セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈能登半島①〉能登は日本人上陸の聖地、七尾市と七瀬祓と富士朝七廟の接点。

 

開拓者の原点。
山梨県富士吉田市大明見権現山『高座神社』

初代富士朝統治者クニサツチが、父神タカミムスビと母神カミムスビを祀る。

 

2024,1,14

能登半島震災地の1日も早い復興をお祈りいたします。

m(_ _)m

辰年一番初めの驚きが、能登大地震と戸隠神社奥宮の九頭竜さま。。。本ブログは加茂山特集の途中でしたが…。私が今できることで協力したいと…。予定変更して能登半島関連の考察をしたいと思います。とはいうものの、ココでもやはり高座神社や加茂山水神祭祀の知識が必要となるんですよね…。なんかこのブログのスケジュールを、富士山の神様に見抜かれている気がする今日このごろ。

(´(ェ)`)

今回は2024年1月1日能登半島地震を受けての、能登〜房総半島のレイライン考察のつづきです。熊オッサンは、地震前週2023年12月23日の午前11時11分に洲崎神社を参拝していた。そもそも…なんで房総半島にいたのかも含めてお話します。

 


~目次~

 




〈富士朝めぐり④〉高座神社宮下親類権現講と、高座山~神座山の冬至朝日レイライン - セキホツ熊の謎を追え!

〈緊急続報〉能登半島〜房総半島、戸隠神社と寒川神社を結ぶレイラインだった?。 - セキホツ熊の謎を追え!



 

 

 

富士朝を貫く『冬至朝日のレイライン』

 

房総半島安房国の一宮は2つある。

 

〜安房一宮〜

▲洲崎神社  天比理咩命

▲安房神社  天比理咩命



ともに天比理乃咩命を祀り神武天皇時代に創建されたという。肥沃な土地を求めて、フトダマ御子である天富命が西国からやってきた。洲崎神社は、彼の祖母神の天比理乃咩命が持っていた御鏡を、美多良洲山(御手洗山)に祀ったことに起因する。次回記事はこの水神シンボル『おみたらし』がキーワードとなりそうだ。

当ブログでは何度も紹介しているが、阿祖山太神宮2代目大宮司タマノオヤとイワナガヒメの息子がウサミ。この天比理乃咩命は、宮下文書版フトダマ四女であり、ウサミ妃でもある小幡毘女命と解釈している。おそらくは八幡信仰とも近い存在であり、後世のトヨヒメ・ヨドヒメ・丹生都姫命・天速玉姫命・蘇我比咩命の信仰にも繋がると思われる。伊豆伊東発祥の神と考えると…、伊東に配流されていた源頼朝が鎌倉幕府成立以降も深く帰依していた理由が見えてくる。

私はこの時点で、この女神の御正体をなんとなく察していたことになる。。。さらに、私の推定ご先祖さまで、元寇総大将家の武藤少弐氏がヨドヒメを崇敬していた。元寇にて神風を呼び、元軍を壊滅させた水神とされる(諸説あり)。




〜①能登房総半島レイライン〜

 

  • 須須神社奥宮(ミホススミなど)
  • 須須神社高座宮(ニニギ・ミホススミ・高倉彦神?など)
  • 戸隠山
  • 戸隠神社奥宮(九頭竜神)
  • 檜原村九頭竜神社(戸隠神社勧請)
  • 厚木・小野神社
  • 寒川神社(高座郡、梶原景時の拠点)
  • 江島神社(宗像三神・鎌倉七瀬)
  • 海南神社
  • 洲崎神社(天比理乃咩命)






〜②高座山〜神座山、冬至朝日のレイライン〜

 

  • 安房一宮安房神社
  • 洲埼神社
  • 高座山(高座神社とは別の山?)
  • 大明見山之神(七廟)
  • 金山神社(推定、七廟の宮守大神?)
  • 明見神社(鎌倉景通?玄孫が寒川の梶原景時)
  • 阿祖山太神宮・古宮
  • 富士山下宮小室浅間神社
  • 新倉富士浅間神社(坂上田村麿由来)
  • 神座山
  • 日本列島のヘソ(韮崎市大草町上條東割)
  • 武田八幡宮(ホツマ版日本武尊御子・武田王)
  • 梓水神社(乗鞍岳山宮・1.5kmズレ)
  • 乗鞍大権現
  • 乗鞍連峰(富士山が見える)

因みに梶原景時は、推定ご先祖さま武藤少弐氏の外祖父にあたる。

※※日本列島の中心地(へそ)は山梨県韮崎市大草町にある。稚内市最南端と鹿児島県佐多岬の二点を円で囲んだ中心点と、東端南鳥島と西端与那国島との中心経緯の交差点のこと

 

 

Googleマップ上、上記録の安房一宮を介して、二本のレイラインが確認できる。そもそもなんで私が、冬至翌日に房総半島へ行ったかといえば…。地図上②の冬至朝日のレイラインに着目していたからだ。

ま…好奇心として、冬至に冬至のレイライン上でお祈りしたらどうなるのかな?と…。何かしらその意図がわかるかもしれないと。そんなこんなで見えてきたのが、①の能登房総半島レイラインの重要性であった。ホント言うと…、レイラインに関しては結構前に気づいていたのだが、紹介する機会もなくお蔵入りしていたのを思い出した(苦笑)。

レイライン上の半分は訪れているスポットであった。能登房総半島レイライン上の神奈川県高座郡『寒川神社』と藤沢市江の島『江島神社』は、最近2023年11月にも参拝したばかり。確か、加茂山関連記事の相模川の現地取材も兼ねての参拝だった。山梨県富士吉田市『高座神社』は、2023年3月21日春分と9月24日秋分翌日に参拝している。秋分翌日は確か加茂山の取材で、北東本宮小室浅間神社の神楽奉納会であった。この時は、富士朝七廟が四季の変わり目を祝う慣わしがあるのは気づかなかった(後述)。

 

こうしてみると、全てが神の計らいのようにも思える。ひふみ祝詞三唱後、伊豆伊東のイトウ宮ウサミさまの歴史を伝えられるように頑張りますと付け加えた。元寇やニニギ外寇で援軍を待ち続けながら死んでいった兵士たちや、佐賀県出身の祖父母と、伊豆伊東の風景と両親の思い出がフラッシュバックしてきて...、また泣いてしまった。

(´(ェ)`)

 

 

玉祖命と応神天皇のシンクロニシティ②、 天比理刀咩命・淀姫・豊姫はウサミ妃?。 - セキホツ熊の謎を追え!

最強軍神ウサミ妃・小幡毘女命の実力?①、東の天比理刀咩命を崇拝した軍師たち。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈緊急続報〉熊野神とイザナギ・イザナミ・スサノオ・天比理刀売命の関係解明?。 - セキホツ熊の謎を追え!

<人見稲荷神社>瀬織津姫を三陣並べて、元寇『神風』を二度も呼んでしまった少弐氏おじいちゃんのお話。 - セキホツ熊の謎を追え!









 

 

能登半島とは、阿族日本人がはじめて上陸した聖地。

 

ネット上、様々云われているようだが。。。結論から言えば、宮下文書における能登半島は、阿族日本人がはじめて本州上陸した記念の地。

 

縄文時代草創期に遡ると…。

日本人阿族の発祥は不明、岩間本によると『天竺』と記載されている。国祖タカミムスビは、カミムスビを娶り七人の御子を儲けた。第5御子クニトコタチ、第7御子クニサツチに命じて、蓬莱山を見つけ出して蓬莱国(日本)を統治せよと命じた。そもそも彼らがなんで、日本列島や富士山を知っていたのかは不明。

先遣隊としてクニトコタチが選ばれた。しかし音信不通となり皆ひどく心配した。そこでタカミムスビ夫妻が、末っ子7御子クニサツチを引き連れ自らが日本へ出発した。

 

後発隊タカミムスビ・クニサツチ一行は大海原に出て、行き着いた島を附島(対馬)と呼んだ。行き過ぎた島を行島(壱岐島)と呼んだ。そこから対馬海流に乗り休んだ島を休通島(隠岐?)と呼んだ。さらに小島につき、そこから海流をターンして大陸島(本州)に渡りついたので、佐渡島と呼んだ。そこから陸地に登ると原野が広がっていた為、これを野登(能登)と呼んだ。

その後は富士山を探索しつつ内陸へ、家賀(加賀)→田場(丹波)→飛太伊(飛騨)→記祖路(木曽路)→三川(三河)→住留家(駿河)→高天原へと至る。

蓬莱山に到着すると、タカミムスビ夫妻はまずクニトコタチ一行を捜索させた。しかし見つけることが出来ずその心労のために揃って衰弱死された。クニサツチは夫妻を桜山宇宙峰に埋葬した(本名は父・天之農作毘古神と母・天之農作毘女神)。この比定地が今回記事表紙写真の権現山『高座神社』と見られる。夫妻にとってはこの地が終の棲家となったので津久居と呼んだ。本来は富士朝一円の名称だが、現在は神奈川県北部津久井郡だけに残っているようだ。

一方で先遣隊クニトコタチ一行は、関門海峡→阿和路(淡路)→遠久見留州(遠州)→富士山周辺というアプローチでやって来ていた。ある日奇遇にも、クニトコタチとクニサツチが出会うことになる。故にこれを佐賀見(さがみ)と呼んだ。奇しくもこれが、800年延暦噴火の折に、坂上田村麿の引率により創建された富士朝里宮寒川神社のある相模国であった。

クニトコタチとクニサツチは再会を共に喜びあった。先に崩御されたタカミムスビの遺言どおり、蓬莱国日本を四分割統治した。南北東西に区切って列島縦南北に分配することになり、これを『四季島統治』と呼んだ。政治的取り決めごとは、その都度高天原に集合し、クニトコタチは西国の拠点である淡路(阿和路)島へ帰還した。二柱の約束の地を伊須(いす)と呼んだ。

 

▲クニトコタチ『阿和路(会おーぞ)』

▲クニサツチ『伊須礼伊出佐良場(いずれ出会おうさらば)』

 

※当時の伊豆は殆ど島に近い出張島であったが、7代孝霊天皇が富士朝参拝時に大地震が起こり、伊須浜が隆起して地続きとなったという。

ここまでお気づきだろうか?。上記の2つのレイラインが、タカミムスビ・クニサツチ一行の進行ルートとシンクロしてもみえる。

 






 

 

飛騨山脈『安房山』の怪

 

このクニサツチ隊ルートにおける宮下文書版飛太伊(飛騨)とは何処だろう?。

ヒントは、一行がはじめて富士山を視認できたことから『あそこまで飛んでいきたい』という意味が込められた。縄文時代の富士山は、常に噴煙が上がっていたので見つけやすかったようだ。そして現在でも、飛騨山脈(北アルプス)からは富士山が遠望できるという。

個人的に考えているのが乗鞍岳のことではないだろうかと...。乗鞍連峰とは、北は安房山〜屏風岳の20kmくらいの二十三峰の総称となる。東側安曇野方面には遥拝所があり、これが現在の『梓水神社』付近とされる。西側紀伊国伊太祁曽神社系の五十猛命信仰が広がっており、日抱宮には天孫降臨伝承もチラつくようだ。さらに『乗鞍山縁起』によると、...なんと807年(大同2年) 坂上田村麿が乗鞍三座に祈願をして開山している歴史がある。奇しくも彼は同時期の東側安曇野で、安曇族残党『八面大王』を成敗しているのは興味深い。以東の信州鬼無里でも彼の伝承が点在している。

 

いや、ちょ、ちょっとまってくれ…。

安房山ってなに?

(´(ェ)`)

実をいうと、乗鞍岳の平安期までの名前を大野郡『愛宝山(あぼうやま)』と呼んでいた。比定地は不明だが、乗鞍連峰北限の安房山(あぼうさん)や安房峠はその名残りなのかなと…。さらに室町時代までを『位山』と呼んでおり、これは飛騨一宮『水無神社奥宮』とは別山なので注意。

安房山の位置は、冬至朝日レイラインから3.8kmほどズレてしまうのだが、マップ上の方角的にはほぼ一緒。安房山と安房神社を軸にしたレイラインを引いてみると…。これもかなり意味深…。レイラインとしては、こちらの方がしっくりくるかもしれない…。



〜安房山安房神社レイライン〜

 

  • 安房山
  • 梓水神社(1.5kmズレ)
  • 檜峰神社(神座山山麓タカミムスビ・カミムスビ)
  • 河口浅間神社山宮社
  • 杓子山(富士朝御祖代山・アマテラス)
  • 安房一宮洲崎神社
  • 安房一宮安房神社

 

因みに前述、クニサツチ隊が『飛騨から富士山まで飛んでいきたい』と述べていたわけだが。上記『乗鞍大権現』から富士山へレイラインをひいてみると、なんと現在の伊豆山神社へ到達するのだ。乗鞍岳十石山(じゅっこくやま)から富士山へとレイラインを引くと、現在の静岡県熱海市十国峠(じゅっこくとうげ)へ到達する(笑)。言わずもがな宮下文書版イワナガヒメの陵墓である。

紀伊一宮伊太祁曽神社と伊豆来宮神の五十猛命信仰で一致する。当ブログは紀伊国や安曇族には、富士朝大宮司タマノオヤ・イワナガヒメ信仰があったと見ており、これらも伊豆発祥の信仰の痕跡なのではないだろうか?。

しかし偶然とはいえ、なんでこんなところに安房山があるのか…。タマノオヤ子孫安曇族といい、807年坂上田村麿の暗躍といい、何か大きな信仰が隠されていると見ている。



乗鞍岳を遥拝していた山宮、
長野県松本市安曇大野川『梓水神社』。










富士朝七廟と高座とは?

奇しくもこの上レイラインに共通するキーワードが高座となる。結局、富士朝高座神社は神道における大きなシンボルと考えて良い。そして七廟とは、タカミムスビ・カミムスビ夫妻の御子数、『7』に相当するわけだ。ここでは七廟の経緯を説明する。

 

上記のようにクニサツチが夫妻を桜山宇宙峰に祀った。その5世孫ヒコホホデミがこれを高皇産霊神と神皇産霊神と諡した。さらにその山を高座山といい『高座の神廟』と称した。結局これらが各地で言われているヒメヒコ制の原点、富士朝における火神と水神の仕組みなのであろう。これらを含めて7箇所七神廟を高天原の『七廟』と称した。

 

〜ヒコホホデミ制定、太神宮七廟13柱〜

①寒川畔菅原の寒川大神(クニサツチ剣石・白清龍王女尊の鏡石)

②小室の宮守大神(ニニギ・コノハナサクヤ)

③加茂山の山守大神(オオヤマツミ・カモサワヒメ)

④笠砂の碕の高燈大神(イザナギ・イザナミ)

⑤麻呂山の天照皇太神(アマテラス)

⑥桜山宇津峰の高座大神(タカミムスビ・カミムスビ)

⑦古峰の根元野大神(サルタヒコ・アメノウズメ)




10代崇神天皇時代、豊耜入媛命・停名城入媛命らに、七廟中の麻呂山から笠縫へ祀られていた天照大御神の神前で大国魂神祭を行い、毎日祈願させた。

さらに吉備彦命を勅使として高天原の改革に着手。太神宮南峰に高皇産霊神を祀り『高座山』と称する。太神宮西峰に神皇産霊神を祀り『神座山』と称する。太神宮東峰の旧跡『天の石窟』に天照大御神の奥宮を祀り、『御祖代山』と称する。

また武渟川別命を勅使として、高天原阿祖谷の小室・中室・大室に祭られている天神地祇を季節の変わり目に祭らせた。春は桃沢祭り、夏は杜若祭、秋は菊里祭、冬は青木祭を挙行した。毎年5月5日を太神宮大祭とし、10代崇神天皇皇后も臨席した。

 

比定地は難しいが…。

高座山(たかざすやま)は、現在の高座山(別名かやかり山)。もしくは隣の権現山(高座神社)であろう。現在の高座神社は、なぜか高座山から鳥居地峠の西側にあるわけで、どちらが七廟なのかは不明。高座山≒桜山宇宙峰(宇津峰)でもあり、山の南裾野がアマテラスの墓陵でもあるので、権現山の方が正解だとは思うが…。当初は高座山が本命だと思っていたので、まずこっちを登山したのだが...。南斜面は樹木がない分、ズルズルの砂地獄のような山で、神社も祠も何もなかった。現在の高座神社の御祭神はクニサツチ、スサノオ、熊野神社合祀としてスサノオ…。タカミムスビは祀られていないようだ。

謎も多い(´(ェ)`)。

神座山(じんざさん)は、山梨県笛吹市御坂町にあるピラミッド型の釈迦ヶ岳西隣。北麓には『檜峰神社』があり、御祭神が高皇産霊尊・大己貴神・神皇産霊尊・少彦名神。夫妻が揃って祀られているので、おそらくは七廟を踏襲した信仰とみられる。

 

御祖代山は七廟ではないが、富士朝で重要な史跡とされる。現在の杓子山ではないかとみられ、山頂には『御祖代山杓子宮』なる小さな祠がある。また『天の岩窟』とは、宮下文書版スサノオがアマテラスに求婚した折に、アマテラスが逃げ込んだ場所とおもわれる。これがもしかしたら『明見根元神社奥宮』付近なのかな?…と見ている。ここも過酷な岩場の尾根道で、無闇に行かない方が良いと思うが。。。

経験者が語る(´(ェ)`)。

このように全国に見られるこの高座の称号は、やはり富士朝タカミムスビ信仰に起因している可能性が高い。鈴鹿御前(瀬織津姫)にも関係がある、滋賀県甲賀市土山町北土山『田村神社』も高座大明神を祀っている。富士朝神官家系サルタヒコ子孫・坂上田村麿にちなむことから、やはり御正体はタカミムスビではないのかと…。

さらに七廟のことを『七瀬』とも呼んでおり、どうやら後世の山城国鴨川七瀬や、日前宮七瀬、鎌倉七瀬、下野国寒川郷でも斎事されていた、七瀬祓(ナナセノハラエ・シチライノハラエ)とも関係がありそうなのだ。

そして今回調査した石川県七尾市とは。七尾城周辺の七ツの尾根に由来し、それぞれ松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾と呼ばれていた。これもどうやら、市内『唐崎神社』御祓川(桜川)を中心とした七瀬祓に関係していたのではないか?と。。。

詳細は次回記事にて(´(ェ)`)。




 

 

 

 

 

 

なんと能登国府に安房国造を祀っていた!

こうして房総半島安房国を発したレイラインが、タカミムスビ・クニサツチの聖地である能登半島に到着するわけだが。今も昔も、能登半島の中心はこの七尾市で、能登国府と能登国分寺があったとされる。今回一番驚いたことが、この地域を代表する神社の御祭神。

 

◯『大地主神社』(石川県七尾市山王町)

〜御祭神〜

  • 大山咋神
  • 素盞嗚尊
  • 伊許保止命 (阿波国造の祖)

 

 

なななななななんで能登国府に伊許保止命(イコホトノミコト)が祀られているのか!?。伊許保止命は先代旧事本紀によると13代成務時代からの阿波国造の祖、新撰姓氏録では天穂日命の末裔。榛名山蛇ヶ岳近くの上野国伊香保神と同神とも言われるが…(調査中)。

ここでの阿波(あわ)は四国徳島県ではなく、安房(あわ)国のこと。大地主(おおとこぬし)神というのは本来、かつての式内社加夫刀比古神社にまつられていた伊許保止命の事。これは房総半島と能登半島を繋ぐ地主神がいたということ。これはまるで、能登房総半島レイラインそのものではないか!?。

残念ながら、理由がよくわかっていないらしい...。これはもう少し掘り下げた調査が必要かも。

 

 

 

おわりに。

能登半島七尾は、わたしの家族が一時住んでいた場所でした。。。そして縄文時代には信州出雲への航路を照らす天つ神や国つ神のための灯台であり、フロンティアスピリットの象徴でもあった。奇しくも2024年1月1日天赦日、そんな場所に大地震があった。これは日本人の原点を思い出せということなのかも…。

少なくとも私はそう捉えた(´(ェ)`)

 

 

 

 

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※地図はクラフトマップ使用。

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