セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈加茂山解明①〉祓戸四柱浄化システム、阿祖山太神宮の宮守川の流れの見立か?

 

山梨県南都留郡忍野村忍草『忍野八海』
山も空も大地も、あちこちスプラッシュしていた。






2023,10,21


前記事の続き。

 

富士朝があったとされる山梨県富士吉田市大明見地区と、近隣の山中湖と忍野八海。

宮下文書によると、平安期800年延暦噴火の鷹丸尾溶岩の流出により、宇宙湖(うつのうみ)は山中湖と忍野湖に分断された。その宇宙湖西岸の山塊に位置していた『加茂山』こそがツクヨミ・月桜田毘女命夫妻の陵墓であり、宇宙峰南裾野出崎島アマテラス陵墓と近接していた。縄文人からみれば宇宙に日月が並んでいるように見えたのかもしれない…。

今回はこの加茂山周辺を中心に考察していく。

 

今までなんとなく熊オッサンが、山中湖や忍野八海の周りをバイクで彷徨っていたわけだが…。知らないうちに、すごい聖地に迷い込んでいたようだ。心なしかインスピレーションも多かったみたい。

(´(ェ)`)

 

~目次~

 

〈月桜田毘女解明〉日月がすれ違う『写し鏡』から、瀬織津姫命は生まれた?。 - セキホツ熊の謎を追え!




 

 

 

 

考えれば考えるほど、高天原で加茂山の存在は大きい。

 

まず、縄文時代の山中湖周辺状況をおさらいすると。

加茂山比定地の山麓東側には、かつて宇宙湖(宇津湖=うつのうみ)が迫っており、その河口から権現山高座神社を回り込み、高天原を縦断する寒川(現在の桂川)が流れていた。

寒川河口には宇宙峰南裾野出崎島にアマテラスがあった。ニニギの諱が金山男命であり、寒川が大きく湾曲する金山付近(現在の鐘山か?)にニニギやコノハナサクヤの墓陵があった。寒川の菅原にはクニサツチ埋葬地があった。これが現在の山梨県富士吉田市大明見地区『北東本宮小室浅間神社』周辺とみている。

 

 

 


↓①三輪本現代訳巻末地図参照、神代の高天原地図。

※おおまかな地図(´(ェ)`)

 

800年延暦噴火による鷹丸尾溶岩の流出により、宇宙湖は山中湖と忍野湖に分断された。富士山火山活動はその後も断続的に250年ほど続き、忍野湖も長い歳月で枯渇した。最終的には湖底『忍野盆地』には集落が形成されていた。湖の名残りとして、現在の『忍野八海』と呼ばれる風光明媚な水郷地帯が残っている。

近くには、807年『忍野浅間神社』が創建され、810年空海開基『忍野山東圓寺』がある。加茂山山麓付近には、現在も八十禍津比売神を祀る『蛇頭疫神社』が存在している。

 

 

↓②800年延暦噴火後の宇宙湖は桂川上流の東へ後退、忍野盆地が形成されるのがわかる。加茂山比定地はおそらく『金毘羅山』『忍野山』付近か?。

 


※おおまかな地図(´(ェ)`)

 

 

鳥居地峠の南麓斜面、現在の鳥居地峠トンネルの東側入口付近。山梨県ホームページによると、1998~1999年度に笹見原遺跡の発掘調査が行われた。地表下約1mの地層から平安時代(約1000年前)の集落跡が、さらに約3m下の地層から縄文時代早期(約9000年前)の集落跡が発見された。

住居跡は平安時代まで、宇宙湖に面した湖畔の集落であったと推測され、平安期の地層から『水神』や『可』と書かれた皿が発掘されている。素人オッサンが勝手に妄想するに、これらは800年延暦噴火以降の富士山鎮火祭に使われたものではないだろうか…???。

 

加茂山比定地は、現在の鳥居地峠〜金毘羅山〜忍野山へ至る、緩やかな低山脈のいずれかと見られる。三輪本現代訳神皇紀巻末地図によると、金毘羅山付近または忍野山付近とかなり絞られてきそうだが…。

ただ『蛇頭疫神社』境内由緒書によると信仰対象となっていた範囲は広く、この現・権現山を含む山塊自体が、2匹の大蛇の連なるような御神体だったようだ。アマテラス陵墓『宇宙峰南裾野』の宇宙峰というのは、このあたりの山塊を示していたようにも思える。

 

 

〜蛇頭疫神社参道入り口の由緒書〜

 

『本社は、忍草部落の北東艮の方表鬼門に位置し、古来から部落の安泰をみそなはしてきた、祭神は、大禍津比売神と八十禍津比売神の二神である。眺めてあかぬ霊峰富士に対峙し、 西からは鐘山、平山、峯山を休とし 東からは鳥居地、笹見原湯の平を体とする二体の大蛇 が、阿弥蛇で合体して蛇頭となる大自然の恵にあやかる霊蹟の由縁をもって、忍草開祖の頃より祭祀されしと伝へられる。 本社は毎月八日を縁日とし、悪魔退散、無病息災、家業繁栄の御神徳があらたかである。 玆に、神殿の改築、境内の竣成を行い、部落の永遠の平和と区民の永遠の繁栄を希うものである。』

<富士朝めぐり③>富士朝埋葬法と水神、祓戸四柱の水の流れとは政治的水葬だったのか?。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

 

 






 

加茂山と桂川、なぜ山背国が…?。


今回実感したのが...。

桂川(寒川)といい、加茂といい、どうしても...山背(山城)国を彷彿とさせる点。そもそもなんで山梨県に桂川があるのか?。興味深いことに、どちらもクニトコタチとクニサツチの四季島統治時代の関連地であり共通項となっている。

推測するに…。山背国賀茂神社にみる『葵・桂』伝承というのは、ヤタガラス同様に富士朝阿族祭祀の正統性を暗示するシンボル。葵と桂の左右対称ハート型の葉に、富士朝とウガヤ朝、クニトコタチとクニサツチ東西両雄、または火水の対関係を投影している?とみている。

 

 

▲京都の淀川水系桂川は大堰川となり、豊受大神クニトコタチ夫妻拠点丹波国『桑田宮』に接していた。

▲富士吉田の桂川は諸説あり、寒川大神クニサツチ夫妻陵墓『寒川の菅原』に接しており、相模川となり太神宮里宮の相模一宮寒川神社へと通じる。

 

 

 

宮下文書版カモサワヒメは、この加茂山の『澤』に由来すると見るべきであろう。別名は、別雷命であり寒川毘女命でもある。ここに、寒川…桂川…、寒川毘女命…別雷命…が繋がる。桂川の下流域が相模川であり、相模湾に注ぎ込まれる。神名帳考証によるかつての相模一宮・寒川神社の御祭神は『澤女神=ナキサワメ』、現在の寒川比女命に比定される。

宮下文書による山背国『加茂神社末社四社』は、初代神武天皇時代に確認できる。その後11代垂仁天皇時代までに、富士朝高天原や加茂山を見立てて開拓したと見ている。

やはり山背国賀茂神社は、この加茂山の見立てとみるのが自然ではないのか?と。その原動力となったのが、富士朝祭祀に精通していた、富士朝客人勢力である秦氏であろう。これが現代神道においても、いかに重要であるかを示している。

 

 

 

 




 

 

 

 

加茂山に祓戸四柱の起源をみつけた。。。?

さらに、加茂山北東斜面のサワから流れる宮守川にも着目する。

宮下文書古地図によると、加茂山→阿祖山太神宮の流れは現在の『古屋川』に比定され、現在も古宮跡の門前を流れる。御座野川(小佐野川)に合流し、寒川(桂川)に合流する。現在名は、富士朝二所明神時代の太神宮副司家系・古屋氏族(応神天皇隼総別皇子子孫)に由来すると思われる。

宮守川下流には大明見『山神社』があり、これが加茂山とは別に『山守大神』としてオオヤマツミ・カモサワヒメが祀られていると思われる。さらに下流には宮守大神があり、神武天皇の富士朝参拝の折に太神宮の守主として、金山の墓陵のニニギ・コノハナサクヤを遷座。『宮守大神』と称され、これが現在の大明見地区古宮跡付近『金山神社』ではないかと見ている。

 

 



 

ここでチラついてくるのが、なんと『祓戸四柱』だ。

前記事をおさらいすると、神代の加茂山はツクヨミと①月桜田毘女命の夫妻の『山守の宮』であった。

その後のヒコホホデミの時代に、ツクヨミ夫妻の御子であり、ヒコホホデミ外祖父にあたる③オオヤマツミ②カモサワヒメを山守大神として加茂山に祀った。

加茂山から宮守川が高天原中枢の家基都方面へ流れ、阿祖山太神宮の門前を流れる。ヒコホホデミ時代の太神宮の2代大宮司を任されたタマノオヤ妃が、オオヤマツミとカモサワヒメの娘・④イワナガヒメであった。

 

奇しくも…これが上流域から、月桜田毘女命→カモサワヒメ→イワナガヒメ女系遺伝子の関連地区と重なるわけだ。ちょっと待てよ…、これって宮守川の流れそのものではないか!?。

(´(ェ)`)

 

〜祓戸四柱とは宮守川?〜

①月桜田毘女命≒瀬織津姫命?

②カモサワヒメ≒速開都姫命?

③オオヤマツミ≒気吹戸主?

④イワナガヒメ=速佐須良姫命転生(ホツマ記載)

※宮下文書には祓戸四柱は登場しない。

 

 




前記事をおさらいすると。。。

クニサツチ孫ツクヨミの家系は、高天原アマテラス朝をサポートする、全国山々を統治する家系であった。その御子・オオヤマツミがその職を継いで、初代太神宮大宮司オオクニヌシをサポートする初代司となった。

分かりやすく言うと。加茂山自体がオオヤマツミの見立てであり、ツクヨミファミリーの男神火神のシンボルである。そこに水神たちのツクヨミ女系遺伝子の流れが太神宮へ到達する。まるで太神宮参拝者をサポートしている一つのセクションにも見えるのだ(苦笑)。

言うなれば、太神宮の『月』『山』『水』部門。



 

↑上写真は、山梨県富士吉田市大明見『古宮跡』、門前を流れるのが古屋川。いままで何気なく跨いできた小川というか...、用水路だが、実は凄いカラクリが施されていた。

みなさんも参拝の際は、お足元にご注意を...(´(ェ)`)



 




 

斎王と斎(いつき)とは。

同様に、斎(いつき)についても同じことが言えるのではないかと…。



前記事をおさらいすると。

斎王とは、伊勢神宮と上下賀茂神社にそれぞれ奉仕した皇族女性の巫女。中でも、伊勢神宮の斎王は、斎宮近くで瀬織津姫や寒川神や祓川付近で祓神を祭祀していた節があるのだ。

当ブログでは『斎(いつき)』とは、伊豆神+月神=いつきに由来しているとみている。

そう考えると…、なぜ山城国賀茂神社にも、賀茂斎王(平安期〜鎌倉期の斎院)が存在していたのかも頷ける。賀茂別雷神社の御祭神はオオヤマツミ妃カモサワヒメ。彼女たちは山背(のちの山城)国で、富士朝祖霊+水神祭祀とその鎮魂をしていたのだ。つまり『いつき』の祭祀自体が、加茂山+宮守川の見立てである可能性も出てきた。



伊豆神+月神=いつき?

  • 月桜田毘女命(月神)
  • カモサワヒメ(伊豆三嶋神)
  • イワナガヒメ(伊豆伊豆山神)

※当ブログでは、祓戸四柱と宗像三女神の原型と推測する。



斎王制の始まりは、10代崇神皇女の豊鍬入姫命が起源とされる。これは宮下文書版崇神天皇が、三種の神器を持ち出して、出処を攪乱させようとした時代に符合する。その後11代垂仁天皇皇女・倭姫命が、伊勢神宮創建を命じられた。12代景行天皇時代はホツマツタヱが編纂され、西国天皇勢力が富士朝影下から脱却し、自らが皇祖神祭祀をすることを模索していた時代となる。

その後、伊勢神宮斎王は、南北朝時代・96代後醍醐天皇祥子内親王が群行せずに終焉させたとされる。それは宮下文書における室町時代、1404年2月2日の南朝残党+富士朝高天原陥落が大きく影響したと思われる。このとき室町幕府4代義持(おそらく3代義満の意向か?)は、富士古文書(宮下文書)の大半を、宮守川?支流白糸川?龍の河原にて焼却させた人物。阿族祖先の歴史を完膚なきまでに消し去る覚悟を持っていた。こんな強硬策は平安時代にもみられなかったことだ。

つまり斎王制度とは、富士朝攪乱政策とともに生まれ、その終焉は富士朝がアンダーグラウンドに没したことに由来する。そして富士朝陥落と共に、斎王は必要とされなくなった。

 

 

※因みに、宮下文書研究家であり、三浦氏41代宗家の岩間尹氏によると。57代富士朝大宮司・富士三浦左京亮義勝が正義を偽り、北朝側の足利尊氏の弟・直義を正義を唆して、兄を殺させようとした経緯がある。これを機に、足利軍は『神殺し』の朝敵になろうとも、南朝と富士朝との徹底抗戦を夢見ていた。富士朝は、ごく個人的な『恨み』により潰されたことになる。

<南北朝時代>三浦義勝と足利直義、富士朝ゲリラ戦の悲しい末路。 - セキホツ熊の謎を追え!





 

 

 

 

『古宮跡』

 

『穢れ』の再考、みえてきたこの世から真相が消されゆくメカニズム。

 

祓戸四柱とは有名な大祓詞のとおり、『禍事』『罪』『穢れ』を流す存在だと認識されてきたと思う。簡単に言えば、ネガティブなものを浄化する存在。

後世に、西国人らが作り上げた『富士山なしの神道体系』では、琵琶湖から瀬田川→宇治川→淀川→鳴門の渦潮の浄化システムと見立てられた。それは裏を返せば、西国天皇勢力による血塗られた歴史を浄化することで、政治的間が禍事を排除し、支配体制を続けることができる現状維持装置。

 

~大祓詞の祓戸四柱の役割~

  • 瀬織津姫神:禍事・罪・穢れを川から海へ流す。
  • 速開都姫神:河口や海底でそれらを飲み込む。
  • 気吹戸主神:それを根の国・底の国に息吹として放つ。
  • 速佐須良姫神:それらを流離って失う。

 

 

本来はどうだったのか?。



今回の考察で見えてきたことは…。

もともと山神の聖域・加茂山の上の清き水を、下流の阿祖山太神宮へ流すための水神ということがわかってきた。つまり祓戸四柱とは聖域→聖域へ繋ぐ神々ではないかということだ。しかしながら、山上の御神域に穢れがあるとも思えない。聖地である加茂山上が汚れているとしても、その穢れを、下流域の聖域である太神宮へ流すわけがないのである。

つまり祓戸四柱の本当の役割とは、聖地・加茂山の大自然の恩恵を集めて、それを母なる川の流れとして流して、太神宮にて祈祷者のコンディションを整えていると。そう考えるほうが理にかなっている。

もっといえば、加茂山のツクヨミ・オオヤマツミファミリーたちが、太神宮参拝者を『導き』や『気づき』などでサポートしてくれるシステムなのではないか?と…。





 

同時に、『禍事』『罪』『穢れ』の正体も見えてきたと思う。

…あくまで権力構造上からの観点だが。禍事や穢れとは支配者側の理屈なのだ。簡単に言えば、支配者が被支配者をコントロールしやすくするための思考的ブロック。『こうでなくてはならない』という思い込みをさせるのだろう。そうできないものは水に流せという意味。

 

そして中には、権力者にとって都合の悪い『真相』も含まれていた。

 

昔から真相とは災いの種でもあった。旧勢力を押しのけて新勢力が台頭した。古からの真相を巡って宗教的主張が生まれ、解釈に対する不満ゆえに新たな対立を生んだ。だから支配者たちは、あえて真相を見せない、目を逸らさせる事も必要であった。それは長い戦争を終結させ、みんなで平和に暮らしてゆくための知恵でもあった。

徳川家康と天台宗天海はこれを理解していた。甲斐国などの富士朝関係氏族を召し抱えつつ、葵紋で富士朝信仰を履行した。なのに富士朝を隠蔽をし続けたのはなぜか?。

日枝神社系の猿神たちと日光『見ざる・言わざる・聞かざる』に伝承されるように、結果ご存知の通り、江戸時代はその後も260年間続いた。

 

上記のように室町時代、皮肉にも宮守川または支流白糸川・龍の河原が、宮下文書という真相?の大半が焼失した土地であった。つまり加茂山の月桜田毘女命やカモサワヒメのお膝元であったのだ。。。

彼女たちは、おそらく富士古文書が焼かれてゆくのを見ていた。

その燃え滓は山の風神に吹かれ、加茂山と寒川の水神女神たちにより流され、相模湾の海底に葬られたことになる。水神たちは自らの手で、自分たちが生きた証が消されゆくのを見ている事しか出来なかったのかもしれない...。これこそ有名な大祓詞の『穢れ』のくだりそのものではないか?。

そして、それが伊豆国三嶋大社神職から発祥した伊豆卜部氏『吉田神道』により、斎王制廃止後の室町~戦国時代に、広まったのは偶然なのか?。

 

いつの頃からか、川が与えてくれる恩恵は影を潜め、都合の悪いものを流す考えこそが主流となってしまった。それが現代人にとって良いものなのか?を、いま考え直す時期に来ている気がする。

(´(ェ)`)


 

 

 

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