セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈加茂山解明③ 〉トヨタマヒメの加茂山の悲劇と、賀茂建角身のタケダの共通点。

下鴨神社こと、京都市左京区下鴨蓼倉町『賀茂御祖神社』




2023,12,17

前記事の続き。宮下文書視点から富士朝『加茂山』と、その見立てと思われるカモ神信仰を考察しています。

(´(ェ)`)

~目次~

 

 

〈月桜田毘女解明〉日月がすれ違う『写し鏡』から、瀬織津姫命は生まれた?。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈加茂山解明①〉祓戸四柱浄化システム、阿祖山太神宮の宮守川の流れの見立か? - セキホツ熊の謎を追え!

〈加茂山解明②〉大祓詞・寒川・相模湾の役割、真相を底根へ流す歴史封じの呪法だった?。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

 

加茂山、もう一つの悲劇。

 

宮下文書では、ニニギ・ヒコホホデミの2代続いて、皇后の悲劇が起こっている。内容的にはどちらも世間的に知られているので、おそらくは宮下文書(富士古文書)が元ネタなのだろうと思っている。宮下文書では正真正銘の悲劇で終わっている。

 

ヒコホホデミの后トヨタマヒメ(豊玉毘女命)は、アマテラスの弟ヱビス(大海津見命)の曾孫にあたる。かつての巨大湖『剗海(せのうみ)』、現在の富士五湖の『西湖』畔にあった龍王宮から嫁いできた。

彼女が懐妊すると、オオヤマツミの弟・倉山住命に命じて、南宇宙湖出崎島の産殿・宇宙浜の宮(宇浜宮)を建てさせた。産殿の屋根が未だ葺き終わる前に、初代ウガヤフキアエズが誕生した。この産殿は、現在の内野地区の南、宇宙湖(旧山中湖)に突き出た半島部分にあったとされる。因みにこの地名の宇宙野(うつの)が、いつしか内野(うちの)へと変化したようだ。

 

▼平安時代初期までの略図

 

▼現在の略図




当然、ヒコホホデミや家臣たちは、みな大喜びであったに違いない…。

しかしトヨタマヒメによると、出産中に夫が産屋に入り込んできたことで、『尊が出産中に訪れたことを大変心恥しく思い…』と感じたという。結果、トヨタマヒメは密かに産屋を去って、宇宙湖畔加茂山へ逃げ込み、岩穴に一人で立て籠もった。後日、山中から変わり果てた姿で発見されたという。死因は不明。

…幸せの絶頂であるはずが、急転直下に不幸を招いてしまった。ただ記載があまりに少なすぎるので、かえって謎が謎を呼び、様々な憶測を生んでしまったようだ。後世の創作では、トヨタマヒメの正体が実は、『ワニザメ』や『龍宮の龍』であったなどの説がみられる …。

 

(´(ェ)`)










山城国貴船山にて、歴史がハッピーエンドにスリ替わる



ホツマツタヱ26文でも似た記載があり。

今回問題にしたいのは、これらがハッピーエンドに修正されており、皇家のカルマが揉み消されている点なのだ。また舞台が富士朝加茂山から、山背国貴船山へとスリ替えられている過程も見過ごせない。

(´(ェ)`)



ホツマツタヱ版トヨタマヒメは、九州筑紫で懐妊して、若狭湾・気比松原へ航海したことになっている。記紀の皇家やワダツミの系譜が九州発祥になっているのを考えれば、現代人には理解しやすい改竄経緯となっている。

彼女は、その大航海に耐えつつ、気比松原の海岸でウガヤフキアエズを無事に出産。しかし出産後のあられもない姿をヒコホホデミに見られてしまう。その悔しさと恥ずかしさから、大津シノ宮(滋賀県)を家出、弟タケツミ=カモタケスミ(賀茂建角身命)を連れて山背へ入る。最終的に、ワケツチ山(賀茂別雷神社付近)の上流にある、ミツハメ社(ミヅハ宮)に立て籠もったという。

 

〜ホツマ版ヒコホホデミの軌跡〜

▲ハラ (富士山)

▲ウツノ宮 (栃木県宇都宮)

▲オオツシノ宮 (滋賀県大津)

▲イササワケ宮(三重県伊勢)

▲ハデの館(鹿児島県?)

▲カゴシマ宮(鹿児島県隼人)

▲アソ宮(熊本県阿蘇)

▲ツクシ宮(福岡県?)

▲ウド(宮崎県日南市?)

▲ミツホ宮(滋賀県?)

▲オオツシノ宮(滋賀県大津)

 

※因みに上記『ウツノ宮』とは、宮下文書版宇宙湖『宇宙浜宮』を暗示している可能性はないだろうか?。

宮下文書におけるウガヤフキアエズ神都は詳細不明。縄文期の火山活動もあり、九州を転々としていたようだ。もしかしたらこのホツマにおける彼の動向が、ウガヤフキアエズ神都所在地のヒントとなりうるかも…。



そこでホツマツタヱ版別雷神ニニキネ(ニニギ)が登場、籠城中の息子妻の説得にあたった。ニニキネは葵と桂の二葉をトヨタマヒメに示し、夫婦は常に『対』のような鏡合わせだと諭す。男女どちらが欠けても成立しないと。

このあとニニキネは伯母のミホツヒメにトヨタマヒメを託す。淀川を下り、富士山に残してきたコノハナサクヤを思いつつ、最後の開拓地『高千穂峰』へ出発する。最終的にはヒコホホデミとトヨタマヒメはよりを戻してハッピーエンドとなる。

※ここから、二葉葵や桂葵伝承というのは、クニトコタチ×クニサツチ・阿祖山太神宮×加茂山・男×女・火×水の対比関係を、ハート形の二葉に見立てているのではないかと推測できる。

※※後述するが、このトヨタマヒメが、現在の貴船神社の御祭神タカオカミの御正体ではないか?という見解もあるようだ。









河合神社側の瀬織津姫を祀る『唐崎社紅葉橋遥拝所』、
立秋の前日...、オッサンの誕生日だな...。



賀茂御祖(ミヲヤ)神≒ウガヤフキアエズ?



ホツマツタヱ27文によると。ウガヤフキアエズ斎名はカモヒトその他にも御祖天君、アヒラの神、ツクシスベラギ 、ヒウガの神 、カモの神ミヲヤノカミ(御祖神)と記されている。

皇后はカモタケツミの娘タマヨリヒメ、彼女が先に生んだ謎の男子ミケイリとともに、皇家に保護された。皇后はウガヤフキアエズとの間に神武天皇を生んだ。つまりカモタケツミは神武天皇の外祖父となる。宮下文書にはカモタケツミは登場しない。ただ…この複雑な系図は、宮下文書における全51代多摩夜里毘女命(タマヨリヒメ)の系図を、簡素化して附会させた結果とみられる。

※因みに記紀版トヨタマヒメは、タマヨリヒメの妹。宮下文書版初代タマヨリヒメは、ワダツミ系統トヨタマヒメの姪っ子となる。




◯『賀茂御祖神社』(京都府京都市左京区下鴨泉川町)

〜御祭神〜

  • 東殿:玉依姫命(別雷命母とされる)
  • 西殿:賀茂建角身命(玉依姫命父とされる)

〜河合神社(摂社)〜

  • 玉依姫命

 

『ほつまなるとき おのつから みくさのたから (三種神器)あつまりて みをやとなすが、ほつまぞと』27文

『のちにたまより かみとなる かあひ(河合)にあわせ みをやかみ めをのかみとて いちしるきかな』27文



このように、宮下文書版ウガヤフキアエズ全51代とタマヨヒメ全51代は、ホツマツタヱによって欠史にされたわけだが...。ただホツマ成立時代までに、ミヲヤ神河合神社に祀った形跡が見られるのだ。ここから、ホツマツタヱにおけるトヨタマヒメ弟タケツノミ=賀茂建角身命の正体が垣間見えてくるわけだ…。

自ずと、山背国カモ信仰が、なぜこんなにもウガヤフキアエズ朝色が強いのかが見えてくる…。

(´(ェ)`)











夕日の若宮宮、京都市伏見区竹田『式内社・真幡寸神社跡』

 

大和・山背・河内はウガヤ朝祭祀の地、浮き彫りとなるカモ氏の正体。



神武東征中、兄・皇太子海津彦五瀬王の急死により、神武天皇は戦地にて即位を迎えた。その宣旨を勅使として富士朝へ伝えた人物が、皇弟の高倉日本命(高倉王命)。武佐志(武蔵)など東国軍船を多気の宮(伊勢国)へ集結させた人物でもある。

戦後、紀元元年辛酉年(BC660年)2月11日を即位の日とし、神武天皇は明らかになった天照国を祝い、国名として『大日本』を号した。これも…もしかしたら高倉日本命の影響があったのかもしれない。彼の活動は大いに評価され、宮下文書版神武東征後の論功行賞では、大和・山背・河内の後世の要衝ばかりを賜っている。



〜三輪本現代訳神皇紀p129〜

第二の皇弟高座日本皇子を、大和・山背・川地(河内)三国の国造とし、猛田(武田)大県王とした。

 

※上記は、高倉日本命と高座日多命を混同させた誤植の可能性もあり…。高座日多命のデータも併記しておく。

宮下文書版・高座日多命とは白木軍征討将軍であった。

媛蹈鞴五十鈴姫尊の実父であり、先代51代ウガヤフキアエズ『弥真都男(やまとお)王尊』の同母弟、つまり神武天皇の伯父となる。神武東征中に、富士朝高天原へ上り必勝祈願(国賊退治)をし、ヤタガラス神勅と布都神剣を賜ったとされる。

高倉日本命と高座日多命の共通点は、富士朝勅使であったこと。カラスはクニサツチが愛した霊鳥。このヤタガラス自体が、富士朝からの神詔を意味していると思われる。

都市伝説では、賀茂神社にはヤタガラスなる秘密結社が、『裏天皇』を称して暗躍しているともウワサされているが…。




ここで、大和・山背の歴史を辿ってみよう(´(ェ)`)。



◯山背国

宮下文書神武天皇時代項には、山背国『加茂神社・摂社四社』が確認されている。名前から察するに、富士朝加茂山の水神女神祭祀に由来すると見てよいだろう。

同時期『貴船大神・摂社二社』が、竃山にて、海軍皇族や将校の神霊を祀っていた。

ホツマ比定ではミツハメ社だが、このミズハノメという女神は水神祭祀全体を指しているのではないだろうか?。

注目すべきは、やはり...前述の猛田(武田)大県王。これは…『式内社真幡寸神社跡』の地名、京都市伏見区竹田(タケダ)ではないだろうか???。ご神紋『三葉葵』の使用が許可されているので、別雷命カモサワヒメの可能性もありそうだ。

※宮下文書版カモサワヒメ=別雷命=寒川毘女命=三嶋神、コトシロヌシ娘、オオヤマツミ妃、コノハナサクヤとイワナガヒメ母。




◯大和国

『山城国風土記』における賀茂建角身命は、大和国葛城→山城国岡田賀茂(岡田鴨神社)→賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まったとされる。

日本書紀・神武天皇記では『高尾張邑に土蜘蛛が現れ、退治して葛城邑に改めた』旨がある。そして、大和国葛城山のふもと葛木坐火雷神社(笛吹神社)の裏山に、なぜかタケタオリの古墳があって、尾張氏笛吹連の拠点となっていた。この大和国葛城山は、クニトコタチを祀る葛城天神社があり、かつて賀茂氏祖である賀茂建角身命縁の鴨山があった。

※後述するが、大和葛城山は賀茂氏がカモ神コトシロヌシ祭祀をしていた聖地でもある。




◯河内国付近?

現在の大阪府下19の市町村の北河内エリア(枚方市)、その淀川対岸が三島エリア(高槻市)となる。カモ神コトシロヌシに由来する、大阪府高槻市三島江『三島鴨神社』がある。もともとは、水戸神カモサワヒメを祭祀していたのではないだろうかと…。

記紀版神武皇后・媛蹈鞴五十鈴姫命はコトシロヌシの娘と称している、母方がこの摂津ミシマの豪族?とする記述がある。もちろん時代的に、宮下文書論拠ではありえない訳だが…、これは暗に河内を領していた高倉日本命を暗示しているのではないかと。




◯尾張国

注目すべきは、熱田神宮境外摂社『高座結御子神社』の御祭神・高倉下命。ホノアカリ子孫尾張氏とされており、やはり大和国での高倉日本命と関係があるのではないかと...。

熱田神宮を創建したのは、オトタチバナヒメ御子・長田王。山背国伏見稲荷大社と富士山のレイライン上であり。尾張氏系熱田大宮司家は富士朝大宮司家とも数回、婚姻関係を重ねている。

※因みにホツマツタヱでは、ヤマトタケと尾張氏ミヤズ姫の間に、武田王という人物がいる。山梨県韮崎市神山町北宮地『武田八幡宮』に武田武大神として祀られているという。宮下文書では男の子はおらず…。富士朝8代大宮司・福地佐太夫命に嫁いだ福地媛がいるハズだ。




ここまで纏めると、高倉日本命の領地である大和・山背・河内には、カモ神祭祀が色濃く残っているのだ…。そして大和国にて発祥したというホノアカリ系尾張氏も、そのカモ氏の附会がありそうな気もしてきた…。

 

賀茂氏と尾張氏笛吹連…。

タケツノミとタケタオリ…。



これらの地域に深い関係がある賀茂氏には、やはり神武天皇やウガヤフキアエズ朝の影響力が見え隠れする。結局、賀茂氏の祖とされる賀茂建角身命は、あくまで一柱なのかもしれない。ただそれは、全51代ウガヤフキアエズ祭祀を取り纏めていた名代・宗主・県主のポジションではないだろうか?。

ま…そんなことが可能な人物は、ごく限られるわけで…。やはり猛田大県王こと、高倉日本命の本人、あるいはその親族ではないだろうかとみている。

それが賀茂氏に一番近い存在だろう。

思いがけずホノアカリ系尾張氏を巻き込んでしまったが、尾張氏については根本的に調査し直さなければならないかも。。。

調査中(´(ェ)`)










大和と甲斐をつなぐ、ミワ×カモ・レイラインとは…。

ここで…、以前紹介したレイラインを思い出していただきたい。

葛城山から三輪山へ、『ミワ×カモ・レイライン』延長線上には山梨県笛吹市があり、別雷命を祀る山梨岡神社裏『大蔵経寺山(御室山)』にある磐座をドンピシャで通る。熊オッサンがひふみ祝詞を唱えたら、雷が3回鳴って雨雲が発生した場所である。さらにレイラインにより、甲府盆地内の4つの神部神社が結ばれる。

マジで(´(ェ)`)

〈神社めぐり〉山梨岡神社から大蔵経寺山へ、レイライン上の謎の磐座にいってきた。 - セキホツ熊の謎を追え!

▼奈良県内

 

           ▼山梨県内

           



◯『山梨岡神社』(山梨県笛吹市春日居町鎮目)

〜御祭神〜

  • 大山祇神
  • 高龗神
  • 別雷神

※グーグルマップ上の大蔵経寺山に、『神の石』なる磐座あり。

※※甲斐武田氏の崇敬厚く、躑躅ヶ崎館の氏神とされる。宮下文書版武田氏の出自は記載なし。通説の武田氏とは、清和源氏新羅三郎の子孫とされるが…不明な点も多い。

因みに高倉日本命の所領には、清和源氏との接点として河内国があるが…。そういえば、河内清和源氏には八幡太郎と賀茂次郎がいたな…。その賀茂次郎の子孫・三浦氏族源甚吾重成が宮下家に婿入りしているわけだ。



◯『賀茂春日神社』(山梨県笛吹市春日居町加茂)

〜御祭神〜

  • 玉依姫命
  • 別雷命
  • 神武天皇
  • 天兒屋根命
  • 經津主命
  • 武甕槌命

※京都より勧請された式内社・神部神社の論社の一つ。永正14年(1517年) 武田信玄が唄に残し再興、天正11年(1583年)徳川家康が笛吹川氾濫から再興。社伝によると、八幡太郎東征の折に、賀茂次郎が当社で元服したとのこと。因みに宮下文書では、山城国加茂神社で執り行われている。



以前、半分冗談で…。タケタオリとタケツノミ(賀茂建角身命)が似ていると述べたことを覚えているだろうか?。タケタオリ...。『笛』を分解すると竹田=タケダと読める説もある…。ああ、まさにそのとおりだなと…。そしてそれは奇しくも武田王の末裔…、甲斐武田氏の所領である笛吹川流域を指し示している。

これもあながち偶然ではなく、高倉日本命が大和と山背の共通の国造であったことを考えれば、繋がりそうなお話である。

(´(ェ)`)












 

菟道稚郎子命を祀る宇治川『宇治神社』付近。




結局、西国のカモ神祭祀とはなんなのか?。

 

神武東征後、高倉日本命がやりたかった事とは何か…?。ごく純粋に、祖霊と戦争と開拓スピリッツを祀ることだろう。貴船川と下流の加茂神社の富士朝加茂山水神を組み合わせて、大自然の恩恵を得るとともに、鎮魂祭祀を兼ねていたとみている。とくに彼の出自であるウガヤフキアエズ朝に重きが置かれたのも、自然な流れであろう。これが古代賀茂氏の純粋な姿ではないかと…。

しかし…。時代とともに、人間は純粋ではいられなくなったわけだ。ご存知のようにホツマツタヱ成立時代前後、皇家への権力集中に伴い歴史粛清が始まった。

11代垂仁天皇は伊勢神宮を創建し、『富士山なしの神道体系』を推進していた。一方で、富士朝客人勢力秦氏は、農作・土木工学から祭祀の知識までを有していた。彼らは富士朝開拓は手狭となって、新天地を求めるしかなかった。この2つの利害が一致して、秦氏に山背を定住地に与えて開拓させる代わりに、新しい神道を模索させていたのだと思われる。

そして以降は、この先達の賀茂氏祭祀と、後発の秦氏祭祀が、緩やかに融合していったのではないかと見ている。

ただ…問題なのは。

宮下文書とホツマツタヱの比較からも読み解けるように、皇祖ニニギやヒコホホデミらの歴史の不幸を美化している節がある。とくにホツマツタヱで強調されているのは、富士朝では悲劇とされてきた皇家のカルマを、山背国のカモ神たちの水神祭祀を利用して、無理矢理にでも精算しようとしているようにも見えるのだ。




〜ホツマによってカモ神化された神々?〜

▲ニニギ→ホツマツタヱ版別雷命

▲トヨタマヒメ→貴船神タカオカミ???

▲ウガヤフキアエズ全51代→賀茂建角身???

▲多摩夜里毘女命全51代    →タマヨヒメ

※初代多摩夜里毘女命が、ワダツミ系統・玉依毘女命でトヨタマヒメの姪に当たる。

※カモ神アジスキタカヒコネについては、面白い事がわかってきたので次回ご紹介します。







いくら歴史を美化したところで、歴史を無きものにされた祖霊たちの祟りは収まらないであろうと…。西国の人々は、祟り神の逆鱗に触れ、穢れや禍事を背負い込む天災を恐れていたとみている。それは宮下文書の延暦噴火項で、人々が顔面蒼白となる様を見れば明らかである(三輪本現代訳p200)。

その人々の恐怖心から、鎮魂祭祀はより大掛かりなものとなり、上下賀茂神社を西国皇祖信仰の中枢とする流れにもなったようだ。賀茂神社や貴船神社の水神祭祀を知るには、山背国にとどまらない、関西圏広域な視座が必要になりそうだ。

そのカラクリはいつしか、琵琶湖からの祓戸四神を祀る瀬田川、仁徳天皇による菟道稚郎子事件を鎮魂祭祀する宇治川、クニトコタチの拠点があった丹波出雲からの桂川などを巻き込み、石清水八幡宮と與杼神社で束ねて、淀川へと流れる歴史の巨大浄化システムとなった。『穢』は淀川河口にて、鳴門の渦潮へと送り込まれ水底へ沈んだ。

これが有名な大祓詞として謳われたとみている。前記事で紹介した祓戸四神のように、歴史的真相を『穢』『罪』『禍事』として『祓い』、山背国の水神たちに流させたのだろう…。



※前記事補足。宮下文書岩間本曰く、本来は15代応神天皇の遺言どおり、菟道稚郎子命が宇治天皇として即位するはずだった。それを16代仁徳天皇と武内宿彌が反故し、菟道稚郎子命を自決に追い込んだ。これに激怒した皇兄の富士朝大宮司・大山守皇子が、仁徳天皇へと反旗を翻した。これが世にいう『失われた4世紀』であり、宮下文書における東西分断時代のきっかけとなった。皇家はじまって以来の大事件のようで、現在も菟道稚郎子命の御霊は宇治川畔『宇治神社』に祀られている。

結局、関東圏の相模川寒川神社付近『前鳥神社』や下野国寒川郷『野木神社』に菟道稚郎子命を祀る理由は、寒川神カモサワヒメによる歴史鎮魂と浄化ではないか?とみている。











京都市左京区鞍馬貴船町『貴船神社』、主祭神タカオカミを祀る。

 

貴船神タカオカミの正体とは?

 

全国二千社を数える水神の総本宮を称する貴船神社。主祭神はタカオカミ。

前述のようにホツマツタヱには、貴船神社とトヨタマヒメとの深い縁が描かれており、タカオカミの御正体ではないか?との見解もあるようだ。

今回は…このタカオカミを宮下文書的視点で考察してみよう。

(´(ェ)`)

 

下記からタカオカミは、よくオオヤマツミとカモサワヒメと三柱ユニットで構成されていることがわかる。基本的には山岳・祖霊信仰とみられるが、総じて『雨乞い』の性質も強く、水神・雷神祭祀となるのは自然な流れだろう。ただ単純に、タカオカミはカモサワヒメと親しいのかな?とも思う。

大山阿夫利神社の阿は、『阿族』という意味。阿族の祖とは阿祖であり、この信仰対象が『阿祖山(富士山)』となる。これが転じて、山城国賀茂神社のシンボル『葵(あふひ)』→大山阿夫利(あふり)神社になったとみる。山背国賀茂神社と相模国大山阿夫利神社どちらが先かは不明、ただ…どちらも富士朝客人勢力秦氏と縁が深いようだ。

 

◯山梨岡神社(山梨)

  • 大山祇神
  • 別雷神
  • 高龗神

 

◯大山阿夫利神社(神奈川)

  • 本社:大山祇大神
  • 奥社:大雷神
  • 前社:高龗神

 

◯賀茂別雷神社(京都)

  • 本殿:賀茂別雷大神
  • 山尾神社:大山津見神
  • 新宮神社:高龗神

※向かって本殿左側から順番に隣り合っている。



〜ヒコホホデミからみたカモ三柱?〜

  • 大山祇神=ヒコホホデミ外祖父
  • 別雷神    =ヒコホホデミ外父母
  • 高龗神    =ヒコホホデミ前妻???



  • 大山祇神=富士朝神
  • 別雷神    =富士朝神
  • 高龗神    =ウガヤフキアエズ朝母神???



結局これらも、寒川大神クニサツチ系統水神女神たちの宗廟・加茂山を見立てているのではないだろうかと…。ヒコホホデミ時代、加茂山にはヒコホホデミの外祖父母として、オオヤマツミとカモサワヒメを祀り始めた。そこにトヨタマヒメ死亡事件があったわけで、加茂山で外祖母カモサワヒメに妻トヨタマヒメが寄り添っているようにも思える。

トヨタマヒメは、賀茂御祖神社の全51代ウガヤフキアエズの母神という位置付けもありそうだ。賀茂御祖神社の川上・貴船川にウガヤフキアエズの母神を祀るメリットもあるだろうと…。ただもしタカオカミ=トヨタマヒメなら、なんで名前を修正される必要があったのかと…?。

いずれにせよ、今のところ判断は少し慎重に見るべきかな…とも思っている。

 

(´(ェ)`)





 

ただ可能性として、タカテルヒメではなかったのかな?と…。

2代綏靖天皇の宮タカオカの宮(葛城高丘宮)と関係なかったであろうか?と...。というのも2代綏靖天皇は、忠義の神コトシロヌシを崇敬していた節があるのだ。葛城といえば一言主命(コトシロヌシ)であり、妃タカテルヒメが見えてくる。日本書紀によると、賀茂神事代主神の娘・五十鈴依媛命を皇后としている。

 

〜通説の皇后〜

▲初代神武天皇皇后

  • 媛蹈鞴五十鈴姫命=大物主かコトシロヌシの娘
  • 父親が大和ミワの豪族?
  • 母親が摂津ミシマの豪族?

※宮下文書版は高座日多命の娘。

 

▲2代綏靖天皇皇后

  • 五十鈴依媛命=コトシロヌシの娘
  • 媛蹈鞴五十鈴姫命の妹
  • 日本書紀によるとコトシロヌシの少女

 

葛城高丘宮(タカオカのミヤ)=タカオカミ???

宮下文書版タカテルヒメは、コトシロヌシの妃。しかもクニサツチ→オオトノジの子。オオクニヌシとサルタヒコの妹。カモサワヒメの母、コノハナサクヤとイワナガヒメの外祖母。

貴船神社が加茂山水神祭祀の見立てであり、寒川大神クニサツチ女系の象徴としてみれば、可能性は高いのではないかと…。現在でも奈良県御所市東持田『葛木御歳神社』の相殿神になっている。しかしながら古事記では、シタテルヒメ=タカテルヒメと解釈されており、ホツマツタヱではヒルコの別名とされる。かなり附会されてしまっているので注意。



※カモ神コトシロヌシを補足しておくと。

ニニギ外寇親征の役にて、コトシロヌシとタカテルヒメは家族神を壊滅状態にしつつも、最後までニニギに尽くした。ニニギが衰弱した折にも、夫妻揃ってニニギを追って自決を選んだ。おそらくはこの忠義伝承が、天皇守護の8神を祀る神殿『八神殿』に、コトシロヌシが含まれている理由だと思われる。

コトシロヌシ信仰は、2代綏靖天皇から少なくとも記紀成立時代までは、葛城山を中心として絶大な信仰を持っていた。しかしながら祭祀していた賀茂朝臣氏の政治的地位の低下とともに、コトシロヌシ祭祀も停滞したものと思われる。

 

 

タカオカミというのは、その賀茂氏コトシロヌシ信仰の名残りではないのかなと…。

前述のように、大和国と山背国の祭祀が、高倉日本命により繋がっていた事を考えれば、あり得るかなと。大和国葛城山のコトシロヌシと、その娘である山背国カモサワヒメもリンクしてくる。

個人的には、カモ祭祀と加茂山の性質上としては…、トヨタマヒメでもタカテルヒメでもおかしくはないとは思っているのだが…。一応可能性として書いておきます。

 

調査中(´(ェ)`)。

今年最後の記事となります。みなさんよいお年を…。

 

 

 

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※地図はクラフトマップ使用

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