2023,5,28,
次の主役は天御柱命ことシナトベ。そしてサルタヒコ。
きっかけは今年の春分の日、天御柱命を祀る富士吉田市明見の明見根元神社(あすみねのがみじんじゃ)へ参拝してきたときの事。先週さて記事を書こうかなと...、Googleマップで神社の配置を確認していた時だった…。あれやこれやアチラコチラで芋づる式に関連性をみつけてしまって…さー大変。
GW京都滋賀旅行の前夜、大轟音の追い風で吹き飛ばされそうになる夢で目覚めたし、最近風神さまの猛烈プッシュを感じるのは私だけだろうか?
風まつりはじまるよ(´(ェ)`)
~目次~
- はじまりの明見根元神社、根元の大神とは?
- 宮下文書版サルタヒコとは?
- なぜ、天御柱命=シナトベ=サルタヒコ?。
- 出雲族は信州から来た!サルタヒコ子孫がなぜ出雲族なのか??。
- (おまけ)古屋氏・天野氏・梶原氏・武藤氏の末裔が関係する神社。
〈富士朝めぐり④〉高座神社宮下親類権現講と、高座山~神座山の冬至朝日レイライン - セキホツ熊の謎を追え!
はじまりの明見根元神社、根元の大神とは?
まずは、きっかけとなる明見根元神社参拝をご紹介。
小明見富士浅間神社から東へ小佐野川支流を登り、Googleマップ上の武藤造園さんをちょっと行った先、道が行き止まりとなっている。ただそこには、傾斜のある坂に小型車一台くらいは駐車できそうなスペースがある…(路駐なのでオススメしない)。そこから枯渇した川原?にポツンとあるハシゴで一旦降りて、対岸の林道へよじ登る。まるでお宝探しのようなアドベンチャーコースとなっている。神社へ行くには片道25分くらい林道を歩く。
熊出没注意(´(ェ)`)
もはや、筋金入りの神社好きじゃなければたどり着くどころか、行く気もしないだろうが…(苦笑)。現代『神社』という形で残る古代斎祀場というのは、山中のこじんまりした磐座や石祠が多かった。大きな本殿拝殿=格式ある神社というわけではないと思われる(苦笑)。ちっちゃい石祠だからといって侮っていると後悔することになるかも…というお話。
宮下文書研究的にはかなり重要な神社ではないかと考える…。
◯明見根元神社(富士吉田市小明見)
〜御祭神〜
- 天御柱命(奈良県生駒郡・龍田大社のシナトベと同神)
- 罔象女命
〜由緒書〜
御由緒、往古、珍彦と云う貴人来りて、五社明神を祀る。当部落の鎮守神 として崇敬する。神亀年間此の五 社明神より分社を御大沢へ遷宮し 明見根元神社となす。
平成三年七月吉日明見根元神社氏子総代
創建は不明。境内由緒によると、神亀年間( 724〜729年)には存在していた当部落の鎮守神とされる古社。
※素人オッサンは、ぱっと見アメノミナカヌシかな?と誤解していたのだが…。よくよく調べてみると別神なので注意。前記事でアメノミナカヌシと書いてしまった記憶があるのだが…、186記事中の何処で書いたのか分からなくなってしまいました…。
この場にて、謝罪と訂正いたします。
ごめんなさいm(_ _)m。
宮下文書版『根元神』とはサルタヒコとその妃アメノウズメのこと(詳細は後述)。10代崇神時代まで『北の高峰』に祀られていた事が確認でき、ここから東南4キロの現在の杓子山北尾根にある『明見根元神社奥宮』を指しているのではないかと見ている。個人的には、これが『根の国』の根源ではないかと思っている…(後述)。
因みに、熊オッサンは杓子山の奥宮を見つけることができず引き返してきた経験がある。厳密に言うと、Googleマップ上のポイントには到達していたハズなのだが…、大きな岩にぶち当たり、小さい祠を見つけることができなかった(苦笑)。おそらくはその岩陰にあったと思うのだが、Googleマップ上に表示されている座標が間違っている可能性もあり…。道が非常に分かりにくいので、あまりオススメできない。
危ないと思ったら引き返してね。
(´(ェ)`)
宮下文書版サルタヒコとは?
宮下文書版サルタヒコ本名は農佐毘古命(諱・作田毘古命)、オオトノジの次男でオオクニヌシの弟。実にアマテラス〜ヒコホホデミの4代に渡り皇家に尽くした、高天原の長老的な存在。本人がサルに似ていたという理由から、猿田毘古命(サルタヒコ)というニックネームを持っていた。
▲アマテラス時代
四方の州々の総農作の頭となり、彼の親族38神は農頭に任命された。嫡流?は高天原大室の御船湖畔の御船山に住まい、田畑を開墾を任された。宮下文書では垂仁時代の桜田彦命まで、太神宮供物司長の職を継承させているのが確認できる。また朝鮮半島から一族1300余を率いてきた多加王スサノオが、高天原へ強引に入麓してアマテラスに求婚してきた折、兄オオクニヌシと相談して一族8000神を集め、ほぼ皆殺しにし残りは捕縛した。勝利を祝いアマテラスが隠れていた岩窟で歌い、アメノウズメが祝福の舞を披露した。
戦闘能力たかすぎだよ。。。(´(ェ)`)
▲ニニギ時代
『外寇親征の役』の折、サルタヒコはニニギ軍勢8500神の御前に立って先導し、西国までの道を開いた。単純に考えて東から西への航路は黒潮に阻まれる為、富士山→九州・四国までは陸路が多かったのだろう。また戦後コノハナサクヤを失い鬱状態となるニニギを憂い、白髪頭を打ち振り二匹の猿と猿踊りをして励まそうとした。彼はサルの扱いに長けており、コノハナサクヤヒメの残した三皇子をサルの母乳で育て上げた。
▲ヒコホホデミ時代
ニニギの遺言に従い、西剗の海『日向山の裾の龍宮』へと御前に立ち、皇子ヒコホホデミとトヨタマヒメを出迎えに参上した。ヒコホホデミ時代の御年十六万三千日(おおよそ446歳、諸説あり)、御舟湖畔の御舟山の宮で亡くなった。古峰の根元に祀られていたので根元の大神と称した。ウガヤ朝の開幕を前にこの世を去った。。。
▲道の神(道祖神)
通説サルタヒコは、皇家の導きの象徴としても語られている。アマテラスを岩窟から太神宮へ連れ戻ったのも、ニニギを戦場へ導いたのも、ヒコホホデミを迎えに行ったのもサルタヒコとなる。古代には陸路が未生成だったわけで、密林や湿地、とくに集団移動ともなるとその場その場で進路を即決してゆく知識が必要だった。これがニニギ軍8500神を引率する移動ともなると、判断力の高さがわかる。
なぜ、天御柱命=シナトベ=サルタヒコ?。
注目すべきは、御祭神が奈良県生駒郡『龍田大社』と同神の天御柱命であること。
天御柱命は級長戸辺命(シナトベ)という別名があり、一般的にも風神と知られている。一方で、宮下文書では天御柱命・シナトべ・風神はいずれも登場しない。前述のようにサルタヒコの本名は作田彦命なわけで、察するに…地名である龍田山(龍田立野)に作田彦命≒龍田彦命と混同されていったのかもしれない。
◯『龍田大社』(奈良県生駒郡三郷町立野南)
〜御祭神〜
- 右殿・天御柱命
- 左殿・国御柱命
〜境内〜
- 龍田比売命社 (龍田比売命)
- 龍田比古命社 (龍田比古命)
官幣大社。10代崇神時代、凶作・疫病が流行したため、天神地祇を祀って祈願したのが始まり。40代天武天皇時代に勅使を遣わして龍田立野に風神を祀り、天武3年からの風鎮祭神楽が継承されており、サルタヒコも登場する。天御柱命は男神・級長津彦命、国御柱命は女神・級長戸辺命。やはり彦・姫イメージとして祀られている。
◯『龍田神社』(奈良県生駒郡斑鳩町龍田)
〜御祭神〜
- 天御柱大神
- 国御柱大神
987年(永延元年)、卜部正親の子・源信が開山したとも言われる斑鳩町小吉田『吉田寺』の500m北。
龍田神社wikipediaによると、龍田大社(三郷町立野)を本宮と呼ぶのに対して、当社は龍田新宮と呼ばれるという。元々の御祭神は龍田比古神・龍田比女神の2柱であったが、龍田大社から天御柱命・国御柱命の2神が勧請され、元々の祭神は忘れられたという。聖徳太子が法隆寺の寺地を選定していた折、白髪の老人『龍田大明神』に逢い、斑鳩に建てれば私が守護しようと云われたので神社を創建したという。つまり法隆寺創建以前から『龍田大明神』が祀られていた可能性もあるようだ。。。
ブログ『大和の神社』さんによると、境内に地主神猿田彦命の摂社『地主神社』あり。またそれとは別に猿田彦神の摂社『猿田彦神社』がある。もともとの地主神はサルタヒコなのか?。現在はないようだが…(確認できず)。
https://yamatotk.web.fc2.com/ikaruga/tatutajinjya.html
また、大和猿楽四座(結崎・円満井・外山・板戸)のうちの板戸座が活躍していた地域でもある。板戸座は、現在の斑鳩町の並松・五百井・服部・竜田・小吉田・稲葉車瀬・神南付近を範囲とする板戸郷に由来して、法隆寺に所属して発展したという。
◯『吉田三大神社』(滋賀県草津市志那町)
〜御祭神〜
- 志那津彦命
- 志那津姫命
- 大宅公主命
アメノヒボコ伝承ある安羅(ヤスラ)神社近く、野洲(ヤス)市に近い草津市吉田地区で吉田姓が多い。当ブログでは秦氏族の一部が、アメノヒボコ子孫とされているのではないか?とみている。比叡山山頂から正面に見渡せる近江富士こと『三上山』にも、東国氏族を結束させた藤原秀郷のムカデ退治伝承あり。宮下氏族吉田家同様に富士朝秦氏の富士山信仰の影響が見え隠れするわけだ。
◯出雲二宮『佐太神社』(島根県松江市鹿島町佐陀宮内)
〜御祭神〜
- 正殿:佐太御子大神(サルタヒコと解釈される)
- 北殿:天照大神
- 南殿:素盞嗚尊
※佐太神社wikipediaによると、1256年(康元元年)の『社領注進状』によれば、280丁と出雲大社ほどの社領を有していたという。明治維新の折、松江藩神祠懸により祭神を猿田彦命と明示するように指示された際、神社側は拒んだが、一転して従ったというエピソードあり。
◯『出雲路幸神社』(京都府京都市上京区幸神町)
〜御祭神〜
- 猿田彦神
〜相殿〜
- 天之御中主日御神
- 可美葦牙彦舅尊
- 天照皇太神
- 瓊々杵尊
- 天鈿女命
- 大国主尊
- 少彦名太神
- 事代主命
※表紙写真。 島根県安来市西松井町にも同名の神社あり(式内社・佐爲神社)。
創祀年代は不詳。40代天武天皇の645年(白鳳元年)に再興される出雲族居住地、50代桓武天皇による平安京遷都の際に鬼門除守護神として造営されたという。桓武天皇の母・高野新笠が土師宿禰(出雲族)の母で、桓武時代にカバネを賜り大江氏・菅原氏・秋篠氏に分岐してゆく。これが後世の菅原道真の祖となる。
前記事でも述べたように桓武時代の平安遷都は、比叡山と賀茂別雷命が鎮座し、秦氏族が開拓した山城国にて富士朝回帰の流れをつくった。宮下文書版坂上田村麿もサルタヒコ子孫であり、世間的にはなぜか渡来系遺伝子を強調されているが、桓武天皇は全幅の信頼を寄せていたようだ。
この神社における『出雲』が、サルタヒコ子孫を指しているのは明白である。
◯『吉田椋神社』(埼玉県秩父市下吉田)
〜御祭神〜
- 猿田彦命(根元の泉に顕現した?)
- 武甕槌命
- 経津主命
- 天児屋根命
- 比売命
国指定『龍勢花火』で知られる、埼玉県秩父市吉田地区にてサルタヒコを祀る。卜部兼敏『椋五所大明神由来』によると、ヤマトタケル東征の折に根元の泉の近くにて猿田彦大神に導かれたという。宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』によると、この地域が本貫地であった畠山氏は、源頼朝や三浦氏や和田氏ら東国氏族とカンパして富士朝を再興した記録あり。その出自の江戸遠江守太郎判官重永の孫が、富士吉田に住んだ吉田宗利という。このことから、平姓畠山氏は宮下氏族吉田家の可能性もありそうだ。そもそも三浦氏や梶原氏など、源頼朝挙兵に参陣した関東平姓の殆どは富士朝氏族の可能性が高く、総見直しが必要となる。
最近感じるのは、三嶋大社の卜部氏吉田神道と富士朝宮下氏族吉田氏のリンクがかなり見えてきたかなと…。富士朝大宮司家から分岐した宮下氏族吉田家にとっても、道祖神サルタヒコを重要視していたことが浮き彫りとなっている。
出雲族は信州から来た!サルタヒコ子孫がなぜ出雲族なのか??。
◯通説の出雲族は高天原からやってきた天津神アメノホヒ末裔として語られる。『根の国』は出雲祭祀に関係深い中国地方のことだと考えられている。
◯これがホツマツタヱとなると、信州戸隠山に封印された九頭竜モチコの産んだアマテルの子がアメノホヒとなる。『根の国』は越根の国とも呼ばれ、北越から若狭湾付近を指す。つまり出雲族の活動背景に、宮下文書版信州出雲の影響がチラつくのがわかる。
◯これが宮下文書になると、天津神アメノホヒもシナトベも登場しない。サルタヒコはオオクニヌシの弟でありの根元大神。信州出雲は阿祖北の山陰『戸隠山』付近、進路としては北越の出雲崎から千曲川を上ることになる。その末裔は野見宿彌は信州出雲の農事を任せられ住まい、さらに宮下文書版坂上苅田麿・田村麿の拠点であった。
〜サルタヒコ67代孫桜田彦命の三子〜
- 舟田彦命(伊勢供物司長・倭田氏・山田氏・松木氏祖)
- 野見彦命(野見宿彌・菅原氏祖)
- 田村彦命(坂上氏祖・伊達氏?)
※桜田彦命は、作田彦命の66世孫の可能性もあるので注意。
宮下文書三輪本現代訳p161。
おそらく10代崇神天皇時代?。野見宿彌が、北越平定の吉備津彦の副将として出雲(宮下文書版信州出雲のこと)へ随伴し、戦後は北越諸国の農事を司り住まう。その子が出雲彦命を称し、さらに孫が菅原宿彌を称した。すなわち通説の出雲族の本貫地が、信州出雲と中国地方出雲でスリ替わっているのがお判りだろうか?。
宮下文書三輪本現代訳垂仁天皇項p151。
11代垂仁天皇時代BC23年、大和国当麻邑に強力蹴速なる人物が天下一を称して力自慢をしていた。そこで垂仁天皇は、出雲国の人『野見宿彌』を角力(相撲)で対戦させ、敗北させ屈服させた。対戦後は当麻邑(葛城市當麻菅原神社付近?龍田大社10㎞南)を野見宿彌に賜る。一方の出雲族は信州出雲から大和国に進出して、11代垂仁天皇に接近することができた。
11代垂仁天皇時代BC5年、天照皇太神宮新宮を大和国からウガヤ51代陵墓の伊瀬(改め伊勢)へ遷宮した。皇女倭姫命を宮守護並びに祭祀司長に任じ、桜田彦命が供物司長へ任命される。この人事により阿祖山神宮供物司長後任が弟・田村彦命となり、彼の子孫が平安時代の坂上田村麿の家系となる。
12代景行時代、この状況で歴史と部族家系図大改竄が起こる。
少なくとも、ここまでの出雲族の経緯に中国地方出雲は全く無関係なのである(苦笑)。
もしこれが本当であれば、これからさまざまな地域で歴史改竄の矛盾が噴出することになる。そもそも、現在の出雲族アメノホヒ子孫・千家家とは、そのサルタヒコ子孫の分流なのだろうか?…。先述の明治維新の折、松江藩神祠懸により祭神を猿田彦命と明示するように指示された際、神社側は拒んだというエピソードも気になる。そして武蔵国を本格的に開拓した出雲臣末裔エタモヒは、中国地方からきたのか?、それとも信州出雲から来たのか…?。以後また次回記事へ続く…。
おわかりいただけただろうか~(´(ェ)`)
(おまけ)古屋氏・天野氏・梶原氏・武藤氏の末裔が関係する神社。
興味がない方には全く興味がないお話(苦笑)、山梨県富士吉田市の武藤さんのお話。
先述の明見根元神社境内には、1960(昭和35年)の竣功記念碑があり、当時在位期間の山梨県知事天野久の名前が刻まれている。就任4期続いた地元有力者である。
また当社は古屋氏の敷地内であるとのこと。宮下文書版古屋氏は阿祖山太神宮の副司家系で、応神天皇隼別皇子29代孫・福地又八良元宮麿の系統となる。800年延暦噴火時に、甲斐国八代郡と山梨郡の間に避難した先で地元豪族・古屋彦九良の養子となり、以降は古屋元太夫を称している。彼らはおそらく阿祖山太神宮副司アメノコヤネの子孫とみられ、古屋≒コヤネから由来していると思われる。
噴火後806年(大同元年)に坂上田村麿ら復興隊に富士朝太神宮を再興されると、大宮司家系・宮下家とともに副司家系古屋家として二所七廟明神を継承してきた。神官古屋元太夫元宮麿は甲斐国神部山浅間神社の神官を兼任しつつ、阿祖谷周辺の天照皇太神、幸燈大明神、根野神社、高座大明神の宮守に任命された。この『根野神社』が明見根元神社のことではないか?と推測する。
※宮下文書現代訳神皇紀p204によると。二所七廟明神とは、簡単に言えば平安以降の阿祖山太神宮の名称。阿祖谷(加吉谷の古谷にある小原の日向の左右)に宮下家大宮司と古屋家副司の屋敷が並んでいたことによる名称。鎌倉時代には源頼朝の『伊豆山+箱根=二所参詣』と混同されていた節がある。二所権現崇拝とは富士朝信仰そのもののこと。北条得宗家は、頼朝派・富士朝派(三浦・和田・梶原?・畠山?ら)を隠蔽したかった背景が浮き彫りとなるわけだ。
この古屋屋敷跡地に現在地、奇しくも鎌倉権正景道を祀る明見『鎌倉神社』があり。また江戸時代に古屋敷(古宮周辺)から移転された、『大明見三十六屋敷』にも鎌倉氏族権正氏が居住していた。状況証拠的に言えば、通説で何故か桓武系平氏となっている鎌倉氏族権正氏と深い縁があったと言えるわけだ。
武藤少弐氏は梶原氏と婚姻関係があり、富士吉田市内に鎌倉氏族梶原姓や武藤姓が比較的残っているのは、この時期富士朝へと逃げ込んだ梶原氏の影響もあるんじゃないのかなと…妄想している。梶原氏は相模国高座郡を拠点としており、太神宮里宮である寒川神社とも縁が深かったとみている。宮下文書には、鎌倉時代1252年(建長4年)に将軍家代参を『武藤左衛門尉景時』と記しており、実在する人物かは不明。ただ武藤少弐氏が、外祖父の梶原景時を偽名で利用し、代参していたのではないか?とも思える…。
つまり、梶原氏と武藤氏の親しい仲は残っていたのであろう…。
境内石碑裏は古屋財産区寄付者奉名板?、…それとも役員名簿?となっており、山梨県知事天野さんを筆頭に、鎌倉氏族梶原氏や武藤さんら、宮下文書に登場してくる氏名がズラリ並ぶ。
偶然だろうか。。。?(´(ェ)`)
※通説では甲斐国に多い武藤氏は、甲斐源氏武田氏庶流大井氏族の別系統の流れもあるようだが…。不明な点も多いという。
※※宮下文書版天野氏族はサルタヒコ子孫、平安時代には遠州秋葉城(現在の秋葉本宮)に拠点をおいていた。天野遠景は頼朝伊豆挙兵に参陣し、その功績もあり九州惣追捕使として大宰府へ派遣されていた。しかしながら理由の一つが太宰府大宰権帥・菅原道真公の末裔であることは全く知られていない。これが1194年までに解任されたとみられ、鎮西奉行・武藤資頼(少弐氏)に置き換えられている。
サルタヒコ出雲族解明には、この戸隠山(秋葉三尺坊)と秋葉山秋葉寺(奥の院八尺坊)の接点がみられる。
日月神示には富士山と風神と雷神と地震の神らが、岩戸開きには重要な役割を持っていることを示唆している。しかしながら宮下文書にはシナトベは登場しないし、風神の概念すら記載されていない。故に、個人的にはこの風神とはサルタヒコではないか?と睨んでいる。さらにサルタヒコ子孫出雲族とも関係している?エタモヒは、この武蔵国に、巨大カラクリを仕掛けているようだ…。
なんか2〜3回のシリーズになりそうだが...、続く(´(ェ)`)