セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈加茂山解明②〉大祓詞・寒川・相模湾の役割、真相を底根へ流す歴史封じの呪法だった?。

加茂山比定地周辺と思われる、山梨県南都留郡忍野村『蛇頭疫神社』境内

 

 

 

2023,11,26

当ブログは宮下文書を中心とした考察をしております。(´(ェ)`)

宮下文書には祓戸四柱は登場しない。しかし宮下文書を読み解くに…、彼女たちの御正体は富士朝におけるツクヨミ陵墓『加茂山』から流れる宮守川に関係する月・水・山の四柱の神々ではないか?と推測した。すなわち…初代富士朝統治者である、寒川大神クニサツチ夫妻の孫・曾孫・玄孫たち。コノハナサクヤの出自の、ツクヨミ・オオヤマツミファミリーとなる。

 

~目次~

〈月桜田毘女解明〉日月がすれ違う『写し鏡』から、瀬織津姫命は生まれた?。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈加茂山解明①〉祓戸四柱浄化システム、阿祖山太神宮の宮守川の流れの見立か? - セキホツ熊の謎を追え!

〈富士朝めぐり④〉高座神社宮下親類権現講と、高座山~神座山の冬至朝日レイライン - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

 

おさらい

 

〜加茂山から太神宮への水の流れ〜

▼加茂山(ツクヨミ夫妻陵墓)

▼山守大神(山神社・オオヤマツミ夫妻)

▼宮守川(古屋川)

▼阿祖山太神宮(タマノオヤ2代目大宮司夫妻)

▼寒川(桂川)

▼馬入川(相模川)

▼太神宮里宮・寒川神社(寒川毘古命夫妻)

▼相模湾

 

 

 





〜宮下文書における祓戸四柱比定?〜

▼瀬織津姫命≒月桜田毘女命?

▼速開都姫命≒加茂澤毘女命?

▼気吹戸主神≒大山津見命?

▼速佐須良姫命=岩長毘女命(ホツマツタヱでは転生したとされる)

 

◯月桜田毘女命、クニサツチ孫、ツクヨミ妃、オオヤマツミ母。

◯カモサワヒメ=別雷命=寒川毘女命=伊豆国三嶋神、コトシロヌシ娘、オオヤマツミ妃、クニサツチ曾孫、イワナガヒメとコノハナサクヤヒメ母。記紀版カヤノヒメ?、神名帳考証の相模一宮寒川神社のナキサワメ。

◯オオヤマツミ。ツクヨミ息子、クニサツチ曾孫、阿祖山太神宮初代副宮司、富士山はじめ諸国山々の統治者。寒川毘古命、幼名は白玉池に生まれた『白玉毘古命』

◯岩長毘女命、太神宮2代目大宮司タマノオヤ(ニニギの弟、八王子神)の妃。クニサツチ玄孫、ウサミ母、クマノクスヒコ祖母。コノハナサクヤ姉。伊豆山伊豆大神。

 

 

~寒川大神クニサツチ女系の流れ~

 




※因みに、宮下文書研究家加茂喜三氏によると、山の民『サンカ』の語源は、寒川(サンガ)であるとしている。

▲寒川大神=クニサツチ夫妻

▲寒川毘古命=オオヤマツミ(曾孫同士婚)

▲寒川毘女命=カモサワヒメ(曾孫同士婚)

 

※※瀬織津姫や祓戸四柱系神社には『白玉』や『玉子』がよく関連している。瀬織津姫命を祀る新潟市秋葉区金津『佐久那殿(さくなど)神社』には『白玉の滝』がある。

 

 

 

 

 

 

〜祓戸四柱の御役とは(推測)〜

①穢れを祓う(通説どおり)。

②加茂山の恩恵を太神宮参拝者に供給する?。

③宮守川龍の河原で焚書させられた宮下文書の燃え滓を寒川(桂川)→相模川寒川神社→相模湾の底根へ流す?。

④加茂山の麓に祀られる太神宮、さらに宮守大神ニニギ・コノハナサクヤヒメを見守っている?。





〜阿祖山太神宮と加茂山の対比関係〜

▲阿祖山太神宮=豊受大神クニトコタチ系統

▲加茂山=寒川大神クニサツチ系統



▲阿祖山太神宮=神皇男系、火神の象徴

▲加茂山=クニサツチ女系、水神の象徴



▲阿祖山太神宮=太陽神アマテラス、クニトコタチ直系アマテラス養子・アメコオシホミミ子孫。

▲加茂山=月神ツクヨミ直系



▲ニニギ(クニトコタチ直系玄孫)

▲コノハナサクヤ(クニサツチ直系玄孫)



お気づきだろうか…?(´(ェ)`)

つまり阿祖山太神宮と加茂山の関係は、日✕月、火✕水、男✕女、の対極にあり。尚且つ、クニトコタチ系統とクニサツチ系統との連携の印象も受ける。またニニギとコノハナサクヤらの日本国民としての悲劇的な罪+禍事≒カルマを統合しつつ、クニトコタチ子孫+クニサツチ子孫と御祖霊たちの結束を促しているのではないかと…。

宮下文書によると、神代からウガヤフキアエズ全51代、そして欠史八代〜11代垂仁天皇までが、この地で即位式を行ってきた。だとすると…これが『統べる』=『皇』、古代神皇のあるべき姿だったのか…?。

 

 








朝廷と太神宮の微妙な関係

 

平安京となった山城国は、富士朝客人勢力秦氏が比叡山≒富士山に見立てて開拓しており、富士朝から目を逸らすための『富士山なしの神道体系』を構築していた。さらに今回見えてきたのが…、桂川+鴨川+宇治川などの複数河川の流れを、石清水八幡宮+與杼神社で束ねた後、なぜか淀川へ繋がる三嶋神祭祀となる。これら一連の繋がりが、富士朝加茂山からの水の見立てではないか?と推測する。となると八幡宮宗廟・石清水八幡宮は、宮守川沿いの『阿祖山太神宮』の見立てか?。八幡神≒2代目大宮司タマノオヤの可能性も深まってくるのではないかと…。

 





宮下文書を紐解くに。

平安時代までの西国天皇勢力が、富士朝を隠蔽しつつも、畏敬の念は保ち続けていたことがわかる。同時に、祖先を敬う基本姿勢は保ちつつ、それはあくまでスルーであり、行き過ぎた弾圧行為はタブー視していた感もある。富士朝祖先を弾圧する『祖霊・神殺し』『朝敵』の批判は、家臣や兵たちを動揺させ内部分裂を招く可能性あり。統治能力を揺るがし兼ねない。このように西国の人々は畏怖、後ろめたさを東国蝦夷に常に感じていたようだ。

 

三輪本現代訳の平安期噴火に関する条によると...。

これらは基本的に朝廷からの書簡内容と、富士朝側の対応に構成されているのだが...。まず800年、阿祖山太神宮大宮司ら神官一族郎党300人余人(349人)が、わざわざ伊勢神宮や平安京新都に招待されていたのが驚きである。そして奇しくもこのタイミングで富士山延暦噴火は起こった。三輪本現代訳神皇紀p200曰く、『…朝廷は慌て、都は騒然となった。大宮司以下三百余人は、これを耳にして皆色を失った。』とある。西国人が、大噴火に為すすべもなく右往左往していた様子が明々白々となる。


そんな渦中、富士朝阿祖山太神宮にて留守番をしていたのが、太田真長男(根鳥皇子子孫)と羽田宗治彦(武内宿彌子孫)。延暦噴火が起こると、太神宮の御神霊と宝物等を命がけで保護した功績により、806年勅令にて二人共に『伴』の氏を賜り、子々孫々伴氏を称したという(現代訳p226)。ここで注目すべきは、西国天皇勢力が『富士朝宝物殿を守護した功績』に恩賞を与えたという事実。紛れもなく西国人は、阿祖山太神宮自体が東西日本人の共通の財産である認識を持っていたのだ。



※因みに、これは785年藤原種継暗殺事件にて大伴古麻呂の子・継人が処刑された直後。通説の大伴氏系『伴氏』は、富士朝氏族にすり替えられていると見るべきだろう。天皇が即位するたびに、富士朝に対する態度も二転三転していたと思われ、当然朝廷側の操作と思惑も見え隠れする。

※※56代清和天皇の信任を得えていた伴善男や、菅原道真の母方・伴真成は、大伴氏ではなく、富士朝関係氏族の可能性もでてきた。




(´(ェ)`)



 





相模湾に流失させられてきた真相の数々?

 

ここからは、加茂山宮守川や寒川によって流失させれた、宮下文書の歴史を時代別に追う。

 

800年延暦噴火後、富士朝関係者や富士朝古文書と宝物は、征夷大将軍・坂上田村麿の避難誘導の元で27代宮下源太夫元秀により里宮へ避難させられた。これが現在の太神宮里宮『富士山東本宮寒川神社』、すなわち現在の相模一宮『寒川神社』となる。その里宮傍に宝蔵を建てて、太神宮の古文書宝物を収蔵したという。元秀は直後、翌年801年に享年48歳で死亡した。

 

とんで。平安時代末期の48代宮下記太夫政仁は、清和源氏賀茂二郎義綱子孫・源甚吾重成(三浦義顕の長男)を婿養子とし、49代宮下源太夫義仁を太神宮大宮司に迎えた。以降、清和源氏系宮下家となる。

48代政仁は、寒川神社の宮司となり富士朝から避難させた古文書宝物の保護した。49代義仁が、足繁く寒川神社へ通い古文書原書を複写した。鎌倉時代以降も、49代義仁と三浦義澄娘との子である50代富士宮下藤馬亮義国も、これを継承して複写しつづけた。おそらくは平安期に125年続いた富士山噴火により、古文書は災害により簡単に失うものであるという認識を持ったのだろう…。鎌倉幕府成立後は、清和源氏との繋がりにより資金繰りも改善され、古文書用竪紙の調達がしやすくなった背景もありそうだ。




こうして大宮司家が、里宮宝蔵の『徐福伝』、歴代宮司の記録『寒川日記』をはじめとする古文書を十数年に渡り複写したものを順次、阿祖谷へ持ち帰り阿祖山太神宮宝蔵へ納め続けた。現代に目にすることができる宮下文書は、この作業の功績が大きい

そして…6代里宮宮司・宮下佐太夫国明の時代。

1282年馬入川(相模川)が氾濫。宝蔵の古文書宝物の流失を防ぐために身を投げたし。里宮7代宮下記太夫明吉と共に溺死。古文書原書は、悉く相模川→相模湾へと流失した。

 

江ノ島から相模湾と富士山を眺める。この海には数多くの真相が眠る。。。








 

『龍の河原』とは

 

相模湾への歴史流失は、繰り返される…。

 

宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』p240によると。

15世紀前後室町時代、100代後小松天皇朝、南北朝統一が達成する。それに伴い、各地の南朝宮方・諸皇族及び遺臣の捜索が行われた。彼らは南朝残党軍は富士朝阿祖谷へ集結し籠城、足利幕府軍を迎え撃つ形となった。その過程のなかで、南朝宗良親王と尹良親王が富士朝宇津峰南城にて一時潜伏していた。親王らが潜伏生活で暇を弄んでいた折に、58代宇津左京亮義利が徐福伝や寒川日記などを複写して親王へ献上していたという。

1404年(応永11年)富士朝が陥落。

宮下文書には記載がないが、これには3代将軍足利義満の意向が強かったと思われる。この年義満は、尊号『太上天皇』が賜われるよう朝廷に根回ししていたようだ。思うに…後世の富士朝討伐の『祖霊殺し』『神殺し』の評判を、誰よりも恐れていたことを伺わせる。

戦後の阿祖谷一帯は、上杉顕憲(憲顕のことか?)に賜れ、足利氏目代千葉兼胤に神社や神官たちの家宅捜索を受ける。応酬された古文書宝物は、社前の龍の河原(龍が河原)にて悉く焼却された。このとき、先述の49代義仁の複写した『寒川日記』は完全に焼失した。ただ上述の58代義利が複写したものが残っており、これにより『太古の事跡を推し知る事が出来る』とある。おそらくは原書のダイジェスト版のような内容ではないか?と推測できる。



時代は変わり江戸時代1668年(寛文8年)、67代大宮司・宮下甚太夫宗忠の時代。

地元領主・秋元摂津守喬知の虐政に反発して、若干25歳の67代宗忠が領主に道を説いた。領主は激怒し大宮司を斬首、さらに宮司宗家の職を取り上げた。この頃の太神宮の権威は見る影もなかった。古文書宝物は、またもや龍の河原で焼却される運びとなった。しかし家人が隙きをみて、その一部を奪い返して隠したという。一族は直ちに宗忠の妹・豊女から宗家を再興し、秋元領主には血筋を誤魔化していたという。

こうして…事あるごとに、歴史の断片が加茂山からの宮守川へ、寒川へ注ぎ、相模湾の根の底へ没したのである。当然そのたびに、人々の悔恨と畏敬が増すわけで、大祓詞はこれらの負の念の浄化と、失われゆく歴史鎮魂の役割もありそうだ。

 

龍の河原の比定地は不明であるが、太神宮と宮守川の神社『社前』とあるので、もしかしたら…現在の富士吉田市大明見の『金山神社』付近なのかな?とも思う。詳細は調査中。

おや…?。

んんんん…まてよ、もしかして…。

出雲族サルタヒコ子孫野見宿彌に纏わりつく『立野』『龍野』『たつの市』とは…、大和国『龍田大社』の語源はこれか???。

偶然の可能性も高い…(´(ェ)`)






 




相模湾にチラつく、『水戸の神』カモサワヒメの役割?

 

 

このように、富士朝寒川(現在の桂川)→相模川の流れが、この相模湾に注がれることを考えれば、西国人たちの畏敬の念も理解できる。また寒川下流であれば、富士朝加茂山の『水』の恩恵を得られるわけで、坂上田村麿が太神宮の里宮を相模川沿いの大山守皇子旧領地に避難させた理由も見えてくる。

また相模一宮『寒川神社』は、千葉県千葉市中央区寒川町『延喜式内寒川神社』から、三重県多気郡多気町の伊勢国寒川沿いに寒川神を祀る『牟弥乃神社』とレイラインを形跡。宮下文書研究家加茂喜三氏によると、愛鷹山桃澤神社は寒川大神クニサツチを祀っていた説あり。

〜寒川レイライン〜

・延喜式内寒川神社(千葉市)

相模一宮寒川神社(高座郡寒川町)

・愛鷹山水神社

愛鷹山桃澤神社奥宮(富士朝桃澤由来?)

・米之宮浅間神社

・濱名惣社神明宮

・吉田神社(豊橋市)

牟弥乃神社(伊勢寒川沿い=外城田川)

・須麻留売神社旧地

・天河大辯財天社(2.7kmズレ)



相模国江の島の西方、相模湾を見張るように江島神社『奥津宮』がある。御祭神は『いつき』の神々・宗像三女神である(後述)。その他にも相模湾の『江島神社』『森戸大明神』『平塚三嶋神社』に共通しているのがカモサワヒメと推測、水戸神こと速開都姫命的な側面が見え隠れしている。茅ヶ崎側河口付近『鶴嶺八幡宮』に祀られる佐塚大神は、伊予国から勧請した三嶋神とのこと。当ブログでは三嶋神≒弁財天との見方もあり、伊豆国生まれの北条政子は、なぜか伊豆国三嶋大社境内・厳島神社を崇敬していた。

このように相模湾周辺には、カモサワヒメがあちらこちらに見受けられるのだ。宮下文書版カモサワヒメ=別雷命=寒川毘女命=三嶋神。熊オッサンの推測では、カモサワヒメ≒速開都姫命(水戸の神)?≒多紀理比賣命(田心姫命)?≒ナキサワメ?、記紀版カヤノヒメ?

 

〈伊勢国巡り〉御船・牟弥乃・蚊野・狭田国生神社と800年延暦噴火以降の水神祭祀。 - セキホツ熊の謎を追え!







 

 

神道の基本、『いつき』から『大祓詞』へ。

 

祓戸四柱が登場する有名な大祓詞のルーツは諸説あり、もとは『延喜式』  巻八・六月晦大祓を元とした『中臣祓詞』にあるといわれる。

 

ただ、これら大祓詞はもともと、斎王の役割ではなかったのだろうか?と見ている。

BC4年(垂仁26年)伊勢神宮創建の目的も、富士山と阿祖山太神宮から目を逸らすものであった。南北朝時代までは伊勢神宮の影響力が強く、伊勢神宮斎王による『斎(いつき)』の祭祀が行われていた。この『いつき』とは『伊豆神+月神』の富士朝神とみており、祓戸四柱の原型・中核とみている。さらには…大きく見れば、これも富士山御祖霊鎮魂の加茂山水神祭祀の一貫ではないかと見ている。

それを裏付ける如く、50代桓武天皇の遺言を継ぎ平安京存続を断行した52代嵯峨天皇により、810年山城国賀茂神社における『賀茂斎院』制度が発足。これらは富士山鎮魂させる目的で、鎮火祭の水神祭祀に主眼を置くことを意味し、富士朝と平安宮とのあらたな共生関係の模索するものでもあった。皇后・橘嘉智子の出自となる橘氏は、酒解神≒オオヤマツミを崇敬している。

 

〜いつきの神々?〜

▲湍津姫神≒月桜田毘女命(月神)?

▲田心姫命≒加茂澤毘女命(伊豆国三嶋神)?

▲市杵島姫≒岩長毘女命(伊豆国伊豆山神)?

 

※宗像三女神と祓戸四柱は宮下文書には登場せず、2世紀前後ホツマツタヱ以降に成立したと推測する。富士朝信仰をベースにした、比較的新しい神々だと思われる。



奇しくもこの伊勢斎王制度が、南北朝時代の富士朝衰退とともに終焉を迎え…。

奇しくも…このタイミングで…、『吉田神道』が台頭する。

吉田神道は、既存の伊勢神宮系の神職と激しく対立しながら、富士朝陥落に入れ替わるごとく注目された。吉田家の出自は、寒川神であり三嶋神カモサワヒメに由来する伊豆国三嶋大社神官家系、伊豆国卜部氏とする説あり。個人的には宮下家『吉田家』とも何処かで接点があったのではないか?とみている。この吉田神道こそが中心となり、現代まで『大祓詞』を推進してきた経緯がある。

伊頭(いつ)の千別きに千別きて…』。

 

『斎王』から『大祓詞』台頭の背景には、少なからず延暦噴火と、その後の富士朝陥落が影響していたハズだ。自然の猛威とはいえ、阿族末裔である西国を拠点とする大和民族が、東国富士朝を維持管理できなかった悔恨の念があり。神道の基本は、祖霊崇拝とその継承にあり、その完全継承こそが肝となる。それを履行できないのであれば...せめて...、その負の想いを浄化させ、富士朝の社殿の燃え滓とともに、静かに鎮魂しつつ、祓戸四柱により海へ流れてほしいとの願いを込めたと...。

罪も穢も残さず、淀みなく、流れてほしいと...。これらを大衆意識として祈らせたのではないかと。みんながみんな唱えれば、それは国民の総意として強力な歴史封じの呪法にもなるわけだ(妄想)。

 




相模川河口平塚側にも『平塚三嶋神社』があった!。やはり水戸の神か...。

境内入り口『三嶋弁天社』、かつてこの地には池があり弁財天が祀られていた。

 









大祓詞のウラの裏…(妄想)

 

大祓詞wikipediaによると。現在でも大祓にて参拝者自らが唱えるほか、神社本庁包括下の神社で毎日神前にて唱えることを推奨されている。とある神職さんがおっしゃられていたが…、神職になるにあたってまず覚えることの一つが、大祓詞や瀬織津姫命たち祓戸四柱なのだという。

 

今回述べたいのは、大祓詞や『穢』や『祓い』の概念を否定するものではない。問題なのは日本人がいままで穢れとして流し続けてきたものを…、なんとすべきか?だろう。

この国は、新勢力が旧勢力を制覇し、幾度となく歴史が勝者によって塗り替えられてきた。本来、旧勢力にとっての真相とは、新勢力にとっても真相であるべきなのだが…。それを糸口としての旧勢力の巻き返しを恐れた新勢力側は、それらを完全に排し、焚書して封じなければならなかった。こうして、宮下文書は今に至るまでに何度も消失されかけ、現在まで『偽書』として残されている。

つまり宮下文書の方が真相ならば、権利者サイドからみて罪・ 穢れ・禍事なのだ。祓うべきは常に、権力者の都合の悪い真実であるがゆえに…。彼らは穢に真相を紛れ込ませて、流れてゆくことを望んだ。

穢れは川の流れに乗せて、速く静かに、淀みなく、流れていってほしいものであった。







では、神社庁の言う通り、毎日唱え続けるとどうなるのだろうか?。

 

唱えれば唱えるほど、確かに、穢れは流れる…。

→常に新しい状態を保ち続ける…。

→当然、富士山の真相も遠ざかる…。

→権力者サイドの思うツボ???。



神道が祖霊崇拝である特性上もあり、高次の存在は子孫の行動を見守らざるえなかった。しかしそのために、彼女たちにとっての唯一の証したる富士古文書(宮下文書)の燃え滓を流さざる得なかった。当然、同時代に生きた家族神たちの思い出を、速川の瀬に流すわけで、それは断腸の思いであったろう…。

先祖たちの歴史を犠牲にして、子孫たちが繁栄するシステム。それでも神々は人間の自由意志を尊重し、見守ってきた。なんと苦しい御役であったか…。

 

速川の瀬から水戸の神へ…。

山の息吹に吹かれ…。

根の底の水底へ…。

 



重ねますが…。みなさんも大祓詞に様々な思い入れがあるだろうし、大祓詞を読むことを止めさせるものではない。ただ宮下文書は既存の概念に疑問をもちつつも、祖先が残してくれたものを背景として、裏の裏をブレずに示してきてくれたわけだ。

現代人が原点回帰を試みるならば、当然何処かに潜む、権力構造的な捻れを見抜かねばならない。歴史を探求する者であれば尚更のこと。宗教が権力者の延長線上にあることは当たり、政教分離なんてものは机上の空論。日月神示上つ巻曰く『表の裏は裏、裏の裏がある世ぞ…』。

陰謀論でもなんでもない。権力者たちにとっては、不都合な真相から目を逸らすための呪術やカラクリや封じ込めが、たとえ大祓詞でなくてもどこかしらに必要だったのだ



(´(ェ)`)






終わりに…。

ここまで富士朝と祓戸四柱の真相を追ってきた熊オッサンにとって、今回の発見はかなりショッキングであった。



クマ『僕は真相がしりたいんだ!』

四柱『なら、ついてきなさい』

クマ『こ、これってまさか…!』

四柱『はい、私達が流しました…』←今ココ?



陰謀論みたいな内容になってしまったが…(苦笑)。

熊オッサンが思うに、歴史ほど『善悪二元論』と『客観性』の統合がしやすいジャンルもないと思う。善人も悪人も、現代人からみれば掛け替えのないご先祖さまなのだから、『赦す』しかできないのである。

その上で、高次の存在が現代人へ何を訴えていたのか?。何を学ばせたいのか?を考えるようにもなってきた…。




(´(ェ)`)

 

 

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※地図はクラフトマップ使用

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