セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈風のサルタヒコ④〉飯縄権現・秋葉山・天狗・仁科神明宮のサルタヒコ子孫の繋がり。

長野県長野市泉平『素桜神社』付近。
この辺りはかつてサルタヒコ子孫の領地であった。




2023,8,20

当ブログは、宮下文書とホツマツタヱ視点からみた信州出雲の考察をしております。

今回のサルタヒコ子孫は、飯綱権現・天狗。そして信州で教育されたと見られる『天孫ニニギ』をクローズアップしてみる。

 

(´(ェ)`)



結論からいえば、飯縄権現には上古からの信州出雲スサノオ信仰を守護・監視する役割があった?とも思っている…。それをさらにホツマ版スサノオの天敵である、ホツマツタヱにおけるアメノホヒ母神・九頭竜神で封じ込めているようにも感じる。

もっと言えば、宮下文書版野見宿彌や坂上田村麿ら、もともとの地主神スサノオ勢力から遅れて入植したサルタヒコ子孫が、様々な皇祖信仰などを習合させていたのではないか?と…。

だとすると…、信州出雲における彼らの痕跡を証明する必要がありそうだ。2023年8月18日付信濃毎日新聞、つい最近も戸隠奥社参道沿いに院坊(小寺院)跡がレーザー測量で複数確認されたというニュースがあったばかり。今後の調査が期待される。

 


~目次~

 

〈風のサルタヒコ①〉シナトベ=宮下文書版サルタヒコ説、出雲族『根の国』の根源か?。 - セキホツ熊の謎を追え!

ホツマ出雲史徹底解剖!、根国→サホコ国をすり替え、天皇はスサノオの罪を嘘で封じ込めようとした?。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

〈風のサルタヒコ③〉伊勢出雲レイラインに浮かぶ、野見宿彌殉死と菅原道真噴死の真相。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

 

 

 

戸隠と飯縄の複雑な歴史

飯縄(イイヅナ)権現というのは伊豆那の術とも表記され、ヤマタノオロチを彷彿とさせる八蛇川源流の飯縄山に起因する。かつては飯縄山修験者は戸隠修験の傘下におかれいた為に背景は複雑。狐に乗った烏天狗に絡みついた蛇…、二つ以上の信仰がキメラのように習合している感もあり。信州の複雑で、重大すぎる歴史を監視しつつ、真相を撹乱して誤魔化す特性をもっていたと思われる。すなわち戸隠山とは切っても切れない関係なのだ。

ただ江戸後期に作成された『飯縄山略縁起』では、戸隠開山より少し遡るという説もある。飯縄権現wikipediaにも指摘されているように、信州出雲戸隠信仰の守護または、主客である可能性が考えられる。東京『高尾山』ホームページによると、戸隠山は役行者(神変大菩薩)が山岳修験道場として開山した。これを850年(嘉祥三年)学問行者が飯縄山から戸隠山へ入山して、役行者の痕跡を辿りつつ、戸隠山別当職を務め再興させた。

鎌倉初期には、天台派修験道道場となり延暦寺の末寺とされる。飯縄山は真言派勢力が強くなってゆく。



〜熊オッサンの認識〜

▲戸隠信仰…スサノオや九頭竜地主神を中心とする古代信仰。信州出雲のメインとなる信仰?。

▲飯綱権現…サルタヒコ子孫が入植して、戸隠に対する信仰的影響を高めた客人的な山岳信仰?。

※サルタヒコ子孫=アメノホヒ子孫?

※※ホツマツタヱ版アメノホヒは九頭竜の息子



ただ…熊オッサン的には飯縄山の歴史はもっと古いと感じる。ホツマツタヱにもそれを匂わす猿のムハタレ『ヰツナミチ』の記載があり、少なくとも12代景行年間に遡ると見られる。それを差し引いたとしても、地主神信仰の戸隠信仰の方が遥かに古いだろう…。加茂喜三氏ら宮下文書研究家たちの間では、あくまで戸隠信仰が神代の信州出雲の中枢であるとして、概ね一致しているようだ。

 



 

 

 

長野県長野市大字富田・皇足穂命神社こと『飯縄神社里宮』



 



はじまりは、オオクニヌシとサルタヒコの父・大戸道尊だった!。

 

果たして…飯縄権現にサルタヒコ子孫の関与はあったのか???、その根拠となりそうなのが、飯縄神社里宮の由緒にあった。もともと飯縄山は皇足穂命(天皇足穂命)が降臨した所であり、農耕を司る守護神だった。この信州出雲…、スサノオ登場以前にオオトノジが関与していた可能性もあるのかもしれない…。だとすると戸隠信仰より飯縄権現のほうが古い可能性も在り得る。



◯『皇足穂命神社』(長野県長野市大字富田 )

〜御祭神〜

  • 保食(ウケモチ)命=皇足穂命

※別名『飯縄神社里宮』

 



鳥居付近にある長野市観光課由緒書によると。

15代応神時代の西暦270年ころ、飯縄神社は飯縄山を御神体として、山頂に天神大戸道尊(オオトノジ)尊を祀ったとのこと。宮下文書には皇足穂命もウケモチも登場しない。ただ…もしかしたらウケモチとは、宮下文書版オオトノジなのか?という推論がでてくる。ホツマツタヱ系図におけるウケモチもクニサツチの息子であり、宮下文書系図と符合する。

 

 

 

 




宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』p49・p57によると。

宮下文書版オオトノジはクニサツチの二男で、その子孫三十八神は四方の州々島々の農頭となり開拓者となった。彼の死後は次男サルタヒコに総農作の頭の職を継承させ、四方の州々を巡り道路をつくらせ道祖神となる。さらには各地域で農作法を伝授して回った。サルタヒコ子孫が代々富士朝供物司長を務めていたのはこのためと思われる。

さらにオオクニヌシ・サルタヒコ・タカテルヒメ・武彌雄毘女命の実父であり、のちの別雷神カモサワヒメの外祖父にあたる人物。

とくに武彌雄毘女命はスクナビコナ妃であり、神代伊勢(伊瀬)国のもともとの地主神とみられる。死後は伊勢渡会原にて大國御魂毘女命として埋葬されている(現在の度会大国玉比賣神社か?)。11代垂仁天皇時代以降、伊勢国造家となったサルタヒコ子孫舟田彦命系統にとって、彼女は特別な存在に違いない。

 

1841年(明治4年)には、飯縄山里宮は五穀豊穣の神である保食命を祀り、皇足穂命神社と改称していた。つまり現在は皇足穂命=ウケモチと解釈されているようだ。里宮は長野市芋井荒安付近の飯縄明神の別当神主、平姓仁科氏の屋敷跡であった。なるほど…、サルタヒコ子孫の拠点の一つ、伊勢からの流れがある。のっけからサルタヒコと伊勢皇大神宮の影響がチラついてきた。









 





信州鬼無里にも飯縄山、そしてサルタヒコ子孫。



信州には飯縄山が複数あるようだ…。

鬼無里白髭神社の南南東2キロ、飯縄権現本拠点『飯縄山』とは同名別山なので注意。同名別山は探せばもっとあるのかもしれないが…。これがなんと!伊勢外宮~戸隠奥社レイライン上にドンピシャ。山頂には現在でも稲丘神社という平安時代からの古社があるという。ここにも別のサルタヒコ子孫が出没していたのだ!

(´(ェ)`)

 

 



宮下文書によると、信州出雲には坂上苅田麿の所領があり、子・田村麿も供に住んでいた可能性は高い。宮下文書によると…。サルタヒコ子孫であり阿祖山太神宮の農作・祭典副司長・宮田麿(のちの苅田麿)は、40代天武天皇の御子・加幣使忍壁親王に認められ、副司として東征に従軍した。富士朝神官家系であった彼らが意外にも、鬼無里遷都を敢行しようとした40代天武天皇と密接に関係していたことが浮き彫りとなっている。

その蝦夷平定の功績により科野国高井・水内の2郡を賜った。長野原吉田岡にある坂上の館に住んでいたので、坂之上と称した。吉田岡の比定地は難しいが…、現在の皇足穂吉田大御神宮のある長野県長野市吉田地区のことか?(後述)。

771年(宝亀2年)、北越・西海を征した功績により、陸奥国三十四郡を賜り征夷大将軍に任じられる。住居を陸奥国苅田郡苅田に移し、坂上苅田麿を称した。

774年(宝亀5年)6月1日、光仁天皇勅願、坂上苅田麿を勅使として阿祖谷に入麓、阿祖山太神宮元宮七廟を先現太神と改称した。我が国でもっとも先に現れた神々という意味。

※通説の坂上田村麿は、帰化人系東漢氏にされているので注意。



807年(大同2年)には、坂上田村麿が信州安曇野に侵攻して、魏石鬼八面大王を討伐したという伝承が残っている。これも800年延暦噴火鎮魂祭の一環とみるのが自然だろう。長野県内『鬼無里神社』『瀬戸川神社』、そして伊勢外宮へのレイライン上『有明山社旧跡』などの田村麿伝承もそれを裏付けている。レイラインは嘘をつかない。

(´(ェ)`)




◯飯縄山『稲丘神社』(上水内郡小川村大字稲丘)

〜御祭神〜

  • 倉稲魂命
  • 他合祀の12神



長野県神社庁ホームページを要約すると…。

口碑によると。天長10年に坂上田村麿の支族椿四郎勝政が創建したとのこと。椿峯城の鬼門に五穀豊穣の神を祀る神社を創建した。倉稲魂命は、前述の皇足穂命神社のオオトノジや保食命に近い特性を持ち、農作を司る守護神として知られる。飯縄権現のシンボル『狐』は、これが理由なのだろうか?。

元暦元年に社殿を再建し、宝暦9年に『飯綱大権現宮』と称し、椿峯村、和佐尾村、伊折村、鬼無里村、瀬戸川村から崇敬されるようになった。明治2年、太政官布告により飯縄神社と改称、その後火災や周辺神社の合祀を繰り返した。




 

で。。。この支族椿四郎勝政とはだれなのか?。

残念ながら詳細不明…。ただ宮下文書版苅田麿は隠居後、信州に戻って余生を過ごしていた。つまり、彼の親族が信州に残っていた可能性は十分ある。

 

もう一つの可能性としては、分岐したサルタヒコ子孫三兄弟・舟田彦命末裔の可能性もあるだろう。これは宮下文書版伊勢国造家サルタヒコ子孫倭田氏や度会神主氏や松木氏系統が『都波岐(つばき)』と呼ばれていた。彼らが信州安曇野の伊勢御厨といわれる仁科神明宮を経由して、鬼無里地域にやって来た可能性はありそうだ。

 







飯縄権現仁科氏の仮冒の可能性?

仁科氏は諸説あり、『仁科濫觴記』によると11代垂仁天皇の弟・仁品王とも、伊勢平氏末裔ともいわれる。垂仁天皇時代前後に、信州安曇野に伊勢内宮を勧請して仁科神明宮を創建したと言われる。このブログでは何回か触れているが、上地図のように仁科神明宮は伊勢神宮から戸隠奥社のレイライン近く(多少ズレあり)に存在しており、境内社には九頭竜神や都波岐社などがある。

ただ...、宮下文書版サルタヒコ子孫野見宿彌兄弟が西国に進出したきっかけがちょうど垂仁天皇時代で一致する(苦笑)。

戦国時代には、武田信玄により仁科氏が飯縄権現を任され、仁科氏が千日太夫を称して飯縄原始忍法を確立した。管狐を操る法術を用い、天狗の化身と称された。安曇野から飯縄へ入植してきた伊勢の皇大神宮御領であった仁科御厨の厨司家系、仁科神明宮の平姓仁科氏と繋がるわけだ…。





背景を妄想考察すれば…。

▲11代垂仁天皇は秦氏やサルタヒコ子孫ら富士朝関連氏族を積極的に起用し、新しい神道を模索した人物。

▲50代桓武天皇は山城国平安京で富士朝再興を目論んでいた人物。

西国天皇勢力が高貴な東国富士朝氏族を起用するにあたっては、西国史風にアレンジし直して仮冒させる必要があったようだ。野見宿彌しかり、坂上田村麿しかり、菅原道真しかり。これらが出雲の大誤解に繋がった。富士朝氏族に接近しようとした垂仁天皇や桓武天皇の末裔を名乗らせるのが、あつらえ向きだったのだ。



桓武系平氏の仮冒は、そもそも50代桓武天皇がサルタヒコ子孫・野見宿彌女系遺伝子を持っており、サルタヒコ子孫・坂上田村麿を使役していたことに端を発するのでは?。つまり富士朝活用または再興を目論んだ、11代垂仁天皇と50代桓武天皇に近い理念をもつ氏族・集団であったと…。

あくまで妄想考察なのだが…。

前記事のように東国では常陸国那珂氏=宮下文書氏族吉田家であった。その交流関係が強い吉田大掾氏など平氏が富士朝関連氏族の仮冒だったとみられるわけで…。伊勢へ流れ繁栄を極めた平清盛も怪しいわけだ…。また平姓仁科氏も、のちの伊勢からやって来た後北条氏も、伊勢の富士朝サルタヒコ子孫と関係あった可能性はないだろうか?と…。となると歴史がひっくり返るかも。

(´(ェ)`)

 

















 

専門家でも飯縄権現と秋葉権現の区別は難しい。

前述したように、飯縄権現は古代の複雑な歴史を持つ信州を、守護・監視する特性ゆえに、複雑な習合を遂げて伝播した。奇しくもこの伝播先が。静岡県秋葉山頂秋葉城(現在の秋葉本宮上社)はサルタヒコ子孫野見宿彌末裔、菅原流天野氏の遠江拠点と一致するのだ。ここにもさらに別のサルタヒコ子孫が出没している…。

(´(ェ)`)

 

天野氏を説明すると。

通説の天野氏族は伊豆国へ流れた藤原南家工藤氏(通説では伊東氏同族)と言われる。ただ宮下文書における天野遠江守景信は、サルタヒコ子孫出雲族・菅原道真7代孫となるので注意。

菅原道真の失脚と大宰府左遷後、孫文時が935年藤原純友の乱を平定した功績により、飛騨国大掾を賜り飛騨国天野郡(大野郡)を拠点とした。

974年(天暦元年)7月7日、先述した菅原文時と藤原千晴が勅使として、阿祖谷へ入麓。度重なる富士山噴火鎮魂のため、平城天皇勅額と空海自作の仁王尊を再興した。先述した太神宮七廟惣名『先現(せんげん)太神』を『阿座真(あさま)明神大社』と改称。

 

※因みに。この短期間に先現→阿座真と改称を繰り返したために、各地で混乱が生じたようだ。結果的に『せんげん』と『あさま』は混用されることになり、いつのまにか『浅間』と簡略化されていた模様。皮肉なことに噴火の混乱もあり、人々の脳裏から富士朝の存在は忘れ去られていった。

 

その直系子孫の天野景信が、源義家や為義に功績を残し遠江守秋葉城主となる。1156年保元の役のとき、東駿河にて敗走中の三浦義顕と富士谷にて合流して潜伏生活していた。清和源氏・加茂次郎義綱の孫にあたる三浦義顕の長男は、のちに宮下家に婿入りし49代大宮司・宮下源太夫義仁となる。後世の鎌倉時代に、天野遠景が鎌倉幕府の鎮西奉行として九州太宰府に派遣されたのは、彼が菅原道真の子孫だからに他ならない。




秋葉権現の起源は718年(養老2年)に行基が開いた。諸説あるが、明治期廃仏毀釈の折には教部省により、秋葉寺と秋葉本宮は異なる神祇と見做されたともいう

創始者三尺坊は、実在の人物を天狗として神格化した伝説と思われる。信州戸隠生まれの修験者で、後世には遠江天狗の総帥といわれるほどの人物。白狐に乗って諸国を巡り、大同四年(809)に秋葉山に降り立ったという。これが『信濃名僧略伝集』によると、平安時代の永観年間(983〜984年)に、三尺坊なる人物が戸隠山で修行したと記されている。おそらくはこれらを背景に、長野市戸隠『秋葉三尺坊大権現本宮』は秋葉信仰之源流を称している。

いずれにせよ、飯縄権現と秋葉権現との区別は専門家でも難しいとされる。

個人的には、秋葉山は複数レイラインの上にあり、そもそも上古は別の信仰だったのではないか?とも思うのだが…。

(´(ェ)`)







戸隠神社『火之御子社』

 

 

 

信州出雲に高千穂神ニニギがチラつく理由?

 

以降は、ちょっと高めの妄想考察になるのでご注意を。。。

なぜ飯縄神社里宮が『皇足穂命神社』と呼ばれているのだろうか?。

前記事では皆神山のタマノオヤ信仰を取り上げたが。。。、この地域は皇祖信仰の匂いが強いようにも思える。もしかしたら伊勢御厨仁科氏を介して、時代は不詳ながら皇祖信仰も習合している可能性はないだろうか?。。。。しかしなぜ?。

<神社めぐり>出速雄命=タマノオヤ説???、皆神山『熊野出速雄神社』は富士朝先現信仰が強かった。 - セキホツ熊の謎を追え!

ここで思い出していただきたいのが...、信州出雲はスサノオの聖地。加えてニニギがスサノオによって更生教育を施された地域ゆえ、皇家の歴史的にも重要なスタートの場所なのだ。



◯『火之御子社』(長野県長野市戸隠)

 

  • 天鈿女命
  • 高皇産霊命
  • 栲幡千々姫命(スサノオ実娘)
  • 天忍穂耳命(アマテラス養子)

 

※1098年(承徳2年)前後の創建。

戸隠信仰の戸隠4社のなかでも一番小さい。しかし神仏習合されてきた戸隠4社のなかで、唯一神社の形態を持続させてきたとのこと。

 

まず、主祭神アメノウズメはサルタヒコ妃は、この地域にサルタヒコ子孫が暗躍してきたことを示しているのではないだろうか?。

通説タクハタチヂヒメは高木神・高皇産靈尊(タカミムスビ)の娘にあたる。しかし宮下文書ではスサノオ一女の雲津毘女命、諱・栲幡毘女尊。雲は信州出雲やスサノオを象徴しているようだ。タカミムスビを敢えて祀らねばならないということは…、タクハタチヂヒメの出自を誤魔化す役目もありそうな気がする。

 

アメノオシホミミとタクハタチヂヒメの子が、ニニギやタマノオヤら八王子神で、外祖父スサノオに更生教育を施されたわけだ。つまり信州出雲まで富士朝高天原のニニギはやって来ており、もしかしたら弟タマノオヤも来ていたかもしれない。これが牛頭天王と八王子権現の根源。ウガヤフキアエズ33代の時代に創建された、信州出雲の陽社・津島牛頭天王神社(日本総社津島神社)へ伝播したとみている。

そう考えると飯縄神社の別名『皇足穂命神社』の『皇』の意味にも繋がるのではないか?と…。飯縄権現に皇祖信仰が結びついてもおかしくはない。つまり信州出雲スサノオと富士朝から伊勢のアマテラスの融合こそが皇家スタートの証であり、それを示したい、すくなくとも『伊豆那の術』として後世に残したかったのではないか?と。

(´(ェ)`)

 

 

皇足穂命神社は延期式論社、前述の長野市大字富田地区に加えて、周辺にはその系統とみられる2社が確認できる。興味深いことにこの2社は皇祖信仰色が強いのだ。

 

 

 

◯『皇足穂命神社』(長野県長野市信州新町里穂刈)

〜御祭神〜

  • 迩迩藝命(ニニギ)

〜相殿〜

  • 健御名方命(新地主神タケミナカタ勢力?)
  • 八坂刀賣命(旧地主神スサノオ勢力?)
  • 倉稲魂命(五穀豊穣の神オオトノジの代理?)
  • 大山祇命(富士朝の象徴神?)



◯『皇足穂吉田大御神宮』(長野県長野市吉田)

〜御祭神〜

  • 天照大御神(伊勢内宮)
  • 豊受大御神(伊勢外宮・皇祖クニトコタチ夫妻のこと)

※別名は吉田の宮、吉田神社とも称す。宮下文書における坂上苅田麿拠点・長野原吉田岡の比定地か?。




長野県長野市吉田『皇足穂吉田大御神宮』

 

※前記事を補足すると。

宮下文書の八王子弟タマノオヤ・イワナガヒメは熱海伊豆山を拠点としており、現在の伊豆大神荒魂は八王子兄のニニギにすり替えられてしまっている。伊豆大神としてのニニギは、弟タマノオヤの代理神としてポジションであろう。火之御子社と伊豆山神社は御祭神タクハタチヂヒメ・アメノオシホミミに共通点がある。

可能性としては安曇野からタマノオヤ子孫安曇族が…。またはサルタヒコ子孫天野氏の活動背景伊豆半島の信仰が習合した可能性もあるだろう。



 

 

 

ニニギとサルタヒコ子孫の特別な関係

ここで前述したとおり。改めてサルタヒコとニニギの関係を紐解いてみる。



そもそも宮下文書におけるサルタヒコは享年446歳長寿の神、長きに渡る皇家守護の根元大神として特別視されてきた由縁である。なかでも天孫ニニギとは特別な関係。外寇親征の役ではニニギ軍を先導し、コノハナサクヤを失い疲弊した彼を守護し、慰めてきた。孤独なニニギの遺言通りヒコホホデミを導く道祖神となった。

猿楽というのは、外寇親征の役で疲弊したニニギを慰めるために、サルタヒコが飼っていた猿と頭を打ち振って踊ったことに由来する可能性が高い。サルタヒコの本名は作田毘古命、彼は単にサルに似ていた為にサルタヒコというニックネームをつけられた。つまり、猿楽とは、猿を真似て楽を追求するためのコメディであり、ニニギ守護に尽力した様子を伝えるものでもあったハズだ。

そして世間的にも、この猿楽のサルタヒコの面が天狗なのではないか?と…言われているわけだ。

 

またホツマツタヱ24文になると、神皇を導く道の神となり、ホツマ版ニニギの終焉の地を予言した。『君はツクシのタカチホぞ、我はイセの南ナカタガワ(五十鈴川)』。これは言わずもがな、宮下文書版垂仁時代のサルタヒコ子孫、舟田彦命(度会神主氏・松木氏)の軌跡を暗示しているのだろう。現在サルタヒコ大本宮を称する伊勢一宮『椿大神社』(三重県鈴鹿市山本町)では、ニニギが相殿されている。思い出されるのが、確か宗像大社・宗像三女神もニニギの守護神であったなと。。。

先に述べたレイライン上の長野県大町市社閠田『佐々屋幾神社』は、仁科氏の祖先といわれる仁品王の妻・妹耶媛命を、ニニギとコノハナサクヤに擬えて信仰しているのは興味深い。サルタヒコ子孫にとってニニギが重要である事が伺える。














富士山と高尾山と飯縄権現

 

となると…東京都八王子市高尾山に『八王子』関連の信仰があることが、いかに自然な流れなのかがわかる。

高尾山薬王院は、真言宗智山派の関東三大本山の一つで、744年(天平16年)聖武天皇勅願で行基により開山された。秋葉山秋葉寺と年代的に近い。永和年間に山岳信仰の飯縄権現を守護神として奉ったとされ、天狗の聖域として有名となる。そして麓にはスサノオを祀る氷川神社がある。

 

槵觸神社神社wikipediaによると、『八幡宇佐宮御託宣集』巻2の高知尾明神ではないかという推論があり。宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井『槵觸神社』は高智保皇神の論社、奇しくも御祭神はニニギである。これってもしかして、高千穂峰→高知尾→高尾?なのかなと…???(妄想)。

 

ま、妄想はさておき…。

この高尾山は、前述した伊勢国からやってきた桓武平氏維衡流・伊勢盛時(宗瑞)の子孫、後北条氏によって庇護されてきたわけだ。高尾山飯縄権現にも間接的に伊勢の流れを感じてしまうのは、私だけだろうか?…。

戦国時代の『北条五代記』によると、甲斐武田氏と対立を激化させると、武蔵国からの富士道者は富士山詣を絶たれてしまった。天文年間、富士山を特別崇敬してきた北条氏康は、高尾山に浅間大権現を勧請したという。現在も高尾山薬王院のてっぺんには、富士山詣と同じ功徳を得られる富士浅間社があるという。

皮肉なことに、伊勢国からやって来た彼らは、巡り巡って富士山に親しみを感じていた…。日本人は、最後はみんな富士山に帰ってゆくのか?(苦笑)。

 

 

 

かく言う熊オッサンも、この記事を書いていたら…急に高尾山に行きたくなったので、今日フラフラ行ってきてしまった(笑)。富士山は遥拝できなかったけど、麓の氷川神社がお祭りでした。

 

なむいづなだいごんげん…×7(´(ェ)`)

 

 

 

 

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