2022,1,30
前記事より。現在wikipedia等で認識されている名家一門、源・平・藤・橘…、この氏族子孫の何割かは、富士朝関係氏族なのではないか?という仮説に至るわけだ。そうすると富士朝由来の氏族が、史上から忽然と消滅してしまった理由も説明できるのだが…。
全国各地で、太田・羽田・吉田・和田・ミヤケ・タチバナ・アソ・寒川・富士などの地名が揃っていたら…、富士朝関係地の可能性あり???。今回は富士朝の中核であり、政治的諸事情で翻弄された宮下氏族をまとめていきたい。
~目次~
〜阿祖山太神宮・歴代大宮司~
初代・大山守皇子(応神皇子、宮下家329年没)
2代・宮下源太夫明政(412年没)
3代・宮下記太夫仁忠
4代・宮下源太夫政正
5代・宮下記太夫政宗
6代・宮下源太夫仁良
7代・宮下記太夫仁元
8代・宮下記太夫仁家
9代・宮下源太夫宗仁
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22代宮下福知太夫元長(665年、中臣藤原物部麿の来訪)
26代宮下源太夫元秀(坂上苅田麿、信濃国戸隠付近を賜る)
27代宮下記太夫仁元(800年延暦噴火、坂上田村麿による富士朝避難活動)
48代宮下記太夫政仁(賀茂次郎義綱孫、三浦義顕と巡り合い婿養子に迎える)
49代宮下源太夫義仁(三浦太郎義顕)
57代富士三浦左京亮義勝(1333年新田義貞と南朝とともに鎌倉倒幕)
59代宇津源太夫宗正(1404年足利幕府による富士朝の事実上陥落、大宮司家は続く)
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67代宮下甚太夫宗忠(1668年領主秋元氏の虐政と対決、斬首される。妹豊女を宗家に立ち上げ、宮下文書を屋敷棟梁に隠す)
77代宮下元太夫義興(火災時に屋敷焼失を機に、明治16年宮下文書が解封される)
宮下氏族とは?、宮下氏族の遺伝子の流れ。
宮下文書研究者・加茂喜三氏曰く。もともと富士朝を統括してきたのは、蓬莱山を目指して遥々海を渡ってきたというクニトコダチ・クニサツチ兄弟を始めとする『阿族』であった。この『阿』族の『祖先』を信仰対象として拝んだのが『阿祖(あそ)山』、つまり現在の富士山である。その後、西国皇紀元前の根源を意味する『祖』がタブー視され、『先現(せんげん)』や『阿座真(あさま)』と改称されつつ、『浅間』と混同・淘汰されてきた。これが阿族子孫アマテラス創建による、『阿祖山太神宮』だ。神道とは、単なるアニミズムでは説明がつかない、基本はあくまで御祖霊信仰ではないかと。。。
2世紀前半の12代景行天皇時代、東国の阿族子孫が阿祖山を奉じて反旗を翻す。残念ながら理由は不明だが、富士山は西国天皇勢力にとっても同ルーツなわけで、東国が祖を奉り反抗するということは、歴代天皇にとっては最悪の事態と言える。こうして西国勢力ヤマトタケルがこれを征して、富士朝以東に『吾嬬惣国』が誕生する運びとなる。蜂起した阿族系の政治力を抑制し、阿祖山太神宮大宮司家と、オトタチバナ妃のバックボーンとみられる富士朝客人勢力『秦氏』たちに権力委譲させ、東国統治を促したとみる。
ヤマトタケルは愛娘『福地媛』を富士朝大宮司家に託し西国へ帰還、福地媛は8代大宮司・福地記太夫と結ばれ、菊野媛を生む。そこに15代応神天皇御子・大山守皇子が婿入り、以降『宮下家』を称した。結局、ヤマトタケルと応神天皇の最大の目的は、自分の子孫による宮下文書版『東西分治の制(四季島統治)』の達成であろう。結果として彼らは、ヤマトタケル女系と15代応神天皇男系と、阿族と秦氏の融合氏族なのだ。
こうして西国から、大山守皇子・隼別皇子・根鳥皇子が、武内宿彌御子である羽田宿彌を従え富士朝高天原へ入麓。富士15代応神天皇任命、朝大宮司時代の幕開けである。
〜富士朝入麓した応神天皇皇子〜
▲大山守皇子(宮司長宮下家)
△隼総別皇子(副司長、福知家)
△根鳥皇子(祭典司長、太田氏のちの伴氏)
※現代訳には、『根島皇子』と表記されている。
◯羽田矢代宿彌(祭典副司長、武内宿彌子孫、羽田氏のちの伴氏)
※太田氏と羽田氏は、800年延暦噴火の際に太神宮を避難させた功績により、806年勅命にて、共に『伴氏』を賜る。しかし、これも朝廷側の思惑に利用された感あり。Wikipedia大伴永主によると、上記同年806年に『藤原種継暗殺事件』にて失脚した大伴家持子孫を本位に復すという奇行が見られる。この時点で家持も処刑され、子・永主も生存確認できないのにだ。。。これは大伴氏と太田氏羽田氏のすり替えではないのか?。つまり806年以降に存在した、伴善男やサルタヒコ出雲族子孫・菅原道真の母方は、大伴氏族ではなく富士朝氏族の可能性が高い。
『空白の四世紀』の正体?、東西分治。
宮下文書研究家・岩間尹著『開闢神代暦代紀』によると。当初の15代応神天皇は、富士朝を嫡男・大山守皇子に継がせ、西国天皇は菟道稚郎子に統治させるつもりであった。しかし応神天皇の腹心であった武内宿彌は、婿となる16代仁徳天皇を持ち上げはじめ、菟道稚郎子は自決に追い込む。この西国側の一方的な盟約反故に、大山守皇子らが取り残された形となる。富士朝側は怒りの決起、これが富士川の戦いで衝突する。
結果、大山守皇子が富士川にて水死したことで停戦を結んだようだ。仁徳側もこれ以上互いに干渉しないことを条件に撤収、おそらくは西国を纏める事で手一杯だったとみる。ただ実際には、大山守皇子は相模国大山に身を潜めており、敗戦した富士朝側は内心喜んだという。
簡単に言えば、日本の『東西分治(四季島統治)』が復活していた時代なのだ。東西の不干渉条約が結ばれ、東国には本州6割という広大な『吾嬬惣国』が爆誕した。皮肉なことにこの期間、東国には西国に劣らない数の古墳が残されており、謳歌していた。
富士朝+応神合体計画、待望の菟道稚郎子皇子をなき者にしたのは仁徳天皇と武内宿禰だった??。 - セキホツ熊の謎を追え!
中世の富士朝陥落後、宮下氏族は仮冒を余儀なくされる。
宮下文書的から読み解くに。平安期以前からの関東圏は、富士朝氏族による支配体制が下敷きになっていたわけで、桓武平氏や清和源氏、藤原秀郷流は、それを隠すためのカムフラージュにもなっているのではないか?と思えてくるわけだ…。
平安末期には清和源氏・賀茂次郎義綱の嫡男が源義明が下向、三浦平太夫為道の娘に婿入り、さらにその嫡男・義顕を48代宮下記太夫政仁の娘に婿入り、両家はその後も婚姻関係を深めているので、遺伝子的には非常に近い。しかし鎌倉時代北条執権が台頭、富士朝も三浦氏もライバル視されて鎌倉から排除される(1247年宝治合戦)。その後、北条得宗家が失墜すると、今度は高井氏のように宮下氏族の素性を隠すべく、『三浦』『和田』氏族を復活させて称する宮下氏族も現れていた。
また南北朝〜戦国時代の富士朝陥落後は、信仰に関係なく氏族内でも敵味方に別れ争っていた。例えば太田氏にも、藤原秀郷流(小山氏など)と清和源氏子孫(太田道灌など)がいるのは、後世の戦乱期に同氏族が対立してしまい、同祖にして別々の『仮冒』を余儀なくされた可能性も高い。
大山守皇子には十二王子あり、うち2王子は早世した。
以降は、大山守皇子10子の拡散状況を紹介する。加茂喜三氏によると大山守皇子の皇子23人、皇女22人いたとの説もある。彼の子孫が吾嬬惣国を中心に拡散されていく訳だが、流動が激しく、Wikipediaなどの情報と比べると所領地と本貫がかけ離れている場合も多々あり。現代地図にも地名として残っているケースもありそうだ。
〜初代・大山守皇子の御子〜
①長男グループ『嫡男宮下宗家・2代大宮司』
今回、説明は省略…。
②次男グループ『金子氏』
阿祖山副宮司家系。
一般的な金子氏は、武蔵国入間郡金子を領した桓武平氏村山党などにみられるが、宮下家との関係性は不明。このブログでは何度か紹介している、埼玉県入間市宮寺にある古社『出雲祝神社』もこのあたりであり、境内には牟佐志国造御社がある。埼玉県入間市金子の2〜3キロ東南には、『駒形富士山』という地名が残っている。
1193年?、寒川神社副宮司・金子国太夫政家の三男秀隆が、木曽義仲と平家討伐の恩賞として、相模国愛甲郡一帯を頼朝から賜り、愛甲氏を称する。一般的には愛甲氏は、小野氏族・横山資孝からの派生氏族とされているので注意。
ただ、愛甲村を拠点としていた愛甲三郎季隆は、『小野神社』(神奈川県厚木市小野)を崇敬していたという。厚木小野神社ではヤマトタケルや天下春命を祀っており、どこかで小野氏族と婚姻関係があったのかなと…(未確認)。
※前記事で紹介した、梶原景時母方の横山氏にも小野氏族仮冒説あるので注意。
③三男グループ『井出氏』
金子氏同様に阿祖山副宮司家系。
加茂喜三著『富士王朝の滅亡』によると。富士朝井手氏は阿祖山太神宮副宮司長の家系で、江戸時代まで富士山周辺の牧(牧場)を管理していた。前記事で述べた、愛鷹山麓『長窪東照宮』の旧徳川家臣による開墾も、元は井手氏の『愛鷹三牧』の一部であったようだ。
しかし…延暦噴火により、『甲斐の牧』が摂取され、802年坂上田村麿が愛鷹三牧を縦断させて、東海道を富士山南ルートで復旧させた。因みに宮下文書によると、旧東海道は延暦噴火までに、富士朝(現在の山梨県富士吉田市)を経由して、富士山の北ルートを回っていたという。加茂氏曰く、朝廷は800年以降、延暦噴火のどさくさに紛れ、あらゆる面から富士朝の弱体化を狙っていたのは間違いないという。
さらに、819年(弘仁10年)は各地で飢饉が多発、駿遠地方でも朝廷に対する不満が大きくなってゆく。翌年820年(弘仁11年)、吉彌候部井出麻呂が駿河地方の蘇我氏残党と結託し、反乱を起こし、伊豆国の国穀を掠取する事件が発生。824年、井出麻呂は身元不明『帰化人』にされて、伊豆国へ流罪となったという。(天長4年)淳和天皇はこの期に乗じて、富士朝の全ての牧を、管理者不在として強制的に摂取した。
この四年後、井出麻呂は解放されたようだが、摂取された牧の経緯は不明である。江戸時代まで井出氏の影響下に戻っていたハズだという。氏は、愛鷹山の愛鷹明神(現在の桃澤神社)の御祭神が変更されたのも、この頃ではないかと推測している。
一般的に西国天皇勢力は、自分たちに都合の悪い東国人を、渡来系や帰化人や蝦夷(アイヌ系)にしてしまう傾向あり。東漢氏(やまとのあやうじ)や新羅王アメノヒボコ末裔・三宅氏の一部も、富士朝由来ではないかと睨んでいる。宮下文書版井出氏は、後世南北朝時代の忠臣的英雄・楠木正成の母方と明記されている。因みに楠木正成父方は橘姓を称している。下リンクより↓。
楠木正成は本姓橘氏、母方は宮下家派生の富士朝神官・井出氏だった!!。 - セキホツ熊の謎を追え!
〈神社めぐり〉愛鷹山登ってきたゾ。長窪東照宮・水神社・桃澤神社。 - セキホツ熊の謎を追え!
④四男グループ『誉田・木田氏』
科野国造
宮下文書版誉田氏は科野を領していたことになっている。おそらくは、現在の伊那市高遠城址付近。やはり『高遠(たかとお)』とはイザナギ・イザナミの高燈大神と関係あるのではないだろうか?。桜井天伯神社には瀬織津姫が祀られている。南北朝時代には南朝方の拠点『大徳王寺城』があったとされ、裏手の御殿山には後醍醐天皇の第八皇子・宗良親王の墓と称する墓塔あり。
また、宮下家との関連性は不明だが、一般的にしられる誉田氏は応神陵墓地近辺(大阪府羽曳野市)の出自だろう。南北朝後期、畠山氏奉公人となり、1455年(康正1年)畠山義就が山城守護を任せられると、誉田祥栄がその守護代となる。
⑤五男グループ『土方氏』
遠江国造
土方氏も諸説あり。大山守皇子wikipediaによると、遠淡海国造の娘・摩奴良比売を娶り、津布良古王を生むと遠江国土形里に下向。のちの土形君(城飼郡評督)・榛原君(榛原郡)の祖とされる(日本書紀巻第十 応神天皇二年三月壬子条)。旧事本紀によると『土形』は『土方』と表記が変わり、これが現代の地名に影響している。土方は武田徳川激戦地の『高天神城』地名でもあり、現住所は静岡県掛川市上土方嶺向となる。
後裔は武蔵国多摩郡に居住して土方氏となり、新選組副長・土方歳三との関係も推測される。武蔵一宮小野神社の西側、生誕地東京都日野市内には立花という古名が残る。
⑥六男グループ『榛原・興津・蒲原?・狩野氏』
駿河国造
駿河・伊豆国の藤原南家に仮冒されたグループ。
榛原とは、現在の『大井神社』南、静岡県榛原郡榛原町付近か?。大井川河口付近には牧之原市吉田町の名が残る。
所変わって西国、奈良県宇陀郡榛原付近には、2つの『伊豆神社』やミクマリ系神社『宇太水分神社上宮』『惣社水分神社』 がある。奈良県宇陀市榛原高井『高井・伊豆神社』は、伊豆大神としてオオヤマツミらを祀る。地名の『榛原』も『高井』も宮下氏族と関係ないだろうかと…???。
◯『内牧伊豆神社』(奈良県宇陀市榛原内牧)
〜御祭神~
・ヒコホホデミ
※1014年(長和2年)伊豆走湯権現を勧請する。1185年後鳥羽天皇の時代に、御祭神を彦火火出見神に変更したとされる。現代の伊豆神は、全国的にニニギ(ホツマ版別雷命)またはヒコホホデミの傾向にある。
◯『伊豆神社』(奈良県宇陀郡榛原高井)
〜御祭神(伊豆大神)〜
・高水上神
・福井神 (御井神社由来)
・大山祇神
※1043年(長久3年)『元檜牧村に坐す御井神社の神』由来。
興津氏は静岡県清水市興津町付近を拠点として、室町時代以降の三河国今川氏傘下となる。現在地名の『興津』の由来は諸説あるが、『興津宗像神社』(静岡県静岡市清水区興津中町)の興津島(おきつしま)姫命=田心姫命が住み着いたからという。
狩野氏は伊豆市大平柿木付近を拠点とし、一般的に藤原南家工藤氏流とされて、伊東氏と同族となる。もしかしたらこの伊豆国のグループは伊東氏出自であるかもしれないわけだ。となると、富士朝再興を約束して東国を結束させた源頼朝と、伊東祐親娘・八重姫の婚姻も再考が求められる。このあたりはまた別記事でいつか触れたい。ウサミの拠点・大原『伊東の宮』比定、『葛見神社』(静岡県伊東市馬場町)周辺には玖須美町和田や吉田の地名が残る。
※蒲原氏?については9男グループと重複してしまうので、区別が難しい(後述)。
⑦七男グループ『波多野氏』
相模国造
サガム国とは、おそらくは相模国+武蔵国。神代では別々の管轄であったが、『吾嬬惣国』時代は集約されていたようだ。諸説あるが、前九年の役源義家に従った藤原秀郷流佐伯経範が祖とされ、秦氏や佐伯氏と関係があるとも言われている。因みにかつて吉田氏勢力圏の一つ、武蔵国多摩地区関戸『関戸城』も土豪佐伯氏の築城とされる。大伴氏系の古豪佐伯氏族とは無関係とされているのだが...、しかし平安期の大伴氏子孫は富士朝伴氏(太田氏羽田氏)と混同されている節もあり、正直頭がこんがらがっている…。もし関係があれば…『厳島神社』神主家も然り…。加茂明神神領近くで生まれた空海(佐伯真魚)も、富士朝氏族の遺伝子が入っている可能性はある???(大妄想)。
また、本当は経範の妻が藤原秀郷流で、のちに波多野氏系佐伯氏→藤原秀郷流と改称したという説もある。富士朝氏族が秀郷流を名乗っている良い例となりそうだ。
一般的には、丹波国波多野氏が派生、室町時代の細川氏につかえている。しかし彼らは何故か、相模国三浦氏とも、丹波日下部氏(一般的には彦左王子孫)の庶流とも称していた。小野篁も関係していた『浦島神社』(京都府与謝郡伊根町)ホームページでは、日下部連はツクヨミ子孫とも称していたわけで…どこか、裏がありそうな話だ。
⑧八男グループ『山県・指手氏』
海伊国造
宮下文書では海伊国造の祖とされるが…。
一般的な甲斐山県氏は、清和源氏・源国直を祖とする美濃山県氏の派生とされ、蜂屋氏・落合氏・清水氏・福島氏・平野氏・関氏など庶流がある。源国房(国直の叔父)が美濃山県郡周辺の土岐郡で、後の土岐氏族へと発展している。つまり、浅野氏や明智氏の祖。室町中期になると、甲斐武田氏を頼って落ち、家臣となったという。織田信長によって武田氏が滅ぶと一族は離散、上杉や徳川の家臣となった。
美濃山県氏・土岐氏・太田道灌太田氏も清和源氏と桔梗紋で一致するが…、彼らが富士朝氏族である確証はない。ただ、もしかしたら明智光秀もどこかで富士朝と接点があるのかなと…???。『兼見卿記』によると、吉田神道の9代吉田家・兼見は明智光秀と深い親交があったようだが…。この吉田神道が宮下氏族吉田氏と関係あるかはまだ調査中…。
⑨九男グループ『蒲原氏』
毛野国造
新潟県中央部に蒲原郡が広範囲にあり、加茂市『青海神社』では794年から別雷命を祀っており後世地名となったという。前記事でも紹介したが、これは南北朝時代の57代三浦越中守義勝と関係がありそうだ。義勝は新田義貞の妹・鶴江を娶り新田義宗は甥、加茂七谷『岳山城跡』は義貞三男・新田義宗の拠点となっていた。
一般的には、藤原南家子孫・清美を祖としていた南朝方氏族で、駿河国蒲原庄を領有していたが、今川範国に滅ぼされる。後世戦国時代の清和源氏今川範国三男として、蒲原氏兼が派生している。静岡県清水区『蒲原』の地名が残る。
⑩十男グループ『葛西・益田氏?』
日高見国造
一般的には、桓武平氏良文流であり、秩父吉田郷を本貫にする秩父氏豊島氏支流とされる。下総国葛西御厨を所領していたが、源頼朝挙兵によって御家人となる。葛西清重は奥州合戦で奥州藤原氏を攻め、その武功から奥州総奉行に任じられ陸奥国(後の陸前国)所領を得た。しかし宮下文書的に言えば、源頼朝や奥州藤原氏や坂上田村麿が登場する遥か以前から、日高見国を統治していたことになるのだ。
登米郡寺池城を居城とし、三十五万石の大名となり、秀郷流小野寺氏に仕えることになる。葛西清重から黒澤時重が派生。その後1276年以降は、千葉頼胤は息子の胤信を葛西氏に養嗣子として送り込んだとの説があり、ただ奥州千葉氏には系図が失われた為に疑問点も多い。
また前記事でも紹介したが、加茂喜三氏は益田氏の祖とも述べている。これはおそらくは石見国益田氏の事ではないだろうか?。柿本人麻呂の由緒があるといわれる現在の島根県益田市には、吉田・三宅といった地名が見られる。
<神社めぐり>小野寺氏から見えてきた陸奥宮下氏族『葛西氏』、かつて蝦夷は貴種であった。 - セキホツ熊の謎を追え!
はてさて、ホントの意味での『朝敵』とは一体どこの誰のことであったのだろうか…???。富士朝御祖霊に仇なす歴代権力者たちはその発覚を恐れ、全時代全力で富士朝史を封じ込めてきた。これほどまでに国民揃って仮冒をしていた国も、他にないだろうなと…(苦笑)。
映画マトリックスのごとく、日本の巨大な虚構社会が露わとなる
(´(ェ)`)。
次回は吉田家についてまとめる(リンク↓)。
<宮下氏族まとめ②>宮下氏族『吉田氏』とは?、都賀・塩谷・関戸・大久保・高井・宮本・西瑳・和田・真浦・愛甲氏ほか。 - セキホツ熊の謎を追え!
地図はクラフトマップ使用。