セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈能登半島④〉向田の火祭と青柏祭へ水を繋ぐ、2つの唐崎神社の導線。

日吉大社境内、祓戸四柱を祀る『走井祓殿神社』。

 

大蛇のように見えるのは、巨木の枝。


2024,2,25

宮下文書における阿族日本人が、始めて本州上陸した聖地が能登半島。

火の聖地には水の要素が現れる。どちらが欠けても成立しない。

富士講開祖・長谷川角行が修行した富士宮市『白糸の滝』は、火の象徴富士山への巡礼地となった。今回の能登半島研究でわかったことは、火祭りと水神信仰の重要性。まるで能登半島全体が、水で掬ばれた巨大トーチのような印象を受けた。

そして今回は、富士朝加茂山の知識が必要となりそうだ。

(´(ェ)`)


~目次~

 

〈緊急続報〉能登半島〜房総半島、戸隠神社と寒川神社を結ぶレイラインだった?。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈能登半島①〉能登は日本人上陸の聖地、七尾市と七瀬祓と富士朝七廟の接点。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈能登半島②〉安房能登紀伊トライアングル浮上、天比理乃咩命と丹生都姫命を結ぶ?。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈能登半島③〉向田の火祭は、ニニギ外寇を弔う事代主一族の国防の灯火? - セキホツ熊の謎を追え!

〈緊急続報〉能登半島『火様』、戸隠山~伊夜比咩神社~能登富士レイライン上にてドンピシャだった。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

 

 

 

能登国府『大地主神社』と伊許保止命。

 

飛鳥時代718年(養老2年)、藤原不比等により養老律令が編纂されていた頃、能登国府が成立した。国府が置かれた府中に大地主神社が創建された。そこに日吉大社からオオヤマクイの分霊を合祀。現在は山王神社とも呼ばれている。明治15年、祇園牛頭天王社を合祀した。




◯『大地主(おおとこぬし)神社』石川県七尾市山王町

〜御祭神〜

  • 大山咋神
  • 素盞嗚尊
  • 伊許保止命 (阿波国造の祖)

※先代旧事本紀記載の阿波=安房のこと。宮下文書版神武天皇時代では、四国阿波国を阿羽(あわ)と、房総半島安房国を安房(あわ)と表記している。




まず伊許保止命 とはどんな御神霊なのか?。

伊許保止(イコホト)命は、宮下文書には登場しない。

先代旧事本紀では、アメノホヒ末裔安房国造の祖。13代成務天皇の時代に孫の伊己侶止直がおり、初代伊甚国造(上総国一宮玉前神社付近)に任じられたとされる。

また神名帳考証では、伊香保神と同一視されており、群馬県渋川市有馬の上野五宮『若伊香保神社』から上野国三宮神社に遷座?したとされる。現在、この三宮神社が香取神宮高祖神社〜戸隠山・飯縄山~能登富士レイライン上(下図の水色ライン)にある点も興味深い。さらに興味深いことに…。宮下文書版神武東征論功行賞において、経津主命五十四世の孫・能登部小門足命が、上毛、下毛の国造を賜っている。詳細不明なのだが『能登』という名前はたまたま偶然なのか?と…。

 

 



ここで指摘しておきたいのは、伊許保止命と宮下文書版フトダマ・フツヌシ『祖家(蘇我)』系統と勢力分布が重複している点。東国の祖家勢力については、これはまた別記事でご紹介します。

 

 

(´(ェ)`)











七尾や能登島に集い、行き交うレイライン

 

気になるのは…この御神霊の出処であるが…。 もともとは能登國能登郡一七座式内社・加夫刀比古(かぶとひこ)神社に祀られていた説あり。石川県鳳珠郡穴水町甲に論社があるようだが…、こちらは加夫刀比古命を祀っていたという。現在の御祭神は、加具土命・蛭児命・速玉之男命他となる。いろいろ謎も多い…。

奇しくもこの2社をレイラインで結ぶと…。能登島の伊夜比咩神社旧社地イヤミ付近を通り、珠洲市長橋の『國造神社』へ到達する。その他にも複数のレイラインが浮き彫りとなってきた。




〜加夫刀比古命レイライン〜

  • 國造神社(珠洲市長橋)
  • 火宮神社(能登町国光)
  • 加夫刀比古神社(式内論社)
  • 伊夜比咩神社旧社地イヤミ付近
  • 大地主神社(能登国府)
  • 多賀大社(1kmズレ)
  • 丹生川上神社上社(奈良県吉野郡川上村)
  • 熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町)






〜総社レイライン〜

  • 白山神社(真浦町)
  • 伊夜比咩神社(現在地)
  • 大地主神社
  • 能登國總社(古府町・崇神天皇時代)
  • 胡桃火神社(カグツチ・何度地滑りがあっても倒壊しなかった神社?)
  • 氷見速川神社(瀬織津姫命)
  • 花の窟神社(イザナギ・カグツチ・三重県熊野市有馬町)

※宮下文書版カグツチは月桜田毘女命の兄。

※※関連性は不明なのだが、真浦氏というのは宮下氏族吉田家にもいる。2代目宮下家大宮司家・宮下源太夫明政の第五王子で、不佐国県主・吉田五男摩古彦の子孫であり、和田氏族と同族。ただなんで房総半島不佐国の氏族が能登半島にいるのだろう?。勿論、他氏族の可能性もあるが。。。

 






〜越中一宮射水レイライン〜

  • 越中一宮射水神社(ニニギ)
  • 二上射水神社(元宮・二上山大権現)
  • 伊夜比咩神社(現在地)

※射水神社二上山大権現は、伊彌頭国造の祖とされる。

 

 

 

 

〈神社巡り〉安房国造家の宮下氏族と『真浦神社』、鴨川市加茂川沿い『加茂神社』。 - セキホツ熊の謎を追え!










七尾市に見る富士朝信仰。

 

能登半島を代表する大祭あり。大地主神社の青柏祭が5月3日から5日まであり、その対となる赤柏祭が11月15日にある。青柏祭の曳山(でか山)は12メートルと、めちゃくちゃデカい。まさに動く山。国の重要無形民俗文化財であり、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている。

※『青柏祭』『向田の火祭り』は、YouTubeで検索すると動画が出てくるの出てきます。どちらもスゴイ映像です。

(´(ェ)`)



◯『唐崎神社』(石川県七尾市小島町)

〜御祭神〜

  • 息長足姫命
  • 市杵嶋姫命
  • 深淵水夜禮花命

※因みに。水神男神・深淵水夜禮花命は古事記のみ記載の謎多き神(国津神)、オオヤマツミ娘・木花知流比売命の孫神にあたる。静岡県富士市浅間本町『富知六所浅間神社』にて、本殿相殿神されている。名前からしても水神女神にも思えるが...。



前記事でも触れたが、阿祖山太神宮には『柏』の大樹があったとされ、一つのシンボルとされていた。

また5月5日は富士朝大祭日であった。初代神武天皇〜11代垂仁天皇まで、高天原へ出向いて祭典に出席していた。さらに七廟例祭『四季の大祭』には、朝廷から奉幣使を派遣していた。上古『四季島統治』の名残とも考えられるが、例祭日は季節の変わり目で、春は桃沢祭、夏は杜若祭、秋は菊里祭、冬は青木祭を行った。これらが10代崇神天皇時代に全国に拡散された大國魂祭ともに混同され、重複されたのだと思われる。武蔵大國魂神社『くらやみ祭り』など、5月5日に例大祭が行われる神社は富士朝信仰の名残りなのかもしれない…。逆に神仏習合以降、彼岸中日などに神社参拝を避けた理由の一つではないかと考える。

 

そしてこの青柏祭に際して、お水取りの祭事を行うのが、七尾市中心部の御祓川流域の山の寺寺院群にある『唐崎神社』だ。

718年(養老2年)、大地主神社の勧請元である日吉大社と、日吉大社摂社・唐崎神社(志賀唐崎大神)がコンビで勧請された。これはどういうことか?。神社ホームページによると、昔は近江の日吉大社を習い、中社・印鑰神社、下社・唐崎神社など、上の七社・中の七社・下の七社の山王二一社配祀を体系的に見立てていたという。残念ながらその所在が、もうわからない状況にあるとのこと。

 

唐崎神社近くの御祓川の別名が『桜川』。奇しくも三嶋大社祓所神社と同じである…。

七尾市所口町『神明宮松尾神社』や川上には七尾市下町『月夜見神社』があり。うちの神明宮松尾神社は七尾山(場所不明)の嶺に、天照大御神と豊宇気毘売神の二神を勧請した事による。安土桃山時代の戦火にて中心部に遷座された。

これら山王信仰、オオヤマクイ信仰とは、ホツマツタヱ版富士山の見立てなのだ。

オオヤマクイは宮下文書に登場しない。宮下文書研究者鈴木貞一によればオオヤマツミと同神と推測している。宮下文書版オオヤマツミは9子長男だが、男子のみならば8子兄弟。すなわち日吉八王子山ともリンクしてくる。さらに宮下文書版最澄上人は延暦噴火翌年801年、坂上田村麿とともに富士朝高天原入りして、鎮魂と復興活動に寄与している。天台宗や山王信仰自体が、富士朝祭祀から派生していったとしてもおかしくはないと見ている。

※ただ個人的に思うのは、オオヤマツミなら系図以外は隠さなくてもよいだろうと。。。もっと言えば、日吉大社の『亀井霊水』や松尾大社の神使『亀』など、オオヤマクイ自体が、寒川大神クニサツチの可能性もありそうだなと…。亀はクニサツチが愛した神獣。

 

 

 




夕方満月が出迎えてくれた、滋賀県大津市唐崎『唐崎神社』



七瀬祓とカモサワヒメと富士朝の関係。

 

前記事でこの七尾の由来として、七瀬祓が関係しているのではないか?と述べたが…。その理由が前述『唐崎神社』にある。

七尾市wikipediaによると。市の由来は、七尾城周辺の七ツ尾根に由来し、それぞれ松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾と呼ばれている。城主は足利氏一門の畠山氏だが、鎌倉時代に滅んだ平姓畠山氏は富士朝関係氏族の可能性大、その名跡のみを継いだ氏族。因みに熱海市伊豆山神社本宮近くに七尾という地名が残る。遺跡もある…。



◯『唐崎神社』(滋賀県大津市唐崎)

〜御祭神〜

  • 女別當命(わけすきひめのみこと)

※日吉大社摂社。石川県金沢市『兼六園』の松はここから分けられた。七尾市唐崎神社の勧請元。





この勧請元の滋賀県日吉大社摂社『唐崎神社』の御祭神は、謎の女神『女別当命』。当地は朝廷行事の際の祓場であり、宮廷の七瀬祓が行われていた。今でも例大祭は『みたらし祭り』と呼ぶ。いつきを奉祀する斎王代が葵祭(賀茂祭)に禊の儀を行う、京都賀茂御祖神社(下鴨神社)と似ていることに気付くわけだ。

当の旧字体は『當』であり、通して読むと女別當命となる。熊オッサンは視力が弱いので目を細めてPC画面をみている...、だけどどう見ても女別雷命にしか見えない…。ブログを始めて以降、目がショボショボである。。。(苦笑)

※七瀬祓の読み方は、地域によりかなり異なるので注意。

 

 

瀬織津姫を祀る、京都賀茂御祖神社境内の唐崎社。
辛前(からさき)の社と呼ばれていた。

 

 

~いつき≒伊豆+月の三女神~

▲瀬織津姫命≒湍津姫命≒月桜田毘女命(月神)

▲速開都姫命≒田心姫命≒加茂澤毘女命(伊豆国三嶋神)

▲速佐須良姫≒市杵島姫≒岩長毘女命(伊豆国伊豆山神)

 

 

これは宮下文書版・寒川大神クニサツチ夫妻→ウビチニ→ツクヨミ→オオヤマツミの妃の継承(女系)と言える。富士朝加茂山→古宮→寒川→相模川へ流れる宮守川流域に祀られた、これが祓戸四柱の原型とみられる。

宮下文書版神武天皇が制定した皇后の御紋章は、神代の神々をモチーフとした月輪に五~三の雲の形を配した(三輪本現代訳p127)。つまりはクニトコタチ『火』男系とは対等・対極にある、クニサツチ『水』女系の遺伝子を意味する系譜が存在していたとみられる。

例えば日吉大社のような大きな神社には祓戸四柱の境内社があるが、それは決してネガティブな穢れ・祓いの為にだけあるわけではない。おそらくはもっとクリエイティブな意味合いもあると見ている。

※宮下文書版カモサワヒメ=別雷命=三嶋神=寒川毘女、コトシロヌシとタカテルヒメの娘、オオヤマツミ妃、イワナガヒメとコノハナサクヤヒメの母。

 

(´(ェ)`)

〈加茂山解明①〉祓戸四柱浄化システム、阿祖山太神宮の宮守川の流れの見立か? - セキホツ熊の謎を追え!



 

 

 

 

 

ところで『7』とはなんだろうか?

宮下文書では、阿祖山太神宮七廟(七壮大神)のことを七瀬と呼んでいたようだ。詳細不明なのだが、考えられる理由の一つとして、開拓者クニトコタチとクニサツチは7人兄弟だったこと...、またアマテラス時代以前の御神宝が7つあったことがある。

 

〜三種神器の原型『七品の御神宝』

①石剣

②白青黒の丸い大御玉石

③金銀鉄の砂金

④金銀白赤黒の丸形玉金

⑤鏡石

⑥白黒大粒小粒の丸い玉石

⑦火が出る石

 

三輪本現代訳p158によると、天之世7代→天之御中世15代→高天原世天神7代に至るまで、すなわちアマテラス以前まで大御宝は7品あったとのこと。これをアマテラスの代から、鏡石以外の鉱石類を一つの『宝司の玉』として統合したとみられ、三品の大御宝(三種神器)を以て七品を代用したとのこと。

ここまで読んでお気づきだろう、阿族日本人は七という数にめちゃくちゃ縁が深かった。このように七尾市唐崎神社の御神霊が、日吉大社七瀬祓の神の分霊であることを考えれば、どうしても富士朝祭祀の影響力を感じざる得なくなるのだ。

 

 

(´(ェ)`)





近江一宮『建部大社』境内、地主神カヤノヒメを祀る『大野神社』。

 

 

 

女別當命=カヤノヒメ=速開都姫命?

次に…唐崎神社の重要性について。唐崎神社御祭神がカモサワヒメと思った理由は、実はレイラインにもある。

日吉大社〜唐崎神社のライン上には、近江一宮建部大社があるのだが…。景行天皇46年のヤマトタケル死後、妃の布多遅比売命が、神勅によって創建したという。もともとは御子・建部稲依別命とともに居住していた東近江市五個荘伊野部町『箕作山』にあった。これを675年(天武4年)に、近江国府所在地の瀬田に、近江守護として遷座させたという。

もとの地主神はカヤノヒメ(草野姫命)。

記紀版カヤノヒメはオオヤマツミの妃、すなわち宮下文書版カモサワヒメに比定できるのだ。現在は、境内『大野神社』にて縁結びの神として祀られている。さらに周辺には、JR東海道線瀬田駅周辺のこの地には『大萱』の地名があり。崇神天皇の父・9代開化天皇を祀る『萱野(かやの)神社』がある。なにかカヤノヒメと関係がありそうな…。

 




◯近江一宮『建部大社』(滋賀県大津市神領)

〜御祭神〜

  • 日本武尊
  • 大己貴命

本殿相殿神として天照皇大神、または天明玉命(タマノオヤ)説もある

〜境内社大野神社〜

  • 草野姫命(当地の地主神)




〜日吉建部レイライン〜

  • 牛尾神社(福井県小浜市鯉川)
  • 加茂神社(福井県小浜市下田)
  • 苅田彦神社(806年大同元年創建・式内社)
  • 太神宮社(京都市左京区花脊原地町)
  • 後鳥羽・順徳天皇大原陵(勝林院)
  • 横川中堂・比叡山行院(円仁)
  • 八王子山牛尾神社
  • 日吉大社・西本宮
  • 飛龍の滝
  • 日吉東照宮
  • 盛安寺(越前朝倉氏の再興)
  • 高穴穂神社(穴太遺跡)
  • 唐崎神社
  • 建部大社
  • 毛知比神社(建部大社・別宮)

※苅田彦神社は、坂上田村麿の父・苅田麿と関係がありそうだが…。

※※因みに、宮下文書版カモサワヒメ≒記紀版カヤノヒメではないかと…。

 

 



ではカヤノヒメ=カモサワヒメとして、なぜこの地に関係しているのか?…。

それは地図を見れば一目瞭然、琵琶湖から瀬田川への水戸(河口)なのだ。当ブログでは三嶋神を水戸の神と見ており、祓戸四柱速開都姫命と同神ではないか?と推測している。

瀬田川中流域には、祓戸四柱を祀る『佐久奈度神社』があり、瀬織津姫命を祀る宇治橋『橋姫神社』を経由して、淀川流域には『三嶋鴨神社』がある。つまり、琵琶湖→瀬田川→宇治川→淀川→大阪湾→鳴門の渦と、歴代権力者により歴史改竄を返してきた、歴史鎮魂の必要性が高いエリアなのだ。彼らは歴史の禍事(消さざるえなかった真相)と、皇家の対峙しなくてはならないカルマを抱え込んでいた。それを斎(いつき)の祭事により、琵琶湖から鳴門の渦へ流せると本気で信じていた。

また天台宗比叡山『横川中堂』を創建した第3代天台座主・慈覚大師円仁は、下野国都賀郡の出自。彼の出生地・三毳山(みかもやま)にて、カモサワヒメを崇敬していた節があり。

これらが富士山の見立ての信仰となる、日吉大社〜唐崎神社からレイラインで繋がっていること自体、何らおかしくはないだろう。同時に、富士朝神道におけるカモサワヒメが、いかに大きな信仰だったかも浮き彫りとなってくる。

※因みに、富士山浅間神≒コノハナサクヤヒメと解釈されるのは、平安期延暦・貞観噴火以降とみる。

 

 

 

 

 





富士朝興亡は神々の実験か...?、シナリオか...?

余談だが…。

建部大社境内は『水神社』は源頼朝公出世の水と呼ばれる。1160年平治の乱後に、頼朝が伊豆国に配流されるにあたり、当社で源氏再興を祈願したという。結果として、これが成就されたことから命名された。

〜源頼義の子〜

▲八幡太郎義家

▲賀茂次郎義綱

その後、清和源氏八幡太郎義家の子孫・頼朝が、カモサワヒメのお膝元伊豆国で育つ。三嶋大社を崇敬しつつ例大祭に合わせて『伊豆国旗揚げ』…、伊豆山神社や洲崎神社に逃げ込んだりして…、紆余曲折ありつつも鎌倉幕府が成立した 。

他方で、清和源氏賀茂次郎義綱の子孫・三浦氏族源甚吾重成(源頼義玄孫)が、宮下家に婿養子として迎えられ、49代宮下源太夫義仁を襲名。源頼朝の協力を得て、結果として、阿祖山太神宮が再興された。宮下文書版三浦氏族は清和源氏となるので注意。

こうしてみると歴史というのは、清和源氏遺伝子を将棋の駒のように操って、八幡神と賀茂神のコンビネーションにより東国へ導かれている。まるで一連の流れが神のシナリオのようにも思えてしまうから不思議だ…。試練というか...、人間の能力テストしているようにも思えてしまうのだが



(´(ェ)`)

 

 

熊オッサンが参拝の折、境内大野神社では家族連れがキャッ・キャッとおしゃべりをしていて、なかなか参拝できなかった。熊オッサンのストレスが膨れ上がったのは言うまでもない。

ひと昔の熊オッサンであれば、眉間にしわを寄せて、歯茎をむき出しにしてガルルルルルルルルルルガルガルルルと野獣のように唸っていたであろう(苦笑)。こういう時は神様が『参拝の順序が違う』『冷静になれ』『イライラするな』『ほかを回って、出直してこい』と言っているんだなと...。臨機応変という程でもないが、自分を納得させるようにしている。ま、イライラした状態での参拝はホント避けたい...。

しぶしぶ北側の緑地へ回ると、水神社があり『頼朝公出世の水』の存在をはじめて知る。ああ!ここから伊豆国挙兵と富士朝再興の歴史が始まったんだなと、...感極まって泣いてしまった(苦笑)。考えてみれば熊オッサンの母方推定ご先祖様・長田氏も、三島に潜伏をして頼朝を陰ながら外護しており、たまたま三嶋へ参拝に来ていた富士朝大宮司家に保護されている。伊豆国挙兵がなければ、父方武藤少弐氏も存在していなかったであろう。ま...どちらもご先祖様でない可能性もあるのだが(苦笑)、運命を感じざる得なかった。

歴史の真偽はともかくとして...、日頃の感謝の気持ちが倍増した所で、改めて大野神社で御礼申し上げた。

 

 

ありがとうございます!(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

 www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com



※地図はクラフトマップ使用。

www.craftmap.box-i.net