セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈緊急続報〉熊野神とイザナギ・イザナミ・スサノオ・天比理刀売命の関係解明?。

源頼朝が安房国から勧請した『洲崎大神』(神奈川県横浜市神奈川区東神奈川

宮下氏族?吉田家?



 

2023,3,12

熊野神とイザナギ・イザナミ・スサノオ・天比理刀売命の関係解明?。

前記事の続き。

宮下文書における八幡信仰+熊野信仰は、タマノオヤ・ウサミ・クマノクスヒコ親子孫三代の西征に起因していると思われる。さらに本ブログでは、宮下文書版八幡信仰は、スサノオの娘タクハタチヂヒメの八王子に起因しているのではないかと見ている。その八幡信仰と熊野信仰が兄弟のような成立経緯をもっており、記紀版の熊野信仰には、なんでイザナギ・イザナミ・スサノオが絡んでくるのかを暗示させているとみている。偶然なのかもしれないが、イザナギ・イザナミ・スサノオ・天比理刀売命が絡んでくる理由が、下図の熊野三山レイラインに見え隠れしていることに気づいた。

 

~熊野三山(熊野三社)~

  • 熊野本宮大社(家都美御子大神≒タマノオヤ?)
  • 熊野速玉大社(熊野速玉大神≒ウサミ?)
  • 熊野那智大社(熊野夫須美大神≒クマノクスヒコ?)

 

~熊野三山レイライン~

▲富士朝日向の小室、または筑波山神社→イザナギ・イザナミ

▲常陸国泉神社→天速玉姫命(天比理刀売命)

▲出雲熊野大社→記紀における出雲神スサノオ

 

※メルカトル図法ではレイラインは放物線となるので注意。




牛頭天王+八幡信仰の融合は、安曇族末裔小野氏族横山氏の東京都八王子市『八幡八雲神社』にもみられる。さらに、室町時代の太田道灌が品川神社や神田明神にて、牛頭天王スサノオと天比理刀咩命を同所に祀りたい思惑が見て取れるわけだ(前記事参照)。

熊野信仰にスサノオのイメージが投影される根本的理由は、やはり神代創建の出雲一宮『出雲熊野大社』の存在が大きいだろう。宮下文書によるこの大社の創建の記述はないが、記紀がウガヤ朝51代を欠史にしてしまったインパクト故に、アチラコチラで歴史の辻褄が合わなくなったとみている。出雲熊野大社の御祭神・熊野大神櫛御気野命≒家都美御子大神≒タマノオヤ?と推測できる(宮下文書版スサノオはタマノオヤの外祖父にあたる)。因みに、宮下文書におけるスサノオ出雲とは、推定信州の戸隠山周辺にあったと推定される。現代に伝わるオオクニヌシと出雲神話や地祇系譜は、宮下文書には登場しない…。

イザナギ・イザナミの投影は、宮下文書版・高天原『日向の小室』そのものではないかと。加えて、イザナギ・イザナミが主祭神である常陸国・筑波山神社にも理由がありそうだ。記紀解釈では、火信仰+穴住居の富士朝高天原を『黄泉の国』と揶揄している傾向があり、イザナミは火神カグツチを産んで焼き殺されている。

また熊野~富士朝レイライン上には、前記事で紹介したウサミの妃ではないかと思われる天速玉姫命(天比理刀売命と同神)を祀る、常陸国式内社・泉神社があるのも興味深い。



最強軍神ウサミ妃・小幡毘女命の実力?①、東の天比理刀咩命を崇拝した軍師たち。 - セキホツ熊の謎を追え!






前記事で紹介した天比理刀売命レイラインの解説追記。

本日は…、前記事の補足記事と神社めぐり記事なのだが...。個人的にもこのレイライン上の神社がどんな場所なのか知りたくなったので、さっそく東神奈川地区の洲崎大神周辺を神社めぐりしてきた。

(´(ェ)`)

 

〜天比理刀咩命レイライン〜

  • 泉神社(天速玉姫神社・天比理刀咩命同神)
  • 水戸城跡(茨城県水戸市三の丸)
  • 水戸東照宮(徳川家康、東照公)
  • 常陸三宮吉田神社(宮下氏族那珂氏?)
  • 新治神社新治の井(ヤマトタケル伝承)
  • 葛西神社(宮下氏族葛西氏、徳川家康公)
  • 柴又帝釈天(富士山信仰)
  • 亀戸天神社(東京都江東区亀戸)
  • 水天宮(アメノミナカヌシ)
  • 富岡八幡宮(1kmズレ)
  • 佃島住吉神社(東照御親命こと徳川家康)
  • 御殿山(太田道灌屋敷跡)
  • 品川神社(洲崎明神・天比理刀咩命)
  • 蛇窪神社(東京都品川区二葉)
  • 夢見ヶ崎(太田道灌の江戸城第一候補地)
  • 天照皇大神(撞榊厳魂天疎向津姫命)
  • 熊野神社(江戸城候補地の夢見ヶ崎)
  • 師岡熊野神社(関東随一大霊験所熊埜宮)
  • 師岡郷獅子ヶ谷(武藤資頼の義父頼平墓)
  • 東神奈川熊野神社(権現山から遷座3kmズレ
  • 洲崎大神(横浜市神奈川区3kmズレ)
  • 白旗神社 (神奈川県藤沢市、寒川神)
  • 鵠沼皇大神宮(神奈川県藤沢市鵠沼神明)
  • 初木神社(伊豆山関係社・初木姫伝承)
  • 葛見神社(ウサミの拠点『伊東の宮』)
  • 伊東祐親の墓(八重姫の父)
  • 火牟須比神社(おとどいの橘と千鶴丸伝承)
  • 稚児ヶ淵(千鶴丸殺害現場)
  • 鎌田城(小野寺氏族同族、鎌田氏拠点)

※天比理刀咩命(天比理乃咩命または天速玉姫命ともいう)、天太玉命の后神で忌部氏の祖神の一柱とされる。本ブログでは宮下文書版小幡毘女命、フトダマ娘、ウサミ妃、クマノクスヒコ母ではないか?と見ている。宮下文書研究家鈴木貞一氏推測によると、熊野速玉大神=ウサミのこと。

 

◯太田道灌居城『御殿山城』(東京都品川区北品川4丁目付近)

長禄年間(1457~60)、江戸城築城前の太田道灌の居住地だったとされる。夢見ヶ崎に築城を計画するも、霊夢のお告げで1457年江戸城に変更した。江戸時代には徳川家康により品川御殿が建てられ、鷹狩や茶会に利用された。現在の御殿山庭園付近、その山も館は消失したものの『道灌通り』という小さな道名が残っている。

実は…品川神社よりも御殿山の方が天比理刀売命レイラインに近い。太田道灌が知ってか知らずか…?、結果的に夢見ヶ崎と同じライン上に居住地をもっていた事になる(苦笑)。





◯『荏原神社』(東京都品川区北品川)

〜御祭神〜

  • 豊受姫之神
  • 天照皇大神
  • 須佐男之尊
  • 高龗神
  • 手力雄之尊

 

〜摂社〜

  • 八幡神社
  • 稲荷神社
  • 熊野神社

 

709年(和銅2年)、大和国丹生川上神社より水神を、旧社地であり元宮の貴布彌神社(東京都品川区西品川)に勧請した。近くには品川氏館跡があり、旧社地の方がレイラインに近い。現在の御祭神はタカオカミとされるが、もともと丹生川上神社の御祭神は諸説あり。雨乞いの水神祭祀であったので、記紀神話準拠のミズハノメまたはタカオカミを充てているようだ。奇しくも、本殿南側に摂社として、八幡神社と稲荷神社と熊野神社が並んでいる。

※因みに、近年の伊豆山崩落事故の復興を祈願してか?、静岡県熱海市の伊豆山神社本宮向かって左手に、丹生川上神社の祠が新しく登場している。品川の荏原神社と同神ということになる…。




1029年(長元2年)伊勢神宮より豊受大神・天照大神を勧請。

1062年(康平5年)、源頼義・義家が前九年の役の平定後、富士山高千穂峰レイライン上にある武蔵総社・大國魂神社に参籠。その際にこの品川を禊場とした。以降大國魂神社との結びつきが強く、5月5日の例大祭くらやみ祭りの神職の禊場となっている。

1274年(宝治元年)京都祇園社(八坂神社)から牛頭天王スサノオを勧請。

※因みに、ネット上のあくまで噂だが…品川神社と荏原神社は近所なのに仲が悪いという話もチラホラ…。なにか歴史的な理由があるのかな?。

(´(ェ)`)





◯『洲崎大神』(神奈川県横浜市神奈川区東神奈川)

 

〜御祭神〜

  • 天太玉命
  • 天比理刀売命(通説ではフトダマ妃)

〜合祀〜

  • 素盞男命
  • 大山咋命

 

1191年(建久2年)に創建された。源頼朝が房総半島安房国の安房国一宮安房神社より分霊を勧請し、権現山南に創建。神紋は三つ巴で、神官は吉田家(宮下氏族か?)で、鎌倉幕府直轄の神社であった。かつては社前に海岸線があったという。

因みに安房国一宮安房神社から洲崎大神へのレイライン上には、横須賀市『安房口神社』を経て、狛江市の大國魂神社別宮『伊豆美神社』が存在する。伊豆美神社には源頼朝公霊位がある。

前記事で述べたが、天比理刀売命レイラインから3kmほどズレるのだが…。この洲崎大神〜品川神社レイライン上には『太田神社』がある。当社由緒書によると、室町期太田道灌が江戸城候補地の一つとして検分していたとも伝わるが、確証はないとのこと。ただここでも、太田道灌にとっての天比理刀売命の重要性が浮き彫りとなる。因みにこちらのレイラインは鎌倉から少し西へ逸れて七里ヶ浜へ到達する。



◯『東神奈川熊野神社』(神奈川県横浜市神奈川区東神奈川)

 

〜御祭神〜

  • 国常立尊
  • 伊弉諾尊
  • 伊弉冉尊

〜合祀〜

  • 天照皇大神
  • 素盞嗚尊
  • 大己貴命
  • 武御名方命
  • 五十猛命
  • 大物主命
  • 倉稲魂命
  • 速玉之男命

 

後三年の役(1083〜1087年)に源義家が東征祈願し、帰途再び立ち寄りこの地を『幸ヶ谷』と名付けた。権現山南麓『洲崎大神』よりも先行して存在していた事になる。

1087年(寛治元年)、醍醐三宝院宮勝覚僧正が、紀伊国牟婁郡の熊野権現を、神奈川郷の権現山に勧請し創建。神紋は三つ巴で『熊野三社大権現』を称した。

1510年、権現山合戦の折に、上田政盛が敗北して当社は焼失。1577年に再建。1712年、山上が『逐次崩壊...』し東麓の金蔵院境内へ遷座。

 

境内由緒書によると

『 天正十年七月、徳川家康公北条氏を御坂黒駒討ち給いし時、別当が社前に◯し? 秘法を修し奉りしことなど、徳川家との関係深く、別当金蔵院に武州 小机領神奈川郷の内、御朱印高十石を賜ったので、代々登城し、御祈稿の宝◯(おふだ)を献上し奉ったと伝へられる。。。』

※由緒書がわからないので写真を掲載しておきます、ゴメンナサイm(__)m。



やはり徳川家康が、この神社と権現山を気にかけていた事が浮き彫りとなる。ここでも天比理刀売命と熊野神社のコンビネーションが、一体何を意味しているのか?…。気になるところ。

(´(ェ)`)

 

東神奈川熊野神社境内の由緒書



 

 

 

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※地図はクラフトマップ使用。

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