速秋津日子神・速秋津比賣神

シナトべ風日祈祭年2回あり。



〜瀧原宮レイライン・クロスポイント〜

  • 瀧原宮〜三輪山〜檜原神社(元伊勢)〜熊野大社奥宮〜野見宿彌墓
  • 神在神社磐座〜高祖神社〜日前神宮〜丹生都姫神社〜瀧原宮
  • 與止日女神社〜宇佐神宮〜玉津島神社・紀三井寺〜瀧原宮〜伊古奈比咩命〜伊豆大島役行者窟



 

瀧原宮クロスポイント、瀧原宮の重要性?。

 

 

 







渡会神主(松木)氏は菅原道真公の教育係だった。

 

伊勢内宮〜出雲大社レイライン上である平城京朱雀門の1.4キロ西側には、垂仁天皇陵墓『菅原伏見東陵』あり。そしてその北西に菅原天満宮 (奈良県奈良市菅原町)がある。島根県松江市の『菅原天満宮』とは同名別宮なので注意…。当社は、通説アメノホヒ子孫である菅原氏・土師氏に深く関係している神社として知られる。

 

 

 

◯『菅原天満宮 』(奈良県奈良市菅原町)

〜御祭神〜

  • 天穂日命
  • 野見宿彌命
  • 菅原道真公

 

〜摂末社〜

  • 春彦神社(渡会春彦翁神)
  • 稲荷神社 (豊宇気姫神)
  • 市杵島神社(市杵島姫神)




この付近は古墳が多く、野見宿彌子孫土師氏がこの菅原伏見邑の地に多く居住しており、葬礼に使う埴輪・土器や陵墓管理をしていた。彼らの遺伝子が50代桓武天皇の母である高野新笠を生み、山城国平安京における富士朝回帰の流れの理由も見えてくる。

 

ところで、この春彦神社に祀られる渡会春彦とは一体何者なのか?。

 

渡会春彦Wikipediaによると…。姓は渡会神主、『松木春彦』とも表記される。伊勢豊受大神宮(伊勢外宮)の権禰宜、現代までの神事作法にも大きな影響を与えた人物。若い頃より白髪で、白太夫というニックネームをもっていたという。見かけの判断で失礼ながら、このあたりどこかサルタヒコを彷彿とさせる…。

菅原道真は、伊勢神宮保護と侵入者取り締まりのため検非違使設置を上奏した。897年(寛平9年)に1月12日には度会郡神郡検非違使に渡会春彦が任じられる。これをきっかけとして伊勢神宮の様々な権限が宮司に集約され、以降は伊勢神郡の荘園化が加速する。

 

~二人は出雲と伊勢のハーモニー?~

▲菅原道真=出雲彦命(菅原宿禰)の子孫。

△渡会春彦=伊勢豊受大神宮の権禰宜、松木氏。

 

 

菅原家との馴れ初めは、菅原是善が伊勢豊受大神宮権禰宜・春彦に安産祈願をさせたことによる。結果として菅原道真が誕生することになり、春彦は気に入られてそのまま京の屋敷に招かれ道真の教育係を担う。

901年(昌泰4年)昌泰の変により道真が失脚、九州太宰府へ左遷されると、春彦は老齢ながらそのまま太宰府まで追いかけ付き従っていたという。これは菅原道真に対する朝廷からの無言の圧力、世間的な逆風の中でまことに希有な人物であった。903年(延喜3年)3月26日、菅原道真薨去。春彦は道真の遺品を整理して、土佐に配流された道真の子・高視のもとに遺品を届けた。905年1月9日京都へ帰還の途上に79歳で死去した。

現在の北野天満宮境内・白太夫社や太宰府天満宮境内・太夫社とは彼を意味する。

この二人が、サルタヒコ同族子孫であることがうかがい知れるのは、いまのところ宮下文書だけである。













おまけ

 

応援、コメントありがとうございます。

とても励みになりますm(__)m。

先月、富士山に登って燃え尽き症候群になってしてしまった感のある熊オッサンです。富士山で人生ゲームをクリアしたかと思いきや…、まだ先は長かったという心境です。意味不明かもしれませんが、なんかボーッとしています。みなさんも熱中症にはお気をつけて。

え…まだ続くの?

(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

 

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